富岡多恵子 「立切れ」 20210424読書会テープ

【はじめに】

 「立切れ」は、1977年の第4回川端康成文学賞を受賞した作品。同年刊行の自選短篇集『当世凡人伝』に収録された。

 落語の「立切れ」を下敷きにしているので、その内容を略述しておく。芸者の小糸と恋仲になって商売を顧みない商家の若旦那が、親戚一同から蔵に100日閉じ込められる。小糸はその間ずっと手紙を書いているが若旦那には届かない。100日目若旦那は小糸のもとへ急いだがすでに小糸は亡くなっていた。仏前で手を合わせていると、三味線が主もいないのに曲を響かせる。小糸の霊が鳴らしていると思い、若旦那は妻というものを持たないと誓う。そこで三味線の音がぷっつり途絶えると、「立切れ」を告げられる。線香によって時間を切って遊ぶのが郭のしきたりであった。

 立切れの主人公は72、3の菊蔵という落語家、芸人。菊蔵には糸、蝶子、琴という女性がいたが、籍も入れず、墓もない。糸とは10年近く一緒にいて別れ、蝶子とは3年ほど一緒にいて最近亡くなったという、琴とは今のアパートに移って20年余で死別。菊蔵は物好きな学生の勧めで風呂を借りた月一回の落語を1年ほど続けていたが、今回で最後という日、「立切れ」をすることにした。75、6になる糸が訪ねて来て、三味線をつけた。菊蔵は不機嫌なまま学生たちも帰し、糸の一緒に暮らさないかという誘いも断って、また子供が落ちないかなと思いながらドブ川の脇を歩いて行く。

【ロマネスクとリアリズム】

H 落語の立切れとの違いは、妻は小糸ただ一人という落語と、3人の妻を持つというところが違う。しかし、女性がたくさん居るということはどういう意味なんだろう、何で子供がドブ川に落ちるのを待っているのか、分からない。

S 「立切れ」のオチが分からないということですね? 公立の老人センターの人たちがよく笑うというところ、笑うために笑う、内容がよく分からなくても笑う、という読み方になってしまう。

 糸おまえだけが妻だというところ、糸の死後どうなるかというと、八方丸く収まって若旦那はいいところから妻を迎えて商家の大旦那になるのでしょう。

K と思います。

S そういうロマネスクな恋愛とリアリズムの対比という落語だと思う。

H たぶんバージョンがたくさんあるんですよね、僕が聞いている落語はけっこう本気なんです、若旦那が。

S 本気ね。

H  蔵に閉じ込められて、手紙が大量に届いて、わりと本気のきれいな話になっている。

S だから、みんなオチが分からないとこの短篇の本文でも言っている。

K だから、三味線が法要の途中で切れる。

S 線香のさげの分からないやつがいると言っている。ロマンチックな学生は、昔は優雅に遊ぶところがあっていいですよねと、結局よく分かっていない。リアリストの学生は、線香が燃え尽きるのは一本どのくらいでしょうかと言っている。今だって売春は時間いくら、延長はいくらということになっている。それと同じ。

H きれいな話だと思っていると線香が途切れて終わりですということが分からない。学生には分からないが、菊蔵はそれを理解してやっているということですか。

K だから学生は毛唐と同じだと言っている。学生には分からない。

S そういうのにちゃんと騙されるんだ。すべての江戸時代の遊郭ものは、ロマンチックの裏にリアリズムがちゃんとある。

H 線香が途切れる前に、三味線の音が途切れる。何で途切れるかというと・・・

S  時間切れ、金を出せということ。

H ということは、落語は純愛で、小説は二人も三人も妻を持って、全然違うと思ったけれど、よく考えると、菊蔵は一人目、二人目と、次々線香が立ち切れになっていくという話ですね。落語と違わないということか。

S 落語と同じようにロマネスク対リアリズムの軸がある。では、こういう対比は、本文にどんな例がある?

 たとえば年忌はどうか。糸は琴の三回忌と言っているが菊蔵にはその気がない。年忌は、ずーと思い出して忘れないロマンチック・ラブの習慣。

H そうすると、もう一回暮らそうという糸はロマネスクで、断る菊蔵はリアリスト。

S 菊蔵は何と言っているかというと「めんどくさい」と言っている。

H 立ち切れた相手ともう一度なんていうのはめんどくさい。

S お墓はどうでしょう?

K 永代供養の墓を作るというところ。

I 最後の方で、琴の妹が来て永代供養に出すので金を出せと。

S 菊蔵は今度は「金がない」と言って断っている。故人を思い出すためのよすがになるのが墓。墓があればみんなが思い出すというロマネスクな生き方。

 菊蔵は、骨はこのアパートの部屋に置いておけばいいと。菊蔵の死後、誰かの骨が見つかって、どうしようということになって、孤独死の現場になる。これがリアリストの死に方。

H なるほどなあ。だからそうか、恋愛も立ち消えなら、生きることも立ち消え。どうしても深沢七郎を思い出す。菊蔵が琴の妹と話しているところで、その妹も70過ぎで遠からず骨になるという書き方、全員の顔が白骨に見えた「無妙記」という作品がある。

S 骨に見えるというところまでは同じだけれど、その骨を墓として思い出して弔うというように物語化する。これがロマネスク。富岡さんという人は、こういうロマネスクを徹底的に否定して、リアリストとして死ぬとはどういうことかを書いている。「なんとなく」と書いていないか。

 たいした理由もなく、動機がないという生き方、なんとなくそうする。菊蔵の生き方はこの「なんとなく」に集約されている。

K 努力なんかしたことがない、精進しないというところ。

S 努力して、一流の芸を磨いて、精進して、達成する、芸人として完成するという生き方、これがロマネスクな生き方。

K 一流には絶対になれない芸だと自分で言っている。ニンにないと、はじめから居直っている。

S 一流の芸人を目指して精進努力するのがロマネスク、それに対して、なんとなくやってきただけよというのが菊蔵。

H ふつう小説になるなら、芸人として努力して最後に立切れをやって終わるみたいなストーリーになる。なんとなく噺家やって、なんとなく立切れていく命を書くというのは面白い。

S 小説のプロットにいわば反する小説の書き方をしている。 

 つまり、完成したり、成長したり、努力したりするロマネスクではない人生を書くのが富岡さん。

K それを凡人と言っている。この凡人伝の凡人。

S 一流の秀でた素晴らしい芸人になるというのじゃないという意味での凡人。こういうことが私たちにはもうすでに分からなくなっている。当然努力すべきと思っている。

H それはもうロマネスクな考えに侵されている。

K 近代。

S 努力して頑張らないと、ただ単に落ちこぼれてしまうからというだけのこと、動機が不純である。

H おもしろいなあ。

S 富岡さんというのは、ある時代に、そういうことをきちんと書いておいてくれた小説家だった。落語というのは、ほとんど例外的に、そういうシニカルなリアリズムがちゃんとあった。

【ドブ川】

S 次にドブ川問題をしましょうか。

 ドブ川に子供が落ちて死ぬ。子供が自動車で運ばれていったあと、人々がいろいろ話しているシーンがある。このドブ川は、人工的に作られた排水溝で、洗濯や洗い物の排水が流れるドブ川であって、自然河川ではない。

 3つか4つの子供が落ちて引き上げられるのを菊蔵が見ている。近所の人の会話がいくつか、ガスの元栓、生活保護、年取った男の人の一人暮らしはお気の毒ね。ところが、そこで菊蔵が見ているのは子供の若い母親で、下ぶくれで首が長く、昔知っていた女の面影がある、これはロマネスクね。つまり、死んだ子供はどうでもよくて、その母親の中に若くて色っぽい昔の女の似姿を眺めている。これもひどいよね。

I ここの会話も、何で急にこんな会話がはじまるんだろうと思います。子供が死んでいる横で、どうしてこういう会話がはじまるのかなと。

S リアルな生活、それはまあいいんだけれど、それが菊蔵さんにとってちょっと面白いことだと言っている。菊蔵が比較的機嫌がいいのは、一人で子供が引き上げられるのを見ているときとか、500円でおつりを余計にもらったときとかとある。そうして最後に、また子供が落ちて死んでないかなとあって、これアンモラルですね。

H 日常生活が淡々と続いているなかで、事件ちょっとしたお祭りのような捉え方。

I  まったく共感は出来ない。 

S  じゃあ、おつりが余計だったら?

I K あとから気になるから神様が見ている感覚があって返します。レジやったことあるから。

S 足早にその場を離れるとあるから、菊蔵もまた悪いという気持ちはもっている。

H リアルに子供が死んでいないかというのはないけれど、子供が悲惨なめに遇う話や物語は結構多くて、そういうのは人気があったりして、小説や物語だと悲惨な話を見たいと思っている人は多いんじゃないか。

S 最近の例だと、子供が行方不明というのはとても気になるし、はっとする。スーパーボランティアが一日で子供を発見したとか、子供が死んだり、発見されたりすることにはニュース・バリューがある。老人が死んでもニュースにならない?

K それは当たり前だから。

S つまり、そういうことを言っているんじゃない?

H 老人の死はリアルだが、子供の死はロマネスク。

S そうじゃなくて、老人の死はニュース・バリューがないけれど、子供の死はニュース・バリューがある、その比較の上に成り立っているのがロマネスクじゃない? つまり老人の死より子供の死の方がニュースバリューがある。

 一流の芸人の方が、三流の芸人より価値がある、それと同じでしょう? それ当然だと私たちは思ってしまう。それでいいの? コロナだったら、子供よりも老人が死んだ方がまだ救われる。どちらかが死ななければならないとしたら、トリアージというんだっけ、老人の方に死んでもらうと思っているでしょう?

K 年齢制限がやって来ます、数が足りなくなれば。

S 老人本人でさえそう思っている。それがロマネスク。価値があると思っていることがロマネスク。仏様の目から見たら、老人が死のうが子供が死のうが、死ぬのはみんな同じことという虚無性(暴力性)がある。

S いかがでしょう。また子供が落ちて死んでいないかなということは、子供ではなく自分が落ちて死ぬということを考えていると言っていいのではないか。

H どういうことでしょう?

S つまり、子供が落ちて死ぬと、みんな集まってきて声をかけてくれたりする。普段口も聞かない人々が、子供が死んだということだけで、みんなはしゃいでいる。はしゃいでるんだよ、これ。

 子供が死ぬと、ニュースだ、ニュースだと言って、大騒ぎする。じゃあ老人が死んだらどうなるだろう? そうすると、たぶん若い女の人が、一人暮らしであんなになっちゃおしまいよねとか、酒飲んで足滑らして死んだんだってさとか、どうせあることないこと、ろくなことは言わない。つまり、いつか自分もここで足を滑らしてドブネズミのように死ねばいいんだよなということにならない? 

H それを聞くと最後の一行が怖くないですか。ドブ川にはところどころコンクリートの小さな橋がかかっている。

K 子供は頭が重いから、ここから落ちた。

S ここを渡るときに老人の自分も転んで落ちる。

 同じように、子供が落ちて死んでないかな。それがリアリズム、めんどくさくて、金がなくて、なんとなく生きている凡人の死に方だと菊蔵は納得している。その納得ができるかできないか、さげが分かるか分からないかということ。

H めちゃこの話面白い。

S この感覚が私たちにはもう分からなくなっている。人権こそみんな分かって居るが、死ぬときは三歳で死のうが老人が死のうが同じということはもう誰も分からない。

【死体が燃える音】

H 川端康成は死の方から末期の目で書いたと言われているが、川端の方がロマネスクで、富岡多恵子はリアリスト。

S 何で菊蔵はこれほど不機嫌であるか。風呂屋の会が終わったあと、学生たちも菊蔵のあまりの不機嫌に帰っていった。噺をしているときにも菊蔵は内心できわめて不機嫌だったとある。

H 機嫌がいいのは、珍しいことがあったとき、子供が落ちたとか500円札でおつりが余計に戻ってきたとき。

K 噺をするとき自分だけが選ばれて注目されて、それでもやっぱり不機嫌。

S 逆に、そうやって一流の芸人のように注目されること、そのことが不機嫌。

I  そうですね、インタビューされているときにもひどく怒っていた。

S あのときも、一流の芸術家のような書き方をされて、非常に不愉快になったとある。菊蔵は一流の芸人として扱われることが不機嫌だった。

H ロマネスクに巻き込まれるのが嫌だった。

I 学生が勉強になりましたと言って、何の勉強になったのだろうと。自分にそんな価値はない、そんなつもりじゃないと。

S 誰かが価値判断をして、こっちよりこっちの方が価値があるという評価がいやなんだね。評価するということは、どちらが価値があるかという判断をする。それをまったく認めない。

 公立の老人センターの人たちがどういう芸人が出てもよく笑うとあり、その笑い声が子供のときに聞いた、死体が燃えるときの音に似ているとある。これは戦争の記憶? あるいは原爆の記憶? 次の「笑い男」も場所は広島ではないかと思う。菊蔵は戦争に行っているが、子供の頃だと戦争とは関わらない。何も書いていないから分からない。

K 昔だったら火葬場で死体が燃える音が聞こえる。

H この一行で、この小説がカバーしている範囲が一挙に広がる。いろいろな死がカバーされる。

S そうだね、一種抽象的・代表的な死体の記憶なのかもしれない。皆さんがそれぞれ思い出して下さいということか。

【おわりに】

H 「立切れ」で行こうというとき洒落と言っているのが気になる。深沢七郎に洒落がよく出てくる。若い者が洒落言葉で語るとか、おりんばあさんも歌の調子に合わせた台詞なら答える。ここで洒落て「立切れ」だというのは、風呂屋も立切れだから出し物も立切れだというのはロマネスクだと思うのですが、ただ洒落て決めるというのが菊蔵には合っている。

S 風呂屋の会がなくなるとき、菊蔵は不思議に明るい気持ちになったとある。「立切れ」にはいろいろ意味があって、風呂屋が立ち消えていき、噺の会が立ち消える、命が立ち消えると言う3通りの意味があるように思う。

 菊蔵はもう何の楽しみもなくて、自分の命が立ち消えになることだけを考えている。何の達成も完成もなしに、年をとったらドブ川に落ちて死ぬ、何の理由もなく立ち消えるというのが、リアリストの望ましい死であるということではないか。不思議に明るい気持ちになり、浮いた気持ちになるという、これは人生の終わり方の問題ではないか。

H 風呂屋がなくなるだけでなく、自分も立ち消えるという重なりがある。

S 洒落の反対は真面目だと思うのだけれど、真面目は、目的があって達成があって完成があって努力と精進をするというのだとすると、洒落で死ぬというのがその対極にある。洒落のように立ち消えるのがよいと言っている。

H 洒落にはその場限りというような、思いつきとか、という意味がある。

S 偶然性という問題だね。私たちは必然の人生に飼い慣らされているから、それ以外を思い浮かべられなくなっている。