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今村夏子「的になった七未」 2020年1月「文学界」 20210327読書会テープ

 【はじめに】

S いくつか気になる点を挙げておく。

 第一話と対になっている。違うバージョンの同じ話だとすると、違いはどこにあるか?

 名前が少し気になる。七未がななちゃんという愛称になるということ。七未の七を取って、七男という名を子供に付けるが、父親は絶対自分の名を取らせなかった。それから、たくやとともやのような紛らわしい似た名前がある。

 それから、七未が当たりたいと思って行動すると、犯罪者を生んでしまうことが気になる。校長先生は警察へ連れて行かれ、ぬの太郎は警備員に羽交い締めにされて警察のサイレンが鳴っている。女の先生は骨折して入院し、そのまま帰って来られない。

【運命の女】

S  七未が逃げると、犯罪者が生じてしまう、犯罪者を作ってしまう。病院の先生も七未に出会わなかったら、院長の娘と結婚していたのだから、そのまま院長先生になっていただろう。七未に会ったばかりに人生が狂った。呼び覚まされて幼児売春に走る。七未は、そのための触媒のような役割を果たしてしまう。本人は疵一つ受けない。

Y  運命の女のような? 

S 七未は何もしていない、ただ逃げただけ。

K 逃げても逃げなくても当たらない。

Y 加虐心をあおってしまう。そして、本人は、バリアーのような、宗教的な、はじいてしまう力をもつ。

K 道路に飛び出しても七未は傷つかず、車の方が事故る。

S 逃げても逃げなくても同じことになるというのは、七未の自分の意志ではないところで起こっている。これはどういうことだろう?

K 当たれば向う側の人たちに入れてもらえると考えている。

S  ドッチボールまでは当たりたい。それから消しゴムを自分にぶつけることで変わる。自傷になる。そして病院にはいり、先生と恋仲となる。

Y 人との関係で、自分の行動も人に届かない。攻撃を受けるかどうかと考えるといじめの話になるけれど、人との関わりから閉ざされていると考えると、

S 前半のここまでが第一話と共通している。このあとが第一話との違いになる。恋仲になれば七未の問題は解消するのだろうか? 恋仲になって結婚することによって、当たりたいという欲求の代わりになるだろうか?

 第一話だと割り箸になってから青年と恋仲になって、心中する話になっていた。だから恋仲になるまでは第一話と第二話は重なっている。

Y 子供が出来たことが二つの話の違いになる。

S  ここに面白い表現があり、世界のなかであなたのためだけの運動靴。これが当たりということになる。

K シンデレラの靴。

Y 七男を手離すのも、その人がぴったりの運動靴を持ってきたから。

S このあと七男との関係がよくわからない。七男を引き取ろうとしていたのか、米田さんも、七未の意志が分からず、子供には興味がないと思って、七男の養子の話を出したりする。

K そのときにはじめて子供の幸せを考えたとある。

S 七未は施設から出て就職訓練をへてアパートに入り、1日でお弁当屋の就職はだめになり、路上に出て、昼間は図書館に居る。つまり結婚は何の解決ももたらさなかった。自傷が再開する。

【図書館にて】

S ここに登場する図書館の青年がよく分からない。後の図書館の人の説明では、常連さんの一人たくや君が七未に声をかけてくれた人だろう。七未には青年に見えているけれど、図書館の人の説明では少年のようにも見えるのだけれど、この年齢の差異はどうなっているの?

K 願いは叶えられる、待っていればいいと予言する。たくやは20歳前後の青年だと思っていたけれど?

Y 年齢はよく分からないみたいです。

K 多分青年だと思う。

S 七未には青年に見えていたけれど、図書館の人たちが言っているのは、母親に付き添われた少年というふうに説明していると読んだけれど? 「あの子」と言っている。

K 図書館の職員は、20才ぐらいでも「あの子」と言うのでは。若いからではなく精神病だから母親が付き添っていると思いましたけれど?

S そのあと、一人で熱帯魚の図鑑を見ているのも少年のように見える。(p.104)

K この親子はたくや君とは別の人だと思っていました。

S  別の親子を見ても、七未はそれをたくや君だと認識している。だから、七未は、何かここ目前にあるものとは違うものを誤認して見ている。

Y たくやくん自体もいない。子供たち群像全員がたくや君に見えている。

S それを、七男と呼ばずに、たくや君と呼んでいくのも非常に面白い。図書館の人たちがそれはたくや君だと言った、そこから七未もたくや君だと認識していく。七男ではなくたくやへ移っているところ。

 それから、コーヒーをくれたコンビニの青年は七男でもなく、たくやでもなく、ともやと言っていた。

 七未は、七男という名前を表立って使えないのではないかな。七男に会いたいと言えなくて、ニアミスのたくやとかともやという名前を、七男というかわりに呼んでいる。

Y  切ない。

S つまり、七未が幻想の中で見ているのは成人しているだろう七男の青年の姿、図書館で現前に見えているのは子供たちで、これは七男と分かれた時の7才の姿をしている。

【公園にて】

S 図書館の次は公園の話になる。七未はもう以前とは姿が変わっていて、七男に分かるように動物ビスケットを印にしようと考える。祭りの射的の景品に動物ビスケットがあるので、それを盗もうとする。

S 七未が七男に触れようとするとコラとおじさんから声がかかる。これも分からない。

Y おじさんから見ると動物ビスケットを盗もうとしているようにしか見えない。魔法がかかっている。

S 七未が動物ビスケットに変身した?

K 七未は動物ビスケットではなく、七未という的に変身した。それは七男にだけしか分からない。おじさんには人ではなく景品の的に見える。

Y なるほど。ほんとうは人なんだけれど、的に変身した。箸に変身する第一話と共鳴させるとすれば、七未の変身をここで考えなくてはならない。

追記  S 表題の「的になった七未」を参考にすると、的になったと考えてよいと思うけれど、じゃあ的になったというのはどういうことなのか? 具体的に的が何に見えているのか、誰にとっての的か、的ということをもっと本文にそくして考えなければならない。

 七未には動物ビスケットが七男に見えたということか。つまり七男が動物ビスケットに変身した。七未が七男に手を触れようとして、おじさんに怒鳴られた。そのあと、動物ビスケットは、パパと少女の客によって取られてしまう。

S それから、お母さんという声が聞こえて七男青年があらわれる。ジーパンをはいて腕時計をしている青年の姿で。彼がが七未の肩を射的で打って七未が倒れる。

K 倒れると人に戻って、血を流した人だから他のお客が来なくなった。

Y おっちゃんにとって倒れたのはただの汚い賞品にしか見えていなかった。最低な言い方になるけれど、野良猫とか野良犬がその場で死んでいたら人が来ないから、商売にならないから捨てに行った。人ではない、ただの的、人権も個別性もない。

K 足をひっぱって動かすような人の大きさはある。

S 一等賞の純金製の招き猫が落ちて七未に当たったとあって、つまり七男は純金製の招き猫に射的のコルク玉を当てたということでは。

Y そうすると、七未はただの障害物で、的ではない?

S 射的屋のおじさんが車から乗れと七未に合図する、あれもよく分からない。

Y あのとき七未が猫にでも変身していたら分かる。第三話とかかわらせれば猫に変身していた。

S  猫に変身していたとすればよく分かる。当たったのは純金製の招き猫で、その猫に七未は変身していたことになる。その純金製の一等賞の的である猫に七未は変身したかった。

Y  誰にとって何だったかというのがとても重要だと思う。七未にとって、男の子はたくやか七男。おっちゃんにとって、見えているのは、景品か客。七男にとっては、当てなければならないものは、景品とお母さん。それが的ということになる。

S 七未は七男の射的に当たって、当たりたいという願いは成就したと考えてよいのだろうか?

【七未の幸福】

Y 七未はこれで幸せだったのかな?

S たくや君が心配して顔を覗き込んでにっこり笑ってくれたから、それが幸せ。

Y たくや君は向こう側で待っている人々の1人でしかないんじゃないか。人に当たられて選んでもらってなんぼの世界になっている。あまりに人に依存していて、そういう世界は気持ち悪い。

S  みんなの承認と、たった一人の承認という方法があるとして、その両方が否定されているというのがこの小説じゃないかな。たった一人の自分の子供である七男も役に立たなかった。七男に当ててもらっても、七未は七未になることはできず、ゴミにように猫の死骸のように死ぬ。この恐ろしさをどうしたらよいのか?

Y 希望がない。

S 七男とはすれ違っている、母と子というのが成り立たない。もう一度、天上に行って、みんなの承認に戻っていく、これ、向こう側の世界に行かないと承認されないのだから、全然承認は成就されていない。

K 安全で安心な場所は向こう側にしかない。第一話でも、亜沙ちゃんにとって心中が成り立っていたのであって、ハンガーになった誰々や、お布団になった誰々やにとっても心中が成り立ち、みんなと一緒に向こう側へ行ってしまった。集団で向こう側へ行っている。

S  曲がりなりにも亜沙は心中が成り立っているが、それに対して、七未はみんなとも七男ともすれ違ってしまう。たくや君だけはついてまわってくる。たくや君だけが小説が作りだす希望ということになるのではないか。

K 彼は気にかけてくれる人、何もしない、見ているだけ、声をかけるだけ。

Y 救いはない。助けろ、助けろ。

S ほんとにかすかに、たくや君の面影だけが七未に最後までつき従っている。図書館で唯一会えます待っていればいいと話しかけてくれたのはこのたくや君だけ。

K  この人の暗示にひっかかって、待っている。これが神。

Y  宗教的。お告げ的。何が大丈夫だよ、思いさえあればというのは最終兵器、根性論、全く宗教的。

S その予言に引き寄せられて七男に会えた、実現した。それ以上のことは何もしないでよい。

K 七男は、当ててすっと去っていく。何かすれば余計悪くなる。何もしないでよい。関わってはいけない。

Y 可哀想。

S 会えたということだけがこの世の幸せ。

K 会えて、子供は大きく育っていて、まともに育っていて、優しい子になっていて、順番を待っていてくれる、それで大成功。

Y  生みの親である自分が関わっては不幸になるという思い込みはかなり危険。人と自分が関わったら誰かを不幸にするという論調は、人のことを殺す。

K 七未としては正しい判断。ここまで来てしまえばそれしかない。

Y 人と自分が関わることによって、自分がいたせいで、この人はこういう運命になった、自分のせいでこうなった、と言い続けている、物語で。それって結局そいつが自分...

K 言い続けているのとは違う。それは自意識過剰もいいとこ。

Y  七未の人生で、色々な人が自分が関わったことによって、こうなったという例を、物語の中で羅列している。関わった人が自分のせいですべてこうなったので、私はひっそりと死んで向こう側で幸せになりますというのは洗脳めいている。人と人とが関わって誰かに影響を及ぼす...

K  でもそれは七未が意図したことではない。たまたまそうなっただけで、この人のせいではない。だから人の運命を狂わせたというのは成り立たない。ただ子供に関してははっきりしている、養子にやったほうがましという判断をした。

S  Yさんが言いたかったのは、自分に関わったら人は不幸になるというのは、ある種の宗教家が使うやり口。

Y   人のことを黙らせたり、自分は無力だから私に従いなさいみたいな、ペテン師の口上に過ぎない。

K すべての宗教はそう。

Y この物語の進め方が気に食わないのは、あなたが行動するとすべてが悪い方へ行く、どんどん希望がなくなって、あなたは死なないと成仏できません幸せになりません、よろしくみたいな、これを物語にして売ってしまうと、どんだけ悪影響が出るのか気持ち悪いなあというのが感想。

S  たとえばお祭りの的屋のおじさんはペテン師の口上を使っている。的屋のおじさんはそれで生きている。ペテン師の口上に乗っかるかたちで話を進めているところがある。だからここはていねいに慎重に読まないと、的屋の口上、洗脳のやり口に乗っかっただけなのかということになる。(そういえば、七未は的屋のトラックに乗らなかった。「星の子」は洗脳の物語だった。)

Y そうなんです、作者が演出として意図的にやったのなら、かなりの警鐘になると思う。

S  ペテン師の口上、洗脳のやり口というのを言えたところまでで、この小説の半分は読めたと思う。その先をもう少し読みたい。

【洗脳の先へ】

S 最初の方にあった、窓辺に色紙がパッと反転して、ななちゃんがんばれというのが出ると、私たちはもう逃れられない。あれも一種の集団的な洗脳で、ああいう幟みたいなのが出てしまうと、もうやるしかないという洗脳。私たちはそういう洗脳に大きく依存している。

 そういう洗脳から、どうやったら逃れられるのか? たとえばたくや君の幻想がその希望ではないのか。たくやの幻想が根強い洗脳から逃れる手がかりだということにならないか。

K たくや君は余計なことはしない神。

Y 天使的な役割? パトラッシュの最後になって迎えにくる神。鏡の中の自分の姿?

S これほどひどく、これほど痛めつけられていても、たくや君は純良な極上の存在。この極上の存在を考え出すこと自体が、洗脳のやり口から逃れる一つの方法になるんじゃないか。

Y 七未にとっての正しさの具現化。いてもいなくてもいいよ、という。

S  もはやいてもいなくても同じなんだけれども、洗脳の嵐の中で、極上のたくや君を思い浮かべることが、かろうじてできる最良のことだということにならないか?

Y  そうですね、最も効果的な抵抗であり、自分の中で正義をもう一度立て直す支えになる。

S ともや君だってものすごく優しい。コーヒー一本でさえ私たちはもうすでに差し出すことが出来ない。

K 図書館にはもう入れないです。

S ぬの太郎って広島太郎と似ていない? まだいるのだろうか。今村さんは中国地方出身だから知っているかも。

S 洗脳的な中で、ああやって囃し立てられたら洗脳される側にいるしかないというのが身に染みている。

Y 頑張れ、走れ、いい成績を取れと言い続けられている。私たちも同じことをされている。

K  いつでも多数派にいるから。

S それから外れた人間がたどる道をていねいに教えてくれているから怖い。

Y 誰からのコンタクトもなければ、承認もなく、自分の中の正しさを抱いて死んでいく。それが成仏。

K  正しいということではない。どうして正しくなければいけないのですか?

Y  自分がほんとうはこんなふうに扱って欲しかったという希望を正しいと言ったのですが。

K 普通に当たりたかったのでしょう。

S 当たらなかった人はどうやって生きて行けばいいのだろう。七未の人生は最低で何もいいことがなかったように見える。

Y たくや君って幻想でしょと言われる。

S  オタクが死ぬとビデオがたくさん出てきて幻想の中で死んでいったといわれるんだ。

Y そんなのは誰でも一緒で、

K ビデオを見て暮らそうが、ちゃんと料理して暮らそうが似たようなもので。それで、第三話の「忙しいほど充実を感じる」と、この作者がそんなことを言うのかと。

S  充実しているというのは、第一、第二話の清潔なベッドやおやつと同じで多数派の生活を言っている。だからいまだに子供連れて心中している。多数派でなければ死んだほうがましと。

Y 最近の子育ては基準が本当に細かくて、何歳で何をできて、それから外れるとポカポカ教室に通うことになったりする。だからこの話はすごく痛い。

K そんな事は気にすることもないし、困ったこともない。松田道雄さんの育児書が大流行りの頃で個性を大幅に認める育児でした。それでちっとも困らなかったです。たいていは保育園なんかで集団の中に入れてしまえば大抵はうまくいくと思うけど。

Y 幼稚園には入れなくなる。だから最後のあれは忘れられない経験、今は充実という現在に埋没していく感じは気持ち悪い。

S 猫になった時間を想像できるというのは、ちょうど主婦がBLをまとめ買いして机の奥に隠しておくというような、非常に個人的な自分だけの秘密を持っているということではないか。

Y 洗脳に対して、自分で防御を持っていないといけないというのと、自分の作り出す幻想は最も自分を支えてくれるということかなあと。

S 60年代とはレベルの違ったバージョンアップしている監視社会がある。周りが囃し立てるというのも程度がまるで違っていて、一生データがついてまわる中での個人の幻想の持ち方は、話が違ってきているのではないか。 

 この小説は、変わってしまった情報社会の中の息苦しさをきちんと書いているのではないか。60年代の人間には、ただの思い過ごしぐらいにしか思えないことを、

K  そうなんです、何と大袈裟なと。

S ところが事態が変わってしまっている。

Y 子育ても、そんなことはできなくても大丈夫だといくら思っても、周りがそうさせてくれない、それで放っておいてくれない。

S  微小な差が重要な問題になっていて、そういうデータを取られてしまっているし、思い過ごしで済ましてもらえない。だから親の世代のアドバイスが全く役に立たなくなっている。

 そんなに大したことを書いているようには見えないのに、じわじわと怖くなってくる。

Y 1回目読むと傷つくばかりで辛いばかりだったが、2回目、3回目読むと傷が修復されていく感じがする。理由がわかってきて、だから後味は悪くない。こういう社会で普通であろうとするのは虚しいことで、虚しいけどやるしかない。

S 逃げ場がない、逃れられない。この管理社会。

Y 囃し立てからは逃げられない、だから、たくや君が必要になる。

S  全くの監視社会の中でで、自由になるのは自分の頭の中だけ、というくらい追い詰められている。何一つ動かせない。

Y だから、第三話の「充実している」がイライラする。

K 集団発狂です。

Y Kさんみたいな怒れる日本人が多くなるといいなあと。

S 野良猫のように死骸がその辺にほっぽらかしになる、野垂れ死が今のもっとも望ましい死に方でしょう。

K 上野千鶴子さんもそう言っています。大ベストセラーになっています。

S  七未の最期は野良猫の死骸になっている、第三話でも猫が車に轢かれている。

S たくや君がいてくれてよかった。七男のことを思い出してどうしているかなというのが今はできなくなっているかも。思い出したらメールをすればいいし、ラインをしろと言われるから、そうではなく、思い出すことそのものが貴重な自由。

Y  思いを馳せるということが重要。シンデレラの靴とか、指輪とか、ロマンチックアイテムが出てきています。

S ハーレクインがアメリカの甘いお菓子だとすると、日本のそれはBLということだろうか。

Y やおい(山なし、意味なし、落ちなし)が甘いお菓子になっている。それが原点回帰。

S  やおいが原点で、現実の結婚は、それからの派生、まやかし、誤魔化し。病院の先生は真っ赤な嘘つきで、七未の結婚の夢はあえなくこわれている。それで、たくや君と一緒に野垂れ死という最期になっている。

Y  そうすると、推しと心中するという小説。たくや君は推しか。

S 賞品の招き猫は当たりですね。私たちはそういう本物の純金猫には当たらないけれど、金張りの猫に当たればいい。

了。