清風読書会

© 引用はアドレスと清風読書会を明記して下さい。

中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊 20200523読書会テープ

【はじめに】

H ひさびさに中原を読んでいる。

S こんなに分からなかったけ、歯が立たない。

Y 分からないのが面白いのだけれど、噛み応えもなければ噛んでいるの?みたいな不思議な感覚でした。

S 私がいちばん分からなかったのは、老婆が二回り大きいというのが何だろう。

H 僕は題名になっている「待望の短篇は」というこの短篇がどれに当たるのかなという点。短篇の中で、語ろうとして止めたり、夢見たり、独り言を言ったりするから、どれが「忘却された」に当たるのかが気になった。

S 今たいへんなことに気がついたけれど、「待望の短篇は」というのが短篇の題名だけれど、本の題名は『待望の短篇集は』になっている。

Y リミックスに収録されているのは両方短篇になっています。

H 文庫本の題名は『待望の短篇は』で、2011年に出た文庫には注記があって、2004年に出版された時の本の表題を改題したとある。

S 7篇入っている短篇集であることは間違いない。第2篇は「血牡蠣事件覚書」で、臭いとか第1篇とつながりが少しあるようだ。短篇か短篇集か、引っかかる。

Y 新聞紙が部屋に一杯になっていくというのを覚えていないというのは、たぶん分かりやすい忘れていることの例だと思うのですが、いろいろな物を新聞紙で包んでいたということとか、情報が一杯あって全部を忘れたいので紙飛行機にするとか、おそらく(新聞紙にまつわる挿話を)収集しているというのは見えたのですが、それがいったい?

S 新聞紙は問題だよね、キーワードになっている。

【遠近法】

K もう何もかもお手上げ、二回り大きいというのがねえ、何のことだろう。

H 老婆が大きいと感じたときに、この男は遠近感が問題だろうと言って片付ける。その遠近感について、Tシャツに描かれたラスコーの壁画、それを調べると、壁画に遠近法が使われているというのが特徴で、動物の角が前後に遠近感があるように描かれているという。その大きさとゆがんでいるものと遠近感が関係するのかなと。

 遠近感のせいだと男は思い込んだのだけれど、多分違っている。何でゆがんでいるんでしょうね。

S 女の人の大きな胸によって、何が書いてあるかが分からずゆがんでいたと書いてあった。一方で遠近法できっちり物の形が見えるというのと、もう一方でゆがんで形がよく分からないというのが対比になっている。

 常識としては、遠近法というのは近代に発生する新しい空間構成の方法ということになっている。一点消失によって、2次元の平面の上に3次元の世界をきっちり写せるようになる。私たちの頭は遠近法で鍛錬されている、習慣づけられている。だから他の見方で見ることが非常に難しい。どういうものであれ遠近法が入っているという風に読んでしまう。私たちが抜きがたく持っているバイヤス。

H 大きさがゆがんで見えるというのは、遠くにいるとか近くにいるというのが原因だと思ってしまう、ということですね。

S 近代的な、気づいていない頭のバイヤス。ラスコーの壁画が遠近法を用いているというので驚かれるのは、遠近法が近代にはじまったと言われているから。

K 漱石も遠近法を使っている。

S『三四郎』で大学の構内を遠近法で描くことを話題にしている。近代に導入された遠近法ということがはっきり言われている。

 この小説では遠近法は批判の対象。おまえの頭は遠近法でがんじがらめになっている、だからこういう小説が読めないんだ、と。

HYK そんな感じだなあ、なるほど。

【映像と現実】

 S 二回りというのが、それでもやっぱり分からない。

YH 二回りは相当大きい。

S 例えば映画のスクリーンに写っているのは、実際の人間よりも二回りぐらい大きいような気がする。一回り大きいと言うより二回りぐらい大きい。(彫像も現実の人間より二回りほど大きい。レーニン像とかロダンバルザック像とか。)

K そうでないと分からない。見えないし、理解できない。

Y スクリーン上の現実離れしているサイズ感を言いたかったのでしょうか。

S あるいは、部屋にあるテレビに写っている像だったというような。映像の中の二回り大きい老婆の像を見ているということかなあと。

H人間同士が対面している感じがしない。

K 剥製も二回り大きい。

S 部屋の中に大きなスクリーンみたいなテレビ画面があって、その中に写っている画像が二回りぐらい大きいということ。つまり、現実が一元的に現実であるのではなく、その現実の中に、スクリーンに映し出された二次現実が混じり合っているということだと思う。

 この部屋の一面の壁がスクリーンになっていて、そこに老婆や剥製が写し出されている。

H しかも、ここでもし本当にこの部屋に入って、本当にお婆さんがいて、話すことができれば、ハッピーエンドになると思うが、やっと部屋に入れても話がしたくても現実感がなくて対話が完成しない。

S 映像と話を交わせなかった。その説はかなりいいと思うな。

【時間の遠近法】

Y 女の人は何だったんだろう。

K 老婆と同時には現れない。

Y 罠にはめようとしたというか、一緒にいるとばれるから。何というか、現実と映像とが一緒に混在するとばれるから、何とか騙そうとして、女性はいなくなる。

S 「中へどうぞ。」、それから、「女の声が小さく外から聞こえた」とあって、女は部屋に入らなかった。

H 一緒に現れないというのは、同一人物とか思いますよね。

S 老婆はこの女性の未来とか?

Y 老婆はシックな格好とある。

K センスのよい人らしい。

Y ピクルスを手で食べてるけど。

K ピクルスの臭いとは全然違う。部屋に入ったとき「きのう漂っていた異臭と同じ臭いがした」とある。

S 部屋には異臭が漂っている。

Y 異臭はピクルスの臭いとは限らず、飛躍すると、お婆ちゃんの死体が転がっているのかと思いました。女性は血を浴びて急いで着替えたとか。

H 老婆は女性と同一人物で、女性の未来の姿というのは可能性がありそう。何でかというと、空間の遠近感だけでなく、時間の遠近感もあるんじゃないか。待望の短篇はというから未来を待望するということで、忘却はあったことを忘却するだから、未来と過去今にかかわる題名で、老婆も時間軸のゆがみとして見た方がいいんじゃないか。