宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その2 20210508読書会テープ

S  私がこの小説から思い出したのは、ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』。

 日々マイケル・ジャクソンになろうとしている青年がマリリン・モンローのそっくりさんと出会って、島のパーティーへ誘われる。そこはチャップリンやジェームス・ディーンのそっくりさんがいるネバーランドなんだね。尼さんが空から墜落するというエピソードがあったりして不穏な兆候がある。マリリン・モンローの夫はドニ・ラヴァンが演じるチャップリンなんだけれど、現実のモンローが自殺したようにモンローのそっくりさんも自殺してしまい、取り残された青年は、どうやってこれから生きて行こうか思い惑うというお話。

 宇佐美さんの小説は推しの話になっているけれど、実は空っぽの自己を他人のデータで満たそうとする、他人に成り代わる話ではないか。

 マイケルの真似をすることで、生きる意味と自分のアイデンティティを得ている、そうやって生きるのは本当に切ない。この小説の女主人公が推しを推す仕方は、この映画そっくりで、自分はマイケルであり、モンローであるというように、推しを自分として生きようとしている。

 面白いのは、いろいろな推しの言動を収集して、異様に詳しいこと。推しの生態というのは実際こういうことをするのですか?

Y します。切り抜きをしたり、スクショを集めたり、イメージカラーを着たり、缶バッチとか、痛バックとか。

S おはよう、ピロロロロ、今日も頑張ってとか、そういう時計あったらほしいな。

Y 推しにもいろいろな種類があって、この人は、最後になって初めてキーホルダーを買っていて、そういう系統の推しではなかったようだ。

S  声を重ねて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたとあって、私は彼であるということがこの女主人公の推しの特色。自分であることが嫌なんじゃない? 自分じゃない誰かになろうとしている。

Y  だから模範解答という形で、インタビューしたときも、彼が答えることが分かると言っている。

S 予想ができるようになる。つまり、私というコンピュータに上野真幸のデータをすべてぶち込んだから、私は、彼以上に彼が何を言うか予想できてしまう。

Y 自分は自分ではなく、推しのデータで塗り替えられたら良いのにというふうに生きてきた。それがなくなったときに、どう生きていけるかという話をしているわけですね。

I  殴ったというのは、今までの過去のデータからなかったことなんですよね。それが……それがあるから一体化できなくなったんじゃないですか、どうだろう?

K  推しが人を殴ったのは、今まで無理して生きて来たので、我慢できなくなって、それで結局、地が出たのじゃないか。

 この人自身も、高校へ行きたくなかったのに無理して妥協して生きてきて、ここで決定的に自分自身がやりたくないことはしないというのが分かったのではないか。それで、結局、自立の第一歩だと思う、だから明るい。

I  最初は、この女主人公は、真幸君と一体化して、自分そのものとして見てきた。その対象が人を殴るという、今までのデータにはなかったことをやって、それで、自分じゃないということを理解した。真幸君は私じゃないという事を理解して、それで自分を取り戻したといってはあれなんですが……

S 壊そうというところまで追い詰められたけれども、自分を壊せなかった。そこで真幸君との違いが分かった。自分には人を壊せない、自分には人を殴れない、真幸君との違いがそこに出てくる。違いを理解したところまででよいのではないかな。

Y   最初に言ったように、自分ではないものを拠り所にして生きて行こうとして、ずっと彼の追いかけをして、彼をデータ化して、自分を理解しようとしてきた。ある時、彼が人を殴ったことがあって、もう一度彼を愛したい、理解したいと努力したが分からない。そして彼の洗われたシャツまで見て、私とは違うという、ちょっとこう剥がれてきた。自分も狂ってやると思って目についたのは綿棒で、なんだ私ってこんなものだったのかと思った時、部屋全体が眺められた。今までどうして部屋がこんなに汚れるのか自分でも分からなかった。これは自分の過去だということが分かって、そこで何だか笑いが込み上げてきて、綿棒を自分の骨のように拾って、推しの葬式をしたのですね。それで新生していこうとした。

S  膝をついて綿棒を拾うというのは、フォークナーの小説じゃないか。テーブルの下のパン屑を膝をついて拾うという姿勢が重要。この作品では、綿棒を推しの骨のように拾う姿、そういう姿勢ができたというのが希望では。人間が生きるのは這いつくばって生きるということだと、立って生きようというのは望みが高い。

 『ワインズバークオハイオ』の「手」という短編、教員をしていた男がある時子供たちに性的に手を出したと疑われてリンチにあい、顔を殴られて命からがら逃げ出して、名前も変えて、問題になった手の特殊性を隠して生きている。この「手」にまつわる特殊性のテーマと、町の人々の暴力性、それから、牧師のような祈りの姿勢でテーブルの下に落ちたパン屑を拾っている点が、この作品の理解のために非常に参考になる。

 全体を眺められたというのも、今まで部分的にしか見られないできたのが、部屋全体を見回す視界を得たということが希望になる。視界が狭く閉ざされていることで、とても生きにくかったのだから。

Y マルチタスクですね。最後のここに至るために限定された深い視界で書いてきたとすると、ぞわぞわしますね。

S 非常に技巧的に書いている。そしてフォークナーをきっと読んでいるだろうな。

【おわりに】

S  データを集めて彼を理解しようとしてきたのは、いわば中身を真似ようとしてきたということ、そうやってデータを集めれば彼を理解できると考えてきた。ところが、それでは理解できないということが炎上事件が起きて分かってしまった。

 このときに、自我の位置を中身から皮膚へ移動させれば、解決の希望が出てくるのではないか。殴るということがなぜ問題になるかというと、相手と接触するから。接触したということが重要だというのは、中原昌也の小説でも、殴られて顔に拳がめり込んだというような描写がある。中身をデータで満たして理解するのではなく、接触によって他者と関わることができる、それが分かった。つまり、主体の位置が移動したというということを描いたから小説になったのではないか。

 推しの上野真幸もずっと母親に操られてきたが、人を殴ることによってはじめて現実に帰っていくことができた。

 参考になるのはアフォーダンスという概念で、佐々木正人の『アフォーダンス入門』というのが大変分かりやすい。アフォーダンスはコンピュータや発達障害にとって非常に有用な理論になっている。ミミズが土の中で穴を塞ぐのにいろいろな葉っぱを使うという例を引いているのだけれど、発達障害の生きにくさをアフォーダンスで解釈すると、環境と自己の接触面こそが問題解決の場所であり、自己と他者とが混じり合う場所でもあるということがわかる。

 私という主体が宿るのは中身ではなく、私という主体はデータの集積ではないと言うために、推しのデータを集めるあの詳しい描写が必要だった。私という主体は単なるデータの集積ではないというのは、カズオイシグロの新作「クララとお日様」と重なるテーマだけれど、小説としてはこちらの方が面白いと思う。宇佐美さんの推し描写の繊細に対して、イシグロのAI描写が、スペックが低いことを差し引いても、粗いから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その1 20210508読書会テープ

【はじめに】

「推し、燃ゆ」は、2020年秋季号の文藝に発表され、同年9月に河出書房新社から出版、芥川賞受賞。

 章立てはなく、アスタリスクと行開けによって小区切りがある。内容を要約しておく。

1、推しの炎上 2、アルバイト先にて 3、祖母の死 4、まざま座解散、上野真幸引退。

【推しというテーマ】

Y 推しについての印象ですが、推しを神にしたり崇める対象にするのではなく、自分の分身にしていて、自分を読み解きたいから推しを読解している。だから推しを性の対象にもしていない。

S  それは普通の推しとは違っている?

I  推しの種類はいろいろある。成美は繋がりがあり、会える種類、肉体的つながりもありそうに見える。

Y 5ページのあたりに種類があげてある。

k 有象無象のファンでありたいと言っている。

Y  成美さんは、男性として見ていて、互いを性の対象として消費したいと思っているが、この主人公は、自己分身で、だからこそ解散というと、自分自身がいなくなるような喪失感で、それは失恋とは全く違う喪失感。 

 分からない自分に対して、読み解けるものとして、データに上がってくる彼を今後見られなくなるわけだから、自分のことさえも読み解けなくなるから、相当怖かっただろうと思う。

S  それが推しのテーマということね。恋愛対象や性的対象としての推しはもうすでに小説のテーマにはなりえないけれど(陳腐すぎるから)、自己の分身としての推しならば、まだ小説のテーマになるという判断がある。

 だから、この小説は全く性的ではない、セックスがない。

Y そういうのを嫌悪しているような描写がありましたよね。プールの場面とか。

S  あれもセックスに対してよりも、どちらかというと接触とか深さとかであって、男だから女だからといったセクシャルな問題ではないように思う。

Y  他人に対する嫌悪感みたいなものがある。

S それを言いたいがために、全く非セクシャルな書き方をする。このくらいの年でこのくらいの時期の女性だったらセクシャルでないことの方が難しい。

Y 自分の高校の頃を思い出すと、同じように非セクシャルだったから共感できた。二次元を推していた。

S 文学少女は非セクシャルなんだよ。

S  高校に上がったばかりの5月に推しに再会したとある。体育祭の練習を休んで、体内時計の遅れとあるから、普通だったら生理で休んでいるという少女のセックスコンプレックス話だと予想するのだけれど、どうも違うような気がする。

 話題は推しのピーターパンだから、成長拒否問題なのは明らかなのだが、どうもそれとも違うような気がする。

Y  保健室で病名が2つついたとあり、後半にも病気のことが出てくる。

K 父親に、私は普通ではないというところですね。

S つまり、この女主人公は発達障害保健室登校が許されている。そう名乗ってはいないけれど、アルバイト先で手順が狂うとどうしていいか分からなくなるのが発達障害の症状。コンピュータのように手順を書いておいて、それをなぞることはできるのだけれど、手順が狂うと対応できなくなる。

 この女主人公の中心問題は、発達障害(と呼ばれている症状)による不適応で、成長拒否やセックス拒否ではない。

 高校までは頑張って入ったが中退する。この高校の時期に特有の発達障害・不適応の乗り越え方がテーマではないか。

I  性的なところとは別次元の話。思春期の話だと思って読んでいたが、それとは違っているということですね。

S いわば作者自身が私は普通ではないと言っている、並の思春期の話を書いているのではないと言っている。『コンビニ人間』の作家と共通する。

I  宇佐美さんの小説の方が共感できる。優しい気持ちになる。今村夏子の『あみ子』も同じ圏内にある小説。

【表紙について】

S 表紙の絵はどういう意味だろう? 糸はどういう意味?

K  ピーターパンが飛ぶ時の糸を自分に直したのでは。

Y  右と左、2020、イヤホン。

S  白い丸は何? 泡? 

K  ピーターパンになる銀色の粉?

S  色が変わっているから、水の中にいて、右足だけ水面に出ている。溺れかけているということか。

I そうですね。そんな感じに見える。

Y がんじがらめになっている。同時に、糸で辛うじて地上に持ち上げていてくれる。

S 糸を操っている主は誰?

Y 多分母親。無責任、一緒に病院にも行かないし、一人暮らしさせてしまうし。

S  無理解な母親。

K 母親は分かってやっているのだろうか、さぼっているといい、散々言ってるでしょうとも言っていて、彼女を理解していない。

S  病院に行って診断されても、母親は認めたくないのだろう。

Y 恐怖支配のお母さん。

S  お姉さんは優秀で、安冨歩みたいな存在。京大入って東大に行って、母親の期待に応えてしまう。妹の女主人公に対しては無理解で、娘を糸でがんじがらめにして支配している。

Y 一人暮らしさせるのって相当です。ニーズに答えていない。放棄です。

S  お母さんは逆に祖母から支配されていて、私を置いて外国へ行くのかと脅されている。母親は自分にしてほしかったことを娘にしている。

K  母親は自立したかったし、娘に対しては、一人にすればできるようになると思ったのでは。

S  三代にわたる女性の支配の物語。

【普遍性】

Y すれちがっているのは、すり合わせしかないのですが。

K すれ違っていないというのも幻想でしかないのでは。

Y すれ違っているのを見るのは悲しい。諦めるより前に擦り合わせれば、致命的なすれ違いにはならないのでは。

S  定型発達から見るとそう思うのだけど、非定型から見ると、それはまるで頓珍漢ということでは。

K  誰もが発達障害の一段階にあると言われている。程度の問題だと。

I あみ子も人との繋がりに問題を抱えていて、近いものがある。

S  何かと問題があるが、もしかしたら自分もやってしまうかもという共感で読める。私たちがこの女主人公に共感を持てる、つまりこの小説が普遍性を持っているというのは、どういう仕掛け、どういう秘密があるのか? 

 具体的な本文から見て考えると、どんな描写が気になった?

I  ブログとかファン同士の関わりを見ていると、わりと普通にまともに語っていて、学校でのうまく行っていないのに対して、受け入れられる共感できる普通の言い方ができている。

Y 文章力はかなり。

K  文章を書けない人なんてたくさんいるわけだから。

S  かなり文章力のあるブログを書いている。劣等生とはとても思えない。計算ができない、漢字が覚えられないとか言っている割には文章は非常に立派。

Y 文章によって人の心を集める能力は高い。ブログにもたくさん読者さんがいる。

Y 言い方がかなりポエムで、描写が丁寧で、主観的に感性に響いたものに対する言語感覚が詩人というか、ロマンチックと言えばいいのか...

K プールの水に肉が溶け込んでいるとか。

I  お姉さんが車の外を見ているところとか、この子の視線ですよね。
S 自分が注目したところにだけ描写が詳しい。自分の視線が向いたところにはものすごく詳しくて、人が気が付かないようなことまで気がついてしまう。

 だから、推しのブログで、みんなが見ていないものを見て報告するから人気がある。推しの右の口角が上がっているというような報告。これを武器にして渡って行こうというのがある。

Y 泣く時に肉体に負けたくないというのが新鮮でした。

S  そういうのを含めて肉体・身体に対する注目度が高いと思う。

K  海水が体の中で燃えているというような。

S  特に、身体の中でも、皮膚に関する描写が多い。

K  境界部分ですか?

S 主体はどこにあるかという問題で、主体は心臓にあるか、頭にあるかというのは漱石の問題だったけれど、主体は皮膚にあるという第三の説がある。ちょうどこの小説は皮膚に自我があるという書き方をしているのではないか。Kさんが引いてくれたプールの水や海水の描写が皮膚を意識させる。

K 自分にはない感覚だから気になりました。

S  普通、主体は心臓とか頭にあると思われてきた。ここにきて、主体は皮膚に宿るという小説が誕生した。

Y 親指の描写があって、親指から世界が広がるという描写が気になりました。

S 何で親指なんだ?

Y 携帯で、お気に入りやリツリートは、親指でつける。だから、打った人に対する思いを発信する方法なんです。だから炎上していくときに、言葉の海に埋もれていく、飲み込まれていく感覚というのがよく分かる。

S  そうか、携帯の時代に、感情を表現するのは親指の先端であるということ。目はものを言うんじゃなくて、親指はものを言う。

 つまり、ある年代の人たちは決して親指で文章を書くことはないし、親指でいいねをつけることはない。しかし、ある年代以降は、親指ですべての感情を表現することができる。感情の場所、自我の位置が移動してしまった、それを記録した小説。

Y  携帯の画面と親指の目によって世界と繋がっている。生身の身体がそこにあって初めてというより、親指の感覚さえあればと。

S  私は親指であると言っている。これが自分たちのやり方だと宣言している小説なんだと思う。

I 背骨の描写も多いので、言葉の脊柱というような意味だと思ったのですが、もっと身体そのものの意味になっている。

Y  立っていられなくなるということでしょうか。

K  二足歩行は向いていないと言っている。

I  テレワークをしているとパソコンを持って移動して丸まっている。

S 山田詠美は最近の上野駅の小説を全部親指で書いたという。

 ずーと携帯を握りしめているわけでしょ、つまり、お前は携帯の一部であると。

K ノートと鉛筆だと、決してノートの一部にはならない。

S  主人としてノートに君臨している。そういう、主体の位置の逆転がある。

S  親指で書いて、携帯の一部として存在する。一人一人の独立した個人の存在が重要なのではなく、接触している、その接触面としての皮膚こそが自分の在処である、親指の先端とか。そういう自我のあり方を書いたことがこの小説の最も重要な点なんじゃないか。だから、純文学の王道である芥川賞が取れる。

Y 触れるとか、接触するというのが文学の永遠のテーマなんですね。ずーと、何かしらの作品を読んでいても境界線とか、触れるとか、融合するというのが絶対出てくる。

S それはちょっと逆で、主体こそ近代文学の重大テーマで、その主体の位置が皮膚に移動したということを書いたから、この人は純文学の王道の芥川賞になる。それが明らかに皮膚へ移動したということを書いたから新しい。

 だから、これを読むと、今までの小説もそういえばみな皮膚について書いていたよなと、今までの在り方を塗り変えてしまう。今までは、私の心はたしかに頭あるいは心臓にあったはずなんだ。

【本題】

Y 町田康が言うには、今を生きるすべての人にとって、いびつで切実な自尊心の保ち方を描いた物語と書いている。

S 自尊心はどのように保たれるのか? まざま座が解散して女主人公は死にかける。そこからどうやって回復できたのか、どうして回復できたのか?
Y  私は、推しが洗濯物を出す普通の人だということが分かったからだと思う。シャツを見て、目が覚めた。

S 洗濯物というわけだから、皮膚に接触する一番近いものだね。問いは、どうやったらこの人が推しなしで生きていけるか?

Y 最後は絶望的だが、光が見えた感じがする。流れ的に、なんかいい方向に向かっているぽい感じはする。

S 三島由紀夫の『金閣寺』の最後で煙草を吸って、さあ生きようと思ったと書いてあるが、どうしてそう思うか全然分からない。

K  ここで自分にとって一区切りついたということではないですか。

S  一区切りついたら、次を生きていけるのか? 三島の場合は、ただ単に戦争が終わったから死なないで済んだだけで。さあ気分を変えて戦後を生きようってことか?

I  肉の話が怒涛のように出てくる。婆ちゃんの肉と、自分の肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思ったとある。

S  これも特殊なレンズを通しているので、書いてあることは読めるのだけれど、何を意味しているかは分からない。

Y 綿棒を投げるのを意識的に選んでいる。

K 意図的に片付けが楽な綿棒を選んでいる。

S 普通だと自傷する。死のうと思ったがなぜ死ねない、なぜ死ななかったか? どうしたら生き延びられるか?

Y なぜ推しが人を殴ったか、そのことと自分が繋がっていると書いてある。推しとの繋がりをまだ持っていて、キッパリ推しなしで生きて行こうとしているのではないようだ。

S そこをもう少しきちんと述べるとどうなる?

Y  他人の衝動が完全に自分に融合したということ? 今までなぜ彼を見ていたかというと、彼がする行動が私の何かを掻き立てるので、それで彼を知りたいと思っていたのですよね?

S それでは各自このテーマについて一分スピーチ。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富岡多恵子 「立切れ」 20210424読書会テープ

【はじめに】

 「立切れ」は、1977年の第4回川端康成文学賞を受賞した作品。同年刊行の自選短篇集『当世凡人伝』に収録された。

 落語の「立切れ」を下敷きにしているので、その内容を略述しておく。芸者の小糸と恋仲になって商売を顧みない商家の若旦那が、親戚一同から蔵に100日閉じ込められる。小糸はその間ずっと手紙を書いているが若旦那には届かない。100日目若旦那は小糸のもとへ急いだがすでに小糸は亡くなっていた。仏前で手を合わせていると、三味線が主もいないのに曲を響かせる。小糸の霊が鳴らしていると思い、若旦那は妻というものを持たないと誓う。そこで三味線の音がぷっつり途絶えると、「立切れ」を告げられる。線香によって時間を切って遊ぶのが郭のしきたりであった。

 立切れの主人公は72、3の菊蔵という落語家、芸人。菊蔵には糸、蝶子、琴という女性がいたが、籍も入れず、墓もない。糸とは10年近く一緒にいて別れ、蝶子とは3年ほど一緒にいて最近亡くなったという、琴とは今のアパートに移って20年余で死別。菊蔵は物好きな学生の勧めで風呂を借りた月一回の落語を1年ほど続けていたが、今回で最後という日、「立切れ」をすることにした。75、6になる糸が訪ねて来て、三味線をつけた。菊蔵は不機嫌なまま学生たちも帰し、糸の一緒に暮らさないかという誘いも断って、また子供が落ちないかなと思いながらドブ川の脇を歩いて行く。

【ロマネスクとリアリズム】

H 落語の立切れとの違いは、妻は小糸ただ一人という落語と、3人の妻を持つというところが違う。しかし、女性がたくさん居るということはどういう意味なんだろう、何で子供がドブ川に落ちるのを待っているのか、分からない。

S 「立切れ」のオチが分からないということですね? 公立の老人センターの人たちがよく笑うというところ、笑うために笑う、内容がよく分からなくても笑う、という読み方になってしまう。

 糸おまえだけが妻だというところ、糸の死後どうなるかというと、八方丸く収まって若旦那はいいところから妻を迎えて商家の大旦那になるのでしょう。

K と思います。

S そういうロマネスクな恋愛とリアリズムの対比という落語だと思う。

H たぶんバージョンがたくさんあるんですよね、僕が聞いている落語はけっこう本気なんです、若旦那が。

S 本気ね。

H  蔵に閉じ込められて、手紙が大量に届いて、わりと本気のきれいな話になっている。

S だから、みんなオチが分からないとこの短篇の本文でも言っている。

K だから、三味線が法要の途中で切れる。

S 線香のさげの分からないやつがいると言っている。ロマンチックな学生は、昔は優雅に遊ぶところがあっていいですよねと、結局よく分かっていない。リアリストの学生は、線香が燃え尽きるのは一本どのくらいでしょうかと言っている。今だって売春は時間いくら、延長はいくらということになっている。それと同じ。

H きれいな話だと思っていると線香が途切れて終わりですということが分からない。学生には分からないが、菊蔵はそれを理解してやっているということですか。

K だから学生は毛唐と同じだと言っている。学生には分からない。

S そういうのにちゃんと騙されるんだ。すべての江戸時代の遊郭ものは、ロマンチックの裏にリアリズムがちゃんとある。

H 線香が途切れる前に、三味線の音が途切れる。何で途切れるかというと・・・

S  時間切れ、金を出せということ。

H ということは、落語は純愛で、小説は二人も三人も妻を持って、全然違うと思ったけれど、よく考えると、菊蔵は一人目、二人目と、次々線香が立ち切れになっていくという話ですね。落語と違わないということか。

S 落語と同じようにロマネスク対リアリズムの軸がある。では、こういう対比は、本文にどんな例がある?

 たとえば年忌はどうか。糸は琴の三回忌と言っているが菊蔵にはその気がない。年忌は、ずーと思い出して忘れないロマンチック・ラブの習慣。

H そうすると、もう一回暮らそうという糸はロマネスクで、断る菊蔵はリアリスト。

S 菊蔵は何と言っているかというと「めんどくさい」と言っている。

H 立ち切れた相手ともう一度なんていうのはめんどくさい。

S お墓はどうでしょう?

K 永代供養の墓を作るというところ。

I 最後の方で、琴の妹が来て永代供養に出すので金を出せと。

S 菊蔵は今度は「金がない」と言って断っている。故人を思い出すためのよすがになるのが墓。墓があればみんなが思い出すというロマネスクな生き方。

 菊蔵は、骨はこのアパートの部屋に置いておけばいいと。菊蔵の死後、誰かの骨が見つかって、どうしようということになって、孤独死の現場になる。これがリアリストの死に方。

H なるほどなあ。だからそうか、恋愛も立ち消えなら、生きることも立ち消え。どうしても深沢七郎を思い出す。菊蔵が琴の妹と話しているところで、その妹も70過ぎで遠からず骨になるという書き方、全員の顔が白骨に見えた「無妙記」という作品がある。

S 骨に見えるというところまでは同じだけれど、その骨を墓として思い出して弔うというように物語化する。これがロマネスク。富岡さんという人は、こういうロマネスクを徹底的に否定して、リアリストとして死ぬとはどういうことかを書いている。「なんとなく」と書いていないか。

 たいした理由もなく、動機がないという生き方、なんとなくそうする。菊蔵の生き方はこの「なんとなく」に集約されている。

K 努力なんかしたことがない、精進しないというところ。

S 努力して、一流の芸を磨いて、精進して、達成する、芸人として完成するという生き方、これがロマネスクな生き方。

K 一流には絶対になれない芸だと自分で言っている。ニンにないと、はじめから居直っている。

S 一流の芸人を目指して精進努力するのがロマネスク、それに対して、なんとなくやってきただけよというのが菊蔵。

H ふつう小説になるなら、芸人として努力して最後に立切れをやって終わるみたいなストーリーになる。なんとなく噺家やって、なんとなく立切れていく命を書くというのは面白い。

S 小説のプロットにいわば反する小説の書き方をしている。 

 つまり、完成したり、成長したり、努力したりするロマネスクではない人生を書くのが富岡さん。

K それを凡人と言っている。この凡人伝の凡人。

S 一流の秀でた素晴らしい芸人になるというのじゃないという意味での凡人。こういうことが私たちにはもうすでに分からなくなっている。当然努力すべきと思っている。

H それはもうロマネスクな考えに侵されている。

K 近代。

S 努力して頑張らないと、ただ単に落ちこぼれてしまうからというだけのこと、動機が不純である。

H おもしろいなあ。

S 富岡さんというのは、ある時代に、そういうことをきちんと書いておいてくれた小説家だった。落語というのは、ほとんど例外的に、そういうシニカルなリアリズムがちゃんとあった。

【ドブ川】

S 次にドブ川問題をしましょうか。

 ドブ川に子供が落ちて死ぬ。子供が自動車で運ばれていったあと、人々がいろいろ話しているシーンがある。このドブ川は、人工的に作られた排水溝で、洗濯や洗い物の排水が流れるドブ川であって、自然河川ではない。

 3つか4つの子供が落ちて引き上げられるのを菊蔵が見ている。近所の人の会話がいくつか、ガスの元栓、生活保護、年取った男の人の一人暮らしはお気の毒ね。ところが、そこで菊蔵が見ているのは子供の若い母親で、下ぶくれで首が長く、昔知っていた女の面影がある、これはロマネスクね。つまり、死んだ子供はどうでもよくて、その母親の中に若くて色っぽい昔の女の似姿を眺めている。これもひどいよね。

I ここの会話も、何で急にこんな会話がはじまるんだろうと思います。子供が死んでいる横で、どうしてこういう会話がはじまるのかなと。

S リアルな生活、それはまあいいんだけれど、それが菊蔵さんにとってちょっと面白いことだと言っている。菊蔵が比較的機嫌がいいのは、一人で子供が引き上げられるのを見ているときとか、500円でおつりを余計にもらったときとかとある。そうして最後に、また子供が落ちて死んでないかなとあって、これアンモラルですね。

H 日常生活が淡々と続いているなかで、事件ちょっとしたお祭りのような捉え方。

I  まったく共感は出来ない。 

S  じゃあ、おつりが余計だったら?

I K あとから気になるから神様が見ている感覚があって返します。レジやったことあるから。

S 足早にその場を離れるとあるから、菊蔵もまた悪いという気持ちはもっている。

H リアルに子供が死んでいないかというのはないけれど、子供が悲惨なめに遇う話や物語は結構多くて、そういうのは人気があったりして、小説や物語だと悲惨な話を見たいと思っている人は多いんじゃないか。

S 最近の例だと、子供が行方不明というのはとても気になるし、はっとする。スーパーボランティアが一日で子供を発見したとか、子供が死んだり、発見されたりすることにはニュース・バリューがある。老人が死んでもニュースにならない?

K それは当たり前だから。

S つまり、そういうことを言っているんじゃない?

H 老人の死はリアルだが、子供の死はロマネスク。

S そうじゃなくて、老人の死はニュース・バリューがないけれど、子供の死はニュース・バリューがある、その比較の上に成り立っているのがロマネスクじゃない? つまり老人の死より子供の死の方がニュースバリューがある。

 一流の芸人の方が、三流の芸人より価値がある、それと同じでしょう? それ当然だと私たちは思ってしまう。それでいいの? コロナだったら、子供よりも老人が死んだ方がまだ救われる。どちらかが死ななければならないとしたら、トリアージというんだっけ、老人の方に死んでもらうと思っているでしょう?

K 年齢制限がやって来ます、数が足りなくなれば。

S 老人本人でさえそう思っている。それがロマネスク。価値があると思っていることがロマネスク。仏様の目から見たら、老人が死のうが子供が死のうが、死ぬのはみんな同じことという虚無性(暴力性)がある。

S いかがでしょう。また子供が落ちて死んでいないかなということは、子供ではなく自分が落ちて死ぬということを考えていると言っていいのではないか。

H どういうことでしょう?

S つまり、子供が落ちて死ぬと、みんな集まってきて声をかけてくれたりする。普段口も聞かない人々が、子供が死んだということだけで、みんなはしゃいでいる。はしゃいでるんだよ、これ。

 子供が死ぬと、ニュースだ、ニュースだと言って、大騒ぎする。じゃあ老人が死んだらどうなるだろう? そうすると、たぶん若い女の人が、一人暮らしであんなになっちゃおしまいよねとか、酒飲んで足滑らして死んだんだってさとか、どうせあることないこと、ろくなことは言わない。つまり、いつか自分もここで足を滑らしてドブネズミのように死ねばいいんだよなということにならない? 

H それを聞くと最後の一行が怖くないですか。ドブ川にはところどころコンクリートの小さな橋がかかっている。

K 子供は頭が重いから、ここから落ちた。

S ここを渡るときに老人の自分も転んで落ちる。

 同じように、子供が落ちて死んでないかな。それがリアリズム、めんどくさくて、金がなくて、なんとなく生きている凡人の死に方だと菊蔵は納得している。その納得ができるかできないか、さげが分かるか分からないかということ。

H めちゃこの話面白い。

S この感覚が私たちにはもう分からなくなっている。人権こそみんな分かって居るが、死ぬときは三歳で死のうが老人が死のうが同じということはもう誰も分からない。

【死体が燃える音】

H 川端康成は死の方から末期の目で書いたと言われているが、川端の方がロマネスクで、富岡多恵子はリアリスト。

S 何で菊蔵はこれほど不機嫌であるか。風呂屋の会が終わったあと、学生たちも菊蔵のあまりの不機嫌に帰っていった。噺をしているときにも菊蔵は内心できわめて不機嫌だったとある。

H 機嫌がいいのは、珍しいことがあったとき、子供が落ちたとか500円札でおつりが余計に戻ってきたとき。

K 噺をするとき自分だけが選ばれて注目されて、それでもやっぱり不機嫌。

S 逆に、そうやって一流の芸人のように注目されること、そのことが不機嫌。

I  そうですね、インタビューされているときにもひどく怒っていた。

S あのときも、一流の芸術家のような書き方をされて、非常に不愉快になったとある。菊蔵は一流の芸人として扱われることが不機嫌だった。

H ロマネスクに巻き込まれるのが嫌だった。

I 学生が勉強になりましたと言って、何の勉強になったのだろうと。自分にそんな価値はない、そんなつもりじゃないと。

S 誰かが価値判断をして、こっちよりこっちの方が価値があるという評価がいやなんだね。評価するということは、どちらが価値があるかという判断をする。それをまったく認めない。

 公立の老人センターの人たちがどういう芸人が出てもよく笑うとあり、その笑い声が子供のときに聞いた、死体が燃えるときの音に似ているとある。これは戦争の記憶? あるいは原爆の記憶? 次の「笑い男」も場所は広島ではないかと思う。菊蔵は戦争に行っているが、子供の頃だと戦争とは関わらない。何も書いていないから分からない。

K 昔だったら火葬場で死体が燃える音が聞こえる。

H この一行で、この小説がカバーしている範囲が一挙に広がる。いろいろな死がカバーされる。

S そうだね、一種抽象的・代表的な死体の記憶なのかもしれない。皆さんがそれぞれ思い出して下さいということか。

【おわりに】

H 「立切れ」で行こうというとき洒落と言っているのが気になる。深沢七郎に洒落がよく出てくる。若い者が洒落言葉で語るとか、おりんばあさんも歌の調子に合わせた台詞なら答える。ここで洒落て「立切れ」だというのは、風呂屋も立切れだから出し物も立切れだというのはロマネスクだと思うのですが、ただ洒落て決めるというのが菊蔵には合っている。

S 風呂屋の会がなくなるとき、菊蔵は不思議に明るい気持ちになったとある。「立切れ」にはいろいろ意味があって、風呂屋が立ち消えていき、噺の会が立ち消える、命が立ち消えると言う3通りの意味があるように思う。

 菊蔵はもう何の楽しみもなくて、自分の命が立ち消えになることだけを考えている。何の達成も完成もなしに、年をとったらドブ川に落ちて死ぬ、何の理由もなく立ち消えるというのが、リアリストの望ましい死であるということではないか。不思議に明るい気持ちになり、浮いた気持ちになるという、これは人生の終わり方の問題ではないか。

H 風呂屋がなくなるだけでなく、自分も立ち消えるという重なりがある。

S 洒落の反対は真面目だと思うのだけれど、真面目は、目的があって達成があって完成があって努力と精進をするというのだとすると、洒落で死ぬというのがその対極にある。洒落のように立ち消えるのがよいと言っている。

H 洒落にはその場限りというような、思いつきとか、という意味がある。

S 偶然性という問題だね。私たちは必然の人生に飼い慣らされているから、それ以外を思い浮かべられなくなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今村夏子「的になった七未」 2020年1月「文学界」 20210327読書会テープ

 【はじめに】

S いくつか気になる点を挙げておく。

 第一話と対になっている。違うバージョンの同じ話だとすると、違いはどこにあるか?

 名前が少し気になる。七未がななちゃんという愛称になるということ。七未の七を取って、七男という名を子供に付けるが、父親は絶対自分の名を取らせなかった。それから、たくやとともやのような紛らわしい似た名前がある。

 それから、七未が当たりたいと思って行動すると、犯罪者を生んでしまうことが気になる。校長先生は警察へ連れて行かれ、ぬの太郎は警備員に羽交い締めにされて警察のサイレンが鳴っている。女の先生は骨折して入院し、そのまま帰って来られない。

【運命の女】

S  七未が逃げると、犯罪者が生じてしまう、犯罪者を作ってしまう。病院の先生も七未に出会わなかったら、院長の娘と結婚していたのだから、そのまま院長先生になっていただろう。七未に会ったばかりに人生が狂った。呼び覚まされて幼児売春に走る。七未は、そのための触媒のような役割を果たしてしまう。本人は疵一つ受けない。

Y  運命の女のような? 

S 七未は何もしていない、ただ逃げただけ。

K 逃げても逃げなくても当たらない。

Y 加虐心をあおってしまう。そして、本人は、バリアーのような、宗教的な、はじいてしまう力をもつ。

K 道路に飛び出しても七未は傷つかず、車の方が事故る。

S 逃げても逃げなくても同じことになるというのは、七未の自分の意志ではないところで起こっている。これはどういうことだろう?

K 当たれば向う側の人たちに入れてもらえると考えている。

S  ドッチボールまでは当たりたい。それから消しゴムを自分にぶつけることで変わる。自傷になる。そして病院にはいり、先生と恋仲となる。

Y 人との関係で、自分の行動も人に届かない。攻撃を受けるかどうかと考えるといじめの話になるけれど、人との関わりから閉ざされていると考えると、

S 前半のここまでが第一話と共通している。このあとが第一話との違いになる。恋仲になれば七未の問題は解消するのだろうか? 恋仲になって結婚することによって、当たりたいという欲求の代わりになるだろうか?

 第一話だと割り箸になってから青年と恋仲になって、心中する話になっていた。だから恋仲になるまでは第一話と第二話は重なっている。

Y 子供が出来たことが二つの話の違いになる。

S  ここに面白い表現があり、世界のなかであなたのためだけの運動靴。これが当たりということになる。

K シンデレラの靴。

Y 七男を手離すのも、その人がぴったりの運動靴を持ってきたから。

S このあと七男との関係がよくわからない。七男を引き取ろうとしていたのか、米田さんも、七未の意志が分からず、子供には興味がないと思って、七男の養子の話を出したりする。

K そのときにはじめて子供の幸せを考えたとある。

S 七未は施設から出て就職訓練をへてアパートに入り、1日でお弁当屋の就職はだめになり、路上に出て、昼間は図書館に居る。つまり結婚は何の解決ももたらさなかった。自傷が再開する。

【図書館にて】

S ここに登場する図書館の青年がよく分からない。後の図書館の人の説明では、常連さんの一人たくや君が七未に声をかけてくれた人だろう。七未には青年に見えているけれど、図書館の人の説明では少年のようにも見えるのだけれど、この年齢の差異はどうなっているの?

K 願いは叶えられる、待っていればいいと予言する。たくやは20歳前後の青年だと思っていたけれど?

Y 年齢はよく分からないみたいです。

K 多分青年だと思う。

S 七未には青年に見えていたけれど、図書館の人たちが言っているのは、母親に付き添われた少年というふうに説明していると読んだけれど? 「あの子」と言っている。

K 図書館の職員は、20才ぐらいでも「あの子」と言うのでは。若いからではなく精神病だから母親が付き添っていると思いましたけれど?

S そのあと、一人で熱帯魚の図鑑を見ているのも少年のように見える。(p.104)

K この親子はたくや君とは別の人だと思っていました。

S  別の親子を見ても、七未はそれをたくや君だと認識している。だから、七未は、何かここ目前にあるものとは違うものを誤認して見ている。

Y たくやくん自体もいない。子供たち群像全員がたくや君に見えている。

S それを、七男と呼ばずに、たくや君と呼んでいくのも非常に面白い。図書館の人たちがそれはたくや君だと言った、そこから七未もたくや君だと認識していく。七男ではなくたくやへ移っているところ。

 それから、コーヒーをくれたコンビニの青年は七男でもなく、たくやでもなく、ともやと言っていた。

 七未は、七男という名前を表立って使えないのではないかな。七男に会いたいと言えなくて、ニアミスのたくやとかともやという名前を、七男というかわりに呼んでいる。

Y  切ない。

S つまり、七未が幻想の中で見ているのは成人しているだろう七男の青年の姿、図書館で現前に見えているのは子供たちで、これは七男と分かれた時の7才の姿をしている。

【公園にて】

S 図書館の次は公園の話になる。七未はもう以前とは姿が変わっていて、七男に分かるように動物ビスケットを印にしようと考える。祭りの射的の景品に動物ビスケットがあるので、それを盗もうとする。

S 七未が七男に触れようとするとコラとおじさんから声がかかる。これも分からない。

Y おじさんから見ると動物ビスケットを盗もうとしているようにしか見えない。魔法がかかっている。

S 七未が動物ビスケットに変身した?

K 七未は動物ビスケットではなく、七未という的に変身した。それは七男にだけしか分からない。おじさんには人ではなく景品の的に見える。

Y なるほど。ほんとうは人なんだけれど、的に変身した。箸に変身する第一話と共鳴させるとすれば、七未の変身をここで考えなくてはならない。

追記  S 表題の「的になった七未」を参考にすると、的になったと考えてよいと思うけれど、じゃあ的になったというのはどういうことなのか? 具体的に的が何に見えているのか、誰にとっての的か、的ということをもっと本文にそくして考えなければならない。

 七未には動物ビスケットが七男に見えたということか。つまり七男が動物ビスケットに変身した。七未が七男に手を触れようとして、おじさんに怒鳴られた。そのあと、動物ビスケットは、パパと少女の客によって取られてしまう。

S それから、お母さんという声が聞こえて七男青年があらわれる。ジーパンをはいて腕時計をしている青年の姿で。彼がが七未の肩を射的で打って七未が倒れる。

K 倒れると人に戻って、血を流した人だから他のお客が来なくなった。

Y おっちゃんにとって倒れたのはただの汚い賞品にしか見えていなかった。最低な言い方になるけれど、野良猫とか野良犬がその場で死んでいたら人が来ないから、商売にならないから捨てに行った。人ではない、ただの的、人権も個別性もない。

K 足をひっぱって動かすような人の大きさはある。

S 一等賞の純金製の招き猫が落ちて七未に当たったとあって、つまり七男は純金製の招き猫に射的のコルク玉を当てたということでは。

Y そうすると、七未はただの障害物で、的ではない?

S 射的屋のおじさんが車から乗れと七未に合図する、あれもよく分からない。

Y あのとき七未が猫にでも変身していたら分かる。第三話とかかわらせれば猫に変身していた。

S  猫に変身していたとすればよく分かる。当たったのは純金製の招き猫で、その猫に七未は変身していたことになる。その純金製の一等賞の的である猫に七未は変身したかった。

Y  誰にとって何だったかというのがとても重要だと思う。七未にとって、男の子はたくやか七男。おっちゃんにとって、見えているのは、景品か客。七男にとっては、当てなければならないものは、景品とお母さん。それが的ということになる。

S 七未は七男の射的に当たって、当たりたいという願いは成就したと考えてよいのだろうか?

【七未の幸福】

Y 七未はこれで幸せだったのかな?

S たくや君が心配して顔を覗き込んでにっこり笑ってくれたから、それが幸せ。

Y たくや君は向こう側で待っている人々の1人でしかないんじゃないか。人に当たられて選んでもらってなんぼの世界になっている。あまりに人に依存していて、そういう世界は気持ち悪い。

S  みんなの承認と、たった一人の承認という方法があるとして、その両方が否定されているというのがこの小説じゃないかな。たった一人の自分の子供である七男も役に立たなかった。七男に当ててもらっても、七未は七未になることはできず、ゴミにように猫の死骸のように死ぬ。この恐ろしさをどうしたらよいのか?

Y 希望がない。

S 七男とはすれ違っている、母と子というのが成り立たない。もう一度、天上に行って、みんなの承認に戻っていく、これ、向こう側の世界に行かないと承認されないのだから、全然承認は成就されていない。

K 安全で安心な場所は向こう側にしかない。第一話でも、亜沙ちゃんにとって心中が成り立っていたのであって、ハンガーになった誰々や、お布団になった誰々やにとっても心中が成り立ち、みんなと一緒に向こう側へ行ってしまった。集団で向こう側へ行っている。

S  曲がりなりにも亜沙は心中が成り立っているが、それに対して、七未はみんなとも七男ともすれ違ってしまう。たくや君だけはついてまわってくる。たくや君だけが小説が作りだす希望ということになるのではないか。

K 彼は気にかけてくれる人、何もしない、見ているだけ、声をかけるだけ。

Y 救いはない。助けろ、助けろ。

S ほんとにかすかに、たくや君の面影だけが七未に最後までつき従っている。図書館で唯一会えます待っていればいいと話しかけてくれたのはこのたくや君だけ。

K  この人の暗示にひっかかって、待っている。これが神。

Y  宗教的。お告げ的。何が大丈夫だよ、思いさえあればというのは最終兵器、根性論、全く宗教的。

S その予言に引き寄せられて七男に会えた、実現した。それ以上のことは何もしないでよい。

K 七男は、当ててすっと去っていく。何かすれば余計悪くなる。何もしないでよい。関わってはいけない。

Y 可哀想。

S 会えたということだけがこの世の幸せ。

K 会えて、子供は大きく育っていて、まともに育っていて、優しい子になっていて、順番を待っていてくれる、それで大成功。

Y  生みの親である自分が関わっては不幸になるという思い込みはかなり危険。人と自分が関わったら誰かを不幸にするという論調は、人のことを殺す。

K 七未としては正しい判断。ここまで来てしまえばそれしかない。

Y 人と自分が関わることによって、自分がいたせいで、この人はこういう運命になった、自分のせいでこうなった、と言い続けている、物語で。それって結局そいつが自分...

K 言い続けているのとは違う。それは自意識過剰もいいとこ。

Y  七未の人生で、色々な人が自分が関わったことによって、こうなったという例を、物語の中で羅列している。関わった人が自分のせいですべてこうなったので、私はひっそりと死んで向こう側で幸せになりますというのは洗脳めいている。人と人とが関わって誰かに影響を及ぼす...

K  でもそれは七未が意図したことではない。たまたまそうなっただけで、この人のせいではない。だから人の運命を狂わせたというのは成り立たない。ただ子供に関してははっきりしている、養子にやったほうがましという判断をした。

S  Yさんが言いたかったのは、自分に関わったら人は不幸になるというのは、ある種の宗教家が使うやり口。

Y   人のことを黙らせたり、自分は無力だから私に従いなさいみたいな、ペテン師の口上に過ぎない。

K すべての宗教はそう。

Y この物語の進め方が気に食わないのは、あなたが行動するとすべてが悪い方へ行く、どんどん希望がなくなって、あなたは死なないと成仏できません幸せになりません、よろしくみたいな、これを物語にして売ってしまうと、どんだけ悪影響が出るのか気持ち悪いなあというのが感想。

S  たとえばお祭りの的屋のおじさんはペテン師の口上を使っている。的屋のおじさんはそれで生きている。ペテン師の口上に乗っかるかたちで話を進めているところがある。だからここはていねいに慎重に読まないと、的屋の口上、洗脳のやり口に乗っかっただけなのかということになる。(そういえば、七未は的屋のトラックに乗らなかった。「星の子」は洗脳の物語だった。)

Y そうなんです、作者が演出として意図的にやったのなら、かなりの警鐘になると思う。

S  ペテン師の口上、洗脳のやり口というのを言えたところまでで、この小説の半分は読めたと思う。その先をもう少し読みたい。

【洗脳の先へ】

S 最初の方にあった、窓辺に色紙がパッと反転して、ななちゃんがんばれというのが出ると、私たちはもう逃れられない。あれも一種の集団的な洗脳で、ああいう幟みたいなのが出てしまうと、もうやるしかないという洗脳。私たちはそういう洗脳に大きく依存している。

 そういう洗脳から、どうやったら逃れられるのか? たとえばたくや君の幻想がその希望ではないのか。たくやの幻想が根強い洗脳から逃れる手がかりだということにならないか。

K たくや君は余計なことはしない神。

Y 天使的な役割? パトラッシュの最後になって迎えにくる神。鏡の中の自分の姿?

S これほどひどく、これほど痛めつけられていても、たくや君は純良な極上の存在。この極上の存在を考え出すこと自体が、洗脳のやり口から逃れる一つの方法になるんじゃないか。

Y 七未にとっての正しさの具現化。いてもいなくてもいいよ、という。

S  もはやいてもいなくても同じなんだけれども、洗脳の嵐の中で、極上のたくや君を思い浮かべることが、かろうじてできる最良のことだということにならないか?

Y  そうですね、最も効果的な抵抗であり、自分の中で正義をもう一度立て直す支えになる。

S ともや君だってものすごく優しい。コーヒー一本でさえ私たちはもうすでに差し出すことが出来ない。

K 図書館にはもう入れないです。

S ぬの太郎って広島太郎と似ていない? まだいるのだろうか。今村さんは中国地方出身だから知っているかも。

S 洗脳的な中で、ああやって囃し立てられたら洗脳される側にいるしかないというのが身に染みている。

Y 頑張れ、走れ、いい成績を取れと言い続けられている。私たちも同じことをされている。

K  いつでも多数派にいるから。

S それから外れた人間がたどる道をていねいに教えてくれているから怖い。

Y 誰からのコンタクトもなければ、承認もなく、自分の中の正しさを抱いて死んでいく。それが成仏。

K  正しいということではない。どうして正しくなければいけないのですか?

Y  自分がほんとうはこんなふうに扱って欲しかったという希望を正しいと言ったのですが。

K 普通に当たりたかったのでしょう。

S 当たらなかった人はどうやって生きて行けばいいのだろう。七未の人生は最低で何もいいことがなかったように見える。

Y たくや君って幻想でしょと言われる。

S  オタクが死ぬとビデオがたくさん出てきて幻想の中で死んでいったといわれるんだ。

Y そんなのは誰でも一緒で、

K ビデオを見て暮らそうが、ちゃんと料理して暮らそうが似たようなもので。それで、第三話の「忙しいほど充実を感じる」と、この作者がそんなことを言うのかと。

S  充実しているというのは、第一、第二話の清潔なベッドやおやつと同じで多数派の生活を言っている。だからいまだに子供連れて心中している。多数派でなければ死んだほうがましと。

Y 最近の子育ては基準が本当に細かくて、何歳で何をできて、それから外れるとポカポカ教室に通うことになったりする。だからこの話はすごく痛い。

K そんな事は気にすることもないし、困ったこともない。松田道雄さんの育児書が大流行りの頃で個性を大幅に認める育児でした。それでちっとも困らなかったです。たいていは保育園なんかで集団の中に入れてしまえば大抵はうまくいくと思うけど。

Y 幼稚園には入れなくなる。だから最後のあれは忘れられない経験、今は充実という現在に埋没していく感じは気持ち悪い。

S 猫になった時間を想像できるというのは、ちょうど主婦がBLをまとめ買いして机の奥に隠しておくというような、非常に個人的な自分だけの秘密を持っているということではないか。

Y 洗脳に対して、自分で防御を持っていないといけないというのと、自分の作り出す幻想は最も自分を支えてくれるということかなあと。

S 60年代とはレベルの違ったバージョンアップしている監視社会がある。周りが囃し立てるというのも程度がまるで違っていて、一生データがついてまわる中での個人の幻想の持ち方は、話が違ってきているのではないか。 

 この小説は、変わってしまった情報社会の中の息苦しさをきちんと書いているのではないか。60年代の人間には、ただの思い過ごしぐらいにしか思えないことを、

K  そうなんです、何と大袈裟なと。

S ところが事態が変わってしまっている。

Y 子育ても、そんなことはできなくても大丈夫だといくら思っても、周りがそうさせてくれない、それで放っておいてくれない。

S  微小な差が重要な問題になっていて、そういうデータを取られてしまっているし、思い過ごしで済ましてもらえない。だから親の世代のアドバイスが全く役に立たなくなっている。

 そんなに大したことを書いているようには見えないのに、じわじわと怖くなってくる。

Y 1回目読むと傷つくばかりで辛いばかりだったが、2回目、3回目読むと傷が修復されていく感じがする。理由がわかってきて、だから後味は悪くない。こういう社会で普通であろうとするのは虚しいことで、虚しいけどやるしかない。

S 逃げ場がない、逃れられない。この管理社会。

Y 囃し立てからは逃げられない、だから、たくや君が必要になる。

S  全くの監視社会の中でで、自由になるのは自分の頭の中だけ、というくらい追い詰められている。何一つ動かせない。

Y だから、第三話の「充実している」がイライラする。

K 集団発狂です。

Y Kさんみたいな怒れる日本人が多くなるといいなあと。

S 野良猫のように死骸がその辺にほっぽらかしになる、野垂れ死が今のもっとも望ましい死に方でしょう。

K 上野千鶴子さんもそう言っています。大ベストセラーになっています。

S  七未の最期は野良猫の死骸になっている、第三話でも猫が車に轢かれている。

S たくや君がいてくれてよかった。七男のことを思い出してどうしているかなというのが今はできなくなっているかも。思い出したらメールをすればいいし、ラインをしろと言われるから、そうではなく、思い出すことそのものが貴重な自由。

Y  思いを馳せるということが重要。シンデレラの靴とか、指輪とか、ロマンチックアイテムが出てきています。

S ハーレクインがアメリカの甘いお菓子だとすると、日本のそれはBLということだろうか。

Y やおい(山なし、意味なし、落ちなし)が甘いお菓子になっている。それが原点回帰。

S  やおいが原点で、現実の結婚は、それからの派生、まやかし、誤魔化し。病院の先生は真っ赤な嘘つきで、七未の結婚の夢はあえなくこわれている。それで、たくや君と一緒に野垂れ死という最期になっている。

Y  そうすると、推しと心中するという小説。たくや君は推しか。

S 賞品の招き猫は当たりですね。私たちはそういう本物の純金猫には当たらないけれど、金張りの猫に当たればいい。

了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「近未来の神話」 J.G.バラード 村上博基訳 1982年 20201213読書会テープ

【はじめに】

『人生は驚きに充ちている』のなかに収められている、2013年3月に発表された「廃墟が語りかけてくる」の中で言及されていたバラードを読んでみることにした。

 バラードは、映画化されている「太陽の帝国」とか、「ハローアメリカ」、「ハイライズ」などで知られている。バラードは1930年上海で生まれた、日中戦争時の上海を描いた自伝的作品が「太陽の帝国」。「ハローアメリカ」は気候が変わって廃墟になってしまったアメリカを探検隊が行くという話で、ラスベガスに文明の名残があって、そこでいろいろ事件が起こる。バラードにはそういう廃墟趣味があって、「近未来の神話」に通じる。

【宇宙病】

Y ものすごく怖かった。狂人がたくさん出てきて、恋模様があって、肉欲に忠実で、エレインに恋をしたマーチンスンがおかしくなっていくとか、それから、宇宙病というのがオゾン層が壊れて太陽が怖くなる、それぞれが身近で、未来にありえそうなところが非常に怖い。

 それぞれがとても元気なのが怖い。シェパードも目がランランとしている、人間の野生が目覚めていって、人間が人間でなくなっていく。人への執着が核にある。それから、宇宙病に身に覚えがあるのも怖い。

S ところで宇宙病にかかっているのは誰? まずエレインは宇宙病である。シェパードはどう?

K かかっている。太陽を避けて、疲れすぎて運転できない。

S 宇宙センターにひかれていくというのも、もう病気ですね。マーチンスンはどうでしょう?

Y 宇宙病というより鳥病。鳥に執着している。

S 鳥病は宇宙病とは違う?

Y 外に出て凧を揚げている。

K 人力飛行機で飛んでいる、筋肉を使っている。

S マーチンスンはエレインの主治医で、エレインの病気に感染しているのでは。エレインと一緒にエレインの望みである宇宙ステーションへ移動している。だから宇宙病に感染している。

Y 鳥病は、宇宙病の変異種か。

S アン・ゴットウィンは? これも宇宙センターの周辺にうろうろしている。

Y  シェパードに飼い慣らされていく最後になって、殺されかけて逃げ出している。

K 外に出るのを嫌っているから、ゴットウィンも感染している。

Y シェパードの言うことしか聞かなくなって、世界がだんだん狭まっていって、この人しかいないという風になって、そして最後に逃げ出す。感染しているのではないか。

S 宇宙病には人間に執着・愛着という症状があるのでは。アンもシェパードに執着する必要はないし、マーチンスンもわざわざ患者であるエレインに執着する必要はない。

K 染された人に執着するのでは。

S それは転移? 宇宙病というのは、何か関わりをもった、話をした人に強く執着するという症状があるのではないか。

Y 最初にアンゴッドウィンに話しかけたときに、エレインの面影を見たというのがあって、そこからシェパードはアンゴッドウィンに執着する。

S そうか、そうか、とっかかりがあった。(「ブレードランナー」でデッカードの妻の写真を見たアンドロイドが、その写真のとおりに髪を下ろして、同じようにピアノを弾く、そこからデッカードはアンドロイドとの恋愛に入っていく)

 この人間への執着は、人間だったら誰でも持つ妄想の一つなんじゃない?

Y そうです、逆に人間だからこその病。

S 宇宙病は誰でもかかる病。

Y だから覚えがあるわけだ。

S 宇宙病という人間の執着の病にずっとこだわっているところが、バラードはその辺の宗教よりもずっと上等。私たちは宇宙病に何とかしてつきあわなければならない。

 情報化した世界の人間の特有の執着・妄想を取り出したSF。重病化するエレインのようなのもいるし、跳ね飛ばされて外へ出る人もいるし、暗闇に踏み迷って、どこまでもついていってしまう人もいる。

【SFのジェンダー

S エレインが子供であり、母親であり娘でありというのは、男のジェンダー的望みでしょう。時間が永遠で過去も未来もここにあるというのは面白いけれど、母親というのにひっかかるかな。他の言い方はないのかな。

Y 全体に性的に女性を見ているのが嫌気がさします。

S これはアメリカ的な女性像があるのだろう。

アポロ計画

S 宇宙病がアポロ計画後とある。アポロ計画は1961年から75年、月面着陸は1969年。さて、中国は、2020年12月に嫦娥5号というロケットで国旗を月に立てた。