清風読書会

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三島由紀夫「雛の宿」その2

桃源郷
S  一回目だけだったら、最高の一夜だったというのも壊れない。現実の自分の生活も壊れないし、妹との甘い思い出も守られる。そして、二回めは、現実の女に捨てられて、夢の女に走った。二回目はどうなったか?
    迷子になったというのも重要だと思う、桃源郷への道が途絶えたという話なら。二度目は迷って行き着けないというのが桃源郷。一度は行けるが二度は行けない。あの道をどんなに探しても見つけることができなかったというのが桃源郷の伝説。
    ところがこの青年は、よせばいいのに、薬屋の親父に聞きたくもない噂話まで聞かされてしまった。道も教えてくれた。だからもう一度雛の宿へ行き着いてしまった。
K  一回だったら幻想は守られる、桃源郷は一度は行けるという話でよいですか。
S  一度ならばそうなるが、二度目に行き着いてしまった。
H  そして母子がそのままそこにいたんですよね。雛人形もそのままある。
S  時間が止まっている。
   こう書いてある。「まるで木彫の彫像のようだった。そしてもし僕が声をかければ、彼らは本当の木彫の彫像に化してしまうのではないかと思われた。・・・」(41)声をかけたらほんとうの木彫の人形になってしまいそうだというのが変。
    青年は妙に賢いからここで帰ってきてしまう。最高の一夜だったという幻想が淫売宿の現実になってしまう大危機、その大危機を回避するためなんだろうが、ここが妙に逆転している。
    声をかけたら、どうなっていただろう?
K  同じことをするのでしょうか。
S  多分。どうしてそう思えるか、根拠は?
K 「いってらしゃい」と言われたのだから、「お帰りなさい」と言われる。
S 「牡丹灯籠」の映画のように、お前には死霊が取り付いているからお経を書いてやろうとか、障子に映った影を見ると骸骨だったとか。そこでようやく夢が覚める。その結果、死者の世界と、生者の世界とが分かれるというのが結末。あるいは死霊に取り殺される結末もある。
   木彫りの人形に戻るというところがとても変で、近代的な作家が作ったところだろう。この青年は妙に賢い。そこまで行って帰ってきてしまう。帰ってくる理由が、あのまま木彫りの人形になってしまうというもの。
K 「木彫りになってしまう」というのはどういうことでしょう。
S  母子は雛人形で、すべては青年が勝手な幻想を見ていたということになるのでは。
    では、声を掛けてとことん母子と交わるのと、声を掛けずにすべては雛人形の見せた幻想だったというのと、どっちがいい?
K  人形であったほうがいい。自分の思い出が壊されないから。
H  人形だったということになると、すべてが偽物ただの幻想になってしまう。生きた人間だったというほうがよいのでは。
S  生きた人間だったら、それはきちがい母子ということになるけどそれでよい?
H 両方バッドエンドですね。

S  一回だったら幻想は守られる。桃源郷は一度だけなら守られる。この伝承の記憶がなければ、この話は読めない。そして二回目があるから近代小説になる。二回目によって何がどう変わったかを読まなければ、近代小説を読んだことにならない。
K 「オール読物」の読者がそういうことまで読むでしょうか。
S  二回目に行ってしまう馬鹿な男というところまでは読むでしょう。隣の爺さんは、それで失敗するのが昔話の常套。その先に、二回目によって何がどう変わったかを考えなければならない。

H 最後に「君はどう解釈する?」と書いてあるところは、青年が母子に声をかけないで戻ってきたから持っていられる甘い夢ということでしょうか?
S  一回目だけならこの甘い夢は守られる。二回目も、そっと幻想を壊さないように何も知らないふりをして抜き足で帰ってくれば、甘い夢は守られるということ?
   木彫りの人形という幻想も、生きたきちがい母子という現実も、どちらも選べずに退散している。そこに変な無理な終わり方をしているのだから、甘い夢はもう持てない。嘘つきのクレタ人のパラドクスが突きつけられている。

   一回目には、最高の一夜だったという甘い夢には、少女が処女ではなかったということを隠蔽する自己欺瞞があった。二回目には、きちがい母子と関係を持つだけの蛮勇もないということが、母子に声をかけられなかったことで、分かってしまった。君は、自己欺瞞を選ぶか?、臆病者を選ぶか?