清風読書会

© 引用はアドレスと清風読書会を明記して下さい。

太宰治 『道化の華』その3 20221001読書会テープ

S 真野の怪談が一番面白かった。入水した青年の話で、カニが翌朝部屋に出たという。これ入水者がどうしてこんなにいるんだ? ダブルになっている? 自殺をはかった青年と自殺をはかった大庭葉蔵の話が重なるが、何で重なるのか? 葉蔵は自分の身と引き合わせている。青年の場合はカニが出たが、葉蔵の場合は園子の幽霊を思ったとある。園子の美しい幽霊が出ている。二重写しになっている。そこに神が出ている。

I ストーリー的に言うと、葉蔵が自殺しかけて入院しているのに、その看護婦が別の患者が自殺した話をするのは相当変ですよね。

S 病院の信用にかかわるし、かなりまずい話だろうね。

I 綿矢りさの小説にもカニが出てくる。

S 平家ガニは、死んだ平家の死霊が憑いているというのが伝統的意味。

S 葉蔵はこのようにあっさりしているとあるがこのあっさりとはどういう意味?

K 自分が殺したと言っているわりには美しいと言っていて、美しくなれば自分の責任はあまりないように聞こえる、そういうことはないでしょうか?

S 自殺に寄り添ってあげたというのと同じ意味ですね。殺したという自分の悪事を拭い去って美しい姿を描く。善とか悪とかにかかわらない神、これが太宰の神か?

I 罪悪感がない?

S 軽薄とか安易というのでもなくて、道徳的も何も、とにかく消えてしまう。

I 消えてしまう。

S 厳しい非難をするだろうし、そして、彼こそ神に似ている。これが葉蔵のもっとも重要な性質ということになるわけか。葉蔵は神であり、神は善悪道徳にかかわらず超越している、あるいはあっさりしている? そう簡単に超越されては困るんだけれど。

 さっきKさんが発言したように、死にたい女に寄り添って一緒に自殺してやるというのが一番近いのかな。あんまりかわいそうだから一緒に自殺してあげたという。

I 自分の命にもあまり執着していない。

S 自分がない? 『人間失格』の場合も自分がなく、相手の意志にずるずるとひきずられていく、一種の無我のようなありかた。それが死にたい女に寄り添うと何遍もそういう自殺を繰り返す。ほとんどやっていることは死神。死神が死にたい人にとっつくと首くくり榎のように首をくくってしまう。葉蔵がいなかったら、女はわざわざ入水などしなくて苦しくても生きていたんじゃないか。

KI ふつう死ねない。

S 死ぬ勇気もないし。それって疫病神じゃないか。『ヴィヨンの妻』で男のことを疫病神と言っている。ああいうとっついたら離れない、それを神と言えば確かに神。日本的理解における神とはそういう存在かもしれない。救ってくれない神。

K 死にたいという願いをかなえてくれる神。

S 皮肉な神様。人間の罪を背負って死んで下さった神という究極の救済の神とは違う。まったく善悪を超えてしまうような存在として主人公を描き、それを西欧の神とは違った神として描く。葉蔵のような存在を描くことが太宰の最も重要な問題だった。

 『人間失格』では神様のようによい子でしたとあるように、葉蔵=神は動かない。善悪を超越して、あらゆる周りの人間の欲望に寄り添ってしまう。面白い。しかしそれは神様がいないというのと同じ。

ヴィヨンの妻』を思い出すと、男のほうは疫病神だけど、妻の方は福神。あれはセットになるが、葉蔵にはセットになる福神はいないのか?

I 真野?

S 真野には福神のような要素が見あたらない。

I ここで終わろうとするときにもっと書くと言って真野とのエピソードが続いている。

S 最後の真野とのエピソードが結構長い。

I 真野に関しては最初から最後までどうなっているのかよく分からない。

K 病院付きの看護婦ではないようだ。

S お金持ちのために雇われている派遣のような存在で、生活のために働いているのではない。その意味で青年たちと同じ有閑階級の一員。東京に帰るなら遊びにおいでよというのを見ると同階級に属する。しかし福神の感じはしない。

I 顔に傷がある。最後の夜に関係をもってしまうのかと思ったが、ほたるの信頼を失うなとあって、この傷には意味がありそうだ。

S 聖なる関係になる。近寄ってはいるけれど、それ以上は近寄らない。一種の職業的な距離を保っている。これは特筆すべきことではないかな。葉蔵はみんな誰もが引き寄せられてしまうが、関係をもってしまうとろくなことにならない。そこで一歩踏み留まっているところに真野には資格がある。何の資格かはよく分からないが資格がある。

 真野はほたると呼ばれて悔しくて偉くなろうとした。偉くなるというのは立派な人間になるということだろう。青年たちは、立派に生きる、美しい感情をもった立派な人間になるというのが目標。それだけが大事でそういう青年たちを描こうとした。

 飛騨も葉蔵にあこがれて彫刻家になり、小菅も葉蔵が好きで自分の美意識を立てることが大事、夜中に外套を着て女とすれ違う、誰も見ていないようなことにこだわる。自分の美意識として立派にありたい美しくありたいというのがこの四人の青年たちに共通している。

 登っていって富士山が見えなかった、つまり目標とする高さが分からない、かいもく行方が分からないのだけれど、みんなそれを目指して頑張っているという小説ではないか。向上心のある、太宰の小説としては爽やかな希望のある印象。ここから「走れメロス」のような小説が出てくるのではないか。

K それで文部省御用達になる。

S 現実には全然名前のない彫刻家だったり洋画家だったりする。無名だけれど、ある高さ、ある美意識、ある立派になりたいというこころで山に登っていく。これは青年たちの姿としてとてもよい。

 真野が大学生と話をするところで、真面目ですからお苦しい、美しい感情をもっているから苦しいという。太宰嫌いからするとちょっといただけないのだけれど。

S 大庭葉蔵を神として読めるかどうかが、この小説への好悪になるかな。立派な作品を作りたいというところは、出発点の太宰がよく分かるような気がする。その立派なには道徳的倫理的も含んでいる。太宰はそれを分けられない、単に素晴らしいではなく立派な小説を書きたいという、太宰の面白いところだろう。悪魔的ではない、芸術がすべてではなく道徳的倫理的なものを含めて立派な小説が書きたいというのは、立派だなと思う。

I 売れたらいいとか。

K 芥川賞をとらなければだめだとか。

S 太宰は立派な小説が書きたい。

K 『グッドバイ』も女と別れるお笑いかと思っていると、戦後の日本の国交回復の話と重ねて読むと非常に真面目。

S 戦後の岸信介アジア諸国と国交回復するというのと、女と手切金を渡して別れるというのが重ね合わされているという話を以前の読書会でした。

K マルクス主義に共鳴するのもそれ。

S 青年たちが太宰に惹かれるというのは、そういう太宰の真面目さ、立派さに惹かれると考えると、それはとても純良なことだと思う。

K 大人たちはだめだけれど青年たちは純粋。

【さまざまな引用】

S だから『ボヴァリー夫人』を引用しているのはさすがだと思う。フロベールはじつに立派な小説家で、私たちが読んだなかでも『三つの物語』は実に素晴らしい立派な小説だった。目の覚めるような小説。

K あの翻訳と解説はとても面白かった。

S 谷口亜沙子さんの解説は、ほんとうに立派な解説だった。

S 世界中の女がみんな自分のものだというところは、『明暗』の津田が世界中の女は自分に惚れていると思っているというのを引用しているんじゃないかな。太宰は漱石を尊敬もしている。『明暗』は、古い父親たちの世代と青年たちの対立があり、これがこの小説にも写されている。

K 問題は親父のほうで、兄さんは分かっている。

S 策士だとも言っていて、相当金を配ったのだろう。警察にも院長にも嗅がせているだろう。新聞には効いたがラジオまでは手が回らなかったのだろう。(谷崎潤一郎の『細雪』の新聞事件で、兄さんはそういうときお金を吝むからいけないと言っている。)

【偶然のテーマ】

I たまたま兄さんが入ってきた時トランプをしていて、たまたまあくびをしたときにフランス語の教授が見ていたという。

S あれが偶然のテーマで、これも漱石経由だと思う。偶然に翻弄されるというのが善も悪も取り込んでしまう葉蔵のふらふらしてしまうという理由なんだろう。偶然に左右される、あるいは偶然を引き当ててしまう。

I トランプで一瞬の駆け引きを楽しむと言っている。

S 札当ても万に一つ当たってしまう。万に一つ葉蔵は当たってしまう。

I 意外と爽やかな青年の話だと。太宰自身の入水の印象が強すぎて先入観があったのだけれど。 

S 太宰自身のいろいろなふるまいがあるけれど、その印象と小説は違っていて、思ったよりずっと真面目で清潔な立派なところを掬い取ろうとしていることが今回分かった。

K 美しい感情というのが文字通りだということがよく分かりました。

S Kさんの善悪を超越するような神の話は素晴らしいですね。

K 神とは、『人間失格』の相手の意図に寄り添ってしまうというありかた。

S そういうところが神の善悪に関わらないありかた。こういう神は神と言えるのか。西欧の神とはまったく違う。

K 因果応報でもなく。

S ただの虚無。

K おおかたの日本人は無神論

S なんでもありという社会のあり方、そして、何でもありで流されてしまう神は、わたしたちそのもの。これまずくないかな? 葉蔵はそれを引き当ててしまって神にされてしまうのだけれど、普通のわたしたちはそうはできない。いくら他動的に生きることがわたしたち心底身についているとしても。新しい青年は立派な生き方をしたいという小説。

I 退院した後、海岸で少女たちがパラソルをもって来るところ、この二人、この場面はどういう意味があったのだろうか。小菅が貝を拾うのを少女たちが真似してというところ。

S ここは芥川に蜃気楼の話があって、海上に陸の姿が映る、向こうからやってくるアベックが新時代と呼ばれて自分たちとそっくりだという不思議な短編がある。この場面がよく似ていると思う。いつもダブルになったりツインになっている。自殺者も二人いるし、小菅も葉蔵と対になって美少年になっている。

I 小菅と葉蔵と少女たちも入れ替え可能。

S 何か単一な存在ではなく、対になっている。特殊な誰かではなく反復としての私というような問題。鏡で写し合っている。蜃気楼が写し出すように。

 出会うと消えてしまうから、話したり関係をもってはいけない。一歩手前の雰囲気のロマンスになる。芥川の短編の一番よいところをとっているなあと。だから真野と関係を持たない。

K それで旧い大家の小説はこのようなところで意味ありげなところで止めると言っている。

S 二人はこのあと結ばれるというのが普通の小説だが、この小説は違うというわけだ。

【了】

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰治 『道化の華』その2 20221001読書会テープ

【パノラマ式描写】

S 少女から見た葉蔵の横顔で、ここで視点が変わったりする。最初に読んだときボヴァリー夫人を読んでいるのは葉蔵だとばかり思っていた。勝手に視点が変わる。

K 看護婦が横腹をつつくというのも葉蔵のことだとばかり思っていた。どうせそういうことをするだろうと思い込んでいたから。

I 視点を整理する、

S そうすると、すべてがクリアーに見える。今日は本気で読みたかったというのは少女の視点。

K ガーゼを叩いているところまでは葉蔵?ベランダにいて本を持ってこさせたのは少女。

S えーと、ガーゼを叩いている葉蔵の姿を見ているのは少女。昨日の新患者はと言っているのも少女。に号室を盗み見していたのも少女。この段落は、い号室の少女の視点から書かれている。ずーっと葉蔵視点で書かれてきたから、ここで視点が変わるとは思わない。(中原昌也の「鳩嫌い」がこの視点転換を使っている。)

 太い眉をひそめていた、そんなにいい顔とは思えなかったというのは、少女たちの間で美男子だという噂が流れているのだろう。葉蔵たちの間でも美少女らしいよという噂が流れているように、少女たちの間でも、入水した、女は死んだらしい、いい男らしいといった噂が流れていたので、に号室を盗み見するのだろう。そんなにいい顔だとは思えなかったという一文だけで、背景のさまざまな噂話を立体的に想像させる手法。

S その前の段落はどう? 僕は景色を書くのが嫌なんだとあるから僕の視点。パノラマ式の数駒を展開すると予告しているから分かるけれど、ぼんやり読んでいると気づかない。

S さらに、よい一行を拾ったというのもよく分からない。ボヴァリー夫人というのは、浮気相手といい仲になって破滅して最後は自殺するというのが荒筋で、葉蔵の入水とふさわしげであったというのは分かる。真夜中のたいまつで嫁入りしたいというのがよく分からない。

I これはい号室のなかのボヴァリー夫人という二重の箱となっている。

S それとの比較をせよということになる。そうすると真夜中のたいまつで嫁入りというのは、エンマがまだ少女の頃の話で、ロマチックな結婚を夢みていたということかな。少女たちは結婚前のまだ夢を見ている状態だから、少女たちとエンマとを対比している。夢見がちな少女のエンマは実際に結婚してみると、何だこの退屈さはというので浮気をする。少女たちが結婚以前、ロマンス以前というのがここから分かる。

S 次の段落は、ろ号室の少女が、葉蔵の姿を見るなりとあるから、はっきり少女の視点だと明示している。そうしないと、前の段落の視点の転換が分からないと困るから、親切に名前を出して書いているわけだ。

S 次の美人らしいよは、「は」か「ほ」の部屋に泊まった小菅の視点。ベランダに出て葉蔵を見て、左に向いて少女を見たとあるから、小菅たちは「は」号室に泊まったということが分かる。い号室の背景が石垣であることがここで確認されて、あとで怪談の場所が特定される。こういう推理小説仕立ての明快でくっきりしたそして立体的な描写をしている。

【美しい感情】

S 次の僕の述懐が分からないね。太宰節が好きになれるかどうかはこのやっかいさにつきあえるかどうかにかかっているのだろう。

 この言葉に幸いあれと言っているのはどの言葉を指している?「美しい感情をもって人は悪い文学を作る」を指しているとしても、その意味がよく分からない。悪魔的ではないというのが解説?

S 僕は根は美しい感情で書こうとしているということか。

K 最初の、作品の出来が自分の思い通りにならず悪くても、僕の心は美しい感情に充ちているということ?

S 悪い文学とは、出来が悪いということだろうか? それとも道徳的倫理的に悪いという意味だろうか。

K 絶対的な悪?

S 神にもよるけれど、事件は自殺幇助罪に問われそうになっている罪の話になっている。法律の罪に問われるという悪、それだけでなく道徳的に罪に問われるという悪もある。

I 法律的問題はお兄さんが何とかしてくれる、しかし読者から言うと、そういう問題ではないだろうと思っていた。だから道徳的悪の問題だと思う、そんな気がする。僕のこころは美しいで済むのか?

S 僕のこころは美しい、信じてくれというのか?

I どうしても太宰の事実経験で読んでしまうので、混乱する。

S それを混同しないように注意深く読む必要があるね。

【太宰の神】

S 最初のところで自分は生き返っても園子は死ねと書いてなかった?(ダンテの『神曲』による地獄の門を踏んでいる冒頭。)問題は「悪い文学を作る」というところ。

K 相手が死にたがっていたのだから付き合ってあげた?

S よりそって一緒に飛び込んであげた。

K だから自分は助かっても相手は死ぬことを願ってあげる。

S 死にたい女性に死を願ってあげるのだから自分はこころが美しい? それは悪魔のような神だね。

I 死神。

S 物事はなるようにしかならないし、あるようにあるのだからそれに寄り添っていくのが神ということか? 太宰の神はこういう神で、芥川龍之介の神も、「蜘蛛の糸」とか「黒衣聖母」は、そういう神ではなかったか?

 真野の怪談のところで神の言葉が出てくるから、まず怪談の話をしよう。

【つづく】

 

 

 

太宰治 『道化の華』20221001読書会テープ

【語り手の実験】

S『道化の華』は何だかとても難しかった。

K 新しい実験的な作品だったんでしょうか。語り手が作者自身で、それを僕と言っている。

S その語り手のどこが新しいのだろう?

まず大庭葉蔵という『人間失格』にも名前が出てくるフイクション上の主人公がいる。そして語り手が僕という主体で、読者に向かって君はというように二人称で語りかける。読んでいると、私に語りかけたのか?とちょっと戸惑う。いわゆる二人称小説はたしかに新しい、実験的と言える。

 しかし、語り手が主人公とは別に登場するということ自体はそれほど不思議ではない。どういうところが実験的なのか。

K わざわざ僕は僕はと書いたりしないでしょう?

I 中原昌也もこういう感じで中原自身のことを言い出したりしてよく似ている。金のためだとか自分のことを言う。

S 原稿料がほしいとか、金がないとか。

K 栄光もほしいとか。

S 作品展開のために必要なことを説明するというより、それ以外の一身上のいろいろなことを言い出す。作家その人のような語り手を立てただけでなく、作中人物の一人として登場させたことが新しいということになるかな。現実的な欲望をもっている登場人物が一人増えてしまって、勝手に大幅に関与することが実験的。

現実とフィクションとが否応なくぶつかる。嘘っぱちのフィクションと現実の欲望がぶつかる。これが中原も取り出している太宰スタイル。

【箱の実験】

 現実的存在としての語り手は、だからといって現実そのものではなく、これも第二のフィクション。

K 枠物語の変形ですか。

S いわゆるメタフィクションという。フィクションにさらに枠をつける。メタメタフィクション、メタメタメタフィクションになっていく。このメタは、枠であったり箱であったりする。箱や枠が入れ子になり、何重にも重なっている。太宰は好んでこの入れ子を使った。この枠の使い方が新しい。

S 『パンドラの匣』も箱の話だった。パンドラと『道化の華』はよく似ている。舞台も病院だし、人が出たり入ったりするし。いろはにほという東側の病室に名前がついてるのも、実に箱の話になっている。「い」「ろ」には少女、「は」は空き、「に」に大庭葉蔵、「ほ」は空き、「へ」は大学生。石垣は「い」の部屋からしか見えない。このことが後の出来事のヒントになるのだけれど、推理小説の犯罪事件はどこで起きたかと図を書きたくなるような箱の謎を書いた作品のように見える。

 メタフィクションとしての枠が空間的な部屋の配置になっているのが面白かった。

【パノラマ式描写】

I しかし病室と病室でやりとりはあまりなかったような気がする。男たちがカッコつけて、女の方は眺めてクスクス笑うぐらいしかない。

S 一番面白いのは、葉蔵が自慢の横顔を見せているというところ。一人の少女は葉蔵の横顔を見て、ボヴァリー夫人を読んでいる。もう一人の少女は布団を被って聞き耳を立てている。ここがパノラマ式の描写となっている。

I 「パノラマ式の数駒を展開させるか」というところ。

S 僕の小説もようやくぼけてきたとある、ぼけてきたというのはどういう意味? 語り手の言うことがよく分からないことがある。

I ぼけた描写があったかな。

S 途中でいろいろありすぎて何を書いた小説かまるで分からなくなることがある。

I 大人をこんなに出さなければよかったとある。

S 青年たちの生態を描くという小説だとすると大人が出てきてぶち壊しになり、ぼやけてしまったということか?

I ロマンスにしたかったけれど。

K 雰囲気のある。

S 雰囲気のロマンス。たとえば真野との関係は雰囲気のロマンスではないかな。

 つまり恋愛そのものでもなく、それらしきしぐさがある。真野が真っ赤になるとか、涙ぐむとか。葉蔵と真野とは関係をもたない、これをふんわりとしたロマンス風の関係を雰囲気のロマンスといっているのではないかな。

 ふんわり一歩手前までのことですべてがすすんでいく。そうするとどんどんぼやけてしまう。

K 青年たちはいつも本気ではないと言っている。 

S 小菅が美少年で、飛騨が葉蔵を好きとか、ホモセクシャルにも見えるし、中途半端な感じで出ていることは出ているが、雰囲気だけで、それ以上は言わないし進まない。

 ようやくぼけてきたというのは、作者にとってはいわば効果がうまくいったということでもあるし、読者にとってはこの小説はぼやぼやとしていて一体何を書いているのだろう、どうなっていくのだろうと不安になるということだろう。

 ここらでパノラマのようにクリアーに見通せるような描写をしてみようということではないかな。

【つづく】

 

 

 

 

 

 

泉鏡花「さゝ蟹」20220306読書会テープ

S 「さゝ蟹」は、全集別巻の書誌によると、明治30年5月に「国民の友」に3回にわたって連載された。1897年だと漱石より少し前の作品。これまで読んだ中で一番この小説に近いのは、漱石の「一夜」という作品じゃないかと思う。

 絵に描いてある女の人とか、葛餅がぶるぶる震えて蟻が這っているとか、あの描写がもう全く訳が分からなかったのだけれど、絵に描いた図柄について述べた文章だと思うと少し分かってきた。「さゝ蟹」の読みにくさと似てるような気がする。

H 本当だ。

S 「一夜」が絵を元にした小説だとすると、この小説はどちらかというと映画的な気がする。映画のショットみたいなものが何枚か重なって、10何枚のショットを並べたって感じの小説じゃないか、そうすると少し読めた気がする。

K 10章のそれぞれがワンショット。

S 映画だったらそういうワンシーンワンシーンは基本的に画像が切れてるよね。一枚一枚で切れてて、その間をつなぐのは映画を見る人。それと同じように読まなきゃいけないんじゃないかな、この小説。つまり、書かれてない分からない部分を、足しながら読まないとストーリーが見えてこない。そういう風に書いた小説じゃないかと思う。

H でも納得できますよね。例えば、第2章と3章の間で、男の人達が話しかけてきて、「姉さん何時だね」って言ったセリフの後って、ちょっと時間が飛んでいる。だから読んでる方が付け足して読んでいかなければならないってことですよね。

S 映画のカットとかオーバーラップとかいろんな手法があるけれど、映画の手法のような感じがする。かなり早い。

K 映画は日本で何年にはじまっている?

S  1896年11月、神戸で上演、世界的には1891年。前年に日本初公開された映画を泉鏡花は見たのだろうか?

宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その2 20210508読書会テープ

S  私がこの小説から思い出したのは、ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』。

 日々マイケル・ジャクソンになろうとしている青年がマリリン・モンローのそっくりさんと出会って、島のパーティーへ誘われる。そこはチャップリンやジェームス・ディーンのそっくりさんがいるネバーランドなんだね。尼さんが空から墜落するというエピソードがあったりして不穏な兆候がある。マリリン・モンローの夫はドニ・ラヴァンが演じるチャップリンなんだけれど、現実のモンローが自殺したようにモンローのそっくりさんも自殺してしまい、取り残された青年は、どうやってこれから生きて行こうか思い惑うというお話。

 宇佐美さんの小説は推しの話になっているけれど、実は空っぽの自己を他人のデータで満たそうとする、他人に成り代わる話ではないか。

 マイケルの真似をすることで、生きる意味と自分のアイデンティティを得ている、そうやって生きるのは本当に切ない。この小説の女主人公が推しを推す仕方は、この映画そっくりで、自分はマイケルであり、モンローであるというように、推しを自分として生きようとしている。

 面白いのは、いろいろな推しの言動を収集して、異様に詳しいこと。推しの生態というのは実際こういうことをするのですか?

Y します。切り抜きをしたり、スクショを集めたり、イメージカラーを着たり、缶バッチとか、痛バックとか。

S おはよう、ピロロロロ、今日も頑張ってとか、そういう時計あったらほしいな。

Y 推しにもいろいろな種類があって、この人は、最後になって初めてキーホルダーを買っていて、そういう系統の推しではなかったようだ。

S  声を重ねて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたとあって、私は彼であるということがこの女主人公の推しの特色。自分であることが嫌なんじゃない? 自分じゃない誰かになろうとしている。

Y  だから模範解答という形で、インタビューしたときも、彼が答えることが分かると言っている。

S 予想ができるようになる。つまり、私というコンピュータに上野真幸のデータをすべてぶち込んだから、私は、彼以上に彼が何を言うか予想できてしまう。

Y 自分は自分ではなく、推しのデータで塗り替えられたら良いのにというふうに生きてきた。それがなくなったときに、どう生きていけるかという話をしているわけですね。

I  殴ったというのは、今までの過去のデータからなかったことなんですよね。それが……それがあるから一体化できなくなったんじゃないですか、どうだろう?

K  推しが人を殴ったのは、今まで無理して生きて来たので、我慢できなくなって、それで結局、地が出たのじゃないか。

 この人自身も、高校へ行きたくなかったのに無理して妥協して生きてきて、ここで決定的に自分自身がやりたくないことはしないというのが分かったのではないか。それで、結局、自立の第一歩だと思う、だから明るい。

I  最初は、この女主人公は、真幸君と一体化して、自分そのものとして見てきた。その対象が人を殴るという、今までのデータにはなかったことをやって、それで、自分じゃないということを理解した。真幸君は私じゃないという事を理解して、それで自分を取り戻したといってはあれなんですが……

S 壊そうというところまで追い詰められたけれども、自分を壊せなかった。そこで真幸君との違いが分かった。自分には人を壊せない、自分には人を殴れない、真幸君との違いがそこに出てくる。違いを理解したところまででよいのではないかな。

Y   最初に言ったように、自分ではないものを拠り所にして生きて行こうとして、ずっと彼の追いかけをして、彼をデータ化して、自分を理解しようとしてきた。ある時、彼が人を殴ったことがあって、もう一度彼を愛したい、理解したいと努力したが分からない。そして彼の洗われたシャツまで見て、私とは違うという、ちょっとこう剥がれてきた。自分も狂ってやると思って目についたのは綿棒で、なんだ私ってこんなものだったのかと思った時、部屋全体が眺められた。今までどうして部屋がこんなに汚れるのか自分でも分からなかった。これは自分の過去だということが分かって、そこで何だか笑いが込み上げてきて、綿棒を自分の骨のように拾って、推しの葬式をしたのですね。それで新生していこうとした。

S  膝をついて綿棒を拾うというのは、フォークナーの小説じゃないか。テーブルの下のパン屑を膝をついて拾うという姿勢が重要。この作品では、綿棒を推しの骨のように拾う姿、そういう姿勢ができたというのが希望では。人間が生きるのは這いつくばって生きるということだと、立って生きようというのは望みが高い。

 シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバークオハイオ』の「手」という短編、教員をしていた男がある時子供たちに性的に手を出したと疑われてリンチにあい、顔を殴られて命からがら逃げ出して、名前も変えて、問題になった手の特殊性を隠して生きている。この「手」にまつわる特殊性のテーマと、町の人々の暴力性、それから、牧師のような祈りの姿勢でテーブルの下に落ちたパン屑を拾っている点が、この作品の理解のために非常に参考になる。

 全体を眺められたというのも、今まで部分的にしか見られないできたのが、部屋全体を見回す視界を得たということが希望になる。視界が狭く閉ざされていることで、とても生きにくかったのだから。

Y マルチタスクですね。最後のここに至るために限定された深い視界で書いてきたとすると、ぞわぞわしますね。

S 非常に技巧的に書いている。そしてフォークナーやアンダースンをきっと読んでいるだろうな。

【おわりに】

S  データを集めて彼を理解しようとしてきたのは、いわば中身を真似ようとしてきたということ、そうやってデータを集めれば彼を理解できると考えてきた。ところが、それでは理解できないということが炎上事件が起きて分かってしまった。

 このときに、自我の位置を中身から皮膚へ移動させれば、解決の希望が出てくるのではないか。殴るということがなぜ問題になるかというと、相手と接触するから。接触したということが重要だというのは、中原昌也の小説でも、殴られて顔に拳がめり込んだというような描写がある。中身をデータで満たして理解するのではなく、接触によって他者と関わることができる、それが分かった。つまり、主体の位置が移動したというということを描いたから小説になったのではないか。

 推しの上野真幸もずっと母親に操られてきたが、人を殴ることによってはじめて現実に帰っていくことができた。

 参考になるのはアフォーダンスという概念で、佐々木正人の『アフォーダンス入門』というのが大変分かりやすい。アフォーダンスはコンピュータや発達障害にとって非常に有用な理論になっている。ミミズが土の中で穴を塞ぐのにいろいろな葉っぱを使うという例を引いているのだけれど、発達障害の生きにくさをアフォーダンスで解釈すると、環境と自己の接触面こそが問題解決の場所であり、自己と他者とが混じり合う場所でもあるということがわかる。

 私という主体が宿るのは中身ではなく、私という主体はデータの集積ではないと言うために、推しのデータを集めるあの詳しい描写が必要だった。私という主体は単なるデータの集積ではないというのは、カズオイシグロの新作「クララとお日様」と重なるテーマだけれど、小説としてはこちらの方が面白いと思う。宇佐美さんの推し描写の繊細に対して、イシグロのAI描写が、スペックが低いことを差し引いても、粗いから。