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中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊その2 20200523読書会テープ

【新聞紙】

H 剥製も、そこにないはずの身体が加工されて、現在に存在するわけですね。

S 中身をくりぬいて、過去・現在・未来という時間の流れから疎外されてしまう、ずっと滅びないで元の姿のままでいる。剥製とは時間を止めること。

Y 新聞紙もある意味で同じ、その時の時間を切り取るものですね。

S 短篇集というのは新聞記事と隣接性がある。新聞記事の隣に短篇がある、小説の歴史的な起源なんだね。新聞に切り取られたコラムや小さな事件をとりあげて書くと短篇小説になる。

H なるほど新聞自体が短編小説集ということか。

S この小説の中でも、新聞記事から切り出したような断片がたくさんある。その辺の新聞から目にとまった記事を書き抜いている感じの出来事。

K 連続放火事件とか、女子大生射殺事件も。

H 新聞紙で紙飛行機をつくって飛ばないということがありますよね。新聞記事で小説を作っても届けられないということになりませんか。紙飛行機を作るというのは作品を作るということですから、作品を作っても届かないということ。

K 完成しない。

S うん、完成しない。そうすると、よく飛ぶ飛行機というのは、ありきたりの通俗小説ということにならない? 中原の小説は断片の手触りだけで成り立っていて、ストーリーやお話になると墜落してしてしまう。

H 紙飛行機はこれですっきりした。

Y 最高の小説は忘却の彼方にということ。

K 意味が通じるものではないと。

S 自分は、飛ばない小説を書いているんだという宣言。

Y 部屋は中原の頭の中でしょうか。それは部屋に日々積み上がって世に出はしないと言っている?それは忘却とは違う気がする。

K 不必要な新聞紙とは不必要なもの?

S 毎日毎日出る新聞は忘れて構わないゴミになっていくもの、そういう日々忘れられていく新聞記事に対して、小説たるものは忘却の彼方からちゃんと浮かび上がってくるということにならない?

Y それならばしっくりくる。

H 新聞とは違って、小説は浮かび上がってくる。

S あなた自身がその忘却の彼方から探し出してくるしかないという題名に思える。断片の中から、あなた自身が拾い出してくるしかない。そうして私たちは今その作業をしている、断片の中から中原の小説を拾い出そうとしている。

 老婆の昔語りも途中のまま、飛ばない飛行機と同じで、こういうお話は一切語らないという宣言。

H はじめの植木鉢の由来を語ろうとして語れないでしまうのも同じ。

S なぜ自分は植木鉢を売るようになったかというのは、いわゆる自伝小説とか成長小説の典型。お話になろうとするものが次々挫折していく話。自伝小説とか教養小説とか、そういう小説は一切書かないと中原は言っている。これもしない、あれもしないという小説論なんだね。

H 中原は、小説を書かずに小説を書いているようなもの。

Y 読み慣れているものがざくざく切られていく。中原スタイルの宣言。

S 少し面白くなってきたぞ。

 

 

 

 

 

 

 

中原昌也「待望の短篇は忘却の彼方に」2003年春刊 20200523読書会テープ

【はじめに】

H ひさびさに中原を読んでいる。

S こんなに分からなかったけ、歯が立たない。

Y 分からないのが面白いのだけれど、噛み応えもなければ噛んでいるの?みたいな不思議な感覚でした。

S 私がいちばん分からなかったのは、老婆が二回り大きいというのが何だろう。

H 僕は題名になっている「待望の短篇は」というこの短篇がどれに当たるのかなという点。短篇の中で、語ろうとして止めたり、夢見たり、独り言を言ったりするから、どれが「忘却された」に当たるのかが気になった。

S 今たいへんなことに気がついたけれど、「待望の短篇は」というのが短篇の題名だけれど、本の題名は『待望の短篇集は』になっている。

Y リミックスに収録されているのは両方短篇になっています。

H 文庫本の題名は『待望の短篇は』で、2011年に出た文庫には注記があって、2004年に出版された時の本の表題を改題したとある。

S 7篇入っている短篇集であることは間違いない。第2篇は「血牡蠣事件覚書」で、臭いとか第1篇とつながりが少しあるようだ。短篇か短篇集か、引っかかる。

Y 新聞紙が部屋に一杯になっていくというのを覚えていないというのは、たぶん分かりやすい忘れていることの例だと思うのですが、いろいろな物を新聞紙で包んでいたということとか、情報が一杯あって全部を忘れたいので紙飛行機にするとか、おそらく(新聞紙にまつわる挿話を)収集しているというのは見えたのですが、それがいったい?

S 新聞紙は問題だよね、キーワードになっている。

【遠近法】

K もう何もかもお手上げ、二回り大きいというのがねえ、何のことだろう。

H 老婆が大きいと感じたときに、この男は遠近感が問題だろうと言って片付ける。その遠近感について、Tシャツに描かれたラスコーの壁画、それを調べると、壁画に遠近法が使われているというのが特徴で、動物の角が前後に遠近感があるように描かれているという。その大きさとゆがんでいるものと遠近感が関係するのかなと。

 遠近感のせいだと男は思い込んだのだけれど、多分違っている。何でゆがんでいるんでしょうね。

S 女の人の大きな胸によって、何が書いてあるかが分からずゆがんでいたと書いてあった。一方で遠近法できっちり物の形が見えるというのと、もう一方でゆがんで形がよく分からないというのが対比になっている。

 常識としては、遠近法というのは近代に発生する新しい空間構成の方法ということになっている。一点消失によって、2次元の平面の上に3次元の世界をきっちり写せるようになる。私たちの頭は遠近法で鍛錬されている、習慣づけられている。だから他の見方で見ることが非常に難しい。どういうものであれ遠近法が入っているという風に読んでしまう。私たちが抜きがたく持っているバイヤス。

H 大きさがゆがんで見えるというのは、遠くにいるとか近くにいるというのが原因だと思ってしまう、ということですね。

S 近代的な、気づいていない頭のバイヤス。ラスコーの壁画が遠近法を用いているというので驚かれるのは、遠近法が近代にはじまったと言われているから。

K 漱石も遠近法を使っている。

S『三四郎』で大学の構内を遠近法で描くことを話題にしている。近代に導入された遠近法ということがはっきり言われている。

 この小説では遠近法は批判の対象。おまえの頭は遠近法でがんじがらめになっている、だからこういう小説が読めないんだ、と。

HYK そんな感じだなあ、なるほど。

【映像と現実】

 S 二回りというのが、それでもやっぱり分からない。

YH 二回りは相当大きい。

S 例えば映画のスクリーンに写っているのは、実際の人間よりも二回りぐらい大きいような気がする。一回り大きいと言うより二回りぐらい大きい。(彫像も現実の人間より二回りほど大きい。レーニン像とかロダンバルザック像とか。)

K そうでないと分からない。見えないし、理解できない。

Y スクリーン上の現実離れしているサイズ感を言いたかったのでしょうか。

S あるいは、部屋にあるテレビに写っている像だったというような。映像の中の二回り大きい老婆の像を見ているということかなあと。

H人間同士が対面している感じがしない。

K 剥製も二回り大きい。

S 部屋の中に大きなスクリーンみたいなテレビ画面があって、その中に写っている画像が二回りぐらい大きいということ。つまり、現実が一元的に現実であるのではなく、その現実の中に、スクリーンに映し出された二次現実が混じり合っているということだと思う。

 この部屋の一面の壁がスクリーンになっていて、そこに老婆や剥製が写し出されている。

H しかも、ここでもし本当にこの部屋に入って、本当にお婆さんがいて、話すことができれば、ハッピーエンドになると思うが、やっと部屋に入れても話がしたくても現実感がなくて対話が完成しない。

S 映像と話を交わせなかった。その説はかなりいいと思うな。

【時間の遠近法】

Y 女の人は何だったんだろう。

K 老婆と同時には現れない。

Y 罠にはめようとしたというか、一緒にいるとばれるから。何というか、現実と映像とが一緒に混在するとばれるから、何とか騙そうとして、女性はいなくなる。

S 「中へどうぞ。」、それから、「女の声が小さく外から聞こえた」とあって、女は部屋に入らなかった。

H 一緒に現れないというのは、同一人物とか思いますよね。

S 老婆はこの女性の未来とか?

Y 老婆はシックな格好とある。

K センスのよい人らしい。

Y ピクルスを手で食べてるけど。

K ピクルスの臭いとは全然違う。部屋に入ったとき「きのう漂っていた異臭と同じ臭いがした」とある。

S 部屋には異臭が漂っている。

Y 異臭はピクルスの臭いとは限らず、飛躍すると、お婆ちゃんの死体が転がっているのかと思いました。女性は血を浴びて急いで着替えたとか。

H 老婆は女性と同一人物で、女性の未来の姿というのは可能性がありそう。何でかというと、空間の遠近感だけでなく、時間の遠近感もあるんじゃないか。待望の短篇はというから未来を待望するということで、忘却はあったことを忘却するだから、未来と過去今にかかわる題名で、老婆も時間軸のゆがみとして見た方がいいんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治「ヴィヨンの妻」その3

【ウントク・ヒョウトク】

S 「ケケケと妙に笑いました」というこの子どもを小説に書くのは、今だったらリスキーでしないでしょう。どうしてこの坊やは「阿呆」になっているのだろう?

Kこれは実体験ですよね。津島佑子が書いている。

S 実体験だからといってリスキーなことにはかわりないですよね。

H さっき福の神と疫病神の話をしたけれど、この子どももかなり福の神の部類ではないかと。悪いものを集めて落として来てしまうという間が抜けた神様のお話がありましたよね。この子供は疫病をどこかに落としてきてしまうような、そういう役割の子どもかなと。

S そうすると、この一家は魔物の一家ということになるかな。日本神話だと足腰が立たないヒルコが流された話がある。あるいはウントク・ヒョウトクという座敷童の話がある。口もきけないのだけど、お臍を突くと金をポロリと吐き出す。

YH いい子だなあ。

H 奥さんがいつもこの子を背負って移動している。福を招く力があるのかな。

S 厄とか福というのは、付いたり離れたり、落ちたりこぼれたりするもの。お金は儲けたり交換するものだけれど、付いたり離れたりする福の神の核心部分をこの子が負っているのではないか。だから不具の阿呆という印つきのこどもになっている。神性を示している。ここでも交換経済ではなく贈与経済の原理。

H ヴィヨンは窃盗団に入ったり、ルパンみたいな仮装をしてマスクをかけている、盗むというのをどう考えたらいいのだろう?

S 義賊というのは昔から金持ちから盗んで人に配っていた。鼠小僧とか和製ルパンがちゃんといた。

Y 大谷が義賊ということは、家父長制や貨幣制度や性の制度を壊すのは正義だぜということになる?

S 大盗賊にならなければ嘘だと。乱世には義賊がちゃんと出るはずなのに、日本政府ときたら、

Y 10万円は年末調整で返せと言ってる。

S 大谷は奪った5000円をクリスマスプレゼントだと言って人に配っている。浪費でありポトラッチ。

H ほんとに鼠小僧。

【おわりに】

H 奥さんが嘘をついて、実際にその金が来る、この奇跡の起こり方がいいと思う。ばっちり偶然タイミングがあってそうなった。

S 予祝と偶然は違う。言うとそれが実現していくのが予祝。

H その一言が現実を引き寄せた。

S 偶然とは違って、奥さんの意志、こうあってほしいという願いが入っている。この点が人間的なことだと思う。どうか椿屋さんにお金が返って欲しい、夫が犯罪者にならないでほしい、その切実な願いが実現する。

 これがキリスト教とは違った、私たちがことばにかける期待だと思う。神様に期待をかけるのではなく、言葉に期待をかけるのが実によいと思う。これが小説家の根拠になる。

 つまり、神様に願って奇跡が起こったのではなく、女性の切実な願いがそれを呼び寄せた、ことばがその奇跡を呼び寄せた。これが小説を書くことばの力だということ。神に願う西洋のあり方とも、偶然にかけるプリミティブなありかたとも異なる、予祝、言霊、ことばにかける期待、これが小説家の恃むところである。

 この小説にはそういう力がある。戦後に書かれたこの小説は、戦後にどういう世界があってほしいかを呼び寄せる作品なんだと。

K 作品が世界を変える。

H もう一つ気になったのは座布団と式台。飲み屋の夫婦が来たときも酔っ払いも式台に2枚の座布団を出す。外から来た人の場所、他者が入って来てよいところ。

S これは縁側でしょう。内でもあり外でもある、それ以上は入ってきてはいけない。だから汚されたとき、式台から家の中に入ってきてしまったということ。

K 家の境界領域。

S ネットワークとしての家はこの縁側でなくてはいけない。一杯飲み屋というのは、縁側だらけ、縁側だけでできた家である。そういうネットワークとしての家には、詩人のいる場所もあるし、女の生活が成り立つところでもあり、

K 弱いこどもが居ることができる家でもある。

 

 

 

 

 

 

太宰治「ヴィヨンの妻」その2

【ネットワークとしての家】

H 妻が家を出たというのが大きいのではないか。家同士がつながる、飲み屋さんの家と大谷の家がいつの間にかくっついてしまう。僕は「清貧譚」が好きだから、家を出て、家に入ることに注目している。

S 家を出るという時の家は、家父長制の家。一方、飲み屋の家はネットワークとしての家で、いろいろな人が出入りして、通り過ぎて行く、ネットワークの結び目のような家。制度の家に対する批評だと思う。家父長制の家を批判して、ネットワークとしての家を提案している。

 ここで大谷の妻が汚されたとあるように、性的にも自由になる。女も性的に自由になり、みんなここで取っ替え、引っ替え組み替わってしまう。居酒屋の奥さんでさえ大谷とくっついてしまう。くっついたり離れたりを可能にするようなネットワークとしての家。これが家父長制の家制度への批判であり、批評。戦後の新しい家を提案している。

H 最後、居酒屋の家をのっとった形になって、今村夏子の「あひる」のようになって行くのかと思った。

S 「あひる」の方が家父長制の家を追認することになる、あるいは、家父長制の家から自分が追い出される話になっている。それに比べて太宰の方がよほどラジカルで、家そのものをネットワークにしてしまえと、ほんとにそう書いてある。

 お金を預けて置くというのも、交換としての金ではなく、そこからみんなが必要な額をとっていく、共産制のようなもの。100円あるときには大谷もそれを置いていく。置き金や投げ銭のような。

 変えなければならないのは、家の制度、貨幣制度、性の制度、そういう醇乎たる革命小説。

K みんなハッピー。

Y 思想を娯楽に落とし込んで行くのが頭良い。

S ヴィヨンのような色男を通して女がようやくフリーになる。

Y 制度をぶち壊す役割を大谷がして、制度の後を生きていくのが妻。家制度をぶち壊しているのは大谷。

S 家を壊すのと同じくらい女性の貞操観念を壊すのは難しいだろう。椿屋の主人は、色もでき、借金も出来と言っている。女たちは皆大谷と関係があるし、他の男もそれをみんな知っている。椿屋の妻が顔を赤らめる、これで非常にたくさんのことが分かってしまう。

 

 

太宰治「ヴィヨンの妻」 20200425読書会テープ

【はじめに】

 登場人物は、大谷という作家、その妻、こどもが一人。一方、上州から出て来て小料理屋を開いている夫婦。戦前から戦後にかけて大谷に魅入られたように酒を飲み干されてしまう。今回事件が起きて、年末の押し詰まって、ようやく5000円を集めてきて、これで仕入れをするはずだった。ところが大谷はその金をむんずと掴んで逃げてしまった。大谷を追って奥さんのところまで追いかけて来た。警察沙汰だと息巻くのを妻が明日金を返すと宥めて帰す。翌日店まで行ってくるくる働きはじめる。大谷の知り合いの女性が立て替えて5000円の事件は片付いた。大谷は女性と見ると手を出すたちで、小料理屋の妻とも関係を持ったらしい。お店は繁盛しはじめ、主人は身体も頭も具合の悪い大谷のこどもを跡取りだと言い出し、大谷の妻は住み込みになって、八方うまく回り出す。

【日本永代蔵】

S 時期としては戦後すぐの必死の時代、1947年の発表。身なりの良い奥さんが水酒を騙して売りに来るような。

Y 奥さんが最後の方になると、お若いわね、まだ未熟でいらっしゃるというように、成熟感が奥さんに出てくる。

S 奥さんが前半と後半で変わるよね。

H 家を出て行動を開始する。それまでは家で待っていた。

S 奥さんお幾つですかと言われて驚かれているから、相当窶れていた。それから中野の店に出るようになって、何だか色気が出てきて、くるくる働き出したと言っている。

 時間としては大晦日の話。

K クリスマスイブの前日だから23日。

S この時期の話は、伝統的に、掛取、借金の精算、それを済ましてやっと新年が来る。日本永代蔵などのように、5000円を済まさないと、年が明けない、年を越すことができない。この大晦日の近代バージョン。

 ところが5000円は済んでしまう。妻は嘘だと分かっているのに、この1、2日のうちにお金を持ってきてくれるという嘘をつく。その嘘が実際にそうなって5000円持ってきてくれる人がいる。それがすごく面白い。これは予祝。妻が言葉に出して言うと実際にそうなるというのが予祝。奥さんが何か言うと、それが現実に実現する力がある。

H 夫と妻は対照的に描かれている。夫の大谷の方は、疫病神のように、魅込まれたとか、魔物とか。妻の方は、居酒屋に入った途端一挙に繁盛して、福の神のように描かれている。

S 疫病神と福の神のセットが船に乗ってやって来る。

Y それは年末っぽい。

H クリスマスと年末が一緒になって奇跡が起こる話かなと。クリスマスおめでとうというのが面白い言い方。

S この夫婦には、教養差があり、貴族と庶民のような階級差がある。

K 貴族と言っても、男爵の別家の次男といういかがわしさ。

フランソワ・ヴィヨン

S 太宰の色の白さときたら、超モテ男。

Y これはやっぱり太宰なんですか。

S 太宰という文士の面影とフランソワ・ヴィヨンの下敷がある。ヴィヨンのというのは結構な文学者なんだけれど無頼で人殺し。誰か非常に有名なヴィヨンの小説を書いていて、それを読むと太宰とそっくり。大谷はそれをかなりなぞっている。

K 15世紀の詩人。司祭を殺すことになったとある。

H 窃盗団に入っているのも、大谷がなぞっている。

S 夜中に司祭に泊めてもらいたいと言って家に入れてもらい、その司祭を殺してしまう悪行。ええと、「ジキル博士とハイド氏」を書いた、「宝島」の作者、スティーヴンソンの小説「一夜」。表向きは非常に立派な紳士ジキル博士が、薬を飲むと人間の中に隠されていた悪い面が表に出て、夜中に出歩いて殺人や盗みをする。人間の二面性を非常に早く書いたのが「ジキル博士とハイド氏」(1886年刊)。「一夜」も、ヴィヨンという悪童であり、かつ神に最も近い人間を描いた。のちにドストエフスキーが書くことになるテーマ。「罪と罰」や、犯罪者であるとともに神に近い「白痴」のような作品、「カラマーゾフ」のような作品を書いた。「人間失格」でも、神様のような子でしたという台詞がある。

K この作品でも、神はいるんですねという台詞がある。3の後ろの方。「へんな、こわい神様のようなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」

S この辺りの会話が、スティーヴンソンやドストエフスキーと非常によく重なる。日本版のドストエフスキーの会話になる。

HYK なるほど。

S 太宰は常に聖書とかキリスト教を作品に書くが、信仰があったとも思えないので、よく分からないが、先にドストエフスキーを学んで、ドストエフスキーの葛藤が神の問題だということになると、神がいないとこういう葛藤が書けないという逆のコースなら、分かるような気がする。

Y すごいなあ。神がいないと葛藤ができないというのは。

K 単純に信仰があったとは思えない。

H 確か神様は信じないけれど聖書のファンだという言い方をしていたと思う。

S ドストエフスキーを読んだら、なぜ人間がこんなに深刻に悩んでいるんだろう、私たちはこういう風には悩めないのではないかという、そういう気はしない?

K 3日経てば状況は変わるだろう。3尺流れれば水清しというのが私たち。

S つまり、ああいう文学作品で、人間が死ぬほど悩んで、死ぬほど葛藤して、死ぬほど長い小説を書くという体力も精神力も、畢竟私たちにはないんじゃないかという、そういう絶望感。

H 確かに。神がいないと葛藤がない。

S 神様のような人がいて3日前のこともちゃんと記録して覚えて置いてくれないと、私たちにはこういう深刻な葛藤はできないんじゃないか。

Y 流れていくスピードも早い。

K 甘利なんかでも私は決して忘れないぞ。

S この居酒屋の夫婦だって、大谷が毎回毎回酷いことをしているのに忘れてしまう。そうしてズルズルと戦前から戦後にかけてずっとお付き合いが続いている。

K あまりに呆れて笑ってしまう。

S これ奥さんが出てきてからです。殺気を帯びて追いかけてきた主人が、奥さんが出て来ると、怒りがふーと消えてしまう。

Y 奥さんのヴィジュアル、このあたりから神々しくなっていく。

S これがヴィヨンではなくヴィヨンの妻が主人公になっている理由。大谷はヴィヨンのパロディ道化にしかなれない。神がいないので、ああいう深刻な葛藤を悩めないとしたら、大谷は道化になるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治「作家の手帖」その5

【美しくのんきな女たち】

S さらに問題は残る。のんきで美しいを価値として私たちは認められるのかどうか?

K 責任がないからのんきで美しいんでしょう。

S 戦争のまっただ中なのに、無心に、つまり戦争のことなど一切考えないでいられることに、無責任さはないのか。

K それはありますよ。

S ほら、それはKさんが主体性をもった個人だから、そういわざるを得ないわけです。

Y 私たちはみんなあるとき主体性がある人間にすり替わってしまった。今一番中動態があるのは、無心に洗濯物を回してくれる洗濯機や冷蔵庫。

S その通り。1945年になっていきなり私たちは女性も主体になった。そうしたら、太宰のこの小説に対して、のんきで美しいのは無責任だと言わざるをえなくなった。これは無責任だと言わざるを得ないし、言ったほうがいいと思う。

 しかし、のんきで美しいには何の可能性もないのか?

Yさっきの第二段落の火の話に戻るわけですね。

S 太宰は中動態の女を再発見している。無心にお洗濯を楽しんでいる女を再発見している。

Y中動態でいられるのはしあわせで安定している。

Kそれは保護されているんだから当然。だって稼いでないんだから。

S それだと、保護されている、人に養われているという受動態になってしまう。主体で考えるとそうなってしまう。中動態はそうではない、宙に浮いている。

S 私たちは中動態をいまだにちゃんと持っている。夫婦関係はむしろ中動態、人間関係こそ中動態。犬の散歩も、散歩してやっていると思っているけれど、散歩させていただいているんだね。受動と能動が区別できない領域があることを私たちは知っている。

K あんなにたいへんだった育児も、終わってみればあんなに楽しませてもらった。

S お互いがお互いにとって「はばかりさま」なんだね。離婚になると受動と能動を無理して分ける。

S しかし、美しくのんきを発見しているというのは、それでもなおひっかかる。

K 良妻賢母にもつながっていそうだし。

H 戦争の中にあって、切り離されて自己完結しているというのは、僕自身が学校で感じることが多い。先生たちは受験に向かって走っているが僕は走れない、求められるのは教えることだけれども、僕は生徒に教えられて、教えるをやろうとしている、それは学校の中で、無責任でのんきな授業だと言われる。

S 受験戦争では勝った負けたで査定されるけれども、そうではない○×式でないところで教育をしようとすると、おまえはのんきで無責任だと言われてしまうということかな。

H これは昔から好きな短編なんですが、山下澄人の間接話法に近いところがある、はばかりさまとか、そういうところにいつも僕は惹かれている。

S  勝つか負けるかではないところがのんきで美しい、それこそが文化である。これこそが文化だというところが残りさえすれば、戦争に勝とうが負けようが大丈夫だと太宰は言っている。

Y 洗濯を文化に置き換えるとよく分かる。

S なるほど、素晴らしい。

Y文化は仕事のうちで一番楽しい、ただ意味がないまま、そのままで文化を楽しむ。

S この短編は、言っていることの表面よりずっと大きなことを言っている。

Y 勝敗の鍵を握るのは文化的な日本の女たちであると。

S 一種の文化防衛論でしょ。三島の文化防衛論は妙なところへ行ってしまったけど。太宰こそまさしく文化防衛論で、この美しくのんきな女のお洗濯さえ残れば日本は大丈夫だと言っている。

Y 少し話が変わるけれど、最近じーんときたことがあって、内の娘がずーと同じ事を繰り返している、積み木を積んでは崩して無心に続けているのを見て大丈夫だと思った。その感覚と似ているなあと。

 この娘の中でこれが時間として刻まれて成長していく過程なんだなと。外ではコロナが吹き荒れているけれどこの子の中では何かがちゃんと始まっているというのがうれしかった。

S あんたはすごい。実はね、この洗濯は漱石から来ていると思う。漱石の『明暗』に、隣家の屋上で洗濯物を干しながら洗濯屋が繰り返し繰り返し俗謡を歌う。それだと思う。

Y まんまですね。

S それを聴いているのが『明暗』の主人公である主体としての男、津田で、洗濯屋の俗謡が耳につくのだけれど何が気になるのか全然分かっていない。分かっていないから、しょうもないことをたくさんする。しょうもないことの一つは、元彼女が湯治している温泉場へ、のこのこ訪ねて行ったりする。馬鹿でしょう。

  太宰はこれを直接引用しているんじゃないかと思う。『明暗』の114回に次のようにある。

洗濯屋の男は、俗歌をうたいながら、区切くぎり区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
 彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へのぼって、その白いものを隙間すきまなく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作しょさは単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田にはわからなかった。

 

S 成長はそういう繰り返しの中からしか生じない。毎回同じ事を繰り返している洗濯屋にははっと気がつく契機がある。それなのに主体的に生きようとしている津田は、暗中に閉じ込められて迷走し、いつまでもそれに気がつかない。

【おわりに】

H はばかりさまと、やさしい母さんは分かってきたのですが、最初の七夕の少女の歌にはっとする理由がよく分からない。つつましいほどよいというところ。

S 一つ目の短冊は自分の上達ばかり望んでいるが、二つめの短冊は日本の国をお守り下さい、自分を国家に委ねてしまっているように見える。社会を飛び越えて急に大君と日本の国になってしまっている。

K 当時の学校教育にすりこまれたのだと思う。

Sでは、すりこまれたことばになぜ作家がはっとするのか?

S 最後の洗濯する女と同じように、自分の主体を消していくのを清浄なと言っている。

H  これ歌ですよね。両方歌ですよね。

Y 社会がなくて、大きなものに直結しているということを考えると、洗濯のお母さんも自分と大きなものだけになるところがよく似ている、社会がないところ。

S ただ、洗濯のお母さんの方は、大きなものも消えている。戦争しているとか戦争に負けそうだとか、世界や国家は消えている。

K 今目前やっていることの楽しさだけになる。

S そうか、最初の少女の短冊では、自分をなくして無心になる、最後になると、国家や世界も消えていって、目前の洗濯だけになる。これが則天去私。

H 幼女だからこれでいいのでしょうか。まずは自分をなくす。

S幼女だから、今仮に大君だったり日本国だったりにしておく。具体的な国家・世界の中に仮置きする。こどもは特定の文化の中に偶然に産み落とされる。

Y 仮置き。

S 大人になったら、大君はアメリカにとっては大統領、日本にとっては天皇、というようにそれぞれの土地でいろいろあって、相対化ができるようになると考えてはどうか?

S 「君が代」の元歌は、古今集の「わが君は、千代に八千代に・・・」という歌で、必ずしも天皇を指すわけではなかった。夫とか背の君のような二人称を指すということは、君が代研究で言われている。この大君にも、こういう読み換え可能な多重性があるのではないかな。

H 星に物語を読むというのも読み換えが可能で、 大君とお星様が並んでいるのが示唆的。

S 星がいろいろなお話を持つように、大君もそれぞれの土地でいろいろな大君がありうる。世界中に星の話があるのが明らかな証拠。

H めっちゃ元気になる、この話。

S 敗戦間際のしょうもないときに、こういう小説を書いたかと思うと、現代私たちは負けている。ことばの多様性、世界の多様性をちゃんと希望として出している。私たちの能力の低さに打ちのめされる。

Y 私たちは、もっとことばに希望を託さないとだめですね。