清風読書会

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『月の客』 山下澄人 2019年9月初出、2020年6月10日刊 20201114読書会テープ

【はじめに】

  1996年に初演された野田秀樹の『赤鬼』2020年版が公開されているので、最初の方だけ見ていたのだけれど、20年ぐらい前の『半神』と比較して案外だった。『半神』は萩尾望都の漫画が原作で、1886年に初演されているから、初演で言うと10年の差がある。

 台詞が短く、ことわざのようになってしまっていて、かつ、あまりよく聞こえない。抽象度の高い文章語を機関銃で頭の中に叩き込まれるような明晰な台詞はどこへいってしまったのだろう?という印象をもった。もしかしたら台詞が劣化している?

  山下澄人もまた富良野塾という演劇集団出身で演劇から小説へ移ってきた。演劇の言葉とは異なる使い方を小説で試みているようだ。同じように、台詞は短く、言葉は壊れている。しかし、これは劣化ではないだろう。では、どういう小説言語かという問いを提起しよう。

【普遍かつ特殊】

Y 私、山下澄人の他の作品をまだ触ってないので分からないんですけど、これが最新作なんですね。日本語の設定自体を、そもそも日本語が不自由な人たち、教育に恵まれなかったとか、人とコミニケーションを避けるように生きてきたような人たちが主役であるからこういう喋り方をするんだよっていうふうな感じに見えた。これが山下澄人が書ける日本語ってわけじゃないからねみたいな。

 演劇にしても小説にしても、できるだけ言葉を短く、簡単に、誰でもわかるようにっていうのは結構3 、4年くらい前から言われている流れで、それに合わせた作品。だから、フィーリングで読めばいいのかな、エモいとか。

S 出ましたフィーリング。

 もう一つの提言として、『月の客』は東北大震災の9周年、弔いの書だと思う。地震があるでしょう?

Y 東北大震災とは思わなかった、関東大震災かなと。それには理由があって、お腹が膨れて、血を吐いたり、お腹が痛いと言っていて、不衛生な状態で、その症状って何かというと、腸チフスだろうと教えてもらって、チフスは昭和の初期から戦後にかけて流行したとあるので。

S 震災は、関東大震災に特定してもよいし、震災一般として考えてもよい。

K 関西弁だから神戸大震災かと。

S そのお腹が膨れて血を吐くというのは、広島の『はだしのゲン』を思い出させないか?

Y 小学校の時に全部読んだのですが、それを読んでいたから戦後の印象があったのかも知れない。

S 食料がなくてお腹が膨れるというのは、日中戦争での兵士、あるいはもっと古典では小野小町の九相図がある。

Y 腸チフスについてですが、みんな同じようにお腹が痛いといって死んでいったので、感染症じゃないかと思ったのです。人から人へ感染した。

K 感染のわりには、ずいぶん時間が経っている。

S 感染したという風には思えなかった。それとは別に細菌という言葉が出ていて(p.139)、マッサンのゴム工場のあと。これが現今のコロナヴィールスの反映かなと。

 東北大震災9周年と私は特定したけれど、関東大震災でもあり、戦後でもあり、神戸大震災でもあり、コロナ禍でもある。普遍と一回一回の特殊が同じものとして扱われている。普遍と特殊が一致してしまうという書き方が特色だと思う。これがこの小説の書き方。

Y どの世界でも通用する、

S でも、その細部を見ると、私が経験したあの混乱。

H  震災にも戦後にも読めるというのは、この文体でないと書けない。この場面はここの話でというような棲み分けをちゃんとしない書き方、いろいろなものが同時に入ってくる。

S 普遍と特殊が一致する書き方、いろいろなものが融合している書き方。まずは時制の例。「た」と「る」は、簡単に言うと過去と現在、それが同時に使われる。

K 「た」と「る」が同時に使われているところが何度もあった。同じ事が何度も繰り返されるということでしょうか?

S それだと過去と現在が区別されて反復されていることになってしまう。そうではなくて、例えば、「ここからはじまる、はじまった」(p.4)というように、同時に「た」と「る」が使われる。

Y 並列されて、言い直されているところですね。

S 過去と現在の区別をなくする書き方。はじまると書けば、現在のことを言っていることに確定してしまう、はじまったと書けば過去のことを言っていることに確定してしまう。だから、はじまるもはじまったも区別がないから、並列して書かなければならない。過去のことは現在であり、現在のことは過去である。区別をなくす書き方。

 ほかにも、死ぬ死なないというように正反対のことを並列する書き方がある。

Y 雪の町だった、雪の町ではなかった(p.94)。思い出している過程を書いている?

S これどちらでもいい、私たちは区別して、分類してちゃんと覚えておこうとするけど、この文章は、それを区別させないように書いている。

Y どの街でもいけるように、誰の記憶にも寄り添えるように。

H だから普遍と特殊が混ざる。

S そういう書き方でしか、あのような大量の死者たちを弔うことができない。大量の名もない死者だね。誰か特定の人が死んだということを弔うなら特殊な例だけでいい。ところが非常に大量の人が死んだという場合には、それでは済まない。何か手法が要る。つまり、特殊と一般が一致しないと弔えない、書けない。

 ほかにも、ものと人が融合する書き方。例は?

Y 毛布と自分。熱が出たときには、毛布と一緒になって熱で溶けていく。

K 鏡に映ったソファー。

S 融合の例は、ほかにも、動物と人間の区別がない。

K 犬少年の犬の言葉がほかの犬にも通じている。

S 犬の骨を食べる。トシが犬の顔になる。蛇と女。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川端康成 「散りぬるを」 20200927読書会テープ

【はじめに】

「片腕」を三島由紀夫が絶賛しているので、新潮文庫の『眠れる美女』を購入したが、その中で「散りぬるを」(1933)がもっとも面白かったのでこれを取りあげることにした。代表作の「雪国」(1948)よりかなり早い戦前の同人誌時代の作品。ノーベル文学賞受賞は1968年。

 5年前に殺人事件があって滝子と蔦子という若い女性が殺される。二人は作家の内弟子になって二人で一軒家に住んでいた。滝子は艶麗な23才、蔦子は清麗な21才、ともに文学に志があった。山辺三郎という近所に住む25才の男が二人と顔見知りで、ある晩二人を訪ねて来て話し込み殺してしまう。理由はよく分からない、冗談で驚かそうとするうちに殺してしまった。その三郎も昨年獄死してしまった。当時34才だった作家は、二人のうちどちらをより愛していたとか妄想をたくましくしていたが関係はない。三郎も二人のどちらとも性的関係はなかった。その殺人事件を作家が調書や精神鑑定書などを引用しながら再構成した作品。

 1924年に雑誌「文芸時代」を川端康成(1899~1972)とともに発刊した中河与一(1897~1994)という作家がいる。代表作は「天の夕顔」(1938)、人妻への愛を生涯にわたって抱き続ける青年のきわめてロマンチックな恋物語。また、中河は、1935年に新聞に発表された「偶然の毛毬」からはじまる偶然文学論の論客であったが、川端の「散りぬるを」(1933)は、この偶然文学論のごく近いところで執筆されたものと推測される。ハイゼルベルグの量子物理学にもとづいた中河の偶然論の評価はあまり芳しくないようである。その後、中河は国粋文学へ傾倒してゆく。一方、晩年の川端は、1971年の東京都知事選で自民党推薦の秦野彰を応援して選挙カーに乗って演説までするが、ストップ・ザ・サトウを掲げる美濃部亮吉に大敗。翌1972年、ガスホースを咥えて自殺する。

【偶然の殺人】

 

 

 

フローベール 「ヘロディアス」 20200913読書会テープ

【はじめに】

 使用した本文は、『三つの物語』、谷口亜沙子翻訳・解説の光文社古典新訳文庫

サロメ

S さて、どこがなぜ分かりにくかった?

K キリスト教誕生の頃のユダヤ史やローマの支配について知識がないから、分かりにくい。こちらから見るとどの登場人物もユダヤで、それほど区別があるとは思えない。

S 解説によると、ユダヤキリスト教関係の知識を知らないことはこの小説を読むことにさほど問題にならないという。こういう解説ははじめてで、フローベールの読み方としてとても優れているんじゃないかな。注もつけてよいかつけない方がよいかを熟考している。

K 背景を知らないから分からないのではなく、小説そのものを読めていないから分からないというのがはっきりする。

S 私たちは先回「エミリーの薔薇」を読んでいるから、読みやすくなったのでは。エミリー自身はほとんど語らず、語ったとしても伝聞でしかなく、まわりの人々によって事実とも嘘ともつかない噂話として出来事が開示される。

Y サロメがなぜ出てきて、何のためにヨカナーンの首を望んだかも分からない。

K 指を鳴らしてヘロディアスがサロメに合図した。それで何を要求するかを決めた。この経緯によって、ヨカナーンの首が欲しいというのが母親の命令であると想像できる。「娘は上へとあがってゆき、再び広間に姿を現した」とあって、母ヘロディアスがそこにいると考えられるから。

S サロメの意志ではなく、黒幕はヘロディアスであることがこれで分かる。では、そもそもなぜヘロディアスはヨカナーンを殺したいのか?

Y ひどく呪われたということがある。

K 罵詈雑言を翻訳して2回聞かされたとある。

Y  ヘロディアスの望みは王となることで、そのために国を捨て、夫も娘も置いてアンティパスのもとに来て、アンティパスにトップをとってほしいのだが、アンティパスは幽閉している預言者カナーンを持て余しているので、預言者がじゃまで消したいと思っていた。

K ヨカナーンが民衆の心を集めているということがある。

 【マカエラス要塞】

S 基本対立を確認しておくと、場所は死海の東方にあるマカエラスの要塞で、イエメンの方からアラブの軍勢が迫っている。その要塞の領主ヘロデ・アンティパスは、ローマの支配を頂いており、シリアのウィテリウスの援軍を待ちかねている。それから、アンティパスはアラブの妻を離縁して、兄の妻だったユダヤの名門の娘ヘロディアスを妻とした。さらに、ユダヤのさまざまな宗派の人々がいて、そのなかの一人がヨカナーン

 王の称号をそれぞれ皆ほしがっていて、この四分領主というアンティパスの称号が意味深い背景になっている。アンティパスよりさらに欲しがっているのはヘロディアスで、さらにもう一人アグリッパという名前だけ出ている弟もいてこれも王の称号を獲得することを望んでいる。

 こういう地上の権力争いの座標軸に並んで、キリスト教の誕生という宗教的座標軸がある。

 これらの人々の区別の指標の一つとして偶像崇拝がある。アラブは偶像崇拝をしない。ユダヤキリスト教はどうだろう? アンティパスは偶像崇拝を受け入れたとあり、これがアンティパスの特色となっている。

K アンティパスの偶像崇拝はローマの習慣で、ローマとユダヤとの間をとりもつことになる。盾にローマの皇帝の像があった。

Y ユダヤ教偶像崇拝はしないし、キリスト教もいろいろあるが基本、偶像崇拝はしない、禁止されているらしい。何かを神としてあがめるのはキリスト教でもだめだということらしい。

S ユダヤ教からキリスト教が分かれるときに、例えば偶像崇拝が微妙な差になる。アラブとローマとは明らかに偶像崇拝がその目に見える差異になっている。ローマの多神教の神々が、キリスト教に塗り替えられていく。

 ユダヤ教はどうしてローマを支配できなかったのだろう? キリスト教がイエス一人でそれをできたのはなぜだろう?

K ユダヤ教はいろいろな宗派が分かれて牽制しあっている。キリスト教の方が多くの人に共通するものをつかまえられたのではないか。

Y ユダヤ人は偉大な預言者を待っていた。それを知らせるのがエリア。エリアは一番偉い預言者で、ヨカナーンがその預言者だと指名したので、それで一挙にキリスト教へ向かっていたといわれている。

「あの方が出るためにはこの身は衰えなければならない」とヨカナーンは言っている。自分が死ぬことによって、あの方の繁栄が可能になると言っている。

S とすれば、ユダヤ教に対してキリスト教が優位をもってローマまで支配していくのは、ヨカナーンが死ぬこと、殺されること、犠牲者の血によって成立しているのではないか。このことがキリスト教に特有の優位性であり特異性であり、ユダヤ教との違いになる。

 イエス・キリストもそういう犠牲者として神と人間の間に立つ人。だから、ヨカナーンによって行われた犠牲を、イエス・キリストがそれをもう一度繰り返すことによって教えが確実なものになったのではないか。ヨカナーンとキリスト、それは一つのことで、この犠牲は、たぶん三位一体のおおもとの形式。

 ヨカナーンが死ぬことによってはじめてキリスト教が成立するし、キリスト教ユダヤ教と異なる宗教として成立する。だから、ヨカナーンはどのようにして殺されたのか、どのように死ぬことになったかということが問題の焦点になる。

 アンティパスはヨカナーンを殺したくなかった、ところが、いろいろあってヨカナーンを殺すことになった。その逆説によってキリスト教を成立させてしまった。アンティパスがやろう、やろうと思っていたことがみな裏目に出て、裏目に出ることによってキリスト教が成立してしまった。することなすこと裏目に出るというのがアンティパス。アンティパスは優柔不断だし、ヨカナーンを殺すのは怖い。

K アンティパスはあとで夜中に一人で泣いている。預言があって重要な人が死ぬといわれていた。 

S アンティパスはなぜ泣くか?

K ユダヤ人の伝説にひかれていたのではないか。ユダヤの伝説が実現して、自分はそれには関わらなかったということ?

S 政治的なメシアとしての自分は何の役割も果たすことなく、精神のメシアとしての「あの方」が意味を持っていくというを自覚したということ?

Y ヘロディアスはどうするか、このあとたぶんアンティパスを捨てますよね、そうすると、トリガーを引いたのは自分だ、あとは自分は落ちていくだけだという涙では。

S 何か大きく歴史的な重大なことが動き出してしまったというのは分かるけれど、どこが、誰が、なぜと考えていくと、直接書いてくれないから予想するしかない。

K ヘロディアスはヨカナーンを殺すことで民衆の動きを自分の思うとおりにできると考えていた。アンティパスは地上の権力にそれほど信用していなかった。

S ヘロディアスは近代人なんだね。地上の権力を信じている。

S ところがキリスト教は奴隷の宗教、弱者の宗教と言われるけれど、王より力をもってローマを支配していく。この逆転がもっとも劇的なキリスト教の逆説のハイライトで、これは私たちには実はよく分からないのかも。西欧世界の根源に、この逆転があるということが分からない。だから日本だと弱者はそっと始末されてしまう。

Y 彼がヨカナーンを殺さなければキリスト教が確立し得なかった。

S そうしないと、そのうち懐柔されて、おだてられて、うまく権力とやっていくことになる。

K 権力側にとりこまれる。

Y 隠蔽もできず。

S サロメの踊りが妖艶で、全員よだれを流して見ていた。そういう人間的欲望に動かされたのがアンティパス。欲望に忠実に動いてしまったというところに小説の主人公の資格がある。王様たちはみなそうで、吐いては食べるとか、みな欲望に従順、これはローマのデュオニソス、快楽主義の系統ではないかな。禁欲的なヨカナーンキリスト教との対立点になる。

 フロベールは恐ろしい作家だね。小説の丈の高さ、スケールの大きさ、人間史とか人類史にとっての重要性というテーマ設定の深さ。このマカエラスの要塞というのは今のパレスチナのあたりでいいかな。

 【ワイルドのサロメ

Y サロメはヨカナーンに恋していて叶えられないから首を求めたというオペラの方が自分の知ってる話。

S それはオスカーワイルドの「サロメ」。ビアズレーの首にキスをしている挿絵で有名。今考えるとワイルドの書いているのはロマンスで、私たちはロマンスの方がずっと理解しやすい。フロベールは、ヘロデ王サロメに恋をしていたとかいうような心情とか情を一切書かずに、歴史そのもの、歴史の大状況を書くところが格が違う。

 サロメがヨカナーンの首を得たことで歴史が動かされてしまう。

 最初に確認したように、サロメは無邪気にそれをやっている。母の意志をうけて、意味もなしにそれをやっている。そういう意図しない偶然が歴史を動かし、それがキリストを成立させてしまうというのは、まさしく歴史の偶然性を描くということ。

Y アンティパスはたぶん何もしない、できなかったはず。それで、歴史上何も起こらなかったこともあり得た。

S そうすると西欧のほとんどのものが生まれなくなる。人権も福祉も。

 本文で、ローマの役人から何か宝を隠しているのではと疑われて、じつはヨカナーンが隠されていた。そうするとヨカナーンキリスト教は西欧の宝ということになる(あとから見てそうなる)。アンティパスは隠していた馬を取られることを心配している。みんな、少しずつズレた悩みで動いている。

Y 意図していない中身とずれた悩みで、歴史が動いてしまう。運命のように。偶然は必然といわれているしなあ。

S 歴史は偶然なのに、それを書く小説は必然でなければならない。この小説を必然として納得するためには、そうとう推測を重ねなければならない。本文から根拠を取り出しにくい。

Y いわゆるフラグが立っていない。

S これは小説としてはまずい書き方になる、どんなに読者が頑張っても根拠が決定しきれずに、何か分からないものがいつも残ってしまう。この一見まずい書き方が、歴史の偶然を必然の小説として書く方法なんだと思う。

Y 最後の3行で逆転するようなのは、作風なんでしょうか。「あの方が栄えるためには」という台詞が最後に書かれている、この言葉がないと、殺されたことがキリスト教繁栄の引き金になったというのが分からないだろう。

K この台詞は前にも出てきた。予定調和ではない書き方。

S 2度繰り返されているので、これがフラグだと分かる。だから最後にヒントを示したということではないかな。最後でひっくり返すというより、最後にヒントを示したのだから、読者はよろしく考えて読みなさいと。

S フロベールは心情ではない書き方をしている。20世紀になると心理学が出てきて、小説が登場人物の心の中をつらつら書いてしまう。フロベールは心情を一切書かないから、読者がそれを考えなければならない、小説の最盛期はやっぱり19世紀なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

予定

8月8日 降誕祭のパアティ 森茉莉

8月23日 エミリーへの薔薇 フォークナー

9月13日 ヘロディアス フロベール

9月27日 散りぬるを 川端康成

10月4日 掌の小説 川端康成 はじめの6編

10月18日 月の客 山下澄人

     人生は驚きに充ちている 中原昌也

森茉莉「降誕祭パアティー」「文壇紳士たちと魔利」  読書会テープ20200725. 20200808

【はじめに】

 両作品は、2001年に刊行された電子ブック『贅沢貧乏』(新潮社)に収録されている。『贅沢貧乏』は、1963年5月に新潮社から単行本として刊行され、1978年4月に増補されて新潮文庫に収められた。初出は、「降誕祭のパアティー」が1964年5月、「文壇紳士たちと魔利」が1962年9月。前者の録音テープは、保存に失敗したので概要だけを示すことにする。

 森茉莉腐女子の先駆ではないか? 

 1,マリアや魔利と自称することによって自己の二次元化がはかられている。登場する作家には、容易に実名(ペンネーム)を言い当てることができるような変名を用いている。実在する作家を、リアリズムで描くのではなく、キャラクターとして描こうとしたと思える。

 2,第三の新人と呼ばれた、吉行淳之介安岡章太郎遠藤周作を背景にして、三島由紀夫を白蛇の精として際立たせている。第三の新人の特色が身の回りの平凡な出来事を描く私小説であるとすれば、三島由紀夫はエジプトへ行きアラビアの砂漠で女王を咬んで、地球にやってきて少年の時にその白蛇に食われてしまったと森茉莉は書く。私小説作家たちの日常平凡ではなく、もはや地球ですらない、どこにもない空想の西欧・中東世界。これは、少女漫画が繰り返し書いてきた、ここ日本ではなく、ヨーロッパですらない、どこでもない場所を思い出させる。

 白いギリシア彫刻を据えたアメリカンな屋敷という混乱した三島邸を偽物として指弾するのではなく、どこにもない空想の外国として見出すのは、森茉莉の少女漫画センスである。

 3,同じように、森鴎外の愛娘として観潮楼で催された歌会や竹柏会園遊会で主役として注目された華やかな記憶があり、何をどれほど書こうが、大作家の父を絶対の基準とした娘芸に見えてしまうのであるが、森茉莉はどこでもない空想の園遊会を自分の筆一本でささえている。下妻物語や飛んで埼玉に描かれていくような、少女漫画が作り出したどこでもない場所こそが森茉莉の小説にもっとも近いのではないか。森茉莉の小説は、その先駆あるいは共振と思われる(少女漫画が先だろう?)。

【意識の流れ】

Y 狐に化かされているような。日本語を読んでいるはずであるのに、頭が溶けてしまいそうな。

S これは日本語だろうかというような。

K ナメクジだと言っている。

S 三島由紀夫は1970年に自決して、川端康成も死んでしまうし、深沢七郎は1987年73才まで生きているけれど、「風流夢譚」(1960)事件があって、そのあと1965年まで身を隠して逃亡生活をしていた。事件のあと深沢はいわば社会的に死亡させられている。

 つまり、70年代に入ると近代が終わってしまったポストモダンという感じになる。60年代にはまだ近代が現役で生きていた。何が近代かというと、文壇があって、小説家は偉くて、文化の担い手であるという自負をもっていた。1900年のはじめにトルストイが新聞に書くと世界中の人が読む。小説家とか文豪が文化を牽引していた。この森茉莉の「文壇紳士」は、現役の近代文学者、60年代の記録ということになる。

S やたらと読みにくいのは、無意識に自由間接話法になってしまっているから。

K 自分で無意識と言っている。

S 例えばラーメンの話がある。北杜夫が夜中のラーメンはかくも旨いというのを書いていて、森茉莉はラーメンなど大嫌いで、そもそも食べたことがないんじゃないか、それにもかかわらず北杜夫の言葉に共振してラーメンは旨いとなってしまう。他人の感覚への同化能力の高さ、それによって、森茉莉の文章は自然とそのまま自由間接話法になってしまう。

 共感能力が高すぎて普通の生活ができないタイプの天才=今だと特異な能力のある発達障害というのかな。

 池田満寿夫岡本太郎も三島もそういう天才タイプ。それがこの小説では、第三の新人の凡庸さに対比されているようだ。

 深沢七郎は、天皇タブーの話になりそうだがそういう話にはならない。それはなぜだろう? 60年代の天皇タブーは今よりもっと激烈なところがあったが、70年代になると変質してもっと軽くなっていく。深沢はどう書かれているか? 

Y  深沢は、あなたに言われたくない、君も相当面妖だと言いそう。褒めてるのか貶しているのかはっきりしたらいいと思うが。

S 「・・・右翼の動き云々の話は全く気の毒」と言っている。政治的問題一色になっていたはずの深沢を、それとは違う書き方で書いている。

Y マリアが招待状を読んで間違えたとある。

K 熱心に見て間違えた。

S 招待状をよくよく見ていると、見過ぎて間違って30分早く到着してしまう。

S 自己中の文章を読んでいやになるのでしょう。昔、観潮楼で小さな女王様の役割をして、その習慣が今も続いている。それを私たちは、とても読んでいられないということでしょう。

K 当然自分が写真に写ろうとして、そう思われたらいやだとも思う。

Y 文壇にちやほやされた女王様の文章はもういいですっていう感じ。あなたの付き人ではないですと。偉い人の知り合いなのよと言っているわりに実はそうでもない、読んでいると腹が立つと。卑下しているのが鼻につく。

S ところが今回読んでみると、すべてのものが相殺されて、卑下慢とかいやな感じが一切ない。それはなぜだろうと。 

K 違う世界の人だから。63才の永遠の少女

Y 経験値が少ないのだろう。パー子さんみたいなのかな。天然のお姫様。

S 鴎外の娘だから特別扱いされているということだろうけれど、この60年代の文士を見るとかなりの部分が二世ではないか。北杜夫とか萩原葉子とか。とくに文豪の娘という呪いがある。太宰の娘二人も、井上荒野とか、朝吹登水子とか。

 「父親の名が重荷で苦しいなら、書かぬがよかろう」という漱石の言葉をわざわざ引いている。つまりそういうプレッシャーを負ってなお小説家となって書いていることに私は脱帽する。60年代の文士は、命賭けて文学をしている、そのために一生を棒に振るという風にものを書いている。そういう文士に匹敵するエネルギーが文豪の娘の呪いにはある。

 そういう相互理解が60年代の文士にはあったのでは。たとえば60年代文士は自殺する。川端も三島も、江藤淳も、最近の西部も。70年代になると作家の自殺は流行らない。職業になってしまった。

K 一行でも書けるかも知れないから家に帰ると言っている。

Y 私たちは上から目線で鴎外の娘のお嬢様芸と見てしまっている。それを逆手にとって書いている。

S 吉行淳之介がどんなにエロ小説といわれようと、一行でも文章が残ればそれでいいというところで文士をやっている。他人の苦しみを自分の苦しみと感じられるという共感能力を手がかりにして、七転八倒いろいろやってみる。そういう文学の時代が終わった。

Y 暗くなるとどんどん暗くなって、これ死ぬなというところまで追い詰められる。文士たちは、それを純度の高い文学と考えていた。そのあと、薄っぺらーい幻想物語を好むようになっていく。

S 70年代は過渡期で、何が可能性になるか分からない。

Y 70年代以降だと、映像やアニメが主導権をとる。

K テレビが普及した。

サブカル化】

S 30分早く着いた森茉莉は、三島がお父さんの声をしているのを聴いている。子どもに注意する日常の言葉を、あの三島由紀夫が発していることを拾っている。三島はいやだったろうなあ。

Y アニメが薄っぺらいというわけではないのだけれど。

S アニメの表面的なところ、形だけの所に、そこにすべての表現はなければならない。深層とか心の奥底に表現の根拠があったが、アニメはそうではなく表面だけで表現を実現しなければならない。もともとアニメは表面しかないのだから、裏はない。60年代には裏に本物がある心があるというつもりででやっていた。

K 内面だの上から目線だの、神の視点から小説が成り立っていた。それで神もなくなった?

S 神はもともといなかったけれど、表面だけの時代に、神が復活してくるんじゃないか、そこに天皇が復活してくる。三島も深沢も、この60年代に天皇が出てくる。そのあと1980年代の麻原のような偽の神が出てくる、成功しなかったけれど。そういう神としての天皇の必要に対して、平成天皇は人間的すぎたのでは。

Y 三島と一緒に心中してしまった。

S その路線とは別に、三島は、先回に見たように腐女子の創作でアニメ時代を拓いている。

Y サブカル的。二次元化を果たす。

S 男流だと三島がサブカル化しているけれど、女流は、特に文豪の娘たちはサブカル化していない、文士の純血統を継いでいる。

Y 重くて暗い。

S にもかかわらず、森茉莉サブカル化している。至って素直に地でサブカルであることがすごい。

 三島の奥さんをベッティーちゃんと呼んでいるのが、サブカル化のよい例でしょう。アメリカアニメの主人公。

S 「フランス、ヴェルサイユ風にして且又イタリア風の邸宅を構え、ローマから引っ張ってきた、白に輝くアポロンの像の下の、北斗七星を型どるモザイクの上をそぞろ歩く」というゴタ交ぜぶりは、これはつまり少女漫画のどこでもない西欧の表現でしょう?

K 三島邸の悪口。

Y 谷崎潤一郎の幻想王国を作るときの描写とそっくり。

S その通り、そうです、谷崎の「金色の死」で遊園地を作る、西欧への憧れのところが全く重なる。三島は世界一周旅行へ行って実際にヨーロッパを体験している数少ない人だったが、実景のヨーロッパではなく、幻想のヨーロッパ、想像のヨーロッパが大切。その幻想のヨーロッパを受け継いだのは少女漫画。

Y 異世界ものとか、電撃文庫ラノベが描く、ヨーロッパ風だけれどヨーロッパではない世界の源泉がここにある。

S 「ようだ」という問題。

Y それそのものではないけれど、幻想だよという。アラン・ドゥロンのあたり。

S ヨーロッパの偽物ではない「ようだ」という世界を描く。

K 変な大人ぶり、知的なものが本物だと。

Y 何だかよく分からないヨーロッパを描く。それがラノベとして書きやすい。

S サブカル化したヨーロッパ、サブカル化した幻想のヨーロッパ。これが谷崎、三島、森茉莉とつづくサブカル路線。

 下町で書くと、懐かしい夏休みの世界になってしまう、異世界や幻想世界にはならない。

【キャラクター】

S こちらは作家のペンネームがそのまま出ている。作家の名前自体がキャラクターだということだろう。森茉莉にはサブカルへの確信がある。

Y キャラクター化させない気がする。現代のなかで消化しきれないものを、サブカル化することで人々に許容させはじめたということかな。

S 作家の名前とはキャラクターであると。文学ストレイドッグスというような作家がキャラクターになっているマンガがあるが、森茉莉はここですでにしている。

 室生犀星は、コチコチに固まっている。これ以降室生犀星というとコチコチしか思い浮かばない。三島というと写楽の目としか思わない。岡本太郎は百足としか。この人それでいて作品は全然読んでいない。北杜夫の幽霊なんか全然読んでないと書いてある。つまり60年代文士の小説って面白くも何ともないと言っている。

 自分のサブカルの方が人物を余程よく捉えていると。キャラクター化がこの人の方法。

Y 小説に対して二次創作して、そのほうが面白いと言っている?

S ラーメンの例のように、60年代文士の言葉にはとても力がある、喚起力がある、それなのに書いているものはものすごくくだらないと言っている。

K 日本の近代文学は暗くて辛気くさい。そのころ、どくとるマンボウシリーズは読んでいた。

S うーん、そういえば、純文学の一方で、第二分身でエンターティメントを書いていた。純文学北杜夫、エンターティメントどくとるマンボウ

Y キャラクターというと「吾輩は猫である」の猫もキャラクターですね。

S うん、今で言うと現場猫まで脈々と。元祖キャラクター化が「我が輩は猫」。すべての近代小説は漱石にはじまる。60年代文士のサブカル化で卒論のテーマになるんじゃないか。

K 三島も純文学とサブカル小説を書いている。

S ホモセクシャルも、このサブカル第二分身の一つだったのかな。

 

 

 

 

 

 

 

夏目漱石「吾輩は猫である」5ー8回その3 20200628、20200711読書会テープ

【鎖状の連鎖小説】

S 猫は他の漱石作品と比べて非常に読みにくいと感じる。むしろ耳で聴いたほうがよいのではないかと思う。ちょうど落語を聴いているようにすれば、話題がどんどん滑って行くのに乗れる。

 落語だとどんなに難しい話題でも耳で聴いて分かるようになっている。そもそも円朝の牡丹灯籠や真景累が淵のような長編怪談の速記本を、言文一致の文章を作るときに参考にしたと言われている。

K それは論理的だということですか。

S ええと、話題がどんどん滑っていくのはどちらかというと非論理的な連想のやりかた。一方で、書き言葉としての特色を持っていて、それは論理的な鎖状の連鎖。6回で猫の皮の話があって、7回には銭湯の裸とカーライルの衣装哲学がある。7回の猫の運動は、8回の猫の垣巡りに連鎖している。

 それで、6から8回の話題は、身体の境界領域と家の境界領域。

 身体の境界領域は、皮膚や衣服や裸体問題。園遊会で着飾った女性が、買っていらっしゃいという辛辣な観察がある。そもそも律令制度は身分によって衣服の色が異なる。

K 猫が松脂をとるために銭湯へ見に行く。銭湯の脱衣所はもう娑婆になる。しかし、裸になっても、熱いの温いのと一段大きい人が現われて、裸でも平等はありえない。

S 刺青の人も出てきた。今頃また問題になってきた。

Y 排除的な話が出てきた。

S もともと排除的なんだけれど、西洋流のかっこいい運動選手や俳優のタトゥが出てきたから。

K 迷っている。それを全部断ると、観光客へ銭湯見学の案内もできなくなる。

Y オリンピックがなかったらあのままだったと思う。

S ちらほら銭湯にすでに入ってきている。ワンポイントのようなタトゥがちらりと見える。

Y 留学帰りの子が、おへその上とか、水着で見えるところにしている。何でそんなところ、痛くない?と。

S 刺青がどうして問題になるかというと、猫の皮を剥がすことが出来ないように身体から剥がせないこと。それから、長く今も解決がつかないでいて、良いとも悪いともいろいろ揺れて決められないということ。

 つまり、良いとも悪いとも決められない曖昧な領域を、皮膚や衣装として備えていて、その時代その場所ごとに互いに交渉して合意を形成するしかない部分であることが重要。これが社会であり、公共空間であるということ。

【家の境界領域】

S それから、7回の猫の運動と8回の垣巡りは、家の境界領域問題。絵図で示したように、二重に垣が巡らされていることが重要。しかし私たちの常識ではこの二重の境界がちょっとよく分からない。

K 誰が固定資産税を払っているかで分かる。

S その境界は線であって領域ではない。境界線に鋲が打ってある。垣根はどちらの所有物かはっきりしている。

K 古い地域だと、登記所と実際の境界がかなりズレていたりする。斜めになっていたりする。

Y ばあちゃんのところもそうだ。

S それは境界線ではなく境界領域になっていませんか。

K 領域にはなっていない。ブロックで塀を作って線になっている。

S 登記上の境界と実際の境界とのずれがあって、そのずれの部分は所有がはっきりしない部分ということになる、つまり、それをここで境界領域と呼んでいる。法律上は自分の土地だけれど実際上は自分の土地ではないというような領域が生じてしまう。それが8回の家の境界領域。

K 大家さんが全部の持主だったらそういうことはいくらもあっただろう。

S それを区切って貸しているから境界問題が生じる。区切って貸すと、どちらの所有に属するか問題が生じる。

 それから事務員がここの桐の枝を使って下駄を作る話がある。どうしてそんなことが可能なのか。つまりこの境界領域には入会地のような共有地のような性質がある。

Y 祖母の家は、私道を通らないと奥のBの土地に入れない。小屋を登記していなかったり、疎遠な姉妹であったりして、売ることもできず、水道を引くこともできずに紛糾している。

K 奥の飛び地の人は、私道であっても通過する権利があると聞いている。

Y もともとAもBもばあちゃんの土地で、疎遠な姉妹に貸していたが、その人は死亡したあとその土地をどうするかということになっている。

S つまり、大きな土地を分割して住みだして、時間が過ぎるに従って、所有権や貸借関係がはっきりしなくなり、近代的な登記上の記録とずれが生じて、境界領域が生じてしまうのではないかな。

S 入会地のような土地の所有権は、近代化とともに表沙汰になり問題になる。網野善彦の「無縁・苦界・楽」という本が面白い。バザールのような市場には自治権がある。つまり境界領域にも自治権があるとしたら、自分たちで交渉して決着しなければならない。だから漱石くしゃみ家と落雲館の学生とのボール問題は双方で交渉して解決しなければならない、これが8回の公共空間問題。

Y マンションのエントランスの掃除や鳩の糞なども自治組織で管理しなければならない。L字型の中庭がある。

S ヒッチコックの裏窓という映画だと、足を怪我した男が中庭から向かいの家の裏窓を眺めていて殺人事件らしきものを見てしまう。中庭があるのはヨーロッパ式ではないかな。ヨーロッパも中国もそうで、これが今回のコロナについても、かつてのペストについても管理がしやすい。ロックダウンが簡単にできる。

 日本の場合は町内会もマンションも開放空間で、出入りを管理することが難しい。自治も難しいということにならないかな。公共空間の自治の問題。

【東アジアの国際関係】

S この学生とのダムダム弾の戦争も、1900年代の東アジア情勢の反映になるだろうか。

 猫の頭をポカリと殴ってみるとみゃーと鳴くというのは、何だか空恐ろしい話だ。

Y 猫は日本だとすると、日本が叩かれたということ?

S ぶってみろと言って、相手が日本語でなければ、何かみゃーみゃー言っているということにならないか、国際関係上の対人関係で、間投詞か副詞の区別が言語によってそれぞれ違っている。

K 三国干渉で遼東半島を吐き出したのは、日本=猫の頭をなぐって反応を見たということか、図に乗るなよということか。

Y ニャーと鳴いてやったというわけだから。

S 注文通り鳴いてやったというのが臥薪嘗胆で、見ていろ、目にもの見せてやるということでしょう。その晩は豚肉三きれと塩焼の頭をもらったとあるから、一番おいしいところは主人に取られてしまったということか。豚肉は中国?三国というのはどこでしたっけ。

K ロシアとドイツとフランス。

S この猫は壺に落ちて自滅するという終わり方をする。このままいくと自滅すると言う予告になるか。

K 日本は滅びるねと「三四郎」で言っている。

Y ビールを飲んで自滅するというのもドイツに一杯食わされるということかも。

Y 8回の垣巡りだと、烏が3羽とまって猫の行く手をふさぐ。これが三国干渉かな。嘴が乙に尖がって何だか天狗の申し子のようだとある。このあたりには見かけぬ顔とか、吾輩には相手にしている余裕がないとか、ニヤニヤしているとか、

S それ西洋人の鉤鼻。烏との神経戦。そうすると垣巡りというのは満州鉄道ということ? いずれこの三羽の烏を排除して日本は満鉄を手に入れることになる。

Y 猫が運動をはじめたというのは戦争をはじめたということ?

S 海水浴や体操は近代軍隊の習慣として持ち込まれた。揃った行動ができるように調練する。右手と右足が一緒に前に出るなんばが伝統的な歩く構えだった。体操で戦争準備をはじめたということだろう。鵯越えの比喩があるから、これも戦争の比喩になっている。

Y カマキリと鼠と戦うのも寓意か。

S カマキリはロシア人? 

Y カマキリと蝉はむしゃむしゃ食べたとある。それから魚とアザラシ。

K 植民地は、台湾が一番はじめ、次に韓国、次は中国。

Y 鼠がドイツ、台湾がカマキリ、豚が中国、烏がロシア、フランス、魚が日本の回りの島々のようなキャスティング?

S 夜郎自大な日本の自画像が虎の夢。想像以上に東アジアの国際情勢が反映された風刺小説だということがあらためて思われる。ガリバー旅行記の馬の国のような書き方。

【カーライル】

S 「衣装哲学」(1838年)という本を漱石はよく読んでいた。人間的制度や道徳はその時々身につける衣装に過ぎないというブリタニカの説明がある。日本に生まれたら日本の衣装をつけるしかないし、ロシアに生まれたらロシアの衣装をつけるしかないというのがロマン主義

 これは明朗な普遍主義だね。裸の普遍主義。こういう明朗さはロマン主義にはない。生まれながらの宿命、神国日本とか偉大なドイツ民族とかいう考えだから。猫が運動のあとに銭湯を見に行って裸の価値を見いだすというのは、この明朗な普遍主義への指向だろう。

 

 

夏目漱石「吾輩は猫である」5ー8回その2 20200628、20200711読書会テープ

日露戦争

S 主人は泥棒の時は寝込んでいたが、猫と鼠の戦争の夜はさすがに起き出して来た。主人は、一回目に懲りて、二回目は飛び起きた。それによって泥棒の話と猫の戦争の話二つの話が繋がって、対になっていると分かる。

Y 何でいきなり鼠が反撃してくるのかと思ったのですが、対になっていると考えると分かる。

S 普通は猫の方が強いのだけれど。奥さんは本当にずうずうしい猫と言い、たたら君は猫鍋にするとか、それを聞いた猫が一念発起して、ついに鼠を捕ることを決意する。日露戦争の風刺として書かれている。そうすると、猫が日本だとすると、日本が日露戦争をはじめたのは、いろいろな人に馬鹿にされて焚き付けられたからということになるか。

Y それならやってやるわということになった。いろいろな人に馬鹿にされて、これまで虚仮にされたら猫様だってやるんだと。

K しかし思ったより難しかった。

S これが日露戦争の風刺だとすると、他の国に馬鹿にされたという史実はどうなっているだろう。

K 日清戦争(1894-5)に勝ったのに、三国干渉によって遼東半島を取りあげられる。政府は臥薪嘗胆を合い言葉にして日露戦争(1904-5)の準備をはじめる。

S 日比谷焼き討ち事件が1905年9月で、国民が講和に反対しているというのが非常に奇妙。

K マスコミのせいで、今もそうだけれど、戦勝が実際よりもよく伝えられていたから。

S 「猫」は1905年1月から「ホトトギス」に発表され、5回は7月1日号に、6回は9月末に脱稿したという(漱石研究年表)

S 日清・日露戦争は、日本が国際社会にデビューして正当に扱われることを目的にして戦った、それに対して1931年からはじまるアジア太平洋戦争は侵略戦争で、風刺はより難しくなるのではないかな。侵略にはかわりないけれど。( 加藤陽子の[「満州事変から日中戦争へ」によると、中国が条約により日本に認められた権利を尊重しないので正当防衛として満州事変を起こしたと、当時の日本政府や商工業者は考えていたという。)

 猫の日露戦争は、多々良君や奥さんにやいのやいの言われて一念発起して鼠をとることになったと書かれている。それなりの理由が立つから風刺の対象になるのでは。

K 煮て食われるよりはやるぞ。やられるならやるぞという。

Y 軍歌を作っている人が、俺たちがやらなかったら俺たちが中国になるのだなあということを言っていた。古関祐而さんという人です。それに比べると、満州事変の方は今のことばで言えば炎上必至。

【泥棒=西洋人】

S 猫の戦争は、バルチック艦隊と東郷大将、旅順などはっきり日露戦争を指名している。それでは、前半の泥棒事件はどうなるだろう。

Y 猫が日本だとすると、泥棒がはいってきて、怖くて声も出せずに何もできずに隠れている、何か非常に生々しい感じがする。

S 泥棒とは誰、何だろう? これも風刺だとすると何だろう? 寒月君に似ている、じゃあ、泥棒を西洋人としたらどうだろう。

Y 眉がしっかりしている。真一文字のいい男。

Y 土足で踏み込んできて、取るのが食べ物とか、着物。品物がそれであるのは意味があって何か理由がなくてはならないのだけれど。

S 絹でしょう、西洋人が欲しがったのは絹、それからアジアの茶碗。

K 山芋が入っているのは木箱。木箱の中身は見えない。

S 抹茶茶碗は木箱に入っている。

Y  山芋は、肥前唐津の多々良君のお土産。

S 唐津の陶磁器。

Y ちりめん、紬。茶碗。泥棒は文化を根こそぎ持って行ったということ。

S その西洋人が寒月君に似ている。寒月君は西洋風の教育を受けている。

K 理系です。

S 寒月君は中身を西洋人に入れ換えた日本人。科学の分野は西洋絶対だから、寒月君にそっくりの泥棒ということになる。

K 家人はみんな眠りこけていた。眠れる獅子、実際に戦争をしてみたら猫だったというのは中国清朝。日本も同じで、猫が虎になった夢を見るのは第8回にある。

S  そうすると「吾輩は猫である、名前はまだない。」というのは、吾輩は国際社会でまだ名前を知られていない日本(未満)であるということになる。風刺がきつい。