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ヘンリー・ジェイムズ 「教え子」その3 20230205読書会テープ

【国際テーマと詐欺】

I コスモポリタン的生活というのは、最近のインスタグラムとかユーチューブで、海外へ行って私たちこんなセレブリティなことしていますとか、仕事が日本では一攫千金もできないから、海外で新しいことをする、小説を読みながら近しいものがあると思いました。

M モリーン・ユーチューバー一家

S 靴下の穴は絶対写さない。ユーチューバー詐欺師。

K 円が強いときの海外旅行も詐欺のようなものでしょう。

S 為替差があるときは国を跨ぐだけで利益が生じる。ジェイムズのいわゆる国際エピソードというのは、そういう詐欺テーマであるわけだ。

モーガンの死】

S ジェイムズの国際エピソードというのは、アメリカ人がヨーロッパに来ていろいろ問題が生じる。「デイジー・ミラー」もアメリカの若い娘がヨーロッパにやって来て結婚しようとするのだけれど、死んでしまう。あれ? そうすると、モーガンが死ぬとか、間に立った人間が死ななくてはいけないというパターンがあるのかな。

M 天才でなくても死ななくてはいけない?

S あるいは死んだから天才になる? 「鳩の翼」もアメリカ娘娘ミリーが死ぬ。「ヨーロッパ人」ではヨーロッパの女性が修道院に入って現世の名前をなくして自分に死亡宣告をする。なにか間に立った人間のなかの誰かが生贄のようにして殺されるという感じがする。一番幼いモーガンが生贄として死ぬ、それによって偽りと正しさがきちんと分けられる。

 モーガンはモーリン一家のいかさまぶりが恥ずかしくいやで暴こうとしている。どうやったら暴くことができるかというと、モーガンが死ぬことによってはじめて暴露される。テンパートンの手元には髪の毛一房と手紙が数通のこる、テンパートンの回想の記録になっている。そうすると、モーガンは死んだことによって天才児、素晴らしい子だったということになる。

H 天才に見えたり、そう見えなかったり、反転したり色々な色に見えるというのが、死ぬことによって打ち止めになるということか。

S これで全部瓦解して、少年の死という回想話におちつく。

M 最後の場面で、夫人は、あの子はあなたのところへ行きたいとばかり思っていたと言っているが、モーリン氏はそうではないと言っている。これはどういうこと?

H この辺とくに色々な色に見える。

S 夫人はテンパートンとモーガンの同性愛的親しさを見ていて、モーリン氏はそうではないということか。

M モーリン氏の冷静さも不可解、取るに足らない出来事だと思っている?

H テンパートンがロンドンに行くことになったときも冷静に受け止めたとある。

M このお父さんは肝心なときに家にいない。モーガンの死の時は居合わせた。

S モーガンの死に立ち合ってしまったのじゃないか? モーリン氏は登場しないことによってすべてを虹色に保っている。モーガンの死に立ち合ってしまったから真偽が分かれてしまった。つまり詐欺が暴かれた。

M モーガンがテンパートンの手に結局渡らなかったというのはどういうことでしょう? モーリン氏は、モーガンがテンパートンと一緒に居たいというとき、「いつまでもお前の好きなだけいてもいい」と言ったりする。しかし、最後のシーンでは「そうではない」と否定している。

S 愛情問題で、モーガンは父親を愛している、あるいはペンパートンを愛している、その愛情の駆け引きということになるかな。父親がいかさま師で悪人だとして、それでも子供は愛さざるを得ない。一方、公明正大まっさらなペンパートンという新しく登場した青年への愛情と、少年はどちらを選ぶだろう?

K 先生のところに行きたかったのは事実だけれど、父親に対する愛情もあったということ。

M 息子は父親を殺さざるをえないという。

S フロイトの時代だし。モーガンが死んだということは、エディプスコンプレックスに失敗したということか。父を殺す代わりに自分を殺した。

ペンパートンは第二の父親、この人に面倒を見てもらいたいと思った。

S エディプスコンプレックス型の葛藤で、その同性バーション。勝負はあったというので、それでモーリン氏は冷静であるのか。父とペンパートンの間で、モーガンフロイト的葛藤があった。

I モーガンの命をもらったところでありがた迷惑だというセリフがあったので、多分ペンパートンは、経済的にも精神的にもモーガンを幸せにしてやることはできなかったのではないか。ペンバートンは最後に熱い思いを言ってやるべきかもしれないがそうできず、モーガンはウェルカムされていなかったのではないか。

S モーガンはそれに絶望していたのかもしれない。やっぱりパパの方がずっと強力だったということか。それすごいねえ。

H 面白い。

K ペンバートンは自分一人も食べていけないのだから。

I そうですよね。Hさんの言うようにペンパートンはやりがい搾取されている。自分一人の命を考えたときに、やりがいだけでやっていけないよなあと。

S つまり、やりがいだけで食べていけないし、詐欺師になってでもモーガンを自分の元で守るという決意がペンパートンにはできない。モリーン氏はそれを平然とできる。ペンバートンは顔が赤らんでしまってできない。それにモーガンは絶望した。

漱石ヘンリー・ジェイムズ

M ペンパートンとモーガンが一緒に暮らすようになったら、ペンバートンは詐欺師になりきれずに貧乏になる。そのときモーガンは、ペンバートンを殺すか、自分が詐欺師になるか。

S モーガンが第二のモーリン氏になって、ペンパートンとの生活を詐欺によって成り立たせていく。モーガンにはその素質がある。ペンバートンにはそれができないというのがこの話の味噌になるわけだ。できないから髪の毛と手紙を抱えて懐かしんでいるという非常に情けない状態になる。

M エリートはそういうものでしょうか。

S 漱石の「こころ」の私と同じ。先生が死んでしまうというのがよく分からないのだけれど、そういえば、先生の死とモーガンの死はよく似ている。みすみす先生を殺してしまった。「こころ」も悪の問題を抱えていて、悪の問題に手を染めるのがいや、むざむざと先生を自殺に追いやってしまって、「私」の手元には先生の遺書と数通のハガキが残り、それを抱えて呆然としている。よく似ている。

 モーガンの死は謎。先生の死と匹敵する。日本の国文学会は先生の死をめぐって延々と議論を続けている。モーガン少年の絶望は先生の絶望でもある。電報を打って呼ぶのだけれど「私」は行かなかった、あのとき「私」が先生に会えば先生は自殺しなかったかもしれないという説がある。

 ペンパートンがここで詐欺師になる決意をして、モーガンを連れ出せば、モーガンは死なないで済んだ。しかしこういう知性にあふれたエリートは詐欺師になることができない。

M 卑近な例で言うと、文系博士課程の学生と結婚するか、金融に勤めている大金持ちと結婚するかの選択。

S 「こころ」の先生もお金の話題が非常に多くて、叔父に騙されて財産を取られたと生涯言い続けている。自分は騙されて人への信頼をなくしたが、自分は騙す側には決して立たないという潔癖さがある。モリーン氏の詐欺師の風貌が重要な問題なんだろう。

「こころ」は1914年、「教え子」は1891年。