清風読書会

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ヘンリー・ジェイムズ 「教え子」その3 20230205読書会テープ

【国際テーマと詐欺】

I コスモポリタン的生活というのは、最近のインスタグラムとかユーチューブで、海外へ行って私たちこんなセレブリティなことしていますとか、仕事が日本では一攫千金もできないから、海外で新しいことをする、小説を読みながら近しいものがあると思いました。

M モリーン・ユーチューバー一家

S 靴下の穴は絶対写さない。ユーチューバー詐欺師。

K 円が強いときの海外旅行も詐欺のようなものでしょう。

S 為替差があるときは国を跨ぐだけで利益が生じる。ジェイムズのいわゆる国際エピソードというのは、そういう詐欺テーマであるわけだ。

モーガンの死】

S ジェイムズの国際エピソードというのは、アメリカ人がヨーロッパに来ていろいろ問題が生じる。「デイジー・ミラー」もアメリカの若い娘がヨーロッパにやって来て結婚しようとするのだけれど、死んでしまう。あれ? そうすると、モーガンが死ぬとか、間に立った人間が死ななくてはいけないというパターンがあるのかな。

M 天才でなくても死ななくてはいけない?

S あるいは死んだから天才になる? 「鳩の翼」もアメリカ娘娘ミリーが死ぬ。「ヨーロッパ人」ではヨーロッパの女性が修道院に入って現世の名前をなくして自分に死亡宣告をする。なにか間に立った人間のなかの誰かが生贄のようにして殺されるという感じがする。一番幼いモーガンが生贄として死ぬ、それによって偽りと正しさがきちんと分けられる。

 モーガンはモーリン一家のいかさまぶりが恥ずかしくいやで暴こうとしている。どうやったら暴くことができるかというと、モーガンが死ぬことによってはじめて暴露される。テンパートンの手元には髪の毛一房と手紙が数通のこる、テンパートンの回想の記録になっている。そうすると、モーガンは死んだことによって天才児、素晴らしい子だったということになる。

H 天才に見えたり、そう見えなかったり、反転したり色々な色に見えるというのが、死ぬことによって打ち止めになるということか。

S これで全部瓦解して、少年の死という回想話におちつく。

M 最後の場面で、夫人は、あの子はあなたのところへ行きたいとばかり思っていたと言っているが、モーリン氏はそうではないと言っている。これはどういうこと?

H この辺とくに色々な色に見える。

S 夫人はテンパートンとモーガンの同性愛的親しさを見ていて、モーリン氏はそうではないということか。

M モーリン氏の冷静さも不可解、取るに足らない出来事だと思っている?

H テンパートンがロンドンに行くことになったときも冷静に受け止めたとある。

M このお父さんは肝心なときに家にいない。モーガンの死の時は居合わせた。

S モーガンの死に立ち合ってしまったのじゃないか? モーリン氏は登場しないことによってすべてを虹色に保っている。モーガンの死に立ち合ってしまったから真偽が分かれてしまった。つまり詐欺が暴かれた。

M モーガンがテンパートンの手に結局渡らなかったというのはどういうことでしょう? モーリン氏は、モーガンがテンパートンと一緒に居たいというとき、「いつまでもお前の好きなだけいてもいい」と言ったりする。しかし、最後のシーンでは「そうではない」と否定している。

S 愛情問題で、モーガンは父親を愛している、あるいはペンパートンを愛している、その愛情の駆け引きということになるかな。父親がいかさま師で悪人だとして、それでも子供は愛さざるを得ない。一方、公明正大まっさらなペンパートンという新しく登場した青年への愛情と、少年はどちらを選ぶだろう?

K 先生のところに行きたかったのは事実だけれど、父親に対する愛情もあったということ。

M 息子は父親を殺さざるをえないという。

S フロイトの時代だし。モーガンが死んだということは、エディプスコンプレックスに失敗したということか。父を殺す代わりに自分を殺した。

ペンパートンは第二の父親、この人に面倒を見てもらいたいと思った。

S エディプスコンプレックス型の葛藤で、その同性バーション。勝負はあったというので、それでモーリン氏は冷静であるのか。父とペンパートンの間で、モーガンフロイト的葛藤があった。

I モーガンの命をもらったところでありがた迷惑だというセリフがあったので、多分ペンパートンは、経済的にも精神的にもモーガンを幸せにしてやることはできなかったのではないか。ペンバートンは最後に熱い思いを言ってやるべきかもしれないがそうできず、モーガンはウェルカムされていなかったのではないか。

S モーガンはそれに絶望していたのかもしれない。やっぱりパパの方がずっと強力だったということか。それすごいねえ。

H 面白い。

K ペンバートンは自分一人も食べていけないのだから。

I そうですよね。Hさんの言うようにペンパートンはやりがい搾取されている。自分一人の命を考えたときに、やりがいだけでやっていけないよなあと。

S つまり、やりがいだけで食べていけないし、詐欺師になってでもモーガンを自分の元で守るという決意がペンパートンにはできない。モリーン氏はそれを平然とできる。ペンバートンは顔が赤らんでしまってできない。それにモーガンは絶望した。

漱石ヘンリー・ジェイムズ

M ペンパートンとモーガンが一緒に暮らすようになったら、ペンバートンは詐欺師になりきれずに貧乏になる。そのときモーガンは、ペンバートンを殺すか、自分が詐欺師になるか。

S モーガンが第二のモーリン氏になって、ペンパートンとの生活を詐欺によって成り立たせていく。モーガンにはその素質がある。ペンバートンにはそれができないというのがこの話の味噌になるわけだ。できないから髪の毛と手紙を抱えて懐かしんでいるという非常に情けない状態になる。

M エリートはそういうものでしょうか。

S 漱石の「こころ」の私と同じ。先生が死んでしまうというのがよく分からないのだけれど、そういえば、先生の死とモーガンの死はよく似ている。みすみす先生を殺してしまった。「こころ」も悪の問題を抱えていて、悪の問題に手を染めるのがいや、むざむざと先生を自殺に追いやってしまって、「私」の手元には先生の遺書と数通のハガキが残り、それを抱えて呆然としている。よく似ている。

 モーガンの死は謎。先生の死と匹敵する。日本の国文学会は先生の死をめぐって延々と議論を続けている。モーガン少年の絶望は先生の絶望でもある。電報を打って呼ぶのだけれど「私」は行かなかった、あのとき「私」が先生に会えば先生は自殺しなかったかもしれないという説がある。

 ペンパートンがここで詐欺師になる決意をして、モーガンを連れ出せば、モーガンは死なないで済んだ。しかしこういう知性にあふれたエリートは詐欺師になることができない。

M 卑近な例で言うと、文系博士課程の学生と結婚するか、金融に勤めている大金持ちと結婚するかの選択。

S 「こころ」の先生もお金の話題が非常に多くて、叔父に騙されて財産を取られたと生涯言い続けている。自分は騙されて人への信頼をなくしたが、自分は騙す側には決して立たないという潔癖さがある。モリーン氏の詐欺師の風貌が重要な問題なんだろう。

「こころ」は1914年、「教え子」は1891年。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンリー・ジェイムズ 「教え子」その2 20230205読書会テープ

【資本主義前夜】

M これ読んでいて資本主義の話に思える。私の今の仕事はリース取引で、会社が物を買ってその代金と利息をお客さんからもらいながら、その物を貸す、金融商品なのですが、これをしていると騙ましている感がすごくある。この小説は、資本主義に翻弄されている青年のように読めるが、この子供はどういう位置づけになるか、よく分からない。家族は明らかに大資本家的な詐欺師的な行動をしていると思うのですが、この子供は何であるのか、どういう位置づけになるのか。
S 贋金を流通させている中で、モーガンはその中に混じった金貨であるような。悪貨が良貨を駆逐するように、モーガンは駆逐されてしまった。

M 喜びすぎて死んでしまう。その死に方は何なんだろう。

K お兄さんはちゃんと稼いでいるとあるが、クラブの賭け事で稼いでいる。プーシキンの小説に出てきたように最終的には必ず負ける。

S これも資本主義と関係がありそうだね。資本主義がきちんと働いていないから、若者はそこで賭け事をするぐらいしか収入が得られない。まともに資本主義が働いていれば兄もちゃんと仕事をして生計が立てられる。
S テンバートンの学歴はイェール大学からオックスフォード、かなりなエリート。わずかな遺産を使い果たして、学歴によって上昇しようとしている途中で、2、3年モーリン一家に捕まって、詐欺に引っかかって、ただ働きをさせられている。これも資本主義がきちんと成立していないときの現象なのかなと思う。
M 反知性主義ポピュリズムですね。

S アメリカ人一家がヨーロッパに行って、二人の娘を結婚させようとしている、これが客観的な姿。そういう場合、他の作品を見ると、アメリカ人は新興財閥お金持ちで、その持参金付きの娘が、ヨーロッパのお金のない貴族と結婚する。その両者の結婚は、たがいに騙しあう詐欺の関係。地位や身分と、お金を交換する騙しあいになる。ヨーロッパからアメリカ人はどう見られていたかというと、バケツを売って金持ちになったんでしょうという軽蔑の対象になっている。

 そういう卑しいアメリカ人がお金の力で娘を売り込むというのがヨーロッパ人には詐欺に見える。詐欺一家というのは、誰から見て詐欺師なのかをよく考えてみる必要がある。

S 姉二人は侯爵のような結婚相手のあてがあった。お花をくれる人。ところが花だけ届けて求婚はなかった。

K グレンジャー氏はオペラに現れなかった。
S モーリン氏はアメリカの金持ちのふりをして二人を結婚させようとしているが、ヨーロッパの卿たちは結婚をちらつかせて結局求婚しない、どちらが詐欺かはかなり微妙な問題。そもそも結婚自体が詐欺交換のようなものでは?

H モーリン一家が詐欺師だと思ってきたが、あらゆる人がたがいに騙しあいをしている。あらゆる結婚は詐欺に見えるし、教育も詐欺かもしれない。

K 洗脳だし。

H モーガンはかなりテンバートンの影響を受けていく。最初はモーリン一家がどういう家族かという秘密があったが、その秘密を真ん中においてモーガンとテンバートンの駆け引きがあったけれど、途中からは相互に理解しあっているのでは。

【秘密】

S 秘密を真ん中にして会話する、これが普遍的な対話や会話の基本形ではないか。あらゆる場合に秘密を間において話をする、その秘密を、いかにして見せるか、読み取るかということをしているのが会話であり対話であり、これが基本的なジェイムズの文章についての考え方ではないか。

人間が会話をするということについて、秘密を間において話をする。虹色な、どうにでも見える秘密を間におくというのがジェイムズの文章の特色なんじゃないか。

 ヘンリー・ジェイムズの文章を読んでいると、何か見えないもの、何かよく分からないものが置いてある感じがする。それを勝手に解釈するとこう見えたり、見通したりすると変なものが見えたりする。虹色の変わりうる秘密を置いて会話するというのが基本形ではないか。

H モーリー夫人とペンパートンの会話でも、モーガンにもう話したかどうかとか、モーガンの心の秘密とか、間にモーガンという秘密を置いて会話している。

S 最初はお給料の金額を聞こうとして聞きえなかった。金額の秘密。それからモーガンが天才児であるとかそうでないとか。分からないものとしてのモーガンについて語る。不透明なものが会話のあり方として出ているから、ジェイムズは延々とそれについて書く。延々と書くけれども、その秘密はいくら書いても明らかにならない。

K その秘密を大げさに言うと心理に置き換えることもできるのでは?

S 教養があって知性が高いと心理だというふうに読み間違えたりする。もっと即物的に不透明なものが間にあるということ。それで、小説の最後と最初で、この秘密は明らかにされたというより秘密が深くなったと言わざるをえないのではないか?

H モーガンの死についても、なぜ死んだのか分からない。テンバートンの言うこととモーリー夫人の言うことも異なっている。モーリー氏の冷静さも。

M アングロサクソン系の子供とは?

K アメリカの子供ということ?

S イギリスもアングロサクソンでは? 

M ロンドンは土着のお金持ちという印象があります。ペンパートンはロンドンの家庭教師先から出てきてしまう。

S ヨーロッパに対する新興国アメリカは、お金だけあって文化的にも教養的にも劣っていると考えられていて、モーリン一家は、ジプシーのようだとあるように、アメリカ出身の定着しない胡散臭い一家と考えられていたのだろう。ジェイムズ一家も、アメリカでは十分な教育が受けられないと考えたので、子供の頃からヨーロッパの各地を巡ったという。

 ヨーロッパの文化資本を備えている立派な紳士階級の人々に、アメリカの新興の流れ者が何とかして食い込もうとする話。そのときに騙し騙される関係が生じる。ヨーロッパが一方的に文化的に高いとかモラルが高いとはいえないのがジェイムズの小説の通例になっている。

M 京都と東京のような。

S 誰から見てモーガンが天才児かという問題がある。母から見て天才児だけれど、ペンパートンはそれに最初からかなり影響されている。

M モーガンが天才というのはどういうところでしょう?

S モーリン一家が一家だけに通じる言語を使うというところ。これってヴィトゲンシュタインの私的言語のようなものじゃないかな。ヴィトゲンシュタインは超有名一家で、モーリン一家の頑張っているところがちょっと彷彿する。それからこの頃天才が輩出する。ノイマンとかチューリングとか、チューリングホモセクシュアルで獄死している。

 天才と芸術家が一緒になってヨーロッパやアメリカの社交界を牽引している。そういう背景を思うと、この話は、天才児が死んでしまった、殺してしまった、私たちが殺した。凡庸な人間が天才を殺してしまう話に思えてくる。

 

 

 

 


 

 

 

ヘンリー・ジェイムズ 「教え子」その1 20230205読書会テープ

【はじめに】
H はじめてヘンリージェイムズを読んだんですが、とても不思議な文章、ぼんやりしたところに焦点を当てようとしている。
 たとえばペンバートンとモーガンの対話で、モーガンが嘘つきと言ったのに、両親は「これでもペンバートンさん、私たちを嘘つきと言うのですか」といい、いや「嘘つきと言ったのは僕の方だ」とか。誰が何を言ったか誰がどこにいるとか、ぼんやりしたところを何度もシーンとして描いている。
 教え子というのも、最初はお金を頂いて子供を教育するという形ではいったはずなのに、子供が可愛いとか一緒にいたいという気持ちを利用されて、子供と一緒にいられるのだからいいでしょうといわれる。その構図は身につまされるところがある。学校に行くのは子供のためと思っているが、いつのまにかものすごく悪い労働状況で働かせられる。
K 内容は言葉を追っていけば分かるけれど、一体何を目的に書かれているのか。
S たとえば詐欺師の一家に雇われた家庭教師の話と言って、いちおう間違いないですよね。だけれど、読みながら何遍も笑ってしまって、悪意があるともないとも言えない、何とも言えず面白い感じがする。単なる詐欺師の一家の話ではおさまらない。
K 何かふしだらな感じもある。それは詐欺師だからだろうけれど。
S 滑稽、ふしだら、いい加減。
K 楽天的といえばいえるのかもしれないが、よくぞこんなで異常をきたさず暮らせるものだ。
S 焦点が合わないから、いろんなものが虹色に見える、詐欺師にも見えれば。
K そういうふうに思わせてきた一家でもある。最初から手袋は薄汚れているし、ハンカチだって薄汚れていた。テンバートンはそれに気がつかなかったのか。
S モーガンの靴下が破れているとか、表に現れないところには気をつけない、そういうものは表に出さない。モーガンはみすぼらしい格好をしている、しかし領事館では品があるのでお金を貸してくれる。ぼろぼろなのに品格がある、虹色で光を当てればどうにでも見える。
S モーガン自身はペテン師ではないのか?
K そうではない、天才児で、自分の家族を嫌っている。
S そういう風にも見えるよね。子供が可愛いらしさによって、誰かの愛を得るというのは天才的な詐欺師でしょう? だからモーガンも一家も全部詐欺師の可能性があるかな。
H 領事館でのモーガンのセリフは危うかったですよね。電報を見せるだけにして、行かないでお金だけとってしまったらどうとおどけている。大人の中で一生懸命成長しようとしている子供のようにも見えるが、詐欺の卵の要素がある。
S 素質がある。
K 悪くなりたくないからペンバートンを慕っている。

今村夏子 とんこつQ&Aその3 読書会テープ20221016

【全面的マニュアル化】

S 私たちの生活全般が全面的にマニュアル化したということがある。仕事も教育もハンバーガー店もマニュアルの方が地道に素でするより効率がよいということになった。その事態と、この小説がよく符合する。自律より洗脳型の方がうまくいくとみんなが思い始めると、こういう事態になる。

I 耳が痛い。マニュアルがない仕事はいやだなと思うし、早くマニュアル化して誰でもできるようにしないと効率的でないと言ってしまう。製造業の合理化は徹底的に進んだ。

H 教室でもテストで点の取れる教え方をしてくれと言われる。

I マックでアルバイトしていた頃、まるで宗教みたいだと思っていました。ゲームでやり方をたたき込まれて、できる人はスペシャリストとして崇められる。

S とんこつは個人商店で、そういう効率化とは一番遠いと思われるのだけれど、そういうところでマニュアル化が起きてしまう。全面的に浸透してしまった。

K マニュアル化した方が応対がよくなるからそうするのですね。

S わたしの丁寧な接客は最高益をたたき出したとあるから効果的だったのでしょう。

H 実際はどうでしょう? 路地裏の個人商店でもホットペーパーに載っている。

S 二人目の募集の時、今川さんは町のペーパーに載せて募集すれば集まると言っている。

I 常連さんも来ている。

S 町の食堂の常連さんが、おかみさんと呼び始めた。

I そもそもこういう店でセリフをQ&Aにできないですよね。

S 架空だよね。前半はしゃべれない発達障害的な主人公がメモを使ってしゃべれるようになるという現実的に想像できる話だったのだけれど、後半になるとカードの数が増えてしまってバージョンアップしすぎて架空の現実になっていると思うんだけれど。

H 自分のまわりにも個人経営の店がたくさんあるのですが、下町感をものすごく演出している感じがする。チェーン店に対抗するには、こっちの路線でするしかない。いわゆる下町いわゆる大阪のイメージをやっている。一周回ってそこもマニュアル化している。

S プロデューサーというか演出家が入っているのでは? パン屋がそうではない? やたら派手な演出をした店があちこちに出ている。

H 筋書きを書いている人がいるということですよね。また、スタバなどのチェーン店でも、やたらフレンドリーに話しかけるというマニュアルに従っているような気持ち悪さがある。

S 広島に近い中国地方の比較的小規模の弱小な商店街を、今村さんは描いている。そうすると、こういうことかな。私たちの最後の生活空間も、マニュアル化して、ある種の超バーチャル化した世界に飲み込まれつつあるということ?

HIK それは実感がある。

I 今村さんはもともと広島出身ですよね。

S 安佐南区出身と書いてある。

S 私たちの現実は、生の生活空間ではなくて、演出なりマニュアルで作られた現実になっている。その中の勝者は、こういう書く人、演出家、プロデュースする人。

K 言葉を作る人が支配する。

S それは古代からそうで、書記がもっとも力をもつ。

H 家庭もそういうところがある。友人でも、子供が生まれた瞬間にホームドラマのお父さんになってしまう。何かの見過ぎではないかという違和感がある。

K 役割を自分で決めるわけですね。

H いろいろなところにいろんなシナリオが落っこちていて、どれかにもとらないと生活できない感じがある。

I あります、あります。

S セクハラ発言もそう。

K どれがセクハラか分からないからマニュアルが必要になる。

S いかにも日本らしい。付け焼き刃で変える。自ら考えて自律的に変えるのではなく、安全そうなマニュアルにのっとる。模倣・らしさが求められる、これは日本怪談で西洋怪談にはならないだろう。

K 同調圧力でしょう。

S 今村夏子さんすごいよ。

I 予言の書ですね。

【問いを立てること】

I 私の夫が最後のところのQ&Aの78億の数字を数えているのが面白かった。

K いくらインデックスつけても見つけられない。

S 私たちのセリフ・行動に一つ一つに番号が振ってあって、ちゃんとマニュアルに載っていると考えると、その通りかもしれないと思える。 

I コンビニ人間のテーマと近いなと思ったのです。

S はじめ発達障害の話だと思って読んでいたけれど、途中から発達障害問題は飛んでいってしまって、私たちそのものの話だと思えてくる。読んでいてしみじみ面白く、しみじみ自分のことだと思えてくるのが、何ともすごい。

S 私たちのこの洗脳型社会で、これで平和で快適に幸福にやっている。宮台真司のいう感情の劣化した社会。最後のところみんなハッピーで万々歳というふうに書いてあって、それにどっぷり浸かっている。

H これどうしたらいいのだろう?

I 怖いなと思うけれど、出たらそれでいいのかとも思う。

H 出たら中原昌也になってしまう♡

S 私たちは月に一回ぐらいこうして読書会をして、これで正気でいられるんだけれど。

H とんこつQ&A自体がQになっていて、私たち読者がAを出すという話をしましたが、 この小説を読むことで、自分の言葉がマニュアルなのかなとか、セリフなのかなと、Qが浮かぶだけでも大進歩ですよね。

【書くこと/読むこと】

S 日本社会は今回のコロナ騒動で少し変わった。女性も少しは働きやすくなった。対面ではなくリモートになったことで。対面で直接接していると同調圧力が強まるのだろう。この小説は、意図的にコンピュータを排除して書いているよね。手書き文字で、書き直しもすべて手書き。

I コンピュータだと予測変換なんかが出てきてしまう。

S 最初のメモもそうだし、ぼっちゃんは子供っぽい文字でアルバイト募集を出した、とある。手書きは、コンピュータと違って、文字の力を身から離さずに持っている。

 それから、黒電話! この小説の年代は2021年とはっきり書かれている。そうすると21年に携帯を持っていない人はいないし、黒電話はもちろん使われない。

H 大阪弁を調べるのに、辞書を調べている。

K 図書館へ行っている。

S もう一つ面白いのは、箕面のお母さんが大蛇を身にまとっている写真があって、その大蛇の手触りを丘崎さんが再現してセリフだけで言えるようになっている。皮膚感覚を再現しているのが面白い。コンピュータが間に入ると違ってきてしまうんだけれど、あくまでも写真なんだよね。

 写真が三枚。え?写真三枚、、、なるほど、太宰か?

H 『人間失格

S 死んだお母さんを何とかして蘇えらせようという話。

HIK そうか太宰治か。

H 人間失格の写真三枚の一枚一枚にストーリー手記がついているが、その手記は誰が書いたかという謎が先回の読書会で出ていた。

S 写真一枚ずつについて、今川さんがセリフをつけた。大蛇の感触とか、しゅんが大泣きして目の縁が赤いとか。

H ほんまじゃ。『人間失格』の三枚の写真が写されている。

S 先ほどは、Kさんが、『ヴィヨンの妻』で四人が支え合ってフィクションの生活を作り出すと言っていた。太宰治の書き直し問題では、書いた者が強者になっていく、真相はこうだったと次々書き直していく。しかし、この小説では基本今川さんしか書いていない。神になった今川さん(木になった亜沙)は、このあとどうなるんだろう?

 太宰の現実と私たちの現実は少し離れすぎているかもしれない。太宰のあとを書いてくれる作家がいてほんとうによかったと思う。

K 『星の子』のときにも日記を書いている。

S この場合ぼっちゃんと今川さんとの結婚のように、宗教二世の結婚で引きずり込まれて出口がない。書くことが新しい何かを発見するのではなく、既成の幸福な家族のイメージを再生産してしまう。書くことの力は限界。

S 通説的には、書く読む/話す聞くが対立している。文字に対する語り。そうすると、この小説で、語りとか直接性とか聞くというのが力になっている可能性がないか?壁のしょうゆのシミとか、あははとか、

S 電話のベルが鳴る、それが決定的な事態の変化を引き起こす。今川さんも丘﨑さんもそうだった。音は他に出てこないか?

I ボイスレコーダーが出ている。

S これは選ばれて小説に入ってきているアナログ機器。写真もボイスレコーダーも似ている技術で、現実と接してアナログにそれを写す。

I ギョウザの出来上がりを知らせるアラーム音のベルが出ている。

S いいね、バネで動くキッチンタイマーの音、アナログな音。ぼっちゃんの進学問題が話題になっていたとき、この音によって切断されて途中になった。

S この私たちの現実に、時々ベルの音のようなはっとする音がして、みんながはっと気がついたりする。例えばそれが銃声一発だったりする。今回あの銃声で少し変わりはじめているじゃない? 自民党がおたおたしはじめた。あんなことは誰もできなかった。

 銃声一発で変わるのは怖い話なんだけれど、この小説はきわめて予言的。あるとき小説家は時代とシンクロしてしまうものだと思う。シンクロして一歩先を語ってしまう。

K あの銃だって手作りなんですよね。

S アナログ機器。

【了】

 

 

 

 

今村夏子 とんこつQ&Aその2 読書会テープ20221016

大阪弁ネイティブ】

S 大阪弁のところ、Iさんネイティブで発音してみて下さい。

I あめちゃん食べる、ああおもろ、ほなさいなら。ちゃうちゃう、おかみさんとちゃう。

S 「あなたじゃないねんだから」というのも、もう絶対ネイティブじゃないと発音できない。

I 大阪弁って特殊ですよね。広島にいて広島弁を使っても誰もとがめないけれど、大阪弁は、大阪に来た人が大阪弁を使おうとすると、はいエセ関西弁みたいに、すぐ非難されて分かるんですよね。

S 偽大阪弁はすぐ見破られるという大阪弁特有の特殊性がある。

H 「あなたじゃないねんだから」というのは大阪弁なんですか? 「だから」のところ。 

I ああおかしいですね。

H ここがハイブリッドになっている。

K「ないねんやから」にはならないですか?

I 「だから」は標準語ですね。「あなたやないねん、せやから」というかな。

H 大阪弁の真似だから、ハイブリッドになっているわけだ。

S 「おかみさんじゃないんだから、アルバイトなんだから、あなたじゃないんだから」と三文がみな「だから」でつながっているから、この「だから」は書かれた文章語では? 次の「わかった、返事は」、これは東京弁あるいは標準語ですね。

【三つのとんこつバージョン】

S このあと、無理矢理使っている大阪弁から、さらにもう一つ変わっていく。

H 整理すると、一回目の大阪弁は、ぼっちゃんに言われて大阪弁を使ってみたけれど、自分らしくないから自分らしい言い方に直した。

S 二回目の大阪弁は、大阪弁をあえて使い始め、パットを入れて化粧を明るくしておかみさんに化ける。このあとの変化を繊細に確かめる必要があるだろう。

S 次は大阪バージョンを読んで仕事をしていたときに、一つの事件が起きる。レジに人がいない、丘﨑さんをレジへ向かわせるために、わたしが一つのメモを読み上げた。そのメモを書いたのはぼっちゃんで、ぼっちゃんの指示に従って、「おかみさんレジお願いします」と読み上げた。ここが怪談。返事をしたのは、大将の書いたメモを読み上げた丘﨑さん。それでうまく事態がおさまった。

H 今川さんは今まで自分の書いたメモを読んでいたのだけれど、ここでぼっちゃんのメモを読むのがかなり大きな変化。

S ロボット化。これはAIに言葉を教える現在の事態にも通じるだろう。ここにはいろいろ面白い問題がある。

S それから4年うまくやっていた。しかし、そうはいかない。ロボット化を三回目の転機だとすると、四度目の変化があるのでは。

S 15周年を4人で祝った。おかみさんと呼ぶのに苦労したので「おかみさん」のメモをもち歩いて、なんだか原点に立ち戻ったみたいだったと、ここに変革の兆しがあるのでは。次に、大将とぼっちゃんが丘﨑さんをおかあさんと呼び始める。丘﨑さんは、大阪バージョンを開いて「はあーい」と答える。

S そのあと、わたしがとんこつQ&A家族バージョンの制作にとりかかったのはこの頃からだとある。これが4回目の転機だろう。わたしが演出家となり、神となり、すべての支配者となる。それってかなりまずいのではという展開。人の指示に従うのもかなりまずいけれど、自分が支配者になって指示を出すというのはもっとまずいのでは。

H 洗脳側になるということですよね。とんこつQ&Aというマニュアル本は、家族バージョンで3冊目ですよね。普通のとんこつQ&Aと、大阪弁バージョンと、今度の家族バージョン。

S 転機の数とバージョン数がほぼ連動している。大阪バージョンには丘﨑さん用と今川さん用の2冊ある。

【とんこつ日本一家】

H 家族バージョンがいちばんぞっとする。

S それで幸せを作っているという。

K 幸せのお返しをしたいと言っている。

S まるで習近平のようではないか。絶対支配を認めさえすれば平和と繁栄を約束する。ここ数日の全人代で3期目が決定して永久政権になるらしいよ。

H 家族バージョンが出て、ときどき丘﨑さんの様子がおかしいというのがめちゃくちゃ怖くないですか。

I 大将と二人きりの時にあばれたりする。もうどうしよう。

H なぜ大将と二人きりの時間があるのか。

I そうなんですよね。

S 追記 丘﨑さんには適応障害という病名がつくだろう。天皇家に入った雅子様と同じ病名。太宰の「グッドバイ」は手切れ金を渡して女たちと別れる話だけれど、戦後のアジア諸国と次々と国交回復をした岸信介の寓意として読めるという話をしたけれど、太宰を経由すると、とんこつ一家とは日本一家と読めるんじゃないかな。

S 「基本的には変わらない。しゃべるより読むのが得意なおかみさんだ」とある。ここあたりが現代社会の私たちの姿であるように見えてくる。日本は自由かというと、こんなにいろいろなぼろが出ているのに政府は倒れないし、誰も辞めないし、やっぱり私たちは支配されているんじゃない? 知っていても、知らないふりをしているんじゃない?

H もしかしたら希望?絶望なのか、丘﨑さんが自分でメモを読むようになって変化の兆しがないですか?最近はメモをこっそり黙読していたりするとある。

K どういう役割を果たしたらよいか自分で決めようとしている。

H 内面化が起きている。

S だけれど、そのあとに、おかみさんには悪いけど、それは難しいと思うとあって、加筆修正を繰り返しているから丸暗記することはできない。

I 怖い

K 加筆修正は永久にすると。

H じゃあ出口はないのか。

S そしてその加筆修正をする役割をわたしがするから、わたしは必要不可欠な人間になった。

H 丘﨑さんの希望はここかと思ったが、やっぱりだめか。太宰治だったら加筆修正は希望をつくることになったが、ここでは出口をつぶすことに使われるのか。

S 毎日毎日わたしが加筆訂正するんだからと。

I やばい

K あやういバランスで4人だけだったらこれでいけるかと思った。

S それが私たちの陥っている小市民的生活。毎日毎日政治家は少しずつ加筆修正しているでしょ。私たちはその修正に合わせて少しずつズレていく。しみじみ幸せな生活なんでしょう? やだなあ。

H 『星の子』のときは、最後に3人で星を見上げていて、そのときにお父さんがくしゃみをしているのが希望ではないかと話しませんでしたか? 洗脳されているときは命の水で風邪一つひかなかったけれど、くしゃみをしているから洗脳が解ける兆しになっている。そういう出口というか希望はこの小説にはないのか?

S それを捜さなければいけない。『星の子』では三人が流れ星を一緒に見ることはなかったとあって、三人の見ているものが少しずつズレるというのが希望だった。とんこつQ&Aにはそういうズレはないだろうか?

I えー。

H どうすればいいのだろう。

【出口なし?】

S そのあとで「今川さんが大好きで結婚したいくらい好き、あ言っちゃった」このへんが怪しくない? ここ、今川大明神のように、神様になった今川さん、このあたり、ちょっと褒め殺しのような気がする。この褒め殺しがひっかかる。

I 大将やぼっちゃんのせりふも今川さんが作るようになったのですよね。

H 書きながら自分で返事している。

I Q&Aの番号数字が最後には消えるけれど、これに意味があるかな。

H Q&Aになっていないのか。

S 消えたあたりから褒め殺しになっているんだけれど。

K ここからあとは書いたものではないのでしょうか?

H Q&Aの受け答えがノートに書いてあるより、Q&Aじゃないセリフまでノートでセリフとして確立されてしまう方が洗脳の深度が深い気がする。つまりどんどん希望がなくなっている。

S 数字が消えて、洗脳がより深くなっているように見えるということね。

S 結婚したいくらい好きはどうだろう? 何か関係の変更がありそうなんだけれど。

H ぼっちゃんと今川さんが結婚したら。

K 年齢的に可能性がないことはない。

S ぼっちゃんの後姿を盗み見るのが好きだったというのがあって、あの延長上にあるか。仕事も全部ぼっちゃんに教えてもらっている。頭が上がらないと。

 つまり統一教会の信者二世が結婚の自由がなくて、信者以外結婚ができない。これと同じ事が起こるんではないか? なにか今日の騒ぎを予告しているような小説だね。

H 2020年に発表している。

K 予言ですね。

S この騒ぎの前だから予言だね。『星の子』のときはまだ希望が持てたけれど、今日になったらまるで出口もなく、身動きもできなくなっている。

H おかみさん=マザームーン? ぼっちゃんと今川さんも二世の結婚になるのか。

K この共同体からは出られないということ?

S 今川さんを出さないためには僕が結婚するよということね。今川さんがここを出て自殺するんじゃないかというところ、あれを追いかけて、絶対に引き留めなくっちゃ、とあるところで、僕と結婚しようと言い出しそう。両親を別れさせないためには絶対今川さんが必要だということになれば、ぼっちゃんは何でもするから、そうなるよね。

H ここはどうですか。ぼっちゃんは進学しないで店を手伝うと言っていたのが、今は高校へ進学した。今川さんのシナリオから少しはみ出たのではないか、ズレが生じているのではないか。

I ぼっちゃんの意志は進学しないだったけれど、今川さんのシナリオは高校ぐらい出ておいたほうがいいよという変更がある。しゅんが外の世界へ出ていって、別の価値観をとんこつ家へもち込む可能性がある?

S 義務教育の中学とは少しだけ違って、高校は自立への手がかりにはなるか。

K わたし=今川さんの後継者になる?

S それは難しいだろうなあ。いままでの今村夏子の小説だと、弟とその妻が家を継いで姉である私は二階で引きこもり。その私が台本を書くことによって支配者権力者の役割を見つけたということになる。革命的反転ではある。

S 最後の褒め殺しのところ、読者がこれを読んで、これではだめだと読んでくれればよいということかな。こんなに何もかもうまくいく平和で幸せな家族ができました、はいこれでいいですか、という問いかけであるとすれば希望になる。読者だけがそれに気がつける。

H そうか、この小説自体がQになっている。ぼくらがAを出さなければならないわけだ。

I おー。

S この状態を抜け出すのは、あなたたち一人一人の仕事だということか。

K そのことと高校ぐらい出ておかなければというのとはどう関係するのでしょうか?

S 追記 ぼっちゃんの進路が変更になったことは、メモを書くのは誰かという問題だと思う。メモを書いているのはほぼ今川さんだが、ぼっちゃんがときどき今川さんを助けるためにメモを書いて差し出している。大将も丘﨑さんへメモを書いて差し出している。二人は、お母さんの役割のセリフをQ&Aに書き足して、それを丘﨑さんにしゃべらせている。つまりメモを書く人は支配者になり、メモを読む人は支配される。

 メモによって丘﨑さんをおかみさんと呼ばせることに成功したぼっちゃんは、こんどは今川さんが書いたQ&A家族バーションによって、行くつもりのなかった高校へ進学させられたということになる。つまり書くことと読むことには権力闘争がある。

 この権力闘争には、太宰治の『斜陽』で見たように、誰がストーリーを書くかによって出来事の意味が変わること、まず弟が書き、次に姉が書き、修正加筆されていくことが踏まえられているように思う。

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今村夏子 とんこつQ&A その1 読書会テープ20221016

【はじめに】

S しみじみ面白いですね。ところで最初に出てきたドルフィンってどういう店? 本文の中にあまり情報がない。

I 夜の時間帯の店、キャバクラのような?

K 夜のレストラン?

H 8時から午前2時までとある、夜の店。

S 主人公の今川さんの年齢はどのくらいだろう?

H 丘﨑さんは30代半ば(p.40)、今川さんはそれと比べてだいたい20代半ばぐらい?

S 大将は中年、しゅんぼっちゃんは小学4年生9才、7年後の今は高校生16才。わたし=今川さんは、2014年春からとんこつに勤めはじめて7年ということは、今は2021年。年齢や年が妙にはっきりし過ぎていないか? 

 20代の今川さんは、キャバクラのような夜の店で、まったく非性的な役割の裏方としてコップを洗っていたというのが背景としてある。ボーとしているとか、ぼさっとしているのは丘﨑さんとよく似ている。大将の奥さんの写真は、丘﨑さんと比べて百倍も美人だったとあるから、今川さん自身の容貌も、くすんで目立たないのだろう。

H 丘﨑さんとわたしはタイプが似ている。

K 声が出ないというのも同じ。

S 働けるようになる過程もよく似ている。

 あらすじとしては、わたしが張り紙を見てとんこつで働き始める。ボーと立っているばかりだったが、ある契機で声が出るようになり、とんこつQ&Aというメモ集を読むことで接客ができるようになる。店は繁盛して、もう一人丘﨑さんが雇われるが、わたしと同じようにぼーとしていて声が出ない。丘﨑さんは大阪生まれで大阪弁を話す。大将とぼっちゃんはその大阪弁にひきつけられて、いろいろ事件が起きるが、とんこつQ&Aの改訂を通して、ある種の解決に至る。

 まず一言ずつ感想を言ってみようか。

【本を読まないわたしたち】

I じつは家の夫は本を読まない人なのですが、これを読ましたら最後まで読んでくれて面白かったと。丘﨑さんと主人公が似すぎていて同一人物かとか、いろいろ疑問が生まれたようです。

 大阪話題で、イメージの大阪と実際の大阪の違いが気になる。たとえば箕面は高級住宅街ではないか?

K 箕面は郊外ではないかな。滝があったりする。

H 家の妻も本を読まないけれど、あらすじを紹介したら面白いと言ってくれて、Iさんのところと同じです。

 夜中に読んでめちゃくちゃ怖かった。

 まず、言葉の問題。セリフのようにして言っているうちに使えるようになり、メモ書きを卒業してやっと自分なりに話せるようになったのに、大阪弁のニュアンスの問題で書かれた言葉に戻ってしまうというところ。

 言葉との関わりの変遷を考えると、子供の言葉を覚える過程とよく似ている。子供は、セリフのようにとりあえず繰り返し言ってみて、だんだん自分の言葉になっていく。

 それから、社会に出てからの言葉の変化。それまで好き勝手にしゃべっていたのが職場で求められる言葉を使っていると、だんだんなじんでその言葉遣いになっていく。言葉が入ってくることで話している人の形が変わっていって、いつのまにか変なところにたどりついてしまう、その感じが実感をもってホラーだなと思う。言葉から入り込まれてしまうことが怖い。

 もう一点は、統一教会のことを思い出して怖かった。マニュアルで布教するあたり、何か似ている。とんこつの名前の由来があるけれど、敦煌がとんこうになり、そのあととんこつになるという、実態と名前が違うというところ。とんこつラーメンを出さないのにとんこつという店名とか。名前が変わって実態が分からなくなるのは、統一教会が名前を変えているのと呼応する。

S『星の子』が実写の映画になっていて評判になっているらしい、本を読まない人でも映画で見ているらしい。しかし、本を読まない人がどうしてこんなにぼろぼろ出てくるんだ? いまや小説を読む人は少数派? 

K 昔の文学部を出た同級生たちも途中からまったく読まなくなった。

H まわりの友人も読まない。

I 読んでいるという人、聞いた事がない。

K 読んでも専門書。

S つまり実用書、必要あって読まされている。なるほど怖い、ホラーだ。

【教育と洗脳】

K Hさんの言ったように、子供が言葉を覚える過程とよく似ている。そして、言葉が人を縛る、自分が使っている言葉に縛られるということが怖い。

 今川さんが大阪弁をやめて自分らしい言葉を話し出したとき、ぼっちゃんが悲しそうな背中を見せた。大将とぼっちゃんたちは死んだお母さんを求めていたから、それで今川さんに自立されるのが怖かった、嫌だったのだろう。今川さんが言葉の上で自分らしくなれたら、本当は仕事もできるようになったのでは?

S 今川さんが自分らしい言葉を話し出したときに自立の可能性があったということ、そのメカニズムが面白いということですね。

K それから、丘﨑たま美がやってきて4人の家の妙な関係がある。たがいに支えて支え合う団体、ここで『ヴィヨンの妻』を思い出した。

S 統一教会のような組織、大将のとんこつ家族のような小さな社会、そこで使われている言葉にあわせていくか、あるいは自分らしい言葉を取るか。

 「らしい」がよく出てきて、とんこつらしいとか、とんこつにふさわしいとか、自分らしい、これが言葉を模倣してその集団その所属へ変化させていく原理。言葉の模倣によって子供が言葉を覚えていく原理。

 しかし、この小説では少し事態が違っていないか?読んでいて子供の発達とは少しずれていないか? ここにいる皆さんは、これから切実な子供の観察者になるわけだけれども、実際子供の成長と似てはいるけれど少し違っていないか? まかり間違うと洗脳になる、その少しのずれ、違いが何かをちゃんと読み取らないといけないのではないか?

H 教育と洗脳の違い。

S その違いを繊細に読み当てないと非常にまずいのではないか。切実な問題。

K 丘﨑さんは最後までノートを読んでいて、役割を演じていた。自分らしくなれなかったからとんこつにずっと収まっていられる。実際の死んだおかあさんとは違うセリフを言わせて、それだけでうまくやっていけるのだろうか?

I 丘﨑は洗脳型、今川さんは自分でメモをとってノートにまとめているからどちらかというと自律型。丘﨑さんはひたすら読まされている。

S 丘﨑さんは読む人、今川さんは書く人。

K 今川さんは読むと声が出せると自分で発見しているが、丘﨑さんは発見していない。

H 今川さんも後半どんどんおかしくなっている。メモを作って自分の言葉になおしてというところまではまだ健康的。せっかく自分らしくしゃべっていたのに、お母さんとしゃべり方違うというあたりから変になっていった。

S 今川さんが大阪弁をみずから使い始めるところが大きな転機。あめちゃん食べるとか。

I 大阪弁なるほど大百科を借りて来てQ&Aを作り出したところ。

H 接客で話す内容は定型だけれども、言い方やしゃべり方の癖はその人の最後の砦。セリフは決まっているけれど、言い方は人それぞれ違っている。この最後のその人らしさを大阪弁にさせられたところで、教育と洗脳が交代する。大阪弁を強制されたところで洗脳に交代する。

S 強制というより、みずから大阪弁のQ&Aを作りみずから大阪弁をあえて使い出す。

H 自立的だからこそ自分でやってしまうのか。

S そういうのを内面化という。

I 内面化?

S みずから自発的にはじめる。教育というのはこの内面化をさせる。自発的に従うようになる。

HKI うーん、怖ろしい。

【つづく】