『月の客』 その2

【ラザロ】

S それから、もちろん生と死が融合している。

K イエスが呼ぶとラザロが復活した。ラザロがいるところにはイエスがいるということらしい。

S ラザロ=イエスではないの? ラザロの居るところイエスがいる。そしてイエスは復活したからイエスなんでしょ、そうすると復活したラザロはイエスでしょ?ラザロはなぜ復活したの?

Y 聞いたところではラザロはラザロで、イエスの弟子であって、イエスとは別です。

K 本文でも、「てか主て誰/イエスさん?/あれは、主/ちゃうな・・・主イエスキリスト/ていうもんな」(p.144)というような問答がある。

Y なぜラザロの名をわざわざ出したのか。復活の象徴がラザロだから、ほかの日本宗教ではあまり見当たらないから。作品の中で神を出して、神の思想の中に復活というキーワードを入れたいから、キリスト教が選ばれたのかなと。

K 宇宙の作り手としてキリスト教の方が地方性が少ない? 復活は、「もうしばらくはこのまま続く」という終わりと繋がっている。災害によって死滅することなく、復活後も生命が続いていくということかと。

S ラザロはイエスの人間化した姿、より人間的なイエスということにならないかな。普遍と特殊でいうと、ラザロという特殊であるとともにイエスという普遍にも繋がっている。それでラザロを出してきている。

 もともとイエスは神と人間の間の存在。ところがイエスがどんどん偉くなって、神になっていくと、より人間に近い存在が必要になる、それがラザロではないか。

 イエスは、神という普遍と人間という特殊を結びつける存在、神と人間の半々の人、普遍と特殊が一致する神。『ルンタ』でも半分の人、半々に分け持つ人が出ていた。

S そのほか男と女の融合がある。喜一とラザロが男と男でどうして子どもが出来ないのかと言ったり、男と女の性器を両方もっているというのがある。

【月の客】

H 語り手が交代していって誰が語っているか分からなくなる。この語り手の交代が題名と関係しているのではないか。

去来抄』に、岩鼻やここにも一人月の客という俳句について、月の客が誰のことか芭蕉と議論になったという。岩鼻に先客が居て、ここにも一人月の客がいますよという句であるか。芭蕉は、いろいろなところで月を見ている客がいて、この岩鼻で月を見る私もその一人だという方が、理解が広がると言った。

 月の客がいろいろな人に読めるというのが、語り手が交代するというのと呼応しているのだと思う。たくさんの月の客という普遍と、この岩鼻の月の客である私とが、たがいに交代して読み換えることが出来る。

S 普遍と特殊の一致の原型が芭蕉にあるという発見だね。

 ただ、語り手が変わるというのがよく確認できない。たとえば、サナのところははっきりサナの番だと言って語り手が交代している(p.36)。このサナは見出しだと思って見ていたのだけれど・・・

K 3行空けているから見出し?

S 4行、5行あいているところもあって、つまり本文と見出しの区別がない書き方をしているのかも。「穴の底にいる」というのも一瞬見出しのような気がした。

Y 映画監督と登場人物が同軸で一貫化するような。

S サナのところだけは少し特殊で、「私の番やね」というのが、死者の語りではないかな。死体がたくさんある中で、今度は私の番だねと言って、自分がどう生まれて死んでいったかを語っているような。

 マッサンのところはマッサン自身が語っているというのではなく、これもトシの語りになっている。

 マッサンというのは震災のあとで復興して工場を再開してそして死んでしまう。切ない、涙なしにはこの小説は読めなかった。迫って来て逃れられない、自分もその一人だという思いがして、涙を禁じ得ない。

 一人一人は無念のまま死んでいくしかない、しかし、誰かが生き延びて生きていく、これは希望の書き方でもあると思う。

Y 167ページの男が来た女が来たが延々と続くところ。今まで一人一人がクローズアップされてきたのに、一気にここで無名の人々の量に圧倒されました。

S これ津波を逃れて逃げていく人、あるいは死んでしまった人々がざくざくと歩いている。車の音がするというのも、車を連ねて逃げる人々の後を津波が追いかけるというのを思い出させた。