【語り手の実験】
S『道化の華』は何だかとても難しかった。
K 新しい実験的な作品だったんでしょうか。語り手が作者自身で、それを僕と言っている。
S その語り手のどこが新しいのだろう?
まず大庭葉蔵という『人間失格』にも名前が出てくるフイクション上の主人公がいる。そして語り手が僕という主体で、読者に向かって君はというように二人称で語りかける。読んでいると、私に語りかけたのか?とちょっと戸惑う。いわゆる二人称小説はたしかに新しい、実験的と言える。
しかし、語り手が主人公とは別に登場するということ自体はそれほど不思議ではない。どういうところが実験的なのか。
K わざわざ僕は僕はと書いたりしないでしょう?
I 中原昌也もこういう感じで中原自身のことを言い出したりしてよく似ている。金のためだとか自分のことを言う。
S 原稿料がほしいとか、金がないとか。
K 栄光もほしいとか。
S 作品展開のために必要なことを説明するというより、それ以外の一身上のいろいろなことを言い出す。作家その人のような語り手を立てただけでなく、作中人物の一人として登場させたことが新しいということになるかな。現実的な欲望をもっている登場人物が一人増えてしまって、勝手に大幅に関与することが実験的。
現実とフィクションとが否応なくぶつかる。嘘っぱちのフィクションと現実の欲望がぶつかる。これが中原も取り出している太宰スタイル。
【箱の実験】
現実的存在としての語り手は、だからといって現実そのものではなく、これも第二のフィクション。
K 枠物語の変形ですか。
S いわゆるメタフィクションという。フィクションにさらに枠をつける。メタメタフィクション、メタメタメタフィクションになっていく。このメタは、枠であったり箱であったりする。箱や枠が入れ子になり、何重にも重なっている。太宰は好んでこの入れ子を使った。この枠の使い方が新しい。
S 『パンドラの匣』も箱の話だった。パンドラと『道化の華』はよく似ている。舞台も病院だし、人が出たり入ったりするし。いろはにほという東側の病室に名前がついてるのも、実に箱の話になっている。「い」「ろ」には少女、「は」は空き、「に」に大庭葉蔵、「ほ」は空き、「へ」は大学生。石垣は「い」の部屋からしか見えない。このことが後の出来事のヒントになるのだけれど、推理小説の犯罪事件はどこで起きたかと図を書きたくなるような箱の謎を書いた作品のように見える。
メタフィクションとしての枠が空間的な部屋の配置になっているのが面白かった。
【パノラマ式描写】
I しかし病室と病室でやりとりはあまりなかったような気がする。男たちがカッコつけて、女の方は眺めてクスクス笑うぐらいしかない。
S 一番面白いのは、葉蔵が自慢の横顔を見せているというところ。一人の少女は葉蔵の横顔を見て、ボヴァリー夫人を読んでいる。もう一人の少女は布団を被って聞き耳を立てている。ここがパノラマ式の描写となっている。
I 「パノラマ式の数駒を展開させるか」というところ。
S 僕の小説もようやくぼけてきたとある、ぼけてきたというのはどういう意味? 語り手の言うことがよく分からないことがある。
I ぼけた描写があったかな。
S 途中でいろいろありすぎて何を書いた小説かまるで分からなくなることがある。
I 大人をこんなに出さなければよかったとある。
S 青年たちの生態を描くという小説だとすると大人が出てきてぶち壊しになり、ぼやけてしまったということか?
I ロマンスにしたかったけれど。
K 雰囲気のある。
S 雰囲気のロマンス。たとえば真野との関係は雰囲気のロマンスではないかな。
つまり恋愛そのものでもなく、それらしきしぐさがある。真野が真っ赤になるとか、涙ぐむとか。葉蔵と真野とは関係をもたない、これをふんわりとしたロマンス風の関係を雰囲気のロマンスといっているのではないかな。
ふんわり一歩手前までのことですべてがすすんでいく。そうするとどんどんぼやけてしまう。
K 青年たちはいつも本気ではないと言っている。
S 小菅が美少年で、飛騨が葉蔵を好きとか、ホモセクシャルにも見えるし、中途半端な感じで出ていることは出ているが、雰囲気だけで、それ以上は言わないし進まない。
ようやくぼけてきたというのは、作者にとってはいわば効果がうまくいったということでもあるし、読者にとってはこの小説はぼやぼやとしていて一体何を書いているのだろう、どうなっていくのだろうと不安になるということだろう。
ここらでパノラマのようにクリアーに見通せるような描写をしてみようということではないかな。
【つづく】