『軽率の曖昧な軽さ』から「恋愛の帝国」(仁木ひろみ名義 2009)

【はじめに】

S「軽率」の豪華な菓子の箱が「恋愛の帝国」にも登場する。その菓子箱にはメモが入っている。手紙は封印された信頼のおけるメディアだが、菓子箱に入ったチラシ裏のメモは信頼性の低いメディア。ちょうど、化かすかもしれない狐のコートのように。

【映像と小説】

O仁木ひろみは噂になっていないかネットを見ると、『真夜中』という雑誌に、新人作家扱いでロラン・バルトも真っ青のという文句で紹介されている。『真夜中』は、中原とは結びつきそうもない渋谷系のおしゃれな音楽系の雑誌。

S『トリッパー』や『鳩よ』よりもっとおしゃれ寄りな、文芸とは別の雑誌?編集者は知っているのでは?知らなければ、中原昌也に憧れた偽物と言われるのでは(「人間の部屋」に編集者が別の名前で出すという記事がある)。  

 『ポーラX』という映画で、美しい婚約者のいる青年、売れている実験小説家が、ロシアから来たという姉とつきあい出すとだんだん変わっていく。事故で足を引きずるようになり、小説の書き方も変わる。手書きの小説を持ち込むと、これは模倣作だねと全然相手にされない。森の中で三人が走る映像が、森の下草を画像処理して血の海の中を走り回るような気味の悪い映像になっている。

 中原の小説は否応なく映像と関わっている。「恋愛の帝国」の終わりの方に、「俺が信じられるものは・・・・とびきり獣じみたセックスだけだ」と言っているのはAV。「実際にはそこにいない観客からの声援が、聴こえてくるようだ」というように、見ている自分がそこに入り込んで入れ替わり、映像と現実とが入り込むように作られている。そこにはいない観客の望みが映像に入ってくる。映像と現実とが越境する。それによって、自分の中の欲望を発見する。AVが一番典型的に、現実と虚構を行き来するフィクションの機能を示している。

 『KKKベストセラー』(2006)で、小説を書く自分がこんなに辛いのは、読者がみんなで寄ってたかってそれを望んでいるからだという発見と同じ。

OHN恋愛の相手が過去の相手と入れ替わる。目をつぶって誰かと交替するように。

Sそこから自分たちの内なる欲望を発見していく。しかし、今更、入れ替わることができるとなぜ言わなくてはいけないんだろう?私たちはそれを忘れている?テレビを見ていると現実を知ったつもりになって、入ったり出たりをしてみる必要はない。確かめることも疑ってみることもない。

O『こんにちはレモンちゃん』(2013)で、作品の中に入っていくとき、殺されるほど殴られる暴力があって、現実に戻って来いという話かと思っていたが、

H現実と虚構とどちらがよいというわけではなく、通過するときだけ点滅して気づくことができる。

Sぶん殴られることもある、暴力的侵入によって気づくこと。フィクションに当然のように入り込んで信じて、そして眠り込んでしまう(というのが、深沢七郎の「東京のプリンスたち」(1959)の批判)。

【手紙】

S「恋愛の帝国」では手紙が二通ある。どこからいつ届いたかは分からない。一通は引き籠もりの男からの手紙、もう一通は自分が書いたような手紙で、声に出して読んでいるうちに「すでに読んだ記憶がある」という。

H手紙と自分とがリンクする。一通目は閉じ籠もっている手紙で、そのとき自分は監獄のようなところにいた、とリンクしている。二通目の手紙は、自分の書いたチラシの裏に書いたメモと話の中身がリンクして共通している。

S噂話がいくつか集まって重なる、その重なり方が方法として使われているようだ。箱と中身とが、それぞれ似ていてそれぞれ重なる。箱と中身。この出し方がおもしろい。フィクションの本質的な問題だと思う。噂話を包んでいる入れ物(メディア)と中身がともに出ているのがすごい。

H自分自身も広告の裏に書いていた。手紙の文を読んだことがあったのではなく、噂話を聞いたことがあるから、読んでいないものを、読んだ記憶があるように思えてくる。

S噂話がそこでつながった、たぶん木村と青木の名前のところで重なった。

H自分が書いたものと届いた手紙が一致してしまうように、自分の書いたものと届いた手紙とが重なって同じものになってしまう。

S幸福の手紙のように、わーと広がっていく話がサークルをつくって自分のところに戻って来たりする。聞いたことがあるとか、読んだことがある、ふつう重なると真実ぽくなるのでは。

Hやっぱり本当だったということになる。現代メディアでの真実のつかみ方、色々なところに出ていて、ニュースや2CHに出ているから本当というつかみ方。昔なら新聞に書かれたから本当だった。

S特権的な真実をつくるメディアがなくなった。どれも箱に入って私的に届くようになった。新聞は公の出来事をつくる装置だったから、事実という保証がわりとあった。

Hいろいろな箱をあけて、あちこちに入っていれば真実となる。

O忘れていることを思い出すこと?思い起こされる?

Sネット上の死とは、アクセスされないこと、アクセスが多いところが事実、ホットなところが真実らしきものということになるらしい。忘れられるとは死ぬこと。

O「片割れ」と言っていたり、「どちらだったのか」とあったり、どっちか忘れたと書いてあるところ(が気になる)。

アスタリスク

Hここにはアスタリスクがない。ここまでが広告裏に書いてあったのか?

O手紙の内容を括弧で括ってくれればいいのに。「なんと木村裕子」から「怒鳴られるのがオチだろう」を括弧でくくるか、「オチだろう」のあとにアスタリスクを打つ必要があるのでは?

Hここに打たない理由がわからない。

S以下はメモの一部分だという徴としてアスタリスクを打っている。しかしアスタリスクは二カ所しかない。アスタリスクで本文を三つに分けろという指示。

 私たちは太宰治の「女の決闘」を読んだのだから、途中でつながっている部分は、つなげていると技巧的に読まなければならない。

H途中でダブっているんだ。別々の話同士がダブっている

S「女の決闘」の途中のつなぎの文章に(技巧が施されて)、半分違っていたりする、あれがモデルになっている。まして、この話は噂話、噂がどうつながって、どう重なるかを、

H小説の形式で書いている。

S一応「上記のような」までがチラシのメモではあるらしいが、

H「上記のような」以下も広告の裏のメモとして読むこともできなくはない。

S私はそこは続けて読んでいた。広告の裏に書かれたストーリーが続いていると。

H目が覚めた状態と似ている。ここまでがチラシの内容、ここからが小説という書き方ではなく・・・

Sアスタリスクからアスタリスクまでが小説の本文だと思える。広告の裏に書かれているのは、「これを罪と呼びたければ、勝手に呼べばいい」まで。豪華な菓子箱に入ったメモがいつのまにか部屋に届いていたように、手紙に記されていた友人の小説。「箱から取り出して眺めてみる、雑感を書き記していたのを思い出したのだ」とあって、(日々の雑感を記していた自分の小説でもある)。

【噂話の空間】

Oネットスラングで、チラウラでOK、チラシの裏でOKなくらい、どうでもいい情報というのがある。まとめでも何かの拍子に昔のものが蘇ってきたりする。すごく昔のことも、まとめられると今出てきたりする。

S蓋のある箱がいくつもあって、アクセスがあると蓋があけられ、読まれる。読まれるほど上にのぼってくる。

O繋がるはずのないものが、繋がって一つになったり、一つの情報になってしまったりする。

S違うものと違うものをくっつけて、お話が成長していく、お話を語ることの本質的現象、ギャザーしたり、重なるところに自分の意見を加えたり。

 箱をあけてみると、自分が書いたらしい、しかし他の人が書いたものも入っている。書き加えをはっきりさせるためにはアスタリスクを用いて区別するが、お話自体は接してくっついてしまって区別できなくなる。そういえば続編がある、あのあと見たんだよというようにつけ加えて続いていく。話が増えていくことと、意見を加えることをアスタリスクで区別している。

 次の「良子」でもアスタリスクを二つ使っている。おそらく噂話を使って書くときの(仁木ひろみの)形式。

 日本語の時制がゆるいから、こういうことができる。「いつものようにこうして」、「遭遇したのだ」というのはどちらも現在。痛みについての記述で、過去も未来もない(「傷口に」p.98)と言っている。すべてを現在に引き取って語る。現在が幽霊船の船長の吐き出す煙のようにレイヤーとなり、その中から髭が浮き出てくる。

H見えるはずのない骸骨も煙の中から見える。

S窓の曇りガラスに後ろの何かが映り込むように、現在のなかにすべての過去の出来事が流れ込む。

O推量と断定の文末が多いが、根拠は書かれていない。根拠のないただの推量がかなり多く、小説のなかでは根拠のある推量をするものではないのか。「傷口に」でも、亭主関白をやっている、じつは奥さんもそれを分かっているというが、それも推量でしかない。

H小説のあたりまえを壊している。

S根拠ある動機のある殺人を犯す、ドストエフスキーのような小説を壊しているのではないか。読めば殺人の動機が手に取るように分かるというのが小説だった。

O動機も神の視点から見るからあるのであって、神のないこの国では、だいたいのところでというような、推量の共通性に頼るしかない。

N噂話と同じぐらいには共通性があったが、共感が成り立ちにくくなって、今村夏子の「こちらあみ子」のような小説がある。

Hみんなが語り手になる。

Sみんなが語り手になって語るほどに真実になっていく。友達の友達という噂話の形式は、友達には確認が取れるが、友達の友達にはもう確認が取れず、半分は霧の中。そのぼんやりした霧の部分で、いろいろなものが繋がる。

S「軽率」や『花束』のように、軽率=偶然性で文章を爆発させてその都度こわすやりかたとは違っている。レイヤー部分を重ねていって、いくらかストーリーのまとまりが噂話ぐらいには見えるようになっている。仁木ひろみ名義の場合は、話の粒が少し大きくなって、何々が起こっているということが記憶に残るくらいには大きい。

O女語りは、土佐日記の例ぐらいしか知らないが。

H男が書くのは漢文と論理、心情に近いものを書こうとすると女文字ひらがなで書く。

S(今や婦人雑誌だけがTPPをあばく記事を書ける)

O恋愛語りや、将来の夢などは女語りのテーマ。

S仁木ひろみの特色、噂話でぺちゃくちゃしゃべる、知っていることも知らないことも嘘も本当も話していく。嘘か本当か根拠があるかないかを免れる小説の書き方。

Nそれは尾崎翠の「こほろぎ嬢」の書き方と同じ。

【おわりに】

H一通目の手紙も、自分の状態と互いにリンクしている。小説をひらくと、独り言のように話していて、豪華な箱をあけると小説がはじまる。

Sこれは枠小説の形式。

H男は宅急便を開けずにそのまま捨ててしまう。

S枠物語の中には、手紙はずっとしまわれていて、鍵をかけられている、今日こそ開いてその秘密を語るという手続きが書かれているものがある(ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」)。中原の小説を読むときと同じように、精神的、肉体的な力が必要。箱をあけない方が絶対疲れない。

H平穏でありたければ届いた荷物は開けないほうがよい。箱をあけるかあけないかという問題と、箱の中に書かれている話を読むか読まないかというときに、ちょっと力が必要。引き籠りでも、本を開いて読めば、誰かと繋がる。

Sアスタリスク以下に自分の感想を加えて、誰かに送ればよい。「読んで感想をきかせてほしい」と言って本を回覧する『ゴースト・ドッグ』のように。

H本を読んで、意見を言う、この出入は、部屋に入る出ると同じ、その出入りする時にだけ点滅があり、覚醒のチャンスがある。

S仁木ひとみの短編は、つけ加えるべき感想をはっきりアスタリスクで示している。それによって本が次へ回覧されるという希望が生じる。