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宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その2 20210508読書会テープ

S  私がこの小説から思い出したのは、ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』。

 日々マイケル・ジャクソンになろうとしている青年がマリリン・モンローのそっくりさんと出会って、島のパーティーへ誘われる。そこはチャップリンやジェームス・ディーンのそっくりさんがいるネバーランドなんだね。尼さんが空から墜落するというエピソードがあったりして不穏な兆候がある。マリリン・モンローの夫はドニ・ラヴァンが演じるチャップリンなんだけれど、現実のモンローが自殺したようにモンローのそっくりさんも自殺してしまい、取り残された青年は、どうやってこれから生きて行こうか思い惑うというお話。

 宇佐美さんの小説は推しの話になっているけれど、実は空っぽの自己を他人のデータで満たそうとする、他人に成り代わる話ではないか。

 マイケルの真似をすることで、生きる意味と自分のアイデンティティを得ている、そうやって生きるのは本当に切ない。この小説の女主人公が推しを推す仕方は、この映画そっくりで、自分はマイケルであり、モンローであるというように、推しを自分として生きようとしている。

 面白いのは、いろいろな推しの言動を収集して、異様に詳しいこと。推しの生態というのは実際こういうことをするのですか?

Y します。切り抜きをしたり、スクショを集めたり、イメージカラーを着たり、缶バッチとか、痛バックとか。

S おはよう、ピロロロロ、今日も頑張ってとか、そういう時計あったらほしいな。

Y 推しにもいろいろな種類があって、この人は、最後になって初めてキーホルダーを買っていて、そういう系統の推しではなかったようだ。

S  声を重ねて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたとあって、私は彼であるということがこの女主人公の推しの特色。自分であることが嫌なんじゃない? 自分じゃない誰かになろうとしている。

Y  だから模範解答という形で、インタビューしたときも、彼が答えることが分かると言っている。

S 予想ができるようになる。つまり、私というコンピュータに上野真幸のデータをすべてぶち込んだから、私は、彼以上に彼が何を言うか予想できてしまう。

Y 自分は自分ではなく、推しのデータで塗り替えられたら良いのにというふうに生きてきた。それがなくなったときに、どう生きていけるかという話をしているわけですね。

I  殴ったというのは、今までの過去のデータからなかったことなんですよね。それが……それがあるから一体化できなくなったんじゃないですか、どうだろう?

K  推しが人を殴ったのは、今まで無理して生きて来たので、我慢できなくなって、それで結局、地が出たのじゃないか。

 この人自身も、高校へ行きたくなかったのに無理して妥協して生きてきて、ここで決定的に自分自身がやりたくないことはしないというのが分かったのではないか。それで、結局、自立の第一歩だと思う、だから明るい。

I  最初は、この女主人公は、真幸君と一体化して、自分そのものとして見てきた。その対象が人を殴るという、今までのデータにはなかったことをやって、それで、自分じゃないということを理解した。真幸君は私じゃないという事を理解して、それで自分を取り戻したといってはあれなんですが……

S 壊そうというところまで追い詰められたけれども、自分を壊せなかった。そこで真幸君との違いが分かった。自分には人を壊せない、自分には人を殴れない、真幸君との違いがそこに出てくる。違いを理解したところまででよいのではないかな。

Y   最初に言ったように、自分ではないものを拠り所にして生きて行こうとして、ずっと彼の追いかけをして、彼をデータ化して、自分を理解しようとしてきた。ある時、彼が人を殴ったことがあって、もう一度彼を愛したい、理解したいと努力したが分からない。そして彼の洗われたシャツまで見て、私とは違うという、ちょっとこう剥がれてきた。自分も狂ってやると思って目についたのは綿棒で、なんだ私ってこんなものだったのかと思った時、部屋全体が眺められた。今までどうして部屋がこんなに汚れるのか自分でも分からなかった。これは自分の過去だということが分かって、そこで何だか笑いが込み上げてきて、綿棒を自分の骨のように拾って、推しの葬式をしたのですね。それで新生していこうとした。

S  膝をついて綿棒を拾うというのは、フォークナーの小説じゃないか。テーブルの下のパン屑を膝をついて拾うという姿勢が重要。この作品では、綿棒を推しの骨のように拾う姿、そういう姿勢ができたというのが希望では。人間が生きるのは這いつくばって生きるということだと、立って生きようというのは望みが高い。

 シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバークオハイオ』の「手」という短編、教員をしていた男がある時子供たちに性的に手を出したと疑われてリンチにあい、顔を殴られて命からがら逃げ出して、名前も変えて、問題になった手の特殊性を隠して生きている。この「手」にまつわる特殊性のテーマと、町の人々の暴力性、それから、牧師のような祈りの姿勢でテーブルの下に落ちたパン屑を拾っている点が、この作品の理解のために非常に参考になる。

 全体を眺められたというのも、今まで部分的にしか見られないできたのが、部屋全体を見回す視界を得たということが希望になる。視界が狭く閉ざされていることで、とても生きにくかったのだから。

Y マルチタスクですね。最後のここに至るために限定された深い視界で書いてきたとすると、ぞわぞわしますね。

S 非常に技巧的に書いている。そしてフォークナーやアンダースンをきっと読んでいるだろうな。

【おわりに】

S  データを集めて彼を理解しようとしてきたのは、いわば中身を真似ようとしてきたということ、そうやってデータを集めれば彼を理解できると考えてきた。ところが、それでは理解できないということが炎上事件が起きて分かってしまった。

 このときに、自我の位置を中身から皮膚へ移動させれば、解決の希望が出てくるのではないか。殴るということがなぜ問題になるかというと、相手と接触するから。接触したということが重要だというのは、中原昌也の小説でも、殴られて顔に拳がめり込んだというような描写がある。中身をデータで満たして理解するのではなく、接触によって他者と関わることができる、それが分かった。つまり、主体の位置が移動したというということを描いたから小説になったのではないか。

 推しの上野真幸もずっと母親に操られてきたが、人を殴ることによってはじめて現実に帰っていくことができた。

 参考になるのはアフォーダンスという概念で、佐々木正人の『アフォーダンス入門』というのが大変分かりやすい。アフォーダンスはコンピュータや発達障害にとって非常に有用な理論になっている。ミミズが土の中で穴を塞ぐのにいろいろな葉っぱを使うという例を引いているのだけれど、発達障害の生きにくさをアフォーダンスで解釈すると、環境と自己の接触面こそが問題解決の場所であり、自己と他者とが混じり合う場所でもあるということがわかる。

 私という主体が宿るのは中身ではなく、私という主体はデータの集積ではないと言うために、推しのデータを集めるあの詳しい描写が必要だった。私という主体は単なるデータの集積ではないというのは、カズオイシグロの新作「クララとお日様」と重なるテーマだけれど、小説としてはこちらの方が面白いと思う。宇佐美さんの推し描写の繊細に対して、イシグロのAI描写が、スペックが低いことを差し引いても、粗いから。