清風読書会

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「人生は驚きに充ちている」その2 

H 38ページの違和感が説明できるようになりました。「この店で私は次に来ることがあったとしても、チャーハンだけは二度と注文しないだろう」とある。

 今来ているのは2回目の来店ですよね、それなのに「次に来るときには、チャーハンだけは注文しない」というセリフは、1回目に言うはずのセリフ。2回目に来ているのだから、チャーハンを注文しないのは2回目でできるわけです。だから、1回目と2回目とがごちゃごちゃに書かれている。これが違和感の理由。

 さらに言うと、38ページの「前回と違い、あとからやってきた同じ男性が、また正面に腰掛ける」ってことは、1回目は同時に来た、今回はあとからやって来たとある。ところが、39ページに「ほぼ同じタイミングで入店した彼は」となっている。これは変。さらにもう一つ。38ページに「ジャージャー麺は毎度スムーズに食べられる」というのは変ですよね。

S この男は、この店に来るたびにジャージャー麺を食べていたということになる。そうすると、1回目に男がチャーハンを食べたことはどうなる?

H 男は1回目チャーハンを食べたんですよね。それなのに毎度ジャージャー麺を毎度スムーズに食べられると言っているのは誰のことなのか?

S 異次元のそれぞれ少しずつ違った現実を生きる男がいるんじゃない?

H だから、麺とソースの話をやたらするわけだ。ソースがまぶされた麺とソースが全然かかっていない麺を交互に味わえる。だから、前回と今回が交互に出てきているということ。しかもソースが器からこぼれる可能性とかもある。

S  そうそう、カレーの食べ方のヴァリエイションが無限にある多元世界。これはあの『ブレードランナー』のヌードルに載せられた海老天が2匹か4匹かという伝説的場面を思い出させる。デッカードはまことに人間的な食欲を持っている・・・

Y 過去と現在が混じっているというよりパラレルワールドで、多様な自分がいるということですね。

S これでこの場面はだいたい分かって、これが日記の書き方だとすると、地の文の書き方と差があるのかどうか。

Y 日記の方が、心理的なものを作り出そうとしている、態とらしい感じがする。作り話っぽい。作り話に取り込まれてしまって帰れなくなってしまった。逆に、地の文の方が日記っぽくて、神秘的で、心霊的なものに、出会っている感じがする。

S 日記の方が作為的。日記の方が、小松の要請に答えて、不可思議なことを、あえて作ってでも書いてしまおうとしている?

Y 61ページぐらいから、最終的に作者の姿が見えなくなっていく。「何物でもない放出された意志」とか、「ああ」という声しかなくなり、62ページになると僕がいるのに編集部の電気が消されてしまう。中原のことを誰も見ていない、中原の存在自体がなくなってしまう。

S ジャージャー麺屋でもう一人の自分に会って消滅してしまうのではないかな。多元世界が互いに出会うのはタブー。

H 60ページで小松が例の原稿どうなりましたかと問われて、私の方は無言で答えたとあり、私が消えて小松から見えないというバージョンと、私から見て小松が見えていないというバージョンの二つがあるようだ。

S 世界が分かれてしまって交錯できなくなった。交錯できなくなった結果、作品が出来上がるということではないかな。

 不思議と驚きに充ちた、いろいろなものが交錯して、あちこちで穴が開いている状態が分かれて、その断絶の結果としてしか作品は出現しない、そういう小説。作品が証拠品として残る。私たちは、この証拠品から、不可思議な出来事があったというのを推測することしかできない。そう考えないと、日記が見当たらないというのが分からない。

Y 考えたことのない思考回路についていけない状態です。

H まったく同じです。

S つまり、溶け出したり、何かが頭を出したり、というのは、通常の頭では出来ない。異常な人とか、気が狂っているとか、妄想ストーカーとか、イってしまっているとか、言われる。

 そこのコンビニでスパイスガールに会ったんですよと言われたらどうする?

Y 電波? 妄想?

S 自分とラーメン屋で出会って、交錯できなくなって、途切れて、断絶が決定的になって、その結果として作品が残る。

H そして作者自体は消滅する。

S ほかの人と出入りができたり、溶け合ったりするのは、生身をもった作家だから。そういう生身の作家は消滅してしまい、小松もひしゃげて変形してどこかへ行ってしまう。

H 断絶した間を行き来できるのは音と匂い。ラガーフェルドのドンドンドンだったり、スヌーピーが落ちて来たドンだったり、小松の声にならない「ああ」だったり。それくらいは聞き取れるけれど、文字にはならない。文字にすると途切れていることしか確認できないが、途切れている間を飛び超えられるのは音と匂い。

S この小説は、先週読んだ『月の客』とまったく正反対のことを書いていないか? 私たちの頭は、一週交替に正反対を往復しているから、よけいくたびれる。

Y  先週は、文字によってすべての感情を昇華させて、小説によって人々の魂を成仏させる、そういう話だったと思うのですが、今週は、断絶していて、文字と思考は同軸に存在できない。

S 何かを断念しなくてはならない。

H 『月の客』だったら、いぬを、犬やいぬに文字の使い分けをすれば棲み分けして、二つの世界を書き分けることができる。

S 『月の客』の場合は、マンホールを開けて、行き来ができる。「人生は驚きに充ちている」もまた二つの世界は互いに融合し接するんだけれど、断絶しない限り小説にはならないという違いがある。小説家はその融合を諦めるか、その断絶を引き受けなければ、小説にはならないと言っている。この点で、かなりはっきりと、山下澄人の小説を批判しているのではないか。

K 『月の客』の初出は2019年9月で、「人生は驚きに充ちている」の初出は2019年5月だから、順が逆になる。

H 『ルンタ』などでも同じやり方を山下澄人はしているから、山下澄人批判はありえる。

S 私は『月の客』を全面的に支持はしないところがあるのだけれど、どこをどう批判してよいかはちょっと言えない。中原を媒介にして読むと、どこに目を向けるべきかが少し分かった気がする。

H 村上春樹やサカキバラを当て込んで書くことが中原にはある。この作品では山下澄人を当て込んでいるかもしれない。

 融合するんだけれど断絶するというところがよく分からなかった。中華屋のところで融合したのですね?

S ショートしたんじゃない? 会うはずのない二人が会って、ショートして、スパークして、消滅する。

Y そしてだんだん薄れていってしまう。

S 作品だけが証拠として残せるものだということ。「点滅」以来の中原問題。

Y 切れ味抜群。

S 山下澄人には特有の甘さがある。

Y それは言ってはいけないものだと。

S 『ルンタ』も『月の客』も名作だと思うけれど、この甘さは気になる。ついでに宮崎駿星の王子さまの引用も気にくわない。もっと気にくわないのは現今大流行中のスピリチュアリズム