清風読書会

© 引用はアドレスと清風読書会を明記して下さい。

太宰治 『斜陽』(読書会テープ 2017年12月28日)

【はじめに】

 「斜陽」の冒頭はスウプと蛇の話。スウプを「いただく」のは誰か? スウプを「いただく」という敬語は誤用か? 

 かず子は母になりたかった、かず子は母に重なろうとしてきた。「私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海をめ、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。」(2)

 かず子が母と重なろうとしてきたとすれば、スウプをいただくは誤用ではなく、母に成り代わったかず子の自由間接話法として読めるだろう。はじめ、かず子は母と同じになろうとしていたが、母と同じにはなれないことに気づく、ここから「斜陽」がはじまる。

【恋と革命】

A かず子は、ついに子供を手に入れて踏み切ったが、直治はそこまでできなかった、でもそういう思いを前から持っていた。

S 直治は姉と競争していた?

A 直治は姉のような道を進みたかった。

S どこへ行くかと問われたときに、「革命家になる」(5)とかず子が言い、直治は「え?」と予想外だった、また、直治の遺書でも、姉さんは結婚して夫にすがって生きて行くだろうと言っていた。

 姉と直治を比較して、直治は姉が羨ましかったというのは、読者の視点から見たときではないかな。

H 行動的には、姉が直治の後を追っていった。本を読み、上原と酒を飲む。

S かず子は直治の後追いをしている、ほとんどすべて直治のしたことをなぞっている。上原との結びつきを恋と言っているが、情交は屈辱。上原ははじめ「奇獣」、6年後に再会した時には「一匹の老猿」で、これが革命かというくらいみすぼらしい。

H 結ばれた時に「すでに恋は消えていた」とある。

S これは、どういう話として読んだ?

A 姉は新しい次の世代を作って戦後を生きていく話。他の登場人物は皆死んでしまっている。

S そうすると、革命の中身は子供を作ること一点にかかってくる。

H どういう経緯で子供ができるかより、マリアの子であることが…

S 子供に父親はいらないんじゃない? マリアと同じで父親は要らない。母親もピエタになぞらえられている。無原罪の懐妊、男なしに子供を作る、マリアがキリストを産むように子を産むのがかず子の革命だと思う。貴族も庶民も血筋で繋がっていくが、神様からもらった子供を授かるという意味で革命になる。真の革命は神の子を身ごもること。

 私は処女懐胎の話として読んだ。日本の天皇家も貴族の一族も血筋によって呪縛されている、それに対して革命になるとしたら、マリアが無原罪の懐妊をしたというキリスト教の秘儀はそれに対抗できるのではないかな。イニシアルMCはだからマイクリスト。

H  MCは、チェーホフ、チャイルド、コメディアンというように中身がどんどん変わっていく、キリストがおおもとにあるというより、中身が変わって行くことが重要では。

S マリアの処女懐胎キリスト教の秘儀、ひめごとであり最大の謎。だから原型であり、何にも入れ替えができる入れ物になっている。『こころ』のイニシアルや渾名と一緒で、先生=私になる入れ物を提出することが重要。

A 一夜を共にしたあと、「私のひと。私の虹」(6)など上原のことを呼んでいるのに、途中でマイチャイルドと呼んで、なぜ子供のことが出てくるのか?

H 上原のことを、自分の恋人でもあり、子供でもある、マイチャイルドになぞらえてこう呼んでいるのでは。黄昏と朝が一致するように、恋人と子供も一致する。

S かず子がマリアの立場で言っているとすれば、神の子として人間はすべてマイチャイルドになるのでは。つまりここで、かず子も母と同じようにピエタであることを実現した。かず子の視点がマリアのように高く遠くなったと考えれば、黄昏と朝も一致する。

 ここの部分は無茶苦茶に矛盾して、混乱している。『更級日記』の夢見る夢子ちゃんであるかず子が現実の男と対面して混乱し、思考の組み替えが起こっている。ここで、かず子はマリアになった、と考えるべきでは。

H 母(ピエタ像)がしたことのバージョン違いをかず子もする。

S マリア娼婦説がある。処女であり、娼婦である。やっていることはど中年の男と30歳過ぎた女のしょうもない情事なんだけれど、マリアになることによって神の子が生まれてくる。姉はマリアとして処女懐胎を果たした、直治もその時自殺によって同時に恋と革命を果たしたのではないか?

 直治は軍隊に行って中毒になっている。この時代の戦争に行かなければならない男にとって、中毒は軍隊を内側からボロボロにする反戦思想になるのでは。

 宮崎駿の『風立ちぬ』が、同じことをしている。男はタバコを吸い続け、女は肺病を生きることが反戦そのものとなる。直治も自分の身体を壊すことによって革命を成就しているのでは。国家有用の身体を壊していけば反戦になる。上原も死ぬ気で飲んでいる。文学者たるものそうでなくては。直治はいつ死んでもよかった。

AH 死ぬ前に直治は革命を達成しているのか?

S かず子も自分の身体を汚すことによって革命になるというのは、ラース・フォン・トリアーの映画『奇跡の海』にそっくりでは。事故で全身麻痺になった男の無垢な妻がお告げによって娼婦になり、男たちに身体を差し出し、死んでいく、夫は回復するというほんとにしょうもない内容なんだけれど、『ドッグヴィル』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などともに、世界的に非常に評価が高い映画。キリスト教の核心部分には、こういうしょうもない献身が常にあるということではないかな。「身と魂とをゲヘナ(地獄)にて滅し得る者」(6)の意味はこの献身。

A 革命とは何に対する革命と考えればよいか。

S 旧体制、戦前戦後体制、世間とも言っている。戦争があって海の表面は嵐でも、その底の海水は「狸寝入りで寝そべっている」(8)とあるから、戦後から今でも全然変わらず続いている世間が真の革命の対象だと思う。表向きの革命である貴族から庶民へではなく、変えにくいところ、変わりにくい世間の問題を太宰は対象にしている。この世間が変わらないかぎり日本は変わらないと太宰は言っている。

A 革命は第二回戦、第三回戦があるとかず子は言っている。階級を一回越えたぐらいでは革命にはならない、世間はそれほど甘くない。そもそも革命は階級が下の者からするもので、上から革命するのはおかしい。だから、第二回戦、第三回戦、それくらいしないと変わらない社会の道徳革命を言っている。根が深い。

H もし階級を越えるという話だけなら、「人間はみんな同じ」(7)という直治のメッセージと矛盾してくる。

S 日本の世間や身の回りの社会の変革と、国家体制や階級闘争の大きな社会変革の二重構造がある。マルクス主義は後者の大きな社会変革しか扱わない。それなりに意味はあるが、重要なのは、変わらない世間の道徳革命。

A フランス革命の例があるように、表向きの社会体制は団結すれば変わりうる。団結しても人の心は変革しにくい。弟は表向きの体制を革命しようとし、姉は中身を変えようとしたのでは。

S 直治の遺書で、「マルクシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだなどとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだなどとは言わぬ。」(7)。すごいね、マルクス主義も民主主義も方針があり理想がある、両方とも立派だと言っている。牛太郎だけがみんな同じだと言う。みんな同じだというしょうもない思想、虚無の思想。何をやっても同じだという、これが直治の革命の対象だと言っている。

H  虚無の思想は…

S  日本社会のどんな理想でもってしても変わらない、その根底についての革命を言っている。直治もかず子もこの道徳の部分で戦っているのでは。

A 「斜陽」は1947年に書かれたが、今も少しも変わっていない。

H 太宰の文体とあっている。主義主張のはっきりしたものなら、文体もかっちりするだろうけれど、変わりにくい根底の部分についての革命は、口語や繰り返しや文体の混合でしか書けない。