清風読書会

© 引用はアドレスと清風読書会を明記して下さい。

太宰治 『道化の華』その3 20221001読書会テープ

S 真野の怪談が一番面白かった。入水した青年の話で、カニが翌朝部屋に出たという。これ入水者がどうしてこんなにいるんだ? ダブルになっている? 自殺をはかった青年と自殺をはかった大庭葉蔵の話が重なるが、何で重なるのか? 葉蔵は自分の身と引き合わせている。青年の場合はカニが出たが、葉蔵の場合は園子の幽霊を思ったとある。園子の美しい幽霊が出ている。二重写しになっている。そこに神が出ている。

I ストーリー的に言うと、葉蔵が自殺しかけて入院しているのに、その看護婦が別の患者が自殺した話をするのは相当変ですよね。

S 病院の信用にかかわるし、かなりまずい話だろうね。

I 綿矢りさの小説にもカニが出てくる。

S 平家ガニは、死んだ平家の死霊が憑いているというのが伝統的意味。

S 葉蔵はこのようにあっさりしているとあるがこのあっさりとはどういう意味?

K 自分が殺したと言っているわりには美しいと言っていて、美しくなれば自分の責任はあまりないように聞こえる、そういうことはないでしょうか?

S 自殺に寄り添ってあげたというのと同じ意味ですね。殺したという自分の悪事を拭い去って美しい姿を描く。善とか悪とかにかかわらない神、これが太宰の神か?

I 罪悪感がない?

S 軽薄とか安易というのでもなくて、道徳的も何も、とにかく消えてしまう。

I 消えてしまう。

S 厳しい非難をするだろうし、そして、彼こそ神に似ている。これが葉蔵のもっとも重要な性質ということになるわけか。葉蔵は神であり、神は善悪道徳にかかわらず超越している、あるいはあっさりしている? そう簡単に超越されては困るんだけれど。

 さっきKさんが発言したように、死にたい女に寄り添って一緒に自殺してやるというのが一番近いのかな。あんまりかわいそうだから一緒に自殺してあげたという。

I 自分の命にもあまり執着していない。

S 自分がない? 『人間失格』の場合も自分がなく、相手の意志にずるずるとひきずられていく、一種の無我のようなありかた。それが死にたい女に寄り添うと何遍もそういう自殺を繰り返す。ほとんどやっていることは死神。死神が死にたい人にとっつくと首くくり榎のように首をくくってしまう。葉蔵がいなかったら、女はわざわざ入水などしなくて苦しくても生きていたんじゃないか。

KI ふつう死ねない。

S 死ぬ勇気もないし。それって疫病神じゃないか。『ヴィヨンの妻』で男のことを疫病神と言っている。ああいうとっついたら離れない、それを神と言えば確かに神。日本的理解における神とはそういう存在かもしれない。救ってくれない神。

K 死にたいという願いをかなえてくれる神。

S 皮肉な神様。人間の罪を背負って死んで下さった神という究極の救済の神とは違う。まったく善悪を超えてしまうような存在として主人公を描き、それを西欧の神とは違った神として描く。葉蔵のような存在を描くことが太宰の最も重要な問題だった。

 『人間失格』では神様のようによい子でしたとあるように、葉蔵=神は動かない。善悪を超越して、あらゆる周りの人間の欲望に寄り添ってしまう。面白い。しかしそれは神様がいないというのと同じ。

ヴィヨンの妻』を思い出すと、男のほうは疫病神だけど、妻の方は福神。あれはセットになるが、葉蔵にはセットになる福神はいないのか?

I 真野?

S 真野には福神のような要素が見あたらない。

I ここで終わろうとするときにもっと書くと言って真野とのエピソードが続いている。

S 最後の真野とのエピソードが結構長い。

I 真野に関しては最初から最後までどうなっているのかよく分からない。

K 病院付きの看護婦ではないようだ。

S お金持ちのために雇われている派遣のような存在で、生活のために働いているのではない。その意味で青年たちと同じ有閑階級の一員。東京に帰るなら遊びにおいでよというのを見ると同階級に属する。しかし福神の感じはしない。

I 顔に傷がある。最後の夜に関係をもってしまうのかと思ったが、ほたるの信頼を失うなとあって、この傷には意味がありそうだ。

S 聖なる関係になる。近寄ってはいるけれど、それ以上は近寄らない。一種の職業的な距離を保っている。これは特筆すべきことではないかな。葉蔵はみんな誰もが引き寄せられてしまうが、関係をもってしまうとろくなことにならない。そこで一歩踏み留まっているところに真野には資格がある。何の資格かはよく分からないが資格がある。

 真野はほたると呼ばれて悔しくて偉くなろうとした。偉くなるというのは立派な人間になるということだろう。青年たちは、立派に生きる、美しい感情をもった立派な人間になるというのが目標。それだけが大事でそういう青年たちを描こうとした。

 飛騨も葉蔵にあこがれて彫刻家になり、小菅も葉蔵が好きで自分の美意識を立てることが大事、夜中に外套を着て女とすれ違う、誰も見ていないようなことにこだわる。自分の美意識として立派にありたい美しくありたいというのがこの四人の青年たちに共通している。

 登っていって富士山が見えなかった、つまり目標とする高さが分からない、かいもく行方が分からないのだけれど、みんなそれを目指して頑張っているという小説ではないか。向上心のある、太宰の小説としては爽やかな希望のある印象。ここから「走れメロス」のような小説が出てくるのではないか。

K それで文部省御用達になる。

S 現実には全然名前のない彫刻家だったり洋画家だったりする。無名だけれど、ある高さ、ある美意識、ある立派になりたいというこころで山に登っていく。これは青年たちの姿としてとてもよい。

 真野が大学生と話をするところで、真面目ですからお苦しい、美しい感情をもっているから苦しいという。太宰嫌いからするとちょっといただけないのだけれど。

S 大庭葉蔵を神として読めるかどうかが、この小説への好悪になるかな。立派な作品を作りたいというところは、出発点の太宰がよく分かるような気がする。その立派なには道徳的倫理的も含んでいる。太宰はそれを分けられない、単に素晴らしいではなく立派な小説を書きたいという、太宰の面白いところだろう。悪魔的ではない、芸術がすべてではなく道徳的倫理的なものを含めて立派な小説が書きたいというのは、立派だなと思う。

I 売れたらいいとか。

K 芥川賞をとらなければだめだとか。

S 太宰は立派な小説が書きたい。

K 『グッドバイ』も女と別れるお笑いかと思っていると、戦後の日本の国交回復の話と重ねて読むと非常に真面目。

S 戦後の岸信介アジア諸国と国交回復するというのと、女と手切金を渡して別れるというのが重ね合わされているという話を以前の読書会でした。

K マルクス主義に共鳴するのもそれ。

S 青年たちが太宰に惹かれるというのは、そういう太宰の真面目さ、立派さに惹かれると考えると、それはとても純良なことだと思う。

K 大人たちはだめだけれど青年たちは純粋。

【さまざまな引用】

S だから『ボヴァリー夫人』を引用しているのはさすがだと思う。フロベールはじつに立派な小説家で、私たちが読んだなかでも『三つの物語』は実に素晴らしい立派な小説だった。目の覚めるような小説。

K あの翻訳と解説はとても面白かった。

S 谷口亜沙子さんの解説は、ほんとうに立派な解説だった。

S 世界中の女がみんな自分のものだというところは、『明暗』の津田が世界中の女は自分に惚れていると思っているというのを引用しているんじゃないかな。太宰は漱石を尊敬もしている。『明暗』は、古い父親たちの世代と青年たちの対立があり、これがこの小説にも写されている。

K 問題は親父のほうで、兄さんは分かっている。

S 策士だとも言っていて、相当金を配ったのだろう。警察にも院長にも嗅がせているだろう。新聞には効いたがラジオまでは手が回らなかったのだろう。(谷崎潤一郎の『細雪』の新聞事件で、兄さんはそういうときお金を吝むからいけないと言っている。)

【偶然のテーマ】

I たまたま兄さんが入ってきた時トランプをしていて、たまたまあくびをしたときにフランス語の教授が見ていたという。

S あれが偶然のテーマで、これも漱石経由だと思う。偶然に翻弄されるというのが善も悪も取り込んでしまう葉蔵のふらふらしてしまうという理由なんだろう。偶然に左右される、あるいは偶然を引き当ててしまう。

I トランプで一瞬の駆け引きを楽しむと言っている。

S 札当ても万に一つ当たってしまう。万に一つ葉蔵は当たってしまう。

I 意外と爽やかな青年の話だと。太宰自身の入水の印象が強すぎて先入観があったのだけれど。 

S 太宰自身のいろいろなふるまいがあるけれど、その印象と小説は違っていて、思ったよりずっと真面目で清潔な立派なところを掬い取ろうとしていることが今回分かった。

K 美しい感情というのが文字通りだということがよく分かりました。

S Kさんの善悪を超越するような神の話は素晴らしいですね。

K 神とは、『人間失格』の相手の意図に寄り添ってしまうというありかた。

S そういうところが神の善悪に関わらないありかた。こういう神は神と言えるのか。西欧の神とはまったく違う。

K 因果応報でもなく。

S ただの虚無。

K おおかたの日本人は無神論

S なんでもありという社会のあり方、そして、何でもありで流されてしまう神は、わたしたちそのもの。これまずくないかな? 葉蔵はそれを引き当ててしまって神にされてしまうのだけれど、普通のわたしたちはそうはできない。いくら他動的に生きることがわたしたち心底身についているとしても。新しい青年は立派な生き方をしたいという小説。

I 退院した後、海岸で少女たちがパラソルをもって来るところ、この二人、この場面はどういう意味があったのだろうか。小菅が貝を拾うのを少女たちが真似してというところ。

S ここは芥川に蜃気楼の話があって、海上に陸の姿が映る、向こうからやってくるアベックが新時代と呼ばれて自分たちとそっくりだという不思議な短編がある。この場面がよく似ていると思う。いつもダブルになったりツインになっている。自殺者も二人いるし、小菅も葉蔵と対になって美少年になっている。

I 小菅と葉蔵と少女たちも入れ替え可能。

S 何か単一な存在ではなく、対になっている。特殊な誰かではなく反復としての私というような問題。鏡で写し合っている。蜃気楼が写し出すように。

 出会うと消えてしまうから、話したり関係をもってはいけない。一歩手前の雰囲気のロマンスになる。芥川の短編の一番よいところをとっているなあと。だから真野と関係を持たない。

K それで旧い大家の小説はこのようなところで意味ありげなところで止めると言っている。

S 二人はこのあと結ばれるというのが普通の小説だが、この小説は違うというわけだ。

【了】