清風読書会

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予定

オンライン読書会は月2のペースで、土曜か日曜に開催しています。

2月5日日曜13:00から ヘンリージェイムズ傑作選 講談社文芸文庫 「教え子」

次回2月18か19日頃 13:00 ヘンリージェイムズ「ねじの回転」 光文社新訳ほかいろいろテキストが出ています。 日にち希望についてご連絡下さい。

今村夏子 とんこつQ&Aその3 読書会テープ20221016

【全面的マニュアル化】

S 私たちの生活全般が全面的にマニュアル化したということがある。仕事も教育もハンバーガー店もマニュアルの方が地道に素でするより効率がよいということになった。その事態と、この小説がよく符合する。自律より洗脳型の方がうまくいくとみんなが思い始めると、こういう事態になる。

I 耳が痛い。マニュアルがない仕事はいやだなと思うし、早くマニュアル化して誰でもできるようにしないと効率的でないと言ってしまう。製造業の合理化は徹底的に進んだ。

H 教室でもテストで点の取れる教え方をしてくれと言われる。

I マックでアルバイトしていた頃、まるで宗教みたいだと思っていました。ゲームでやり方をたたき込まれて、できる人はスペシャリストとして崇められる。

S とんこつは個人商店で、そういう効率化とは一番遠いと思われるのだけれど、そういうところでマニュアル化が起きてしまう。全面的に浸透してしまった。

K マニュアル化した方が応対がよくなるからそうするのですね。

S わたしの丁寧な接客は最高益をたたき出したとあるから効果的だったのでしょう。

H 実際はどうでしょう? 路地裏の個人商店でもホットペーパーに載っている。

S 二人目の募集の時、今川さんは町のペーパーに載せて募集すれば集まると言っている。

I 常連さんも来ている。

S 町の食堂の常連さんが、おかみさんと呼び始めた。

I そもそもこういう店でセリフをQ&Aにできないですよね。

S 架空だよね。前半はしゃべれない発達障害的な主人公がメモを使ってしゃべれるようになるという現実的に想像できる話だったのだけれど、後半になるとカードの数が増えてしまってバージョンアップしすぎて架空の現実になっていると思うんだけれど。

H 自分のまわりにも個人経営の店がたくさんあるのですが、下町感をものすごく演出している感じがする。チェーン店に対抗するには、こっちの路線でするしかない。いわゆる下町いわゆる大阪のイメージをやっている。一周回ってそこもマニュアル化している。

S プロデューサーというか演出家が入っているのでは? パン屋がそうではない? やたら派手な演出をした店があちこちに出ている。

H 筋書きを書いている人がいるということですよね。また、スタバなどのチェーン店でも、やたらフレンドリーに話しかけるというマニュアルに従っているような気持ち悪さがある。

S 広島に近い中国地方の比較的小規模の弱小な商店街を、今村さんは描いている。そうすると、こういうことかな。私たちの最後の生活空間も、マニュアル化して、ある種の超バーチャル化した世界に飲み込まれつつあるということ?

HIK それは実感がある。

I 今村さんはもともと広島出身ですよね。

S 安佐南区出身と書いてある。

S 私たちの現実は、生の生活空間ではなくて、演出なりマニュアルで作られた現実になっている。その中の勝者は、こういう書く人、演出家、プロデュースする人。

K 言葉を作る人が支配する。

S それは古代からそうで、書記がもっとも力をもつ。

H 家庭もそういうところがある。友人でも、子供が生まれた瞬間にホームドラマのお父さんになってしまう。何かの見過ぎではないかという違和感がある。

K 役割を自分で決めるわけですね。

H いろいろなところにいろんなシナリオが落っこちていて、どれかにもとらないと生活できない感じがある。

I あります、あります。

S セクハラ発言もそう。

K どれがセクハラか分からないからマニュアルが必要になる。

S いかにも日本らしい。付け焼き刃で変える。自ら考えて自律的に変えるのではなく、安全そうなマニュアルにのっとる。模倣・らしさが求められる、これは日本怪談で西洋怪談にはならないだろう。

K 同調圧力でしょう。

S 今村夏子さんすごいよ。

I 予言の書ですね。

【問いを立てること】

I 私の夫が最後のところのQ&Aの78億の数字を数えているのが面白かった。

K いくらインデックスつけても見つけられない。

S 私たちのセリフ・行動に一つ一つに番号が振ってあって、ちゃんとマニュアルに載っていると考えると、その通りかもしれないと思える。 

I コンビニ人間のテーマと近いなと思ったのです。

S はじめ発達障害の話だと思って読んでいたけれど、途中から発達障害問題は飛んでいってしまって、私たちそのものの話だと思えてくる。読んでいてしみじみ面白く、しみじみ自分のことだと思えてくるのが、何ともすごい。

S 私たちのこの洗脳型社会で、これで平和で快適に幸福にやっている。宮台真司のいう感情の劣化した社会。最後のところみんなハッピーで万々歳というふうに書いてあって、それにどっぷり浸かっている。

H これどうしたらいいのだろう?

I 怖いなと思うけれど、出たらそれでいいのかとも思う。

H 出たら中原昌也になってしまう♡

S 私たちは月に一回ぐらいこうして読書会をして、これで正気でいられるんだけれど。

H とんこつQ&A自体がQになっていて、私たち読者がAを出すという話をしましたが、 この小説を読むことで、自分の言葉がマニュアルなのかなとか、セリフなのかなと、Qが浮かぶだけでも大進歩ですよね。

【書くこと/読むこと】

S 日本社会は今回のコロナ騒動で少し変わった。女性も少しは働きやすくなった。対面ではなくリモートになったことで。対面で直接接していると同調圧力が強まるのだろう。この小説は、意図的にコンピュータを排除して書いているよね。手書き文字で、書き直しもすべて手書き。

I コンピュータだと予測変換なんかが出てきてしまう。

S 最初のメモもそうだし、ぼっちゃんは子供っぽい文字でアルバイト募集を出した、とある。手書きは、コンピュータと違って、文字の力を身から離さずに持っている。

 それから、黒電話! この小説の年代は2021年とはっきり書かれている。そうすると21年に携帯を持っていない人はいないし、黒電話はもちろん使われない。

H 大阪弁を調べるのに、辞書を調べている。

K 図書館へ行っている。

S もう一つ面白いのは、箕面のお母さんが大蛇を身にまとっている写真があって、その大蛇の手触りを丘崎さんが再現してセリフだけで言えるようになっている。皮膚感覚を再現しているのが面白い。コンピュータが間に入ると違ってきてしまうんだけれど、あくまでも写真なんだよね。

 写真が三枚。え?写真三枚、、、なるほど、太宰か?

H 『人間失格

S 死んだお母さんを何とかして蘇えらせようという話。

HIK そうか太宰治か。

H 人間失格の写真三枚の一枚一枚にストーリー手記がついているが、その手記は誰が書いたかという謎が先回の読書会で出ていた。

S 写真一枚ずつについて、今川さんがセリフをつけた。大蛇の感触とか、しゅんが大泣きして目の縁が赤いとか。

H ほんまじゃ。『人間失格』の三枚の写真が写されている。

S 先ほどは、Kさんが、『ヴィヨンの妻』で四人が支え合ってフィクションの生活を作り出すと言っていた。太宰治の書き直し問題では、書いた者が強者になっていく、真相はこうだったと次々書き直していく。しかし、この小説では基本今川さんしか書いていない。神になった今川さん(木になった亜沙)は、このあとどうなるんだろう?

 太宰の現実と私たちの現実は少し離れすぎているかもしれない。太宰のあとを書いてくれる作家がいてほんとうによかったと思う。

K 『星の子』のときにも日記を書いている。

S この場合ぼっちゃんと今川さんとの結婚のように、宗教二世の結婚で引きずり込まれて出口がない。書くことが新しい何かを発見するのではなく、既成の幸福な家族のイメージを再生産してしまう。書くことの力は限界。

S 通説的には、書く読む/話す聞くが対立している。文字に対する語り。そうすると、この小説で、語りとか直接性とか聞くというのが力になっている可能性がないか?壁のしょうゆのシミとか、あははとか、

S 電話のベルが鳴る、それが決定的な事態の変化を引き起こす。今川さんも丘﨑さんもそうだった。音は他に出てこないか?

I ボイスレコーダーが出ている。

S これは選ばれて小説に入ってきているアナログ機器。写真もボイスレコーダーも似ている技術で、現実と接してアナログにそれを写す。

I ギョウザの出来上がりを知らせるアラーム音のベルが出ている。

S いいね、バネで動くキッチンタイマーの音、アナログな音。ぼっちゃんの進学問題が話題になっていたとき、この音によって切断されて途中になった。

S この私たちの現実に、時々ベルの音のようなはっとする音がして、みんながはっと気がついたりする。例えばそれが銃声一発だったりする。今回あの銃声で少し変わりはじめているじゃない? 自民党がおたおたしはじめた。あんなことは誰もできなかった。

 銃声一発で変わるのは怖い話なんだけれど、この小説はきわめて予言的。あるとき小説家は時代とシンクロしてしまうものだと思う。シンクロして一歩先を語ってしまう。

K あの銃だって手作りなんですよね。

S アナログ機器。

【了】

 

 

 

 

今村夏子 とんこつQ&Aその2 読書会テープ20221016

大阪弁ネイティブ】

S 大阪弁のところ、Iさんネイティブで発音してみて下さい。

I あめちゃん食べる、ああおもろ、ほなさいなら。ちゃうちゃう、おかみさんとちゃう。

S 「あなたじゃないねんだから」というのも、もう絶対ネイティブじゃないと発音できない。

I 大阪弁って特殊ですよね。広島にいて広島弁を使っても誰もとがめないけれど、大阪弁は、大阪に来た人が大阪弁を使おうとすると、はいエセ関西弁みたいに、すぐ非難されて分かるんですよね。

S 偽大阪弁はすぐ見破られるという大阪弁特有の特殊性がある。

H 「あなたじゃないねんだから」というのは大阪弁なんですか? 「だから」のところ。 

I ああおかしいですね。

H ここがハイブリッドになっている。

K「ないねんやから」にはならないですか?

I 「だから」は標準語ですね。「あなたやないねん、せやから」というかな。

H 大阪弁の真似だから、ハイブリッドになっているわけだ。

S 「おかみさんじゃないんだから、アルバイトなんだから、あなたじゃないんだから」と三文がみな「だから」でつながっているから、この「だから」は書かれた文章語では? 次の「わかった、返事は」、これは東京弁あるいは標準語ですね。

【三つのとんこつバージョン】

S このあと、無理矢理使っている大阪弁から、さらにもう一つ変わっていく。

H 整理すると、一回目の大阪弁は、ぼっちゃんに言われて大阪弁を使ってみたけれど、自分らしくないから自分らしい言い方に直した。

S 二回目の大阪弁は、大阪弁をあえて使い始め、パットを入れて化粧を明るくしておかみさんに化ける。このあとの変化を繊細に確かめる必要があるだろう。

S 次は大阪バージョンを読んで仕事をしていたときに、一つの事件が起きる。レジに人がいない、丘﨑さんをレジへ向かわせるために、わたしが一つのメモを読み上げた。そのメモを書いたのはぼっちゃんで、ぼっちゃんの指示に従って、「おかみさんレジお願いします」と読み上げた。ここが怪談。返事をしたのは、大将の書いたメモを読み上げた丘﨑さん。それでうまく事態がおさまった。

H 今川さんは今まで自分の書いたメモを読んでいたのだけれど、ここでぼっちゃんのメモを読むのがかなり大きな変化。

S ロボット化。これはAIに言葉を教える現在の事態にも通じるだろう。ここにはいろいろ面白い問題がある。

S それから4年うまくやっていた。しかし、そうはいかない。ロボット化を三回目の転機だとすると、四度目の変化があるのでは。

S 15周年を4人で祝った。おかみさんと呼ぶのに苦労したので「おかみさん」のメモをもち歩いて、なんだか原点に立ち戻ったみたいだったと、ここに変革の兆しがあるのでは。次に、大将とぼっちゃんが丘﨑さんをおかあさんと呼び始める。丘﨑さんは、大阪バージョンを開いて「はあーい」と答える。

S そのあと、わたしがとんこつQ&A家族バージョンの制作にとりかかったのはこの頃からだとある。これが4回目の転機だろう。わたしが演出家となり、神となり、すべての支配者となる。それってかなりまずいのではという展開。人の指示に従うのもかなりまずいけれど、自分が支配者になって指示を出すというのはもっとまずいのでは。

H 洗脳側になるということですよね。とんこつQ&Aというマニュアル本は、家族バージョンで3冊目ですよね。普通のとんこつQ&Aと、大阪弁バージョンと、今度の家族バージョン。

S 転機の数とバージョン数がほぼ連動している。大阪バージョンには丘﨑さん用と今川さん用の2冊ある。

【とんこつ日本一家】

H 家族バージョンがいちばんぞっとする。

S それで幸せを作っているという。

K 幸せのお返しをしたいと言っている。

S まるで習近平のようではないか。絶対支配を認めさえすれば平和と繁栄を約束する。ここ数日の全人代で3期目が決定して永久政権になるらしいよ。

H 家族バージョンが出て、ときどき丘﨑さんの様子がおかしいというのがめちゃくちゃ怖くないですか。

I 大将と二人きりの時にあばれたりする。もうどうしよう。

H なぜ大将と二人きりの時間があるのか。

I そうなんですよね。

S 追記 丘﨑さんには適応障害という病名がつくだろう。天皇家に入った雅子様と同じ病名。太宰の「グッドバイ」は手切れ金を渡して女たちと別れる話だけれど、戦後のアジア諸国と次々と国交回復をした岸信介の寓意として読めるという話をしたけれど、太宰を経由すると、とんこつ一家とは日本一家と読めるんじゃないかな。

S 「基本的には変わらない。しゃべるより読むのが得意なおかみさんだ」とある。ここあたりが現代社会の私たちの姿であるように見えてくる。日本は自由かというと、こんなにいろいろなぼろが出ているのに政府は倒れないし、誰も辞めないし、やっぱり私たちは支配されているんじゃない? 知っていても、知らないふりをしているんじゃない?

H もしかしたら希望?絶望なのか、丘﨑さんが自分でメモを読むようになって変化の兆しがないですか?最近はメモをこっそり黙読していたりするとある。

K どういう役割を果たしたらよいか自分で決めようとしている。

H 内面化が起きている。

S だけれど、そのあとに、おかみさんには悪いけど、それは難しいと思うとあって、加筆修正を繰り返しているから丸暗記することはできない。

I 怖い

K 加筆修正は永久にすると。

H じゃあ出口はないのか。

S そしてその加筆修正をする役割をわたしがするから、わたしは必要不可欠な人間になった。

H 丘﨑さんの希望はここかと思ったが、やっぱりだめか。太宰治だったら加筆修正は希望をつくることになったが、ここでは出口をつぶすことに使われるのか。

S 毎日毎日わたしが加筆訂正するんだからと。

I やばい

K あやういバランスで4人だけだったらこれでいけるかと思った。

S それが私たちの陥っている小市民的生活。毎日毎日政治家は少しずつ加筆修正しているでしょ。私たちはその修正に合わせて少しずつズレていく。しみじみ幸せな生活なんでしょう? やだなあ。

H 『星の子』のときは、最後に3人で星を見上げていて、そのときにお父さんがくしゃみをしているのが希望ではないかと話しませんでしたか? 洗脳されているときは命の水で風邪一つひかなかったけれど、くしゃみをしているから洗脳が解ける兆しになっている。そういう出口というか希望はこの小説にはないのか?

S それを捜さなければいけない。『星の子』では三人が流れ星を一緒に見ることはなかったとあって、三人の見ているものが少しずつズレるというのが希望だった。とんこつQ&Aにはそういうズレはないだろうか?

I えー。

H どうすればいいのだろう。

【出口なし?】

S そのあとで「今川さんが大好きで結婚したいくらい好き、あ言っちゃった」このへんが怪しくない? ここ、今川大明神のように、神様になった今川さん、このあたり、ちょっと褒め殺しのような気がする。この褒め殺しがひっかかる。

I 大将やぼっちゃんのせりふも今川さんが作るようになったのですよね。

H 書きながら自分で返事している。

I Q&Aの番号数字が最後には消えるけれど、これに意味があるかな。

H Q&Aになっていないのか。

S 消えたあたりから褒め殺しになっているんだけれど。

K ここからあとは書いたものではないのでしょうか?

H Q&Aの受け答えがノートに書いてあるより、Q&Aじゃないセリフまでノートでセリフとして確立されてしまう方が洗脳の深度が深い気がする。つまりどんどん希望がなくなっている。

S 数字が消えて、洗脳がより深くなっているように見えるということね。

S 結婚したいくらい好きはどうだろう? 何か関係の変更がありそうなんだけれど。

H ぼっちゃんと今川さんが結婚したら。

K 年齢的に可能性がないことはない。

S ぼっちゃんの後姿を盗み見るのが好きだったというのがあって、あの延長上にあるか。仕事も全部ぼっちゃんに教えてもらっている。頭が上がらないと。

 つまり統一教会の信者二世が結婚の自由がなくて、信者以外結婚ができない。これと同じ事が起こるんではないか? なにか今日の騒ぎを予告しているような小説だね。

H 2020年に発表している。

K 予言ですね。

S この騒ぎの前だから予言だね。『星の子』のときはまだ希望が持てたけれど、今日になったらまるで出口もなく、身動きもできなくなっている。

H おかみさん=マザームーン? ぼっちゃんと今川さんも二世の結婚になるのか。

K この共同体からは出られないということ?

S 今川さんを出さないためには僕が結婚するよということね。今川さんがここを出て自殺するんじゃないかというところ、あれを追いかけて、絶対に引き留めなくっちゃ、とあるところで、僕と結婚しようと言い出しそう。両親を別れさせないためには絶対今川さんが必要だということになれば、ぼっちゃんは何でもするから、そうなるよね。

H ここはどうですか。ぼっちゃんは進学しないで店を手伝うと言っていたのが、今は高校へ進学した。今川さんのシナリオから少しはみ出たのではないか、ズレが生じているのではないか。

I ぼっちゃんの意志は進学しないだったけれど、今川さんのシナリオは高校ぐらい出ておいたほうがいいよという変更がある。しゅんが外の世界へ出ていって、別の価値観をとんこつ家へもち込む可能性がある?

S 義務教育の中学とは少しだけ違って、高校は自立への手がかりにはなるか。

K わたし=今川さんの後継者になる?

S それは難しいだろうなあ。いままでの今村夏子の小説だと、弟とその妻が家を継いで姉である私は二階で引きこもり。その私が台本を書くことによって支配者権力者の役割を見つけたということになる。革命的反転ではある。

S 最後の褒め殺しのところ、読者がこれを読んで、これではだめだと読んでくれればよいということかな。こんなに何もかもうまくいく平和で幸せな家族ができました、はいこれでいいですか、という問いかけであるとすれば希望になる。読者だけがそれに気がつける。

H そうか、この小説自体がQになっている。ぼくらがAを出さなければならないわけだ。

I おー。

S この状態を抜け出すのは、あなたたち一人一人の仕事だということか。

K そのことと高校ぐらい出ておかなければというのとはどう関係するのでしょうか?

S 追記 ぼっちゃんの進路が変更になったことは、メモを書くのは誰かという問題だと思う。メモを書いているのはほぼ今川さんだが、ぼっちゃんがときどき今川さんを助けるためにメモを書いて差し出している。大将も丘﨑さんへメモを書いて差し出している。二人は、お母さんの役割のセリフをQ&Aに書き足して、それを丘﨑さんにしゃべらせている。つまりメモを書く人は支配者になり、メモを読む人は支配される。

 メモによって丘﨑さんをおかみさんと呼ばせることに成功したぼっちゃんは、こんどは今川さんが書いたQ&A家族バーションによって、行くつもりのなかった高校へ進学させられたということになる。つまり書くことと読むことには権力闘争がある。

 この権力闘争には、太宰治の『斜陽』で見たように、誰がストーリーを書くかによって出来事の意味が変わること、まず弟が書き、次に姉が書き、修正加筆されていくことが踏まえられているように思う。

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今村夏子 とんこつQ&A その1 読書会テープ20221016

【はじめに】

S しみじみ面白いですね。ところで最初に出てきたドルフィンってどういう店? 本文の中にあまり情報がない。

I 夜の時間帯の店、キャバクラのような?

K 夜のレストラン?

H 8時から午前2時までとある、夜の店。

S 主人公の今川さんの年齢はどのくらいだろう?

H 丘﨑さんは30代半ば(p.40)、今川さんはそれと比べてだいたい20代半ばぐらい?

S 大将は中年、しゅんぼっちゃんは小学4年生9才、7年後の今は高校生16才。わたし=今川さんは、2014年春からとんこつに勤めはじめて7年ということは、今は2021年。年齢や年が妙にはっきりし過ぎていないか? 

 20代の今川さんは、キャバクラのような夜の店で、まったく非性的な役割の裏方としてコップを洗っていたというのが背景としてある。ボーとしているとか、ぼさっとしているのは丘﨑さんとよく似ている。大将の奥さんの写真は、丘﨑さんと比べて百倍も美人だったとあるから、今川さん自身の容貌も、くすんで目立たないのだろう。

H 丘﨑さんとわたしはタイプが似ている。

K 声が出ないというのも同じ。

S 働けるようになる過程もよく似ている。

 あらすじとしては、わたしが張り紙を見てとんこつで働き始める。ボーと立っているばかりだったが、ある契機で声が出るようになり、とんこつQ&Aというメモ集を読むことで接客ができるようになる。店は繁盛して、もう一人丘﨑さんが雇われるが、わたしと同じようにぼーとしていて声が出ない。丘﨑さんは大阪生まれで大阪弁を話す。大将とぼっちゃんはその大阪弁にひきつけられて、いろいろ事件が起きるが、とんこつQ&Aの改訂を通して、ある種の解決に至る。

 まず一言ずつ感想を言ってみようか。

【本を読まないわたしたち】

I じつは家の夫は本を読まない人なのですが、これを読ましたら最後まで読んでくれて面白かったと。丘﨑さんと主人公が似すぎていて同一人物かとか、いろいろ疑問が生まれたようです。

 大阪話題で、イメージの大阪と実際の大阪の違いが気になる。たとえば箕面は高級住宅街ではないか?

K 箕面は郊外ではないかな。滝があったりする。

H 家の妻も本を読まないけれど、あらすじを紹介したら面白いと言ってくれて、Iさんのところと同じです。

 夜中に読んでめちゃくちゃ怖かった。

 まず、言葉の問題。セリフのようにして言っているうちに使えるようになり、メモ書きを卒業してやっと自分なりに話せるようになったのに、大阪弁のニュアンスの問題で書かれた言葉に戻ってしまうというところ。

 言葉との関わりの変遷を考えると、子供の言葉を覚える過程とよく似ている。子供は、セリフのようにとりあえず繰り返し言ってみて、だんだん自分の言葉になっていく。

 それから、社会に出てからの言葉の変化。それまで好き勝手にしゃべっていたのが職場で求められる言葉を使っていると、だんだんなじんでその言葉遣いになっていく。言葉が入ってくることで話している人の形が変わっていって、いつのまにか変なところにたどりついてしまう、その感じが実感をもってホラーだなと思う。言葉から入り込まれてしまうことが怖い。

 もう一点は、統一教会のことを思い出して怖かった。マニュアルで布教するあたり、何か似ている。とんこつの名前の由来があるけれど、敦煌がとんこうになり、そのあととんこつになるという、実態と名前が違うというところ。とんこつラーメンを出さないのにとんこつという店名とか。名前が変わって実態が分からなくなるのは、統一教会が名前を変えているのと呼応する。

S『星の子』が実写の映画になっていて評判になっているらしい、本を読まない人でも映画で見ているらしい。しかし、本を読まない人がどうしてこんなにぼろぼろ出てくるんだ? いまや小説を読む人は少数派? 

K 昔の文学部を出た同級生たちも途中からまったく読まなくなった。

H まわりの友人も読まない。

I 読んでいるという人、聞いた事がない。

K 読んでも専門書。

S つまり実用書、必要あって読まされている。なるほど怖い、ホラーだ。

【教育と洗脳】

K Hさんの言ったように、子供が言葉を覚える過程とよく似ている。そして、言葉が人を縛る、自分が使っている言葉に縛られるということが怖い。

 今川さんが大阪弁をやめて自分らしい言葉を話し出したとき、ぼっちゃんが悲しそうな背中を見せた。大将とぼっちゃんたちは死んだお母さんを求めていたから、それで今川さんに自立されるのが怖かった、嫌だったのだろう。今川さんが言葉の上で自分らしくなれたら、本当は仕事もできるようになったのでは?

S 今川さんが自分らしい言葉を話し出したときに自立の可能性があったということ、そのメカニズムが面白いということですね。

K それから、丘﨑たま美がやってきて4人の家の妙な関係がある。たがいに支えて支え合う団体、ここで『ヴィヨンの妻』を思い出した。

S 統一教会のような組織、大将のとんこつ家族のような小さな社会、そこで使われている言葉にあわせていくか、あるいは自分らしい言葉を取るか。

 「らしい」がよく出てきて、とんこつらしいとか、とんこつにふさわしいとか、自分らしい、これが言葉を模倣してその集団その所属へ変化させていく原理。言葉の模倣によって子供が言葉を覚えていく原理。

 しかし、この小説では少し事態が違っていないか?読んでいて子供の発達とは少しずれていないか? ここにいる皆さんは、これから切実な子供の観察者になるわけだけれども、実際子供の成長と似てはいるけれど少し違っていないか? まかり間違うと洗脳になる、その少しのずれ、違いが何かをちゃんと読み取らないといけないのではないか?

H 教育と洗脳の違い。

S その違いを繊細に読み当てないと非常にまずいのではないか。切実な問題。

K 丘﨑さんは最後までノートを読んでいて、役割を演じていた。自分らしくなれなかったからとんこつにずっと収まっていられる。実際の死んだおかあさんとは違うセリフを言わせて、それだけでうまくやっていけるのだろうか?

I 丘﨑は洗脳型、今川さんは自分でメモをとってノートにまとめているからどちらかというと自律型。丘﨑さんはひたすら読まされている。

S 丘﨑さんは読む人、今川さんは書く人。

K 今川さんは読むと声が出せると自分で発見しているが、丘﨑さんは発見していない。

H 今川さんも後半どんどんおかしくなっている。メモを作って自分の言葉になおしてというところまではまだ健康的。せっかく自分らしくしゃべっていたのに、お母さんとしゃべり方違うというあたりから変になっていった。

S 今川さんが大阪弁をみずから使い始めるところが大きな転機。あめちゃん食べるとか。

I 大阪弁なるほど大百科を借りて来てQ&Aを作り出したところ。

H 接客で話す内容は定型だけれども、言い方やしゃべり方の癖はその人の最後の砦。セリフは決まっているけれど、言い方は人それぞれ違っている。この最後のその人らしさを大阪弁にさせられたところで、教育と洗脳が交代する。大阪弁を強制されたところで洗脳に交代する。

S 強制というより、みずから大阪弁のQ&Aを作りみずから大阪弁をあえて使い出す。

H 自立的だからこそ自分でやってしまうのか。

S そういうのを内面化という。

I 内面化?

S みずから自発的にはじめる。教育というのはこの内面化をさせる。自発的に従うようになる。

HKI うーん、怖ろしい。

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治 『道化の華』その3 20221001読書会テープ

S 真野の怪談が一番面白かった。入水した青年の話で、カニが翌朝部屋に出たという。これ入水者がどうしてこんなにいるんだ? ダブルになっている? 自殺をはかった青年と自殺をはかった大庭葉蔵の話が重なるが、何で重なるのか? 葉蔵は自分の身と引き合わせている。青年の場合はカニが出たが、葉蔵の場合は園子の幽霊を思ったとある。園子の美しい幽霊が出ている。二重写しになっている。そこに神が出ている。

I ストーリー的に言うと、葉蔵が自殺しかけて入院しているのに、その看護婦が別の患者が自殺した話をするのは相当変ですよね。

S 病院の信用にかかわるし、かなりまずい話だろうね。

I 綿矢りさの小説にもカニが出てくる。

S 平家ガニは、死んだ平家の死霊が憑いているというのが伝統的意味。

S 葉蔵はこのようにあっさりしているとあるがこのあっさりとはどういう意味?

K 自分が殺したと言っているわりには美しいと言っていて、美しくなれば自分の責任はあまりないように聞こえる、そういうことはないでしょうか?

S 自殺に寄り添ってあげたというのと同じ意味ですね。殺したという自分の悪事を拭い去って美しい姿を描く。善とか悪とかにかかわらない神、これが太宰の神か?

I 罪悪感がない?

S 軽薄とか安易というのでもなくて、道徳的も何も、とにかく消えてしまう。

I 消えてしまう。

S 厳しい非難をするだろうし、そして、彼こそ神に似ている。これが葉蔵のもっとも重要な性質ということになるわけか。葉蔵は神であり、神は善悪道徳にかかわらず超越している、あるいはあっさりしている? そう簡単に超越されては困るんだけれど。

 さっきKさんが発言したように、死にたい女に寄り添って一緒に自殺してやるというのが一番近いのかな。あんまりかわいそうだから一緒に自殺してあげたという。

I 自分の命にもあまり執着していない。

S 自分がない? 『人間失格』の場合も自分がなく、相手の意志にずるずるとひきずられていく、一種の無我のようなありかた。それが死にたい女に寄り添うと何遍もそういう自殺を繰り返す。ほとんどやっていることは死神。死神が死にたい人にとっつくと首くくり榎のように首をくくってしまう。葉蔵がいなかったら、女はわざわざ入水などしなくて苦しくても生きていたんじゃないか。

KI ふつう死ねない。

S 死ぬ勇気もないし。それって疫病神じゃないか。『ヴィヨンの妻』で男のことを疫病神と言っている。ああいうとっついたら離れない、それを神と言えば確かに神。日本的理解における神とはそういう存在かもしれない。救ってくれない神。

K 死にたいという願いをかなえてくれる神。

S 皮肉な神様。人間の罪を背負って死んで下さった神という究極の救済の神とは違う。まったく善悪を超えてしまうような存在として主人公を描き、それを西欧の神とは違った神として描く。葉蔵のような存在を描くことが太宰の最も重要な問題だった。

 『人間失格』では神様のようによい子でしたとあるように、葉蔵=神は動かない。善悪を超越して、あらゆる周りの人間の欲望に寄り添ってしまう。面白い。しかしそれは神様がいないというのと同じ。

ヴィヨンの妻』を思い出すと、男のほうは疫病神だけど、妻の方は福神。あれはセットになるが、葉蔵にはセットになる福神はいないのか?

I 真野?

S 真野には福神のような要素が見あたらない。

I ここで終わろうとするときにもっと書くと言って真野とのエピソードが続いている。

S 最後の真野とのエピソードが結構長い。

I 真野に関しては最初から最後までどうなっているのかよく分からない。

K 病院付きの看護婦ではないようだ。

S お金持ちのために雇われている派遣のような存在で、生活のために働いているのではない。その意味で青年たちと同じ有閑階級の一員。東京に帰るなら遊びにおいでよというのを見ると同階級に属する。しかし福神の感じはしない。

I 顔に傷がある。最後の夜に関係をもってしまうのかと思ったが、ほたるの信頼を失うなとあって、この傷には意味がありそうだ。

S 聖なる関係になる。近寄ってはいるけれど、それ以上は近寄らない。一種の職業的な距離を保っている。これは特筆すべきことではないかな。葉蔵はみんな誰もが引き寄せられてしまうが、関係をもってしまうとろくなことにならない。そこで一歩踏み留まっているところに真野には資格がある。何の資格かはよく分からないが資格がある。

 真野はほたると呼ばれて悔しくて偉くなろうとした。偉くなるというのは立派な人間になるということだろう。青年たちは、立派に生きる、美しい感情をもった立派な人間になるというのが目標。それだけが大事でそういう青年たちを描こうとした。

 飛騨も葉蔵にあこがれて彫刻家になり、小菅も葉蔵が好きで自分の美意識を立てることが大事、夜中に外套を着て女とすれ違う、誰も見ていないようなことにこだわる。自分の美意識として立派にありたい美しくありたいというのがこの四人の青年たちに共通している。

 登っていって富士山が見えなかった、つまり目標とする高さが分からない、かいもく行方が分からないのだけれど、みんなそれを目指して頑張っているという小説ではないか。向上心のある、太宰の小説としては爽やかな希望のある印象。ここから「走れメロス」のような小説が出てくるのではないか。

K それで文部省御用達になる。

S 現実には全然名前のない彫刻家だったり洋画家だったりする。無名だけれど、ある高さ、ある美意識、ある立派になりたいというこころで山に登っていく。これは青年たちの姿としてとてもよい。

 真野が大学生と話をするところで、真面目ですからお苦しい、美しい感情をもっているから苦しいという。太宰嫌いからするとちょっといただけないのだけれど。

S 大庭葉蔵を神として読めるかどうかが、この小説への好悪になるかな。立派な作品を作りたいというところは、出発点の太宰がよく分かるような気がする。その立派なには道徳的倫理的も含んでいる。太宰はそれを分けられない、単に素晴らしいではなく立派な小説を書きたいという、太宰の面白いところだろう。悪魔的ではない、芸術がすべてではなく道徳的倫理的なものを含めて立派な小説が書きたいというのは、立派だなと思う。

I 売れたらいいとか。

K 芥川賞をとらなければだめだとか。

S 太宰は立派な小説が書きたい。

K 『グッドバイ』も女と別れるお笑いかと思っていると、戦後の日本の国交回復の話と重ねて読むと非常に真面目。

S 戦後の岸信介アジア諸国と国交回復するというのと、女と手切金を渡して別れるというのが重ね合わされているという話を以前の読書会でした。

K マルクス主義に共鳴するのもそれ。

S 青年たちが太宰に惹かれるというのは、そういう太宰の真面目さ、立派さに惹かれると考えると、それはとても純良なことだと思う。

K 大人たちはだめだけれど青年たちは純粋。

【さまざまな引用】

S だから『ボヴァリー夫人』を引用しているのはさすがだと思う。フロベールはじつに立派な小説家で、私たちが読んだなかでも『三つの物語』は実に素晴らしい立派な小説だった。目の覚めるような小説。

K あの翻訳と解説はとても面白かった。

S 谷口亜沙子さんの解説は、ほんとうに立派な解説だった。

S 世界中の女がみんな自分のものだというところは、『明暗』の津田が世界中の女は自分に惚れていると思っているというのを引用しているんじゃないかな。太宰は漱石を尊敬もしている。『明暗』は、古い父親たちの世代と青年たちの対立があり、これがこの小説にも写されている。

K 問題は親父のほうで、兄さんは分かっている。

S 策士だとも言っていて、相当金を配ったのだろう。警察にも院長にも嗅がせているだろう。新聞には効いたがラジオまでは手が回らなかったのだろう。(谷崎潤一郎の『細雪』の新聞事件で、兄さんはそういうときお金を吝むからいけないと言っている。)

【偶然のテーマ】

I たまたま兄さんが入ってきた時トランプをしていて、たまたまあくびをしたときにフランス語の教授が見ていたという。

S あれが偶然のテーマで、これも漱石経由だと思う。偶然に翻弄されるというのが善も悪も取り込んでしまう葉蔵のふらふらしてしまうという理由なんだろう。偶然に左右される、あるいは偶然を引き当ててしまう。

I トランプで一瞬の駆け引きを楽しむと言っている。

S 札当ても万に一つ当たってしまう。万に一つ葉蔵は当たってしまう。

I 意外と爽やかな青年の話だと。太宰自身の入水の印象が強すぎて先入観があったのだけれど。 

S 太宰自身のいろいろなふるまいがあるけれど、その印象と小説は違っていて、思ったよりずっと真面目で清潔な立派なところを掬い取ろうとしていることが今回分かった。

K 美しい感情というのが文字通りだということがよく分かりました。

S Kさんの善悪を超越するような神の話は素晴らしいですね。

K 神とは、『人間失格』の相手の意図に寄り添ってしまうというありかた。

S そういうところが神の善悪に関わらないありかた。こういう神は神と言えるのか。西欧の神とはまったく違う。

K 因果応報でもなく。

S ただの虚無。

K おおかたの日本人は無神論

S なんでもありという社会のあり方、そして、何でもありで流されてしまう神は、わたしたちそのもの。これまずくないかな? 葉蔵はそれを引き当ててしまって神にされてしまうのだけれど、普通のわたしたちはそうはできない。いくら他動的に生きることがわたしたち心底身についているとしても。新しい青年は立派な生き方をしたいという小説。

I 退院した後、海岸で少女たちがパラソルをもって来るところ、この二人、この場面はどういう意味があったのだろうか。小菅が貝を拾うのを少女たちが真似してというところ。

S ここは芥川に蜃気楼の話があって、海上に陸の姿が映る、向こうからやってくるアベックが新時代と呼ばれて自分たちとそっくりだという不思議な短編がある。この場面がよく似ていると思う。いつもダブルになったりツインになっている。自殺者も二人いるし、小菅も葉蔵と対になって美少年になっている。

I 小菅と葉蔵と少女たちも入れ替え可能。

S 何か単一な存在ではなく、対になっている。特殊な誰かではなく反復としての私というような問題。鏡で写し合っている。蜃気楼が写し出すように。

 出会うと消えてしまうから、話したり関係をもってはいけない。一歩手前の雰囲気のロマンスになる。芥川の短編の一番よいところをとっているなあと。だから真野と関係を持たない。

K それで旧い大家の小説はこのようなところで意味ありげなところで止めると言っている。

S 二人はこのあと結ばれるというのが普通の小説だが、この小説は違うというわけだ。

【了】

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治 『道化の華』その2 20221001読書会テープ

【パノラマ式描写】

S 少女から見た葉蔵の横顔で、ここで視点が変わったりする。最初に読んだときボヴァリー夫人を読んでいるのは葉蔵だとばかり思っていた。勝手に視点が変わる。

K 看護婦が横腹をつつくというのも葉蔵のことだとばかり思っていた。どうせそういうことをするだろうと思い込んでいたから。

I 視点を整理する、

S そうすると、すべてがクリアーに見える。今日は本気で読みたかったというのは少女の視点。

K ガーゼを叩いているところまでは葉蔵?ベランダにいて本を持ってこさせたのは少女。

S えーと、ガーゼを叩いている葉蔵の姿を見ているのは少女。昨日の新患者はと言っているのも少女。に号室を盗み見していたのも少女。この段落は、い号室の少女の視点から書かれている。ずーっと葉蔵視点で書かれてきたから、ここで視点が変わるとは思わない。(中原昌也の「鳩嫌い」がこの視点転換を使っている。)

 太い眉をひそめていた、そんなにいい顔とは思えなかったというのは、少女たちの間で美男子だという噂が流れているのだろう。葉蔵たちの間でも美少女らしいよという噂が流れているように、少女たちの間でも、入水した、女は死んだらしい、いい男らしいといった噂が流れていたので、に号室を盗み見するのだろう。そんなにいい顔だとは思えなかったという一文だけで、背景のさまざまな噂話を立体的に想像させる手法。

S その前の段落はどう? 僕は景色を書くのが嫌なんだとあるから僕の視点。パノラマ式の数駒を展開すると予告しているから分かるけれど、ぼんやり読んでいると気づかない。

S さらに、よい一行を拾ったというのもよく分からない。ボヴァリー夫人というのは、浮気相手といい仲になって破滅して最後は自殺するというのが荒筋で、葉蔵の入水とふさわしげであったというのは分かる。真夜中のたいまつで嫁入りしたいというのがよく分からない。

I これはい号室のなかのボヴァリー夫人という二重の箱となっている。

S それとの比較をせよということになる。そうすると真夜中のたいまつで嫁入りというのは、エンマがまだ少女の頃の話で、ロマチックな結婚を夢みていたということかな。少女たちは結婚前のまだ夢を見ている状態だから、少女たちとエンマとを対比している。夢見がちな少女のエンマは実際に結婚してみると、何だこの退屈さはというので浮気をする。少女たちが結婚以前、ロマンス以前というのがここから分かる。

S 次の段落は、ろ号室の少女が、葉蔵の姿を見るなりとあるから、はっきり少女の視点だと明示している。そうしないと、前の段落の視点の転換が分からないと困るから、親切に名前を出して書いているわけだ。

S 次の美人らしいよは、「は」か「ほ」の部屋に泊まった小菅の視点。ベランダに出て葉蔵を見て、左に向いて少女を見たとあるから、小菅たちは「は」号室に泊まったということが分かる。い号室の背景が石垣であることがここで確認されて、あとで怪談の場所が特定される。こういう推理小説仕立ての明快でくっきりしたそして立体的な描写をしている。

【美しい感情】

S 次の僕の述懐が分からないね。太宰節が好きになれるかどうかはこのやっかいさにつきあえるかどうかにかかっているのだろう。

 この言葉に幸いあれと言っているのはどの言葉を指している?「美しい感情をもって人は悪い文学を作る」を指しているとしても、その意味がよく分からない。悪魔的ではないというのが解説?

S 僕は根は美しい感情で書こうとしているということか。

K 最初の、作品の出来が自分の思い通りにならず悪くても、僕の心は美しい感情に充ちているということ?

S 悪い文学とは、出来が悪いということだろうか? それとも道徳的倫理的に悪いという意味だろうか。

K 絶対的な悪?

S 神にもよるけれど、事件は自殺幇助罪に問われそうになっている罪の話になっている。法律の罪に問われるという悪、それだけでなく道徳的に罪に問われるという悪もある。

I 法律的問題はお兄さんが何とかしてくれる、しかし読者から言うと、そういう問題ではないだろうと思っていた。だから道徳的悪の問題だと思う、そんな気がする。僕のこころは美しいで済むのか?

S 僕のこころは美しい、信じてくれというのか?

I どうしても太宰の事実経験で読んでしまうので、混乱する。

S それを混同しないように注意深く読む必要があるね。

【太宰の神】

S 最初のところで自分は生き返っても園子は死ねと書いてなかった?(ダンテの『神曲』による地獄の門を踏んでいる冒頭。)問題は「悪い文学を作る」というところ。

K 相手が死にたがっていたのだから付き合ってあげた?

S よりそって一緒に飛び込んであげた。

K だから自分は助かっても相手は死ぬことを願ってあげる。

S 死にたい女性に死を願ってあげるのだから自分はこころが美しい? それは悪魔のような神だね。

I 死神。

S 物事はなるようにしかならないし、あるようにあるのだからそれに寄り添っていくのが神ということか? 太宰の神はこういう神で、芥川龍之介の神も、「蜘蛛の糸」とか「黒衣聖母」は、そういう神ではなかったか?

 真野の怪談のところで神の言葉が出てくるから、まず怪談の話をしよう。

【つづく】

 

 

 

太宰治 『道化の華』20221001読書会テープ

【語り手の実験】

S『道化の華』は何だかとても難しかった。

K 新しい実験的な作品だったんでしょうか。語り手が作者自身で、それを僕と言っている。

S その語り手のどこが新しいのだろう?

まず大庭葉蔵という『人間失格』にも名前が出てくるフイクション上の主人公がいる。そして語り手が僕という主体で、読者に向かって君はというように二人称で語りかける。読んでいると、私に語りかけたのか?とちょっと戸惑う。いわゆる二人称小説はたしかに新しい、実験的と言える。

 しかし、語り手が主人公とは別に登場するということ自体はそれほど不思議ではない。どういうところが実験的なのか。

K わざわざ僕は僕はと書いたりしないでしょう?

I 中原昌也もこういう感じで中原自身のことを言い出したりしてよく似ている。金のためだとか自分のことを言う。

S 原稿料がほしいとか、金がないとか。

K 栄光もほしいとか。

S 作品展開のために必要なことを説明するというより、それ以外の一身上のいろいろなことを言い出す。作家その人のような語り手を立てただけでなく、作中人物の一人として登場させたことが新しいということになるかな。現実的な欲望をもっている登場人物が一人増えてしまって、勝手に大幅に関与することが実験的。

現実とフィクションとが否応なくぶつかる。嘘っぱちのフィクションと現実の欲望がぶつかる。これが中原も取り出している太宰スタイル。

【箱の実験】

 現実的存在としての語り手は、だからといって現実そのものではなく、これも第二のフィクション。

K 枠物語の変形ですか。

S いわゆるメタフィクションという。フィクションにさらに枠をつける。メタメタフィクション、メタメタメタフィクションになっていく。このメタは、枠であったり箱であったりする。箱や枠が入れ子になり、何重にも重なっている。太宰は好んでこの入れ子を使った。この枠の使い方が新しい。

S 『パンドラの匣』も箱の話だった。パンドラと『道化の華』はよく似ている。舞台も病院だし、人が出たり入ったりするし。いろはにほという東側の病室に名前がついてるのも、実に箱の話になっている。「い」「ろ」には少女、「は」は空き、「に」に大庭葉蔵、「ほ」は空き、「へ」は大学生。石垣は「い」の部屋からしか見えない。このことが後の出来事のヒントになるのだけれど、推理小説の犯罪事件はどこで起きたかと図を書きたくなるような箱の謎を書いた作品のように見える。

 メタフィクションとしての枠が空間的な部屋の配置になっているのが面白かった。

【パノラマ式描写】

I しかし病室と病室でやりとりはあまりなかったような気がする。男たちがカッコつけて、女の方は眺めてクスクス笑うぐらいしかない。

S 一番面白いのは、葉蔵が自慢の横顔を見せているというところ。一人の少女は葉蔵の横顔を見て、ボヴァリー夫人を読んでいる。もう一人の少女は布団を被って聞き耳を立てている。ここがパノラマ式の描写となっている。

I 「パノラマ式の数駒を展開させるか」というところ。

S 僕の小説もようやくぼけてきたとある、ぼけてきたというのはどういう意味? 語り手の言うことがよく分からないことがある。

I ぼけた描写があったかな。

S 途中でいろいろありすぎて何を書いた小説かまるで分からなくなることがある。

I 大人をこんなに出さなければよかったとある。

S 青年たちの生態を描くという小説だとすると大人が出てきてぶち壊しになり、ぼやけてしまったということか?

I ロマンスにしたかったけれど。

K 雰囲気のある。

S 雰囲気のロマンス。たとえば真野との関係は雰囲気のロマンスではないかな。

 つまり恋愛そのものでもなく、それらしきしぐさがある。真野が真っ赤になるとか、涙ぐむとか。葉蔵と真野とは関係をもたない、これをふんわりとしたロマンス風の関係を雰囲気のロマンスといっているのではないかな。

 ふんわり一歩手前までのことですべてがすすんでいく。そうするとどんどんぼやけてしまう。

K 青年たちはいつも本気ではないと言っている。 

S 小菅が美少年で、飛騨が葉蔵を好きとか、ホモセクシャルにも見えるし、中途半端な感じで出ていることは出ているが、雰囲気だけで、それ以上は言わないし進まない。

 ようやくぼけてきたというのは、作者にとってはいわば効果がうまくいったということでもあるし、読者にとってはこの小説はぼやぼやとしていて一体何を書いているのだろう、どうなっていくのだろうと不安になるということだろう。

 ここらでパノラマのようにクリアーに見通せるような描写をしてみようということではないかな。

【つづく】