清風読書会

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夏目漱石 「吾輩は猫である」5ー8回その1 20200628、20200711読書会テープ

【はじめに】

5章は、前半は、泥棒が入ってその姿形が寒月にそっくりだったこと。後半は、猫の日露戦争、ネズミを取ろうとして、ついに取れなかったこと。

6章は、猫の皮を剥ぐとか、女の髪の話。

7章は、猫の運動と海水浴。銭湯と裸体の話。

6、7章は身体の境界領域の話。

8章は、猫の垣巡りと学生とのダムダム弾戦争で垣根を越える話。家の境界領域の話。

 猫の家の見取り図があまり良いのがないので、名作文学に見る家や日本文学アルバムなどの図を参照して描いて見た。これらの図は明治村に残されている千駄木夏目漱石住宅の間取りが参照されている。

 グリーンの斜線部分が内でも外でもない家の境界領域。ボールが投げ込まれたり、桐の下駄の材料を落雲館の事務員が取って行ったりする入会地や無縁の領域。

 

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中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊その3 20200523読書会テープ

【頓挫する物語】

S ところで、この部屋には何でトイレがないの?

Y 人が住んでいないんでしょう。

K トイレもなく湯沸かしもないし、それでいてクッキーを焼く。ピクルスは買ってきたのだろうけど。

S 「『女子大生仲良し三人組、ライフルで射殺さる』という見出しの新聞紙の包みを五郎に手渡した」(p.26)とあるように、この新聞の切れっ端からお話がはじまる、クッキーの話がはじまるのだけれど。

Y クッキーとは女子大生三人組?新聞記事は、かみ砕きやすく、消費しやすく可愛らしく加工されているということ?

H 女子大生事件を新聞で読んで忘れるというのは、記事を消費するということで、クッキーを食べるというのは、そういう新聞記事の消費を意味している?

K 新聞記事は出来事を分かりやすく切り取るということ? 起承転結があるように切り取る。

S 新聞記事を加工して小説にする典型例だろうな。可愛らしい犠牲者がいて、悪魔のような犯人がいるという新聞記事の書き方。

Y そういうの中原はいやなんですよね。

S 憎しみを込めて、

Y かみ砕いて、ぐしゃぐしゃにして、投げ捨てる。

Y 放火事件(p.14)のなまなましさに比べると、えらく可愛らしいな。

K 遠隔操作で爆破させて殺す。裸で飛び出してくるのを期待して待っていた。

Y それを五郎は見ている? 五郎は見ていないんですよね。「夜の住宅街」から、「近頃毎日続いていた。」というのは、第三者視点なんですよね。

S これこそテレビに写った事件のような気がする。寝ていたとあるから、夢だね。一行あけで、以下夢だね。

H 夢のようでもあるが、つぶやいていた独り言のようでもある。

S 前後一行あけで枠取りして、スクリーン上に映し出された夢のように、枠取りがあって、テレビの報道のように思える。

Y 流れる映像の印象がある

S そうこうしているうちにとか、なってしまったとか、時間の経過があってテレビの画面ぽい。

H 再現VTR。

S 再現VTRだから、やらせっぽい。

H 新聞記事を肉付けするのに、このやり方ではまずい。

S だからまずい例。

Y じゃあ再現VTRのような小説も書く気はないということですね。

S みんなこういう扇情的な再現VTRが大好きでしょ。テレビは再現ビデオばかりやっている。ここでも物語が頓挫している。これもクビ。

 みんなが小説だと思っているのは、ただの再現VTR、扇情AV。

Y これもあれも次々否定されていく、待望の短篇は忘却の彼方にという題名の意味がだんだん見えてきた。

H 中原は深沢七郎的なところがある。「笛吹川」で、主人公かなと思った人が次々死んでいくのと似ているかなと。

K 時の流れと一緒に人が死んでいく限りでは理解できるが、短篇が次々頓挫していくのは理解しにくい。

S KYの朝日新聞事件(p.19)では、でっち上げで偽の嘘の物語が放送された。

Y テレビ局の捏造事件ですね。

H KYの文字をサンゴに彫ったんですよね。文字を彫るというのは、文字を書く、作品を作るということだから、非常に印象的。

S やらせで彫った文字をテレビカメラで写して証拠にした。ちょうどこの頃からやらせが表面化した事件ではないか(1989年)。

Y 最近のバスターミナル・コロナ事件も二重のやらせがある。

S 最近の商店街自粛事件でも、記事の根拠が実にそれもフェイクだったという。新聞もテレビの記事も、私たちはもともと確かめるすべを持っていないから、フェイクの見分け、区別がいよいよできなくなった。(ポスト・トゥルースは2016年以降という)

H 新聞記事すら信用できないというのが明らかになったのがこの朝日新聞のKY事件だろう。

K テレビはもっと前からやらせだったが、新聞はまだ信用できた。しかし新聞はもう昨日の記事しか載らなくなった。

【部屋セット】

S ここで五郎が植木を出したり入れたりしているのは、偽の記事を作るための背景を作っているように見えてきた。洋服店だとかマリンスポーツだとか。

H 五郎が植木を売りに行くというのは、嘘を作り上げる手伝いをさせられている感じがする。

S この部屋自体がものすごく嘘くさい。「洋服の店をしてみたいという気持ちだけはあったみたいで、こうしてお店のまねごとみたいなデコレーションをしていた」という、このあたりの真相はまったく訳分からない。

Y テレビセットのような。

H 照明器具がある。

YH スタジオっぽい。だからそれを見て、なんとなくスクリーンに写し出されたという印象になる。

Y 大金を受け取りましたかとあるのは、嘘を書いたらお金がもらえるという感じ。

S そうだね、嘘記事を作るのは大金をもらうため。植木を運んだだけで大金にはならない、それを使って嘘記事を作ると大金になるということだろう。

H 倉庫に植木と鉢があってそれを合わせて植木鉢にして売ればいいというのはすごく安直な発想、馬鹿にしたやり方ですね。

S それ、材料あるからおまえ書け、やらせ小説を書けという辛辣な話に聞こえる。

Y 物書きとして許せないですね。

Y 女主人が出てきて、Tシャツ姿で、美人局とかハニートラップとかを思わせる。

H 女主人は何とか騙して五郎に鉢を売らせようとしている。大金とか自分の身体とかをちらつかせて、偽物作りを手伝わせようとしている。スタジオを本物っぽくするために手伝わせようとしているように見える。

S それで最後に女を蹴っ飛ばすということか。

【背景】

S それにしても、ここには何か背景があるような気がする。2003年頃の背景。

H 水の味が変わったとありますよね。これが何だか分からない。汚染があった?

S 水の味が変わるというのと、水をたらふく飲んで尿意があってトイレがない、それから異臭がするということが背景にありそうだ。トイレのないマンションというのは普通原発なんだけれど。

Y 2003年には東京電力原発トラブル隠しの記事が検索ですぐ出てくる。

S ふうん、そうすると2003年の東電をもっとちゃんと追及していたら、2011年の事故は避けられたかもしれないんだ。

H 中原は社会派だから原発事故を書き込むことは十分ありうる。

S チェルノブイリハートという映画が2003年に出ている。ピクルスを食べるというのは何だろう? やっぱりチェルノブイリの汚染かな。

K グッバイ・レーニン(2003年)という映画に、ピクルスを食べる老女が出ている。

第2篇の血牡蠣事件へつづく。

 

 

 

 

 

 

中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊その2 20200523読書会テープ

【新聞紙】

H 剥製も、そこにないはずの身体が加工されて、現在に存在するわけですね。

S 中身をくりぬいて、過去・現在・未来という時間の流れから疎外されてしまう、ずっと滅びないで元の姿のままでいる。剥製とは時間を止めること。

Y 新聞紙もある意味で同じ、その時の時間を切り取るものですね。

S 短篇集というのは新聞記事と隣接性がある。新聞記事の隣に短篇がある、小説の歴史的な起源なんだね。新聞に切り取られたコラムや小さな事件をとりあげて書くと短篇小説になる。

H なるほど新聞自体が短編小説集ということか。

S この小説の中でも、新聞記事から切り出したような断片がたくさんある。その辺の新聞から目にとまった記事を書き抜いている感じの出来事。

K 連続放火事件とか、女子大生射殺事件も。

H 新聞紙で紙飛行機をつくって飛ばないということがありますよね。新聞記事で小説を作っても届けられないということになりませんか。紙飛行機を作るというのは作品を作るということですから、作品を作っても届かないということ。

K 完成しない。

S うん、完成しない。そうすると、よく飛ぶ飛行機というのは、ありきたりの通俗小説ということにならない? 中原の小説は断片の手触りだけで成り立っていて、ストーリーやお話になると墜落してしてしまう。

H 紙飛行機はこれですっきりした。

Y 最高の小説は忘却の彼方にということ。

K 意味が通じるものではないと。

S 自分は、飛ばない小説を書いているんだという宣言。

Y 部屋は中原の頭の中でしょうか。それは部屋に日々積み上がって世に出はしないと言っている?それは忘却とは違う気がする。

K 不必要な新聞紙とは不必要なもの?

S 毎日毎日出る新聞は忘れて構わないゴミになっていくもの、そういう日々忘れられていく新聞記事に対して、小説たるものは忘却の彼方からちゃんと浮かび上がってくるということにならない?

Y それならばしっくりくる。

H 新聞とは違って、小説は浮かび上がってくる。

S あなた自身がその忘却の彼方から探し出してくるしかないという題名に思える。断片の中から、あなた自身が拾い出してくるしかない。そうして私たちは今その作業をしている、断片の中から中原の小説を拾い出そうとしている。

 老婆の昔語りも途中のまま、飛ばない飛行機と同じで、こういうお話は一切語らないという宣言。

H はじめの植木鉢の由来を語ろうとして語れないでしまうのも同じ。

S なぜ自分は植木鉢を売るようになったかというのは、いわゆる自伝小説とか成長小説の典型。お話になろうとするものが次々挫折していく話。自伝小説とか教養小説とか、そういう小説は一切書かないと中原は言っている。これもしない、あれもしないという小説論なんだね。

H 中原は、小説を書かずに小説を書いているようなもの。

Y 読み慣れているものがざくざく切られていく。中原スタイルの宣言。

S 少し面白くなってきたぞ。

 

 

 

 

 

 

 

中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊 20200523読書会テープ

【はじめに】

H ひさびさに中原を読んでいる。

S こんなに分からなかったけ、歯が立たない。

Y 分からないのが面白いのだけれど、噛み応えもなければ噛んでいるの?みたいな不思議な感覚でした。

S 私がいちばん分からなかったのは、老婆が二回り大きいというのが何だろう。

H 僕は題名になっている「待望の短篇は」というこの短篇がどれに当たるのかなという点。短篇の中で、語ろうとして止めたり、夢見たり、独り言を言ったりするから、どれが「忘却された」に当たるのかが気になった。

S 今たいへんなことに気がついたけれど、「待望の短篇は」というのが短篇の題名だけれど、本の題名は『待望の短篇集は』になっている。

Y リミックスに収録されているのは両方短篇になっています。

H 文庫本の題名は『待望の短篇は』で、2011年に出た文庫には注記があって、2004年に出版された時の本の表題を改題したとある。

S 7篇入っている短篇集であることは間違いない。第2篇は「血牡蠣事件覚書」で、臭いとか第1篇とつながりが少しあるようだ。短篇か短篇集か、引っかかる。

Y 新聞紙が部屋に一杯になっていくというのを覚えていないというのは、たぶん分かりやすい忘れていることの例だと思うのですが、いろいろな物を新聞紙で包んでいたということとか、情報が一杯あって全部を忘れたいので紙飛行機にするとか、おそらく(新聞紙にまつわる挿話を)収集しているというのは見えたのですが、それがいったい?

S 新聞紙は問題だよね、キーワードになっている。

【遠近法】

K もう何もかもお手上げ、二回り大きいというのがねえ、何のことだろう。

H 老婆が大きいと感じたときに、この男は遠近感が問題だろうと言って片付ける。その遠近感について、Tシャツに描かれたラスコーの壁画、それを調べると、壁画に遠近法が使われているというのが特徴で、動物の角が前後に遠近感があるように描かれているという。その大きさとゆがんでいるものと遠近感が関係するのかなと。

 遠近感のせいだと男は思い込んだのだけれど、多分違っている。何でゆがんでいるんでしょうね。

S 女の人の大きな胸によって、何が書いてあるかが分からずゆがんでいたと書いてあった。一方で遠近法できっちり物の形が見えるというのと、もう一方でゆがんで形がよく分からないというのが対比になっている。

 常識としては、遠近法というのは近代に発生する新しい空間構成の方法ということになっている。一点消失によって、2次元の平面の上に3次元の世界をきっちり写せるようになる。私たちの頭は遠近法で鍛錬されている、習慣づけられている。だから他の見方で見ることが非常に難しい。どういうものであれ遠近法が入っているという風に読んでしまう。私たちが抜きがたく持っているバイヤス。

H 大きさがゆがんで見えるというのは、遠くにいるとか近くにいるというのが原因だと思ってしまう、ということですね。

S 近代的な、気づいていない頭のバイヤス。ラスコーの壁画が遠近法を用いているというので驚かれるのは、遠近法が近代にはじまったと言われているから。

K 漱石も遠近法を使っている。

S『三四郎』で大学の構内を遠近法で描くことを話題にしている。近代に導入された遠近法ということがはっきり言われている。

 この小説では遠近法は批判の対象。おまえの頭は遠近法でがんじがらめになっている、だからこういう小説が読めないんだ、と。

HYK そんな感じだなあ、なるほど。

【映像と現実】

 S 二回りというのが、それでもやっぱり分からない。

YH 二回りは相当大きい。

S 例えば映画のスクリーンに写っているのは、実際の人間よりも二回りぐらい大きいような気がする。一回り大きいと言うより二回りぐらい大きい。(彫像も現実の人間より二回りほど大きい。レーニン像とかロダンバルザック像とか。)

K そうでないと分からない。見えないし、理解できない。

Y スクリーン上の現実離れしているサイズ感を言いたかったのでしょうか。

S あるいは、部屋にあるテレビに写っている像だったというような。映像の中の二回り大きい老婆の像を見ているということかなあと。

H人間同士が対面している感じがしない。

K 剥製も二回り大きい。

S 部屋の中に大きなスクリーンみたいなテレビ画面があって、その中に写っている画像が二回りぐらい大きいということ。つまり、現実が一元的に現実であるのではなく、その現実の中に、スクリーンに映し出された二次現実が混じり合っているということだと思う。

 この部屋の一面の壁がスクリーンになっていて、そこに老婆や剥製が写し出されている。

H しかも、ここでもし本当にこの部屋に入って、本当にお婆さんがいて、話すことができれば、ハッピーエンドになると思うが、やっと部屋に入れても話がしたくても現実感がなくて対話が完成しない。

S 映像と話を交わせなかった。その説はかなりいいと思うな。

【時間の遠近法】

Y 女の人は何だったんだろう。

K 老婆と同時には現れない。

Y 罠にはめようとしたというか、一緒にいるとばれるから。何というか、現実と映像とが一緒に混在するとばれるから、何とか騙そうとして、女性はいなくなる。

S 「中へどうぞ。」、それから、「女の声が小さく外から聞こえた」とあって、女は部屋に入らなかった。

H 一緒に現れないというのは、同一人物とか思いますよね。

S 老婆はこの女性の未来とか?

Y 老婆はシックな格好とある。

K センスのよい人らしい。

Y ピクルスを手で食べてるけど。

K ピクルスの臭いとは全然違う。部屋に入ったとき「きのう漂っていた異臭と同じ臭いがした」とある。

S 部屋には異臭が漂っている。

Y 異臭はピクルスの臭いとは限らず、飛躍すると、お婆ちゃんの死体が転がっているのかと思いました。女性は血を浴びて急いで着替えたとか。

H 老婆は女性と同一人物で、女性の未来の姿というのは可能性がありそう。何でかというと、空間の遠近感だけでなく、時間の遠近感もあるんじゃないか。待望の短篇はというから未来を待望するということで、忘却はあったことを忘却するだから、未来と過去今にかかわる題名で、老婆も時間軸のゆがみとして見た方がいいんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治「ヴィヨンの妻」その3

【ウントク・ヒョウトク】

S 「ケケケと妙に笑いました」というこの子どもを小説に書くのは、今だったらリスキーでしないでしょう。どうしてこの坊やは「阿呆」になっているのだろう?

Kこれは実体験ですよね。津島佑子が書いている。

S 実体験だからといってリスキーなことにはかわりないですよね。

H さっき福の神と疫病神の話をしたけれど、この子どももかなり福の神の部類ではないかと。悪いものを集めて落として来てしまうという間が抜けた神様のお話がありましたよね。この子供は疫病をどこかに落としてきてしまうような、そういう役割の子どもかなと。

S そうすると、この一家は魔物の一家ということになるかな。日本神話だと足腰が立たないヒルコが流された話がある。あるいはウントク・ヒョウトクという座敷童の話がある。口もきけないのだけど、お臍を突くと金をポロリと吐き出す。

YH いい子だなあ。

H 奥さんがいつもこの子を背負って移動している。福を招く力があるのかな。

S 厄とか福というのは、付いたり離れたり、落ちたりこぼれたりするもの。お金は儲けたり交換するものだけれど、付いたり離れたりする福の神の核心部分をこの子が負っているのではないか。だから不具の阿呆という印つきのこどもになっている。神性を示している。ここでも交換経済ではなく贈与経済の原理。

H ヴィヨンは窃盗団に入ったり、ルパンみたいな仮装をしてマスクをかけている、盗むというのをどう考えたらいいのだろう?

S 義賊というのは昔から金持ちから盗んで人に配っていた。鼠小僧とか和製ルパンがちゃんといた。

Y 大谷が義賊ということは、家父長制や貨幣制度や性の制度を壊すのは正義だぜということになる?

S 大盗賊にならなければ嘘だと。乱世には義賊がちゃんと出るはずなのに、日本政府ときたら、

Y 10万円は年末調整で返せと言ってる。

S 大谷は奪った5000円をクリスマスプレゼントだと言って人に配っている。浪費でありポトラッチ。

H ほんとに鼠小僧。

【おわりに】

H 奥さんが嘘をついて、実際にその金が来る、この奇跡の起こり方がいいと思う。ばっちり偶然タイミングがあってそうなった。

S 予祝と偶然は違う。言うとそれが実現していくのが予祝。

H その一言が現実を引き寄せた。

S 偶然とは違って、奥さんの意志、こうあってほしいという願いが入っている。この点が人間的なことだと思う。どうか椿屋さんにお金が返って欲しい、夫が犯罪者にならないでほしい、その切実な願いが実現する。

 これがキリスト教とは違った、私たちがことばにかける期待だと思う。神様に期待をかけるのではなく、言葉に期待をかけるのが実によいと思う。これが小説家の根拠になる。

 つまり、神様に願って奇跡が起こったのではなく、女性の切実な願いがそれを呼び寄せた、ことばがその奇跡を呼び寄せた。これが小説を書くことばの力だということ。神に願う西洋のあり方とも、偶然にかけるプリミティブなありかたとも異なる、予祝、言霊、ことばにかける期待、これが小説家の恃むところである。

 この小説にはそういう力がある。戦後に書かれたこの小説は、戦後にどういう世界があってほしいかを呼び寄せる作品なんだと。

K 作品が世界を変える。

H もう一つ気になったのは座布団と式台。飲み屋の夫婦が来たときも酔っ払いも式台に2枚の座布団を出す。外から来た人の場所、他者が入って来てよいところ。

S これは縁側でしょう。内でもあり外でもある、それ以上は入ってきてはいけない。だから汚されたとき、式台から家の中に入ってきてしまったということ。

K 家の境界領域。

S ネットワークとしての家はこの縁側でなくてはいけない。一杯飲み屋というのは、縁側だらけ、縁側だけでできた家である。そういうネットワークとしての家には、詩人のいる場所もあるし、女の生活が成り立つところでもあり、

K 弱いこどもが居ることができる家でもある。

 

 

 

 

 

 

太宰治「ヴィヨンの妻」その2

【ネットワークとしての家】

H 妻が家を出たというのが大きいのではないか。家同士がつながる、飲み屋さんの家と大谷の家がいつの間にかくっついてしまう。僕は「清貧譚」が好きだから、家を出て、家に入ることに注目している。

S 家を出るという時の家は、家父長制の家。一方、飲み屋の家はネットワークとしての家で、いろいろな人が出入りして、通り過ぎて行く、ネットワークの結び目のような家。制度の家に対する批評だと思う。家父長制の家を批判して、ネットワークとしての家を提案している。

 ここで大谷の妻が汚されたとあるように、性的にも自由になる。女も性的に自由になり、みんなここで取っ替え、引っ替え組み替わってしまう。居酒屋の奥さんでさえ大谷とくっついてしまう。くっついたり離れたりを可能にするようなネットワークとしての家。これが家父長制の家制度への批判であり、批評。戦後の新しい家を提案している。

H 最後、居酒屋の家をのっとった形になって、今村夏子の「あひる」のようになって行くのかと思った。

S 「あひる」の方が家父長制の家を追認することになる、あるいは、家父長制の家から自分が追い出される話になっている。それに比べて太宰の方がよほどラジカルで、家そのものをネットワークにしてしまえと、ほんとにそう書いてある。

 お金を預けて置くというのも、交換としての金ではなく、そこからみんなが必要な額をとっていく、共産制のようなもの。100円あるときには大谷もそれを置いていく。置き金や投げ銭のような。

 変えなければならないのは、家の制度、貨幣制度、性の制度、そういう醇乎たる革命小説。

K みんなハッピー。

Y 思想を娯楽に落とし込んで行くのが頭良い。

S ヴィヨンのような色男を通して女がようやくフリーになる。

Y 制度をぶち壊す役割を大谷がして、制度の後を生きていくのが妻。家制度をぶち壊しているのは大谷。

S 家を壊すのと同じくらい女性の貞操観念を壊すのは難しいだろう。椿屋の主人は、色もでき、借金も出来と言っている。女たちは皆大谷と関係があるし、他の男もそれをみんな知っている。椿屋の妻が顔を赤らめる、これで非常にたくさんのことが分かってしまう。