森茉莉「降誕祭パアティー」「文壇紳士たちと魔利」  読書会テープ20200725. 20200808

【はじめに】

 両作品は、2001年に刊行された電子ブック『贅沢貧乏』(新潮社)に収録されている。『贅沢貧乏』は、1963年5月に新潮社から単行本として刊行され、1978年4月に増補されて新潮文庫に収められた。初出は、「降誕祭のパアティー」が1964年5月、「文壇紳士たちと魔利」が1962年9月。前者の録音テープは、保存に失敗したので概要だけを示すことにする。

 森茉莉腐女子の先駆ではないか? 

 1,マリアや魔利と自称することによって自己の二次元化がはかられている。登場する作家には、容易に実名(ペンネーム)を言い当てることができるような変名を用いている。実在する作家を、リアリズムで描くのではなく、キャラクターとして描こうとしたと思える。

 2,第三の新人と呼ばれた、吉行淳之介安岡章太郎遠藤周作を背景にして、三島由紀夫を白蛇の精として際立たせている。第三の新人の特色が身の回りの平凡な出来事を描く私小説であるとすれば、三島由紀夫はエジプトへ行きアラビアの砂漠で女王を咬んで、地球にやってきて少年の時にその白蛇に食われてしまったと森茉莉は書く。私小説作家たちの日常平凡ではなく、もはや地球ですらない、どこにもない空想の西欧・中東世界。これは、少女漫画が繰り返し書いてきた、ここ日本ではなく、ヨーロッパですらない、どこでもない場所を思い出させる。

 白いギリシア彫刻を据えたアメリカンな屋敷という混乱した三島邸を偽物として指弾するのではなく、どこにもない空想の外国として見出すのは、森茉莉の少女漫画センスである。

 3,同じように、森鴎外の愛娘として観潮楼で催された歌会や竹柏会園遊会で主役として注目された華やかな記憶があり、何をどれほど書こうが、大作家の父を絶対の基準とした娘芸に見えてしまうのであるが、森茉莉はどこでもない空想の園遊会を自分の筆一本でささえている。下妻物語や飛んで埼玉に描かれていくような、少女漫画が作り出したどこでもない場所こそが森茉莉の小説にもっとも近いのではないか。森茉莉の小説は、その先駆あるいは共振と思われる(少女漫画が先だろう?)。

【意識の流れ】

Y 狐に化かされているような。日本語を読んでいるはずであるのに、頭が溶けてしまいそうな。

S これは日本語だろうかというような。

K ナメクジだと言っている。

S 三島由紀夫は1970年に自決して、川端康成も死んでしまうし、深沢七郎は1987年73才まで生きているけれど、「風流夢譚」(1960)事件があって、そのあと1965年まで身を隠して逃亡生活をしていた。事件のあと深沢はいわば社会的に死亡させられている。

 つまり、70年代に入ると近代が終わってしまったポストモダンという感じになる。60年代にはまだ近代が現役で生きていた。何が近代かというと、文壇があって、小説家は偉くて、文化の担い手であるという自負をもっていた。1900年のはじめにトルストイが新聞に書くと世界中の人が読む。小説家とか文豪が文化を牽引していた。この森茉莉の「文壇紳士」は、現役の近代文学者、60年代の記録ということになる。

S やたらと読みにくいのは、無意識に自由間接話法になってしまっているから。

K 自分で無意識と言っている。

S 例えばラーメンの話がある。北杜夫が夜中のラーメンはかくも旨いというのを書いていて、森茉莉はラーメンなど大嫌いで、そもそも食べたことがないんじゃないか、それにもかかわらず北杜夫の言葉に共振してラーメンは旨いとなってしまう。他人の感覚への同化能力の高さ、それによって、森茉莉の文章は自然とそのまま自由間接話法になってしまう。

 共感能力が高すぎて普通の生活ができないタイプの天才=今だと特異な能力のある発達障害というのかな。

 池田満寿夫岡本太郎も三島もそういう天才タイプ。それがこの小説では、第三の新人の凡庸さに対比されているようだ。

 深沢七郎は、天皇タブーの話になりそうだがそういう話にはならない。それはなぜだろう? 60年代の天皇タブーは今よりもっと激烈なところがあったが、70年代になると変質してもっと軽くなっていく。深沢はどう書かれているか? 

Y  深沢は、あなたに言われたくない、君も相当面妖だと言いそう。褒めてるのか貶しているのかはっきりしたらいいと思うが。

S 「・・・右翼の動き云々の話は全く気の毒」と言っている。政治的問題一色になっていたはずの深沢を、それとは違う書き方で書いている。

Y マリアが招待状を読んで間違えたとある。

K 熱心に見て間違えた。

S 招待状をよくよく見ていると、見過ぎて間違って30分早く到着してしまう。

S 自己中の文章を読んでいやになるのでしょう。昔、観潮楼で小さな女王様の役割をして、その習慣が今も続いている。それを私たちは、とても読んでいられないということでしょう。

K 当然自分が写真に写ろうとして、そう思われたらいやだとも思う。

Y 文壇にちやほやされた女王様の文章はもういいですっていう感じ。あなたの付き人ではないですと。偉い人の知り合いなのよと言っているわりに実はそうでもない、読んでいると腹が立つと。卑下しているのが鼻につく。

S ところが今回読んでみると、すべてのものが相殺されて、卑下慢とかいやな感じが一切ない。それはなぜだろうと。 

K 違う世界の人だから。63才の永遠の少女

Y 経験値が少ないのだろう。パー子さんみたいなのかな。天然のお姫様。

S 鴎外の娘だから特別扱いされているということだろうけれど、この60年代の文士を見るとかなりの部分が二世ではないか。北杜夫とか萩原葉子とか。とくに文豪の娘という呪いがある。太宰の娘二人も、井上荒野とか、朝吹登水子とか。

 「父親の名が重荷で苦しいなら、書かぬがよかろう」という漱石の言葉をわざわざ引いている。つまりそういうプレッシャーを負ってなお小説家となって書いていることに私は脱帽する。60年代の文士は、命賭けて文学をしている、そのために一生を棒に振るという風にものを書いている。そういう文士に匹敵するエネルギーが文豪の娘の呪いにはある。

 そういう相互理解が60年代の文士にはあったのでは。たとえば60年代文士は自殺する。川端も三島も、江藤淳も、最近の西部も。70年代になると作家の自殺は流行らない。職業になってしまった。

K 一行でも書けるかも知れないから家に帰ると言っている。

Y 私たちは上から目線で鴎外の娘のお嬢様芸と見てしまっている。それを逆手にとって書いている。

S 吉行淳之介がどんなにエロ小説といわれようと、一行でも文章が残ればそれでいいというところで文士をやっている。他人の苦しみを自分の苦しみと感じられるという共感能力を手がかりにして、七転八倒いろいろやってみる。そういう文学の時代が終わった。

Y 暗くなるとどんどん暗くなって、これ死ぬなというところまで追い詰められる。文士たちは、それを純度の高い文学と考えていた。そのあと、薄っぺらーい幻想物語を好むようになっていく。

S 70年代は過渡期で、何が可能性になるか分からない。

Y 70年代以降だと、映像やアニメが主導権をとる。

K テレビが普及した。

サブカル化】

S 30分早く着いた森茉莉は、三島がお父さんの声をしているのを聴いている。子どもに注意する日常の言葉を、あの三島由紀夫が発していることを拾っている。三島はいやだったろうなあ。

Y アニメが薄っぺらいというわけではないのだけれど。

S アニメの表面的なところ、形だけの所に、そこにすべての表現はなければならない。深層とか心の奥底に表現の根拠があったが、アニメはそうではなく表面だけで表現を実現しなければならない。もともとアニメは表面しかないのだから、裏はない。60年代には裏に本物がある心があるというつもりででやっていた。

K 内面だの上から目線だの、神の視点から小説が成り立っていた。それで神もなくなった?

S 神はもともといなかったけれど、表面だけの時代に、神が復活してくるんじゃないか、そこに天皇が復活してくる。三島も深沢も、この60年代に天皇が出てくる。そのあと1980年代の麻原のような偽の神が出てくる、成功しなかったけれど。そういう神としての天皇の必要に対して、平成天皇は人間的すぎたのでは。

Y 三島と一緒に心中してしまった。

S その路線とは別に、三島は、先回に見たように腐女子の創作でアニメ時代を拓いている。

Y サブカル的。二次元化を果たす。

S 男流だと三島がサブカル化しているけれど、女流は、特に文豪の娘たちはサブカル化していない、文士の純血統を継いでいる。

Y 重くて暗い。

S にもかかわらず、森茉莉サブカル化している。至って素直に地でサブカルであることがすごい。

 三島の奥さんをベッティーちゃんと呼んでいるのが、サブカル化のよい例でしょう。アメリカアニメの主人公。

S 「フランス、ヴェルサイユ風にして且又イタリア風の邸宅を構え、ローマから引っ張ってきた、白に輝くアポロンの像の下の、北斗七星を型どるモザイクの上をそぞろ歩く」というゴタ交ぜぶりは、これはつまり少女漫画のどこでもない西欧の表現でしょう?

K 三島邸の悪口。

Y 谷崎潤一郎の幻想王国を作るときの描写とそっくり。

S その通り、そうです、谷崎の「金色の死」で遊園地を作る、西欧への憧れのところが全く重なる。三島は世界一周旅行へ行って実際にヨーロッパを体験している数少ない人だったが、実景のヨーロッパではなく、幻想のヨーロッパ、想像のヨーロッパが大切。その幻想のヨーロッパを受け継いだのは少女漫画。

Y 異世界ものとか、電撃文庫ラノベが描く、ヨーロッパ風だけれどヨーロッパではない世界の源泉がここにある。

S 「ようだ」という問題。

Y それそのものではないけれど、幻想だよという。アラン・ドゥロンのあたり。

S ヨーロッパの偽物ではない「ようだ」という世界を描く。

K 変な大人ぶり、知的なものが本物だと。

Y 何だかよく分からないヨーロッパを描く。それがラノベとして書きやすい。

S サブカル化したヨーロッパ、サブカル化した幻想のヨーロッパ。これが谷崎、三島、森茉莉とつづくサブカル路線。

 下町で書くと、懐かしい夏休みの世界になってしまう、異世界や幻想世界にはならない。

【キャラクター】

S こちらは作家のペンネームがそのまま出ている。作家の名前自体がキャラクターだということだろう。森茉莉にはサブカルへの確信がある。

Y キャラクター化させない気がする。現代のなかで消化しきれないものを、サブカル化することで人々に許容させはじめたということかな。

S 作家の名前とはキャラクターであると。文学ストレイドッグスというような作家がキャラクターになっているマンガがあるが、森茉莉はここですでにしている。

 室生犀星は、コチコチに固まっている。これ以降室生犀星というとコチコチしか思い浮かばない。三島というと写楽の目としか思わない。岡本太郎は百足としか。この人それでいて作品は全然読んでいない。北杜夫の幽霊なんか全然読んでないと書いてある。つまり60年代文士の小説って面白くも何ともないと言っている。

 自分のサブカルの方が人物を余程よく捉えていると。キャラクター化がこの人の方法。

Y 小説に対して二次創作して、そのほうが面白いと言っている?

S ラーメンの例のように、60年代文士の言葉にはとても力がある、喚起力がある、それなのに書いているものはものすごくくだらないと言っている。

K 日本の近代文学は暗くて辛気くさい。そのころ、どくとるマンボウシリーズは読んでいた。

S うーん、そういえば、純文学の一方で、第二分身でエンターティメントを書いていた。純文学北杜夫、エンターティメントどくとるマンボウ

Y キャラクターというと「吾輩は猫である」の猫もキャラクターですね。

S うん、今で言うと現場猫まで脈々と。元祖キャラクター化が「我が輩は猫」。すべての近代小説は漱石にはじまる。60年代文士のサブカル化で卒論のテーマになるんじゃないか。

K 三島も純文学とサブカル小説を書いている。

S ホモセクシャルも、このサブカル第二分身の一つだったのかな。