清風読書会

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ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「ほんもの」 20230218読書会テープ

【はじめに】

 「ほんもの」も挿絵画家の話です。画家のもとに立派な紳士と細っそりした夫人が訪ねて来て、絵のモデルにお願いしたいと言ってくる、しかし全然まるで使えない。そこへ何にでもなれるミス・チャームや浮浪者のようなイタリア青年オロンテが来て、なんなくモデルの仕事をこなしていく。モナーク夫妻はついに下働きでもいいので雇ってほしいという。画家は、さらに1週間まって、お金を渡してようやく引き取ってもらった。胸の痛い話です。

【にせものとほんもの】

S 変幻自在何にでもなれるモデルと、自分以外何にもなれないモナーク夫妻。

H モナーク夫妻は、写真を複写したようになる。

S 写真の複製つまりにせものになってしまう。モナーク夫妻をモデルにした挿絵は散々な評判で、友人の批評家にいわせると、君の経歴を貶めるという最大の非難を浴びている。

K 画家自身も自分の霊感がなくなってしまうと言っている。

H 「ほんもの」に出てくる画家の方が、「嘘」のライアンよりいいですよね。使えないからといって、すぐ追い払ったりしない。

S 追い払うにしのびない。

K 駄目だと分かってから1週間置いている。

S 友人の批評家ホーリーは、「永久に消えぬ痛手を負わせその結果二流の仕事しかできなくなったとくりかえしいう」と、痛手が大きく根本的であると言っている。これが引っかかるし問題だろう。

K ただのモデルならお払い箱にしておしまいになりそうだが、それがなんでこんなに残るのか? 二人の思い出のためなら犠牲を払っても悔やまないと言っている。

S これが「ほんもの」のほんものたるゆえんの問題点だろう。これがあるから、この画家はオリバー・ライアンよりかなり真面目は人だなという信頼を得る。

H 「嘘」に出てきた女性モデルについて、ライアンがほんとうは昔使っていたとすると、こういう痛手はまったく負っていないし、思い出にも残っていない。

S 何にでもなれるミス・チャームやオロンテは、そこから霊感を得て、挿絵を描いてその絵は残る。そして、ミス・チャームやオロンテ自体は忘れられていく。逆に、モナーク夫妻の絵は使い物にならないけれども、その思い出はいつまでも残る。モナーク夫妻の思い出は、何か非常に貴重な素晴らしいあるものを示していて、いつまでも残る。この二つのケースの相互補完性がないといけないと言っている。

K 人としては。

S そうねモラルの問題があるから、こういう話になる。

H 『とんこつQ&A』に入っていた「良夫婦」で、通報しないで躊躇している時間のモラルの話をしましたが、一週間モナーク夫妻を使っていたのは、その躊躇の時間ということですね。

S そうしないとこの画家はまずい存在になってしまう。モラルの問題。その猶予の時間を持てないと人間はアンモラルな存在になってしまう。

K その期間は、ナイフを磨いたりお茶碗を洗ったり、下働きをしていた。

H いたたまれない時間。

I 「教え子」のときでも、自分たちの身分は貶めないようにして子供たちを結婚させるような詐欺まがいのことをしていた。モナーク夫妻の場合も、そうやって自分たちの身分を貶めないようにモデルの仕事をしようとしたが、うまくいかなくって。

K いろいろな仕事に応募してだめだったとあり、使えなかったんでしょう。

I いわゆる肉体労働をして、何とかするしかないのだろうけれど、それもできなくて。

S もう一言、その先を、頑張って。

S「教え子」だったらその時何をする? 詐欺をするんじゃない? 立派な風采と過去の栄光にもとづいて人を騙す。しかしモナーク夫妻はそれができないから落ちぶれていく。そこが、この人たちを忘れ得ぬ人にしているんじゃない? 

IKH ああ、そういうことか。

S これくらい立派な風采をしていると、この人たちには詐欺をするという手段がある。

H 「教え子」では、自分たちに似合わないことしないために、似つかわしい姿形を生かしたやり方で詐欺を働いて体面を守っている。この人たちは詐欺も働けないから、自分たちには似合わない召使いのするようなことを最後にする。

S そこにモナーク夫妻のモラルのある生き方があって、それに画家は撃たれたということではないかな。いっそ騙してくれたらたたき出せるのに、それができないから滅び行く人たちとして思い出に残る。

H これすごい話だな。

I つらいですね、いっそ詐欺でもやってくれと思っちゃう。

S 詐欺ができればこんなことにはならないのに。夫妻に子供がいたら、立派な衣装と風采を生かして金持ちと結婚させるという詐欺を働くのだろう。

H ほんものは絵に残らないのか。

S 絵は嘘っこを描くものかね?

H 自分たちの生活が廻らなくなって、自分たちはほんものなのだから絵のモデルができるのではないかと思ったら、絵は嘘で作られていて本物でないものが絵になる世界と気づかされて、自分たちの生活を捨てて召使いのすることをするというのは、とてもつらいなあ。

 夫人がモデルの髪を直すシーンがあって、そのあとコーヒー茶碗を片付けるシーンがつづくが、このあたり唯一ちゃんと境界を自分の足でのりこえていった人たちではないか? ライアンであれば気づかないうちに嘘をついてしまうが、この人たちはぎりぎりまで頑張って、自分たちには似合わないと分かっていて、境界を跨ぎ超していく瞬間。この人たちにとっては本来の自分たちではない偽物になる瞬間なはずなのに、その跨ぎ超す瞬間こそがほんもの。そこが胸を撃つ。

S 夫が茶碗を片付けてナイフがぴかぴかに磨かれている。そこの切なさも同じ。召使いという自分ではない偽物になってしまうのに、そこを飛び越えたことで真実となる。

H ほんものがにせものになる、その跨ぎ超す瞬間で、ほんものが出現する。

S 絵画に残しているのはそういう真実ではないわけだ。

H 映像だったらヒッチコックの「めまい」の話が出ましたが、この瞬間変わってしまっているとか、この瞬間境界を飛び越したとか、そういう瞬間をとらえようとする、動いているから。止まっている写真や絵だとそういう瞬間をとらえられるのかな。

 文章も時間の流れがあるから、変わる瞬間を描ける、髪を直すために夫人が踏み出す瞬間を描ける。

S 絵には絵のレイヤーがあるし、例えば遠近法のゆらぎとか。

K 視線の誘導とか。

S 観客に向かう視線とそうではない視線が交差したりするとずれが生じて、そのずれの部分に、あいまいな領域が生じる。遠近法や視線の構図は、そういう立体性を生じさせる。

I 絵が二種類出てきている。本や雑誌の挿絵と一方で芸術的な肖像画と。

S ああなるほど。

I  挿絵は生活のためにやむなくやっていて、肖像画を誇り高い仕事としてやりたいと言っていて。モナーク夫妻は挿絵にはなりえなかったが、もしかして肖像画にはなりえたのではないかと思っていたのですが。

K はじめのほうで肖像画も向かないと言っていた。

I 肖像画にもならないと言っていましたか、そうか絵にならないのか。

S  絵は本物か偽物かをくるっと回転させる。絵が本物だったらモデルは偽物、モデルが本物だったら絵は偽物になる、二者択一的にひっくり返る。そうすると、反転の境目のところがあれば、そうではない可能性も見えてくるだろう。そうじゃない可能性は、髪を直す場面とか、ナイフを磨く場面としてとらえられている。

 それは絵ではできないのかという話だけれど、Iさんは、肖像画という一級芸術品と、挿絵という二級芸術品との差異でできないかと考えたのでしょう?

 2種類の絵がある、その2種類は画家がそう考えている。そこに手がかりがありそうに思えるんだけど。一流二流の芸術品の区別はそもそもないわけで、あると画家が思っているだけだよね。ああそうか、その認識をあらためられたということか。

H 同じものだということが分かった? もともとは同じものだったけれど、画家は違うものだと考えていた。

S 画家は、最後には、全集の挿絵は自分の命をかける仕事だと考えている。

H そうか、画家も夫妻がしたように境界を乗り越えているわけか。

S そのことを認識したから、この夫婦を重要な思い出としている。画家はここで学んで賢くなった。そのきっかけを作ったのがモナーク夫妻。

H 美しい。

S Iさん、肖像画と挿絵の違いに気づくのはすごいなあ。ここに問題がある。

H Iさんが得意なのはライアンだけではなかった。

S 人は一歩踏み出すことができる、人間の成長、成熟の話。

H 成長して完成するというと、どうしても本物の姿になって、自分の本来の姿になって、きれいな絵になるというのになりそうだけれど、本来の自分たちから偽物の方に一歩踏み出す瞬間で本物になるというのは、ほんとうにすごいな。感動する。

I 二流と言っているのは批評家のほうですね。何にも分かっていない。