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フローベール 「ヘロディアス」 20200913読書会テープ

【はじめに】

 使用した本文は、『三つの物語』、谷口亜沙子翻訳・解説の光文社古典新訳文庫

サロメ

S さて、どこがなぜ分かりにくかった?

K キリスト教誕生の頃のユダヤ史やローマの支配について知識がないから、分かりにくい。こちらから見るとどの登場人物もユダヤで、それほど区別があるとは思えない。

S 解説によると、ユダヤキリスト教関係の知識を知らないことはこの小説を読むことにさほど問題にならないという。こういう解説ははじめてで、フローベールの読み方としてとても優れているんじゃないかな。注もつけてよいかつけない方がよいかを熟考している。

K 背景を知らないから分からないのではなく、小説そのものを読めていないから分からないというのがはっきりする。

S 私たちは先回「エミリーの薔薇」を読んでいるから、読みやすくなったのでは。エミリー自身はほとんど語らず、語ったとしても伝聞でしかなく、まわりの人々によって事実とも嘘ともつかない噂話として出来事が開示される。

Y サロメがなぜ出てきて、何のためにヨカナーンの首を望んだかも分からない。

K 指を鳴らしてヘロディアスがサロメに合図した。それで何を要求するかを決めた。この経緯によって、ヨカナーンの首が欲しいというのが母親の命令であると想像できる。「娘は上へとあがってゆき、再び広間に姿を現した」とあって、母ヘロディアスがそこにいると考えられるから。

S サロメの意志ではなく、黒幕はヘロディアスであることがこれで分かる。では、そもそもなぜヘロディアスはヨカナーンを殺したいのか?

Y ひどく呪われたということがある。

K 罵詈雑言を翻訳して2回聞かされたとある。

Y  ヘロディアスの望みは王となることで、そのために国を捨て、夫も娘も置いてアンティパスのもとに来て、アンティパスにトップをとってほしいのだが、アンティパスは幽閉している預言者カナーンを持て余しているので、預言者がじゃまで消したいと思っていた。

K ヨカナーンが民衆の心を集めているということがある。

 【マカエラス要塞】

S 基本対立を確認しておくと、場所は死海の東方にあるマカエラスの要塞で、イエメンの方からアラブの軍勢が迫っている。その要塞の領主ヘロデ・アンティパスは、ローマの支配を頂いており、シリアのウィテリウスの援軍を待ちかねている。それから、アンティパスはアラブの妻を離縁して、兄の妻だったユダヤの名門の娘ヘロディアスを妻とした。さらに、ユダヤのさまざまな宗派の人々がいて、そのなかの一人がヨカナーン

 王の称号をそれぞれ皆ほしがっていて、この四分領主というアンティパスの称号が意味深い背景になっている。アンティパスよりさらに欲しがっているのはヘロディアスで、さらにもう一人アグリッパという名前だけ出ている弟もいてこれも王の称号を獲得することを望んでいる。

 こういう地上の権力争いの座標軸に並んで、キリスト教の誕生という宗教的座標軸がある。

 これらの人々の区別の指標の一つとして偶像崇拝がある。アラブは偶像崇拝をしない。ユダヤキリスト教はどうだろう? アンティパスは偶像崇拝を受け入れたとあり、これがアンティパスの特色となっている。

K アンティパスの偶像崇拝はローマの習慣で、ローマとユダヤとの間をとりもつことになる。盾にローマの皇帝の像があった。

Y ユダヤ教偶像崇拝はしないし、キリスト教もいろいろあるが基本、偶像崇拝はしない、禁止されているらしい。何かを神としてあがめるのはキリスト教でもだめだということらしい。

S ユダヤ教からキリスト教が分かれるときに、例えば偶像崇拝が微妙な差になる。アラブとローマとは明らかに偶像崇拝がその目に見える差異になっている。ローマの多神教の神々が、キリスト教に塗り替えられていく。

 ユダヤ教はどうしてローマを支配できなかったのだろう? キリスト教がイエス一人でそれをできたのはなぜだろう?

K ユダヤ教はいろいろな宗派が分かれて牽制しあっている。キリスト教の方が多くの人に共通するものをつかまえられたのではないか。

Y ユダヤ人は偉大な預言者を待っていた。それを知らせるのがエリア。エリアは一番偉い預言者で、ヨカナーンがその預言者だと指名したので、それで一挙にキリスト教へ向かっていたといわれている。

「あの方が出るためにはこの身は衰えなければならない」とヨカナーンは言っている。自分が死ぬことによって、あの方の繁栄が可能になると言っている。

S とすれば、ユダヤ教に対してキリスト教が優位をもってローマまで支配していくのは、ヨカナーンが死ぬこと、殺されること、犠牲者の血によって成立しているのではないか。このことがキリスト教に特有の優位性であり特異性であり、ユダヤ教との違いになる。

 イエス・キリストもそういう犠牲者として神と人間の間に立つ人。だから、ヨカナーンによって行われた犠牲を、イエス・キリストがそれをもう一度繰り返すことによって教えが確実なものになったのではないか。ヨカナーンとキリスト、それは一つのことで、この犠牲は、たぶん三位一体のおおもとの形式。

 ヨカナーンが死ぬことによってはじめてキリスト教が成立するし、キリスト教ユダヤ教と異なる宗教として成立する。だから、ヨカナーンはどのようにして殺されたのか、どのように死ぬことになったかということが問題の焦点になる。

 アンティパスはヨカナーンを殺したくなかった、ところが、いろいろあってヨカナーンを殺すことになった。その逆説によってキリスト教を成立させてしまった。アンティパスがやろう、やろうと思っていたことがみな裏目に出て、裏目に出ることによってキリスト教が成立してしまった。することなすこと裏目に出るというのがアンティパス。アンティパスは優柔不断だし、ヨカナーンを殺すのは怖い。

K アンティパスはあとで夜中に一人で泣いている。預言があって重要な人が死ぬといわれていた。 

S アンティパスはなぜ泣くか?

K ユダヤ人の伝説にひかれていたのではないか。ユダヤの伝説が実現して、自分はそれには関わらなかったということ?

S 政治的なメシアとしての自分は何の役割も果たすことなく、精神のメシアとしての「あの方」が意味を持っていくというを自覚したということ?

Y ヘロディアスはどうするか、このあとたぶんアンティパスを捨てますよね、そうすると、トリガーを引いたのは自分だ、あとは自分は落ちていくだけだという涙では。

S 何か大きく歴史的な重大なことが動き出してしまったというのは分かるけれど、どこが、誰が、なぜと考えていくと、直接書いてくれないから予想するしかない。

K ヘロディアスはヨカナーンを殺すことで民衆の動きを自分の思うとおりにできると考えていた。アンティパスは地上の権力にそれほど信用していなかった。

S ヘロディアスは近代人なんだね。地上の権力を信じている。

S ところがキリスト教は奴隷の宗教、弱者の宗教と言われるけれど、王より力をもってローマを支配していく。この逆転がもっとも劇的なキリスト教の逆説のハイライトで、これは私たちには実はよく分からないのかも。西欧世界の根源に、この逆転があるということが分からない。だから日本だと弱者はそっと始末されてしまう。

Y 彼がヨカナーンを殺さなければキリスト教が確立し得なかった。

S そうしないと、そのうち懐柔されて、おだてられて、うまく権力とやっていくことになる。

K 権力側にとりこまれる。

Y 隠蔽もできず。

S サロメの踊りが妖艶で、全員よだれを流して見ていた。そういう人間的欲望に動かされたのがアンティパス。欲望に忠実に動いてしまったというところに小説の主人公の資格がある。王様たちはみなそうで、吐いては食べるとか、みな欲望に従順、これはローマのデュオニソス、快楽主義の系統ではないかな。禁欲的なヨカナーンキリスト教との対立点になる。

 フロベールは恐ろしい作家だね。小説の丈の高さ、スケールの大きさ、人間史とか人類史にとっての重要性というテーマ設定の深さ。このマカエラスの要塞というのは今のパレスチナのあたりでいいかな。

 【ワイルドのサロメ

Y サロメはヨカナーンに恋していて叶えられないから首を求めたというオペラの方が自分の知ってる話。

S それはオスカーワイルドの「サロメ」。ビアズレーの首にキスをしている挿絵で有名。今考えるとワイルドの書いているのはロマンスで、私たちはロマンスの方がずっと理解しやすい。フロベールは、ヘロデ王サロメに恋をしていたとかいうような心情とか情を一切書かずに、歴史そのもの、歴史の大状況を書くところが格が違う。

 サロメがヨカナーンの首を得たことで歴史が動かされてしまう。

 最初に確認したように、サロメは無邪気にそれをやっている。母の意志をうけて、意味もなしにそれをやっている。そういう意図しない偶然が歴史を動かし、それがキリストを成立させてしまうというのは、まさしく歴史の偶然性を描くということ。

Y アンティパスはたぶん何もしない、できなかったはず。それで、歴史上何も起こらなかったこともあり得た。

S そうすると西欧のほとんどのものが生まれなくなる。人権も福祉も。

 本文で、ローマの役人から何か宝を隠しているのではと疑われて、じつはヨカナーンが隠されていた。そうするとヨカナーンキリスト教は西欧の宝ということになる(あとから見てそうなる)。アンティパスは隠していた馬を取られることを心配している。みんな、少しずつズレた悩みで動いている。

Y 意図していない中身とずれた悩みで、歴史が動いてしまう。運命のように。偶然は必然といわれているしなあ。

S 歴史は偶然なのに、それを書く小説は必然でなければならない。この小説を必然として納得するためには、そうとう推測を重ねなければならない。本文から根拠を取り出しにくい。

Y いわゆるフラグが立っていない。

S これは小説としてはまずい書き方になる、どんなに読者が頑張っても根拠が決定しきれずに、何か分からないものがいつも残ってしまう。この一見まずい書き方が、歴史の偶然を必然の小説として書く方法なんだと思う。

Y 最後の3行で逆転するようなのは、作風なんでしょうか。「あの方が栄えるためには」という台詞が最後に書かれている、この言葉がないと、殺されたことがキリスト教繁栄の引き金になったというのが分からないだろう。

K この台詞は前にも出てきた。予定調和ではない書き方。

S 2度繰り返されているので、これがフラグだと分かる。だから最後にヒントを示したということではないかな。最後でひっくり返すというより、最後にヒントを示したのだから、読者はよろしく考えて読みなさいと。

S フロベールは心情ではない書き方をしている。20世紀になると心理学が出てきて、小説が登場人物の心の中をつらつら書いてしまう。フロベールは心情を一切書かないから、読者がそれを考えなければならない、小説の最盛期はやっぱり19世紀なんだと思う。