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深沢七郎「無妙記」20191221読書会テープ

【はじめに】

 「無妙記」は雑誌『文芸』に1969年11月号に発表され、1975年刊行の単行本『無妙記』に収録された。

 全集第5巻に収録されている同時期の作品をいくつか見ていると、「白いボックスと青い箱」というごく短い作品が目に留まった。1977年の作品だが、給与を電話ボックスに置き忘れて盗まれた男が、青酸入りコーラをボックスに置いて犯人を捕まえようとする、妙にちぐはぐな小説である。グリコ森永事件が1984、地下鉄サリンが1995、和歌山毒入りカレーが1998というように、無差別の毒薬事件がこの作品のあと起こる。

 深沢の1960から70年代の作品の異様に暗く、切羽詰まっているのに滑稽味を失わない作品群の丈の高さを思わないではいられない。無差別大量殺人を先駆けするような問題をこの「無妙記」もまた包含していたと予測している。

【無妙記という題について】

H 妙というのは「あれ、妙やナ、どうして、あんたが部屋代を集金するんや?」という最後のあたりの一箇所だけだと思うが、どういう題名だろう? 

K  妙が無いという意味では、解釈できない。

S  むみょうきという音で聴くと、仏教用語の無明がまずは思い浮かぶ。それから鴨長明の無名抄、これは歌論書だから、まあ違うだろう。仏教用語の無明は、煩悩に囚われて無常の根本が見えない状態ぐらいの意味。吉田知子無明長夜が1970年の芥川賞

 主人公の男には、あらゆる人の顔が白骨に見えるとあるから、普通の想像では、無明記という題名だろうと誤認する。誤認させるように書かれている。結局みんな同じ白骨になってしまう仏教的無常の小説と。

 どうしてそういう誤認が起こるかというと、この小説は、隣室の物音に耳を傾けるという漱石の「変な音」に連なる口頭小説だから。隣室の3人の男の会話を聴いて、洒落を勝手に解釈したり、ハートやタイやキやモッタイなどカタカナ表記の音が、それぞれ違う意味へと分岐する可能性を潜めている。

 「アダシのコゴロ」がその典型で、模造ダイヤのペンダントは、嘘つきの印にも真心の印にも、化野髑髏にも変換されるだろう。このペンダントが、女から運転手と呼ばれる大学生へ、そして主将へ、あるいは大学生から京極通りの女へ、人々の間を巡る。偽物に過ぎないダイヤが巡っていくのだけれど、それとともに恋愛もスケコマしも交換されてゆく。ダイヤは模造でも、交換される感情は、その時そこで生きている人間のその都度の真実がないことはない。

 「女を口説いて、思うようにならなくて腹を立てた」大学生は、40年前の自分とそっくりで、大学生も40年経てば自分と同じような老人になる。これがみんな同じ白骨になるという、「世の中は地獄の上の花見かな」の世界。同じように苛立ってみんな同じことをしている。同じだという側面ではみな白骨だけど、それぞれの苛立ちは一回限り。

H 言葉もまた人々の間を流通していき、その交換の時にズレや誤認や、その都度の真実が生じるということ。

 そうすると「楢山節考」で、老人が順繰りにお山へ行くのは誰も逃れられないのだけれど、振り向いて本当に雪が降ったなあと掟を破って母に告げに戻るという切り返しによって、生きた証が得られる、それと同じですね。

【運命と偶然】

S  模造ダイヤのペンダント、言葉、お金が交換されて、流通して、その都度、剰余や分岐を生んでいく、そういう小説だね。金は天下の回りものというように、70円で仕入れた羊羹を、京都土産のような情報を付加して350円で売る。あるいは、湯こぼしを売った手伝いの男に300円が配分されていく。

 伎楽面を売った代金の精算に同業者間で金のやり取りがあり、これも順繰りにお金が流通しさえしていれば、それなりにみんなの生活が成り立つ。途中で六波羅の男と母親が入って、支払いのために西洞院の部屋代を一時拝借しようとする。六波羅の男には殺してやるというような強い感情がうまれる。母親には今晩払いますという出まかせのような話が生じる。そこでは、先に断って部屋代に当てるか、部屋代に当ててから断りを入れるかというような、些細な順序の違いが分岐点を生んで、それによって出来事が違ってきてしまう。小さな偶然が人の生死を左右している。

 男が最初面を作っていて、それから人相や手相を見るようになって、その果てにあらゆる人の顔が白骨に見えるというのは、運命が見えるということだろう。ところが、白骨は占いの最大値というだけで、知っても知らなくても何の意味もない。皆等しく白骨になるというのは予言にも占いにもならない。この作品は無明記ではないから、この白骨にはたいした意味はないということになる。

 意味があるのは妙なズレや錯誤、誤解や、ちょっとした手違いによって、運命が分岐して偶然が生じることで、そういう偶然を人はその時その場で起きてみないと知ることができない。

 「お気の毒な品物」の意味があまりよく分からないのだけれど、「お気の毒な品物だけど、早く買ってお土産にしなさいよ」のような、偽物でも傷物でも流通していけば、そこにさまざまなお話が生ずるということではないかな。偽物のダイヤでも男女の間を流通していくことが、私たちが生きることであるという端倪すべからざる小説。

おくりびと

H 隣の物音を聴くというのは、喫茶店で隣のボックスの話を聴くというシーンもそうですね。

S  「天丼ひとつ」「並でええわ」のところ、ただならぬ印象がある。

K  湯こぼしの代金700円のうち300円を手伝いの男に支払ったので、残り400円。やっぱり並しか頼めないだろう。

S   「隣のボックスでは二人の白骨が骨つきの鶏のカラあげをシャブりながら話していた。」これ、映画の「おくりびと」だね。クリスマスに、棺桶が並んでいる事務所で、みんなで骨つきの鶏のカラあげを頬張っている。この会話半ページで、映画一本の重みがある。

 裁判長の訓話も、格差が今のようにひどくないから言えることだろう。犯人の方でも、金輪際共犯者の口を割らない矜恃で、裁判官と対等にタイマンを張っている。

【比良八荒】

 京都という死者の上に成り立っている都市を舞台に、時は3月25日 。26日の比良八荒が1日早く来てしまった。自然の運行にもずれがある。毎年同じように循環していく中にも少しのズレはいつでも生じる。その小さなズレが手掛かりであり、私たちの生の意味を生じさせる秘訣だろう。それが見失われると、無差別大量殺人が予言の極限値として現れるだろう。殺されたオウムの幹部は仏の顔をしていた。