【はじめに】
S しみじみ面白いですね。ところで最初に出てきたドルフィンってどういう店? 本文の中にあまり情報がない。
I 夜の時間帯の店、キャバクラのような?
K 夜のレストラン?
H 8時から午前2時までとある、夜の店。
S 主人公の今川さんの年齢はどのくらいだろう?
H 丘﨑さんは30代半ば(p.40)、今川さんはそれと比べてだいたい20代半ばぐらい?
S 大将は中年、しゅんぼっちゃんは小学4年生9才、7年後の今は高校生16才。わたし=今川さんは、2014年春からとんこつに勤めはじめて7年ということは、今は2021年。年齢や年が妙にはっきりし過ぎていないか?
20代の今川さんは、キャバクラのような夜の店で、まったく非性的な役割の裏方としてコップを洗っていたというのが背景としてある。ボーとしているとか、ぼさっとしているのは丘﨑さんとよく似ている。大将の奥さんの写真は、丘﨑さんと比べて百倍も美人だったとあるから、今川さん自身の容貌も、くすんで目立たないのだろう。
H 丘﨑さんとわたしはタイプが似ている。
K 声が出ないというのも同じ。
S 働けるようになる過程もよく似ている。
あらすじとしては、わたしが張り紙を見てとんこつで働き始める。ボーと立っているばかりだったが、ある契機で声が出るようになり、とんこつQ&Aというメモ集を読むことで接客ができるようになる。店は繁盛して、もう一人丘﨑さんが雇われるが、わたしと同じようにぼーとしていて声が出ない。丘﨑さんは大阪生まれで大阪弁を話す。大将とぼっちゃんはその大阪弁にひきつけられて、いろいろ事件が起きるが、とんこつQ&Aの改訂を通して、ある種の解決に至る。
まず一言ずつ感想を言ってみようか。
【本を読まないわたしたち】
I じつは家の夫は本を読まない人なのですが、これを読ましたら最後まで読んでくれて面白かったと。丘﨑さんと主人公が似すぎていて同一人物かとか、いろいろ疑問が生まれたようです。
大阪話題で、イメージの大阪と実際の大阪の違いが気になる。たとえば箕面は高級住宅街ではないか?
K 箕面は郊外ではないかな。滝があったりする。
H 家の妻も本を読まないけれど、あらすじを紹介したら面白いと言ってくれて、Iさんのところと同じです。
夜中に読んでめちゃくちゃ怖かった。
まず、言葉の問題。セリフのようにして言っているうちに使えるようになり、メモ書きを卒業してやっと自分なりに話せるようになったのに、大阪弁のニュアンスの問題で書かれた言葉に戻ってしまうというところ。
言葉との関わりの変遷を考えると、子供の言葉を覚える過程とよく似ている。子供は、セリフのようにとりあえず繰り返し言ってみて、だんだん自分の言葉になっていく。
それから、社会に出てからの言葉の変化。それまで好き勝手にしゃべっていたのが職場で求められる言葉を使っていると、だんだんなじんでその言葉遣いになっていく。言葉が入ってくることで話している人の形が変わっていって、いつのまにか変なところにたどりついてしまう、その感じが実感をもってホラーだなと思う。言葉から入り込まれてしまうことが怖い。
もう一点は、統一教会のことを思い出して怖かった。マニュアルで布教するあたり、何か似ている。とんこつの名前の由来があるけれど、敦煌がとんこうになり、そのあととんこつになるという、実態と名前が違うというところ。とんこつラーメンを出さないのにとんこつという店名とか。名前が変わって実態が分からなくなるのは、統一教会が名前を変えているのと呼応する。
S『星の子』が実写の映画になっていて評判になっているらしい、本を読まない人でも映画で見ているらしい。しかし、本を読まない人がどうしてこんなにぼろぼろ出てくるんだ? いまや小説を読む人は少数派?
K 昔の文学部を出た同級生たちも途中からまったく読まなくなった。
H まわりの友人も読まない。
I 読んでいるという人、聞いた事がない。
K 読んでも専門書。
S つまり実用書、必要あって読まされている。なるほど怖い、ホラーだ。
【教育と洗脳】
K Hさんの言ったように、子供が言葉を覚える過程とよく似ている。そして、言葉が人を縛る、自分が使っている言葉に縛られるということが怖い。
今川さんが大阪弁をやめて自分らしい言葉を話し出したとき、ぼっちゃんが悲しそうな背中を見せた。大将とぼっちゃんたちは死んだお母さんを求めていたから、それで今川さんに自立されるのが怖かった、嫌だったのだろう。今川さんが言葉の上で自分らしくなれたら、本当は仕事もできるようになったのでは?
S 今川さんが自分らしい言葉を話し出したときに自立の可能性があったということ、そのメカニズムが面白いということですね。
K それから、丘﨑たま美がやってきて4人の家の妙な関係がある。たがいに支えて支え合う団体、ここで『ヴィヨンの妻』を思い出した。
S 統一教会のような組織、大将のとんこつ家族のような小さな社会、そこで使われている言葉にあわせていくか、あるいは自分らしい言葉を取るか。
「らしい」がよく出てきて、とんこつらしいとか、とんこつにふさわしいとか、自分らしい、これが言葉を模倣してその集団その所属へ変化させていく原理。言葉の模倣によって子供が言葉を覚えていく原理。
しかし、この小説では少し事態が違っていないか?読んでいて子供の発達とは少しずれていないか? ここにいる皆さんは、これから切実な子供の観察者になるわけだけれども、実際子供の成長と似てはいるけれど少し違っていないか? まかり間違うと洗脳になる、その少しのずれ、違いが何かをちゃんと読み取らないといけないのではないか?
H 教育と洗脳の違い。
S その違いを繊細に読み当てないと非常にまずいのではないか。切実な問題。
K 丘﨑さんは最後までノートを読んでいて、役割を演じていた。自分らしくなれなかったからとんこつにずっと収まっていられる。実際の死んだおかあさんとは違うセリフを言わせて、それだけでうまくやっていけるのだろうか?
I 丘﨑は洗脳型、今川さんは自分でメモをとってノートにまとめているからどちらかというと自律型。丘﨑さんはひたすら読まされている。
S 丘﨑さんは読む人、今川さんは書く人。
K 今川さんは読むと声が出せると自分で発見しているが、丘﨑さんは発見していない。
H 今川さんも後半どんどんおかしくなっている。メモを作って自分の言葉になおしてというところまではまだ健康的。せっかく自分らしくしゃべっていたのに、お母さんとしゃべり方違うというあたりから変になっていった。
S 今川さんが大阪弁をみずから使い始めるところが大きな転機。あめちゃん食べるとか。
I 大阪弁なるほど大百科を借りて来てQ&Aを作り出したところ。
H 接客で話す内容は定型だけれども、言い方やしゃべり方の癖はその人の最後の砦。セリフは決まっているけれど、言い方は人それぞれ違っている。この最後のその人らしさを大阪弁にさせられたところで、教育と洗脳が交代する。大阪弁を強制されたところで洗脳に交代する。
S 強制というより、みずから大阪弁のQ&Aを作りみずから大阪弁をあえて使い出す。
H 自立的だからこそ自分でやってしまうのか。
S そういうのを内面化という。
I 内面化?
S みずから自発的にはじめる。教育というのはこの内面化をさせる。自発的に従うようになる。
HKI うーん、怖ろしい。
【つづく】