夏目漱石「吾輩は猫である」5ー8回その3 20200628、20200711読書会テープ

【鎖状の連鎖小説】

S 猫は他の漱石作品と比べて非常に読みにくいと感じる。むしろ耳で聴いたほうがよいのではないかと思う。ちょうど落語を聴いているようにすれば、話題がどんどん滑って行くのに乗れる。

 落語だとどんなに難しい話題でも耳で聴いて分かるようになっている。そもそも円朝の牡丹灯籠や真景累が淵のような長編怪談の速記本を、言文一致の文章を作るときに参考にしたと言われている。

K それは論理的だということですか。

S ええと、話題がどんどん滑っていくのはどちらかというと非論理的な連想のやりかた。一方で、書き言葉としての特色を持っていて、それは論理的な鎖状の連鎖。6回で猫の皮の話があって、7回には銭湯の裸とカーライルの衣装哲学がある。7回の猫の運動は、8回の猫の垣巡りに連鎖している。

 それで、6から8回の話題は、身体の境界領域と家の境界領域。

 身体の境界領域は、皮膚や衣服や裸体問題。園遊会で着飾った女性が、買っていらっしゃいという辛辣な観察がある。そもそも律令制度は身分によって衣服の色が異なる。

K 猫が松脂をとるために銭湯へ見に行く。銭湯の脱衣所はもう娑婆になる。しかし、裸になっても、熱いの温いのと一段大きい人が現われて、裸でも平等はありえない。

S 刺青の人も出てきた。今頃また問題になってきた。

Y 排除的な話が出てきた。

S もともと排除的なんだけれど、西洋流のかっこいい運動選手や俳優のタトゥが出てきたから。

K 迷っている。それを全部断ると、観光客へ銭湯見学の案内もできなくなる。

Y オリンピックがなかったらあのままだったと思う。

S ちらほら銭湯にすでに入ってきている。ワンポイントのようなタトゥがちらりと見える。

Y 留学帰りの子が、おへその上とか、水着で見えるところにしている。何でそんなところ、痛くない?と。

S 刺青がどうして問題になるかというと、猫の皮を剥がすことが出来ないように身体から剥がせないこと。それから、長く今も解決がつかないでいて、良いとも悪いともいろいろ揺れて決められないということ。

 つまり、良いとも悪いとも決められない曖昧な領域を、皮膚や衣装として備えていて、その時代その場所ごとに互いに交渉して合意を形成するしかない部分であることが重要。これが社会であり、公共空間であるということ。

【家の境界領域】

S それから、7回の猫の運動と8回の垣巡りは、家の境界領域問題。絵図で示したように、二重に垣が巡らされていることが重要。しかし私たちの常識ではこの二重の境界がちょっとよく分からない。

K 誰が固定資産税を払っているかで分かる。

S その境界は線であって領域ではない。境界線に鋲が打ってある。垣根はどちらの所有物かはっきりしている。

K 古い地域だと、登記所と実際の境界がかなりズレていたりする。斜めになっていたりする。

Y ばあちゃんのところもそうだ。

S それは境界線ではなく境界領域になっていませんか。

K 領域にはなっていない。ブロックで塀を作って線になっている。

S 登記上の境界と実際の境界とのずれがあって、そのずれの部分は所有がはっきりしない部分ということになる、つまり、それをここで境界領域と呼んでいる。法律上は自分の土地だけれど実際上は自分の土地ではないというような領域が生じてしまう。それが8回の家の境界領域。

K 大家さんが全部の持主だったらそういうことはいくらもあっただろう。

S それを区切って貸しているから境界問題が生じる。区切って貸すと、どちらの所有に属するか問題が生じる。

 それから事務員がここの桐の枝を使って下駄を作る話がある。どうしてそんなことが可能なのか。つまりこの境界領域には入会地のような共有地のような性質がある。

Y 祖母の家は、私道を通らないと奥のBの土地に入れない。小屋を登記していなかったり、疎遠な姉妹であったりして、売ることもできず、水道を引くこともできずに紛糾している。

K 奥の飛び地の人は、私道であっても通過する権利があると聞いている。

Y もともとAもBもばあちゃんの土地で、疎遠な姉妹に貸していたが、その人は死亡したあとその土地をどうするかということになっている。

S つまり、大きな土地を分割して住みだして、時間が過ぎるに従って、所有権や貸借関係がはっきりしなくなり、近代的な登記上の記録とずれが生じて、境界領域が生じてしまうのではないかな。

S 入会地のような土地の所有権は、近代化とともに表沙汰になり問題になる。網野善彦の「無縁・苦界・楽」という本が面白い。バザールのような市場には自治権がある。つまり境界領域にも自治権があるとしたら、自分たちで交渉して決着しなければならない。だから漱石くしゃみ家と落雲館の学生とのボール問題は双方で交渉して解決しなければならない、これが8回の公共空間問題。

Y マンションのエントランスの掃除や鳩の糞なども自治組織で管理しなければならない。L字型の中庭がある。

S ヒッチコックの裏窓という映画だと、足を怪我した男が中庭から向かいの家の裏窓を眺めていて殺人事件らしきものを見てしまう。中庭があるのはヨーロッパ式ではないかな。ヨーロッパも中国もそうで、これが今回のコロナについても、かつてのペストについても管理がしやすい。ロックダウンが簡単にできる。

 日本の場合は町内会もマンションも開放空間で、出入りを管理することが難しい。自治も難しいということにならないかな。公共空間の自治の問題。

【東アジアの国際関係】

S この学生とのダムダム弾の戦争も、1900年代の東アジア情勢の反映になるだろうか。

 猫の頭をポカリと殴ってみるとみゃーと鳴くというのは、何だか空恐ろしい話だ。

Y 猫は日本だとすると、日本が叩かれたということ?

S ぶってみろと言って、相手が日本語でなければ、何かみゃーみゃー言っているということにならないか、国際関係上の対人関係で、間投詞か副詞の区別が言語によってそれぞれ違っている。

K 三国干渉で遼東半島を吐き出したのは、日本=猫の頭をなぐって反応を見たということか、図に乗るなよということか。

Y ニャーと鳴いてやったというわけだから。

S 注文通り鳴いてやったというのが臥薪嘗胆で、見ていろ、目にもの見せてやるということでしょう。その晩は豚肉三きれと塩焼の頭をもらったとあるから、一番おいしいところは主人に取られてしまったということか。豚肉は中国?三国というのはどこでしたっけ。

K ロシアとドイツとフランス。

S この猫は壺に落ちて自滅するという終わり方をする。このままいくと自滅すると言う予告になるか。

K 日本は滅びるねと「三四郎」で言っている。

Y ビールを飲んで自滅するというのもドイツに一杯食わされるということかも。

Y 8回の垣巡りだと、烏が3羽とまって猫の行く手をふさぐ。これが三国干渉かな。嘴が乙に尖がって何だか天狗の申し子のようだとある。このあたりには見かけぬ顔とか、吾輩には相手にしている余裕がないとか、ニヤニヤしているとか、

S それ西洋人の鉤鼻。烏との神経戦。そうすると垣巡りというのは満州鉄道ということ? いずれこの三羽の烏を排除して日本は満鉄を手に入れることになる。

Y 猫が運動をはじめたというのは戦争をはじめたということ?

S 海水浴や体操は近代軍隊の習慣として持ち込まれた。揃った行動ができるように調練する。右手と右足が一緒に前に出るなんばが伝統的な歩く構えだった。体操で戦争準備をはじめたということだろう。鵯越えの比喩があるから、これも戦争の比喩になっている。

Y カマキリと鼠と戦うのも寓意か。

S カマキリはロシア人? 

Y カマキリと蝉はむしゃむしゃ食べたとある。それから魚とアザラシ。

K 植民地は、台湾が一番はじめ、次に韓国、次は中国。

Y 鼠がドイツ、台湾がカマキリ、豚が中国、烏がロシア、フランス、魚が日本の回りの島々のようなキャスティング?

S 夜郎自大な日本の自画像が虎の夢。想像以上に東アジアの国際情勢が反映された風刺小説だということがあらためて思われる。ガリバー旅行記の馬の国のような書き方。

【カーライル】

S 「衣装哲学」(1838年)という本を漱石はよく読んでいた。人間的制度や道徳はその時々身につける衣装に過ぎないというブリタニカの説明がある。日本に生まれたら日本の衣装をつけるしかないし、ロシアに生まれたらロシアの衣装をつけるしかないというのがロマン主義

 これは明朗な普遍主義だね。裸の普遍主義。こういう明朗さはロマン主義にはない。生まれながらの宿命、神国日本とか偉大なドイツ民族とかいう考えだから。猫が運動のあとに銭湯を見に行って裸の価値を見いだすというのは、この明朗な普遍主義への指向だろう。