清風読書会

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太宰治著「嘘」1946年 20230709読書会テープ

【はじめに】

S  まず、登場人物を確認しておくと、名誉職の37歳の男性(語り手)、作家(聞き手)、名誉職の遠縁の青年圭吾、圭吾の妻、警察署長、それから盲目の圭吾の母親。

 名誉職の男が語った話を聞いて、作家は、その圭吾の嫁はあなた(名誉職の男)に惚れてやしませんかと言うが、名誉職の男は、そんなことは全くありませんと、はっきり否定している。彼は非常に正直だと書いてある。けれども、名誉職の男は言葉をつづけて、私の女房と彼女は仲が悪かったですというわけだから、圭吾の嫁は名誉職の男に惚れていたと考えるべきだろう。

K  名誉職の男は全く自分では気づいていなかった。

S  名誉職の男は、そのことに全く気がついていなかったが、作家と話をして、ここで気がついた。作家の言葉を聞いて、はじめて、その事に気がつかされたという事だよね。

H  でも、名誉職の話の中で、圭吾の嫁が名誉職の男に対して好意をもっているというような描写がありましたか? 何で作家はそれに気がつけたのだろう?

S  例えば、圭吾の妻が突っ伏して顔が赤くなったというあたりではないかと思う。

K 突っ伏して囲炉裏の火に近くなったから赤くなったと考えたのですが。

S  どういう訳にしろ、顔が赤くなったということが手がかりになる。顔が赤くなるというのは重要なサイン。例えばジェイン・オースティンの小説では、結婚の話題を振られた女性は必ず顔が赤くなる。

 つまり、顔が赤くなるというのは、言語外表現として、ある種の意図や潜在意識の表現となる。赤い顔に対する解釈が名誉職の男と作家とで違っていた。顔が赤くなったのは、圭吾を匿っていることに対してではなく、むしろあなたに対してではないかというのが作家の指摘。あの赤い顔の色は、圭吾の妻の秘められた恋の兆候であったと考えてよいのではないか。

H 基本的に顔色を変えない人だった。

S  対面していても変な気持ちを起こさせない人だから尊敬していたという。

K 人格的に偉い嫁だと思っていた。

S それを見込んで圭吾の嫁に貰ってやったという。

K 色白の美人。

S  般若と言っていた。般若も、能面が一つの面で多重な表情を示してしまうように、言語外の多重性をもった妻の性格を示している。

H  惚れたとか惚れられているというのを抜きにしても、顔色を変えていなかった妻が実は嘘をついていて、隠し事があって、違う顔があったという話なんだけれど、それを聞いて作家が、もう一枚お面を発見するということですね。

S 太宰治の皮膚の話ともよく付合して、多重な人間の話になっている。

H お面が二重になっている。

S この女性はずっと二重の面を生きているのだね。戦時中に隠された恋があるということが面白い。

K  名誉職の本人は全く気がついていないけれど、その奥さんの方は何となく気がついていた。

H この名誉職の人は駆け引きが嫌いで、何でこんなに真っ直ぐなというか多重性のない描かれ方なのか。この般若の女性とはかなり違う、逆のあり方で、だからこの名誉職の言葉は正直だけれど、その分、この時代の言葉でしか喋れていない、国のためとか村のためとか。国家の言葉に乗っかってしか喋れない。

K それで警察署長も安心して脱走兵について頼める。

S 一枚岩の男は、すっかり乗っ取られて戦時中の言葉になってしまうわけだ。この正直というのは、例の古代純朴の民の直さの徳で、まっすぐ正直というのは古代的人間像。まっすぐというのはこわい。名誉職は、それを誇りにして、それを唯一の人格としている。それが戦時中になると、やらかすし、人を抑圧するし、だからこわい。漱石の「坊っちゃん」の言うならば能天気な時代とは変わってしまっている。そうではない戦時中に太宰は生まれ合わせてしまった。

H  現代でもそういう場面を見ますよね。学校現場でどんどん先に突き進んでしまっているが、やっていること、言っていることが、それではまずいだろうと思うのに、多重化しない言葉で教育してしまう。

S  何だかすごく身につまされる。

【戦争と恋】

S 嫁の深さが実に面白い。

H 名誉職より断然深い。

S  ずーと押し殺している。一生押し殺しているというのがすごい。つまり、戦争に対峙するには一生を賭けて隠し通すほどの自我がなければならないということ。表にあらわした途端、何もかも指弾される。社会からも国家からも糾弾される。名誉職のことを好いているという心を一生隠して抱え続けるというのがそれに対抗する方途になる、そういう発見を太宰はしている。

 太宰は、この戦争の時代の中で、どうしたら自分自身でありうるか、どうしたら自我が保てるかということを書いている、これには本当に参る。

K だから「十二月八日」(1942)「作家の手帳」(1943)のわたしの母さんのような作品が書けるのですね。

H 夫が脱走して家に帰って来てしまったというのを隠しているという嘘は、この時代だったら非国民と言われるような大きな嘘で、名誉職はそれで女を信用しなくなったというけれど、もう一枚大きな嘘として隠された恋が描かれていることがすごいですよね。

S  そのまさに非常に個人的な隠し事で女は国家に対抗している、それが何ともすごい。圭吾の母親が今は盲目になってしまっているが、夜眠って目が開いていた頃の夢を見ているのが幸せだというのが示唆的だろう。戦時中の隠した恋を夢に見るという比喩だろう。

K  女の人にお色気があってというところの説明が問題だと思うのですが。

S あの説明は念が入っている。自身でも気がつかない当てもないぼんやりとしたお色気があってというところ、これが心理学が明らかにするいわゆる深層心理。しかし、潜在意識よりもっと隠された奥底に、女の恋があった。私たちは、もうすでにこういう自我を持てないで、全部明け渡してしまっている。

H  全部開いてしまっているのに対して、「了見」のような形で、ちょっと閉じていたり半開きであったりする状態をどのように保つか、保てるかを僕たちはずっと語ってきたのですが、この女性はちゃんと秘密を自分の中に保っている。

S 戦後夫が帰って来て、何事もなかったかのように仲良く暮らしている。それでも名誉職の妻は彼女が嫌いだった。一方の名誉職は何一つ気がつかない。

H 男はアホだよなあ。

S  男は国家と自分を一致させてしまうから。

H  この作品は「パンドラの匣」(1946)の参考になりますよね。時代という大きな箱と、個人それぞれの箱の物語で、看護婦さんの中で好意を持っている人がいる、女の人の持っている秘密という問題があった。

【圭吾の話】

S 圭吾は、なぜ脱走したのだろう? なぜ首を括ろうとしたのだろう?

H その理由について名誉職は、圭吾が妻の落ち着き払って嘘を語っているのを聞いて、申し訳なくて首を括ろうとしたと言っている。そうじゃないような気がする。圭吾は名誉職と妻の関係に耐えられなくなっている?圭吾は二人の関係を感づいているのだろうか?

K 会話から名誉職と妻の関係が分かるだろうか、分からないんじゃないかな。

H 何で首を括ろうとしたのだろう?

S 脱走は重罪だから、逃げる場所などどこにもなかったから。

K 村に居られなくなる。汽車にも乗ったことのない人でしょう? 圭吾も、きわめて正直まっすぐな人。許してもらえるようなことは聞いていないだろう。

S 嫌な時代だなあ。憲兵が来る。これから徴兵されたら、こういう前例があるんだから、また同じように憲兵が来るようになるんだろうな。

S 復員して仲睦まじく暮らしたというのだから、圭吾は全然気がついていないと考えたほうがいいだろう。圭吾は嫁さんにぞっこん惚れ込んでいて離れたくなかった、それで脱走したということだろう。

K  ただ単純な人で、集団生活もしたことのない人だから、軍隊にも行きたくなかった。

S 集団生活が嫌で逃げ出した。つまり、一生生まれたところから動かず、一生汽車にも乗らず、美しい妻の顔を見て暮らすのが一番幸せだという人ではないか。この時代のもっとも安定した在り方ではないかな。電車に乗ったことがないとか他へ行ったことがない移動したことがないという前近代的な男。

K  小作人ですね。

S  一種の半奴隷状態なんだけれど、その半奴隷状態の中で幸福に暮らす人格が圭吾だろう。いろいろ周りで世話してもらえる。近代的な主体性のある人間ではなく、まったくの奴隷状態で幸福に暮らすことができる人格。

 目の前の美しい妻が嬉しくて仕方なくて、それだけで十分幸せ、これが戦前の非近代人の典型的生き方。汽車に乗ったり、携帯を持ったりしたら、もう近代人になるしかない。男は徴兵されて汽車に乗った途端に近代人にならざるをえない。

 だから、名誉職が圭吾を汽車に乗せて兵舎まで送って行ったというのはかなり重要なエピソードだったと思う。圭吾はその汽車を拒否して、歩いて家に戻った。鉄道は徴兵の人を運ぶために敷かれたのだが、あれは近代人になるために敷かれたのだね。

K それで国語も強いられるのですね。

H 漱石も鏡花も鉄道を語る。

S  圭吾というのは近代人にならないで済んだ人、一切気が付かないで生きた人だろう。

K 名誉職には全部世話をしてもらって感謝していて、それで申し訳なく思ったのだろう。

【おわりに】

S 恋心を持つということが国家にも体制にも抵抗する拠り所であるということをこんなにもきっちりと書ける作家はいない。

K やっぱり恋の達人。

H 人は恋と革命のために生まれた。