【歴史と神話】
S 小説は、歴史と伝説の間にあって何ができるかという問題がまず出ている。歴史の書物に一行しか書いていないことでも、語り伝えられた口碑は膨大になる。文字は縮約されている。両者には、語り方の違いがある。歴史上の人物には、道鏡とか孝謙天皇とか固有名詞が出ている、一方、この三宮、四宮とは誰のことか、よくわからないままの語りが神話・伝説の方法である。
戦前には、神武天皇だのを歴史事実として語った、事実として300歳とかいう年数を数えた。それに対して、ここで取っているのは神話・伝説の方法で語る。この二つは60年代にはもっとはっきり敵対していた。深沢は神話・伝説の方法を採用する。神話・伝説の方法とは、文字ではなく口頭の語りを重視する、年代がはっきりしないままで語る。
それを説明するために、冒頭に、信玄の歴史と、富士山の伝説を掲げている。
S 小説の舞台は、年代的にはかなりぼんやりしている。不明な時代を小説の舞台にしている。
H「万葉以後か、または以前だと推察できるだろう。」(p.324)というのは、どのくらいか分からない。
K 「長い万葉時代でも、その少し以前か以後ではないだろうか。」(p.325)というのも、いつなのか分からない。
S 長い万葉時代というのは、万葉学者はもう少しはっきり言っている。例えば上野誠の『万葉集から古代を読みとく』を見ると、万葉集は8世紀の中葉に成立し、7世紀と8世紀を生きた日本人の声の缶詰と述べている。この本が話題になったのは、はじめに新海誠の『君の名は』を紹介しているから。『言の葉の庭』もそうだけれど、新海さんは文学部出身であるのか、古典を使って、歌の上の句と下の句を唱和させている。
深沢七郎も新海誠も歌の唱和を用いている。その元は万葉集にある。万葉の歌謡をもとにした小説ということがはじめに示されている。
H 深沢の小説には「シャモのユーカラ」など和歌がよく出てくる。万葉集が好きで、持ち歩いていたという。万葉集は天皇賛美で深沢のイメージに合わないと思ってきた。
S 万葉集には、海行かばの歌もあれば、防人の気持ちになって歌うというように上下の人々の声を集めている。
猿のような人は歌を詠まない。挨拶の仕方も知らず、話すこともできない。
K おばあちゃんはなぜ話せる?
H 老人たちが語り伝える役割があるから、話せるのでは。
S 若いものは外に出さず接触もさせない。婆さん階級は支配し、若者は支配される。
K 性に関することだから話さないのかと思った。
S セックスは、人口問題であり、子供を何人作るか、そして食料の管理こそ、村の政治問題。老人は、そういう意味で、若者のセックスを制約している。それに対して、三宮が奔放な制約のないセックスをしていることが面白い。
H 古典では、身分の高い貴族は色々な女性と関係を持つ。それを村でするとこうなる?
S 源氏物語だね。源氏にはすべての性が許されている。これが天皇。土地の収穫物も、女性もすべて天皇に属する。ところが、この作品では、いくら宮の種を宿しても3日すれば猿になるのではないかな、これがすごい。
H 正隆も3日も村に滞在すると猿になると書いてある。
S 顔が似ているとかいうことになると、血筋の話になってしまう。どこかの代の話のように、天皇の血筋が絶えようとした時に、山の奥から天皇の血統の子供を探し出してくることになる。だから似てはいけない。村の子供の多くは三宮の子供だろうけれど、3日すれば村の猿となるというのでなければならない。それが万世一系ではないということ。
H ここはかなり注意深く書いている。
S 源氏物語では女房が常に側にあって誰といつ交わったかを記録していた。そうしないと天皇の血筋がわからなくなる。
H 文字で管理しているわけ。
S 三宮がおもしろいのは、過剰、異常、異様な性欲のために流されたというが、実際のところ、四宮との政争に敗れて、三宮は流されたわけ。その時の理由が、異常な性欲とか頭脳の病だった。孝謙天皇と道鏡にも同じような伝説がある。
H 三宮が色々な女の人と交わること自体はふつうのことなんですよね。
S むしろ推奨されている、どういう女性が来てもできないと困るのではないかな。それが仕事。源氏と対比して考えるとよく分かる。源氏物語は、天皇の血筋をいかにしてのっとり、管理するかという小説。源氏に似た子供が生まれてくる。美しいは皆似ているとか。
つまり、この作品は木だちの猿の物語。万世一系の天皇の物語と、どちらを喜び、どちらを選ぶ? 学校教育を受ければ、源氏は最高の古典だと思ってしまう。万世一系の素晴らしい古典を持った私たちと、木だちの猿である物語と、どちらを自画像として選ぶか? 木だちの猿であると言われて喜ぶ人がいるかどうか?
つまり、この小説は、万葉集をもとにして、源氏物語に対抗した、木だちの猿の物語ということになる。
【続く】