深沢七郎「笛吹川」その2 20181124 15:00ー17:00

 

【生まれかわり】

S どうしてこれほど生まれかわりが多いのだろう? 日付が一致するとか白目を剥いたとか、ありとあらゆるこじつけによって、武士と農民、僧侶などの階層を一気に飛び越える。捨て子も飛び越えの手段になっている。

M タツは娘のノブに執着して、殺されたノブの死骸から赤児を取り上げて寺へ捨てる。その描写が凄惨で、タツはやばい人になっている。

S タツの執着は、近代人としてよく分かる。

K おけいは娘のウメに執着していて、惣蔵が、幼い我が子久藏とヤヨイを殺してしまうのに、孫に当たる二人を助けようとしていない。

S 一族とか血筋の考えが否定されているのではないかな。おじいの子孫も、武田家とおなじように一切すべて途絶えてしまう。意識されているのは、目の前に見えている親と子供三代だけ。こういうのをどう言えばいいか。当代至上主義、当代功利主義

おけいは惣蔵の子供を連れ帰る気がない、血筋という考えがないのだと考えなければならない。

「先祖代々お屋形様のお世話になり」というのは武士になってしまった惣蔵の言葉で、定平はびっくりする。武士と庶民の差として血筋がある。

 

【場所を生きる人々】

H タイミングが似ているとその人のことになってしまう。たとえば、ボコが出来て流産した女の噂話のなかで、タイミングが似ているとすぐにおけいの話になってしまう。入れ替わる人々。ぎっちょん籠は、差別された人々か。

S  川べりに住む人々は被差別民。

K 結婚は自由に交流しているようであるが?

S ブドウの種とあるけれど、甲州ブドウが名産になるのは江戸時代に入ってからだろう。現金収入があると階層分化が進む。時代は16世紀川中島合戦の頃だから、江戸時代より前、身分制度が定まる前の比較的自由を希望できる時代に設定されているのでは。ここに「笛吹川」が時代小説で書かれた理由がある。

M 郷土の英雄武田信玄の最期を書いてしまっているが、深沢七郎が自分の故郷を書くのは難しいことでは。

S 信玄が昇り龍の勢いで信州を平定し、そして鵯越の逆落しのように転落していくのが武田の一族。負けて落ちていく武将の話には、つい見捨てられないような共感がある。「さざなみ軍記」とか、「平家物語」も。

M 彫刻のようなものが権威の印になるというのは一般的に言えること。topofilのようなプロジェクトがある。例えば矢印形のネオン管を長崎の爆心地に置く。彫刻をそこに置くことによって「場所」が変化する。この小説だと、善光寺の本尊を強引に持ってきてしまうことがとても気にかかる。

S そうか、前世紀末にレーニン像を引きおろすことがあった。慰安婦像も彫刻が焦点になって問題が活性化する。

H ノオテンキの人は武士になっていいとしても、そうでない人は巻き込まれていく。止めに行って巻き込まれて一緒に死んでしまう。武士の中にはいって行くと、いつのまにか武士のように考えはじめる。

ぎっちょん籠には定平しか残らなかった。人は死んでいくが籠は残って籠が主語になる?

S 籠や城や寺が主語になるというのは、いい考えではないな。城に入ったら城の考えになり、寺に入ったら寺の考えになるというのは、まったくいやな考えだ。面白くない。

M 郷に入れば郷に従え...

K あれはローマの諺らしい。

S 場所の思想というのは西田幾多郎の後期の思想で、日本ファッシズムを基礎付けた、猛烈に危険さね。

【水害共産制】

H それでは希望はどこにあるのか?

S  定平は、あのあとどうなっていくだろう? 米を炊いでいるところに、おけいが一人で帰って来ても、もう「生産性」がないから子供は生まれない。ぎっちょん籠はまた誰かが住み着くんではないかな。そして住み着くのは誰であってもよい。

また水が出るということが話題になっている。水が出て一切が流されて土手も道筋も変わってしまう。そのあと一切平等。これがアジア的原始共産制ではないのかな。毎年毎年流されて、一切平等にまた無一物からはじめる水害共産制。

畑の土を流されてしまった婆さんが次の水害を待っている。これが定平の最後の会話になっている。笛吹川の水害共産制を書いた徹底的な革命小説。