清風読書会

© 引用はアドレスと清風読書会を明記して下さい。

山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」その2

【はじめに】【死にたいと思うこと(近傍)】

【身体と言葉】

S 身体という入れ物には、いろいろなものが入ってきて何でも混ざり合ってしまうから、私たちは頭で覚えておいて、自分と他人をきちんと区別している。

 ところがこの小説で使われている「合格したらそこで。そこは北海道にある」(p.219)や、「公園をすぎてすぐにこれが目に入った。だからここで立ち止まり」(p.220)という二重に使われる指示代名詞は、自分が「それ」、「これ」と言ったとたん、「それ」を自分の近傍に呼び寄せてしまう。

N 一端「それ」で括って送る感じがある。

S 「それ」と言うと「それ」が入ってくるが、まったく勝手に入ってくるわけではない。ちょっと難しいが、「それ」を二重に使うと、その間に吟味する隙間が生じるということかな。

F 情報を入れすぎてしまうから、道に迷うということ?

S 3本か4本かが分からないと、情報を取り入れられない。きっちり4本目といわないと判断できない、厳密なところがある。勝手に情報が入ってくるわけではない。勝手に入ってくるのは危険だから。

 自分に入ってくる情報を、この男はどうやってか選んでいるから危なげがない。口寄せや催眠術とか他の人が勝手に入ってくるのは危険。悪いものが入ってきたら悪いことをしてしまう。この人にはそういう危なげなところがない。

 公園の男の自殺したいという気持ちが男に流れ込んでくるのは例外的なんだろうか。慎重に言葉で情報を確認して、危なげがない。公園で知らない男にタバコをくれといわれても、一度は無視して、確認する間をとっている。

 「ここで、男と、練炭を焚いて、死ぬ、ということだ。何時の間に!」(p.221)というので、引きずり込まれた感じがないことはないけれど、なぜかこの男には危なげがない。共感はあるけれど危なげがない。

 可愛いアライグマがいるから死なないですむし、きれいに掃除したブルーシートの家があるから死なない。そういう(身体にもとづいた)判断がある。(この男の共感は、孟子のいう惻隠の心であり、自分の身体から離れていないので危なげがないのだろう。アライグマの男の「死にたい」という声にハッとして、瞬時に無条件にそれを受け取った。これはアダム・スミスのシンパシーではなく、孟子の惻隠の心である。)

 アライグマは「預けてきたよ」(p.221)というのであれば、預けたのだから死なずにあなたは帰ってくる、というように慎重に吟味した言葉への信頼がある。身体と言葉があれば生きていける。

 身体と繊細な言葉で成り立っている、これまでの山下澄人の小説とよく共通している。

【3枚の地図】

S 公園の男は丁寧な地図を書いてくれた。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とあるが、ホテルの親切なフロントマンは合計2枚の地図を書いてくれた、雑なはじめの1枚とあわせて、合計地図は4枚あるはずなのに、3枚しかない。

F 青いブルーシートの男の地図がない?

S どうしてないか? 夢、幻想だった?

F 公園の男とホテルのフロントの男が同じということ?

S 2枚の地図はそっくりだと書いてある。

N 朝でも深夜料金だったり、公園を出たあとに記憶がぐちゃぐちゃだったり、その辺がよくわからなかった。

S 公園は夢では?アライグマが夢では?歌舞伎町の帰りに、公園の家と男は見つからなかった、だから夢。

F ホテルマンが書いてくれた地図を、夢の中ではアライグマの男の地図だと思っていた?

N えー、難しい。

S そうだね。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とある男は、夢の中だとアライグマの男、覚めた理知だとホテルマンを指す。男には、二重の意味がある。

 「それ」とか「これ」とかの指示代名詞は、自分がどこに居るかによって指すものが異なる(相対パスだ)ということを、ちゃんと気づいてねという意味で、地図の枚数を出している。

N それは、やばい。

【二重の夢】

N 215ページは、文が途切れているから、聖書を読みながら寝込んだということ。

S では、どこまでが夢か?

 ホテルのフロントに電話をかけるあたり(p.223)で、夢から醒めている?それとも、「まずいことに眠くなってきた」のあたり? それとも一行空きではじまっているから・・・

 「間違いなく予知だ」(p.212,p.223)というのが繰り返されているのも気にかかる(身体の近傍には過去・現在・未来が混在する)。ホテルの火事にあった男をテレビで見たというのも少し変(眠り込みはじめている記憶だろう)。「小さな道をみつけたあたりの記憶と混濁しはじめる」(p.223)ともある。

 224ページに何十分が消えているとある。223ページには5時37分とあり、6時前に宿を出て、今は6時58分、その間に何十分かが消えている。

F 公園にいると時間が早く過ぎる?

S 夢の中では数分でも、現実で考えてみると何十分かが経ってしまっているということ?

N もしかして夜の6時?

S 深夜料金をとられたのは6時58分。早朝料金。昨日から丸一日抜けている?駅の前から駅の前へ時間が飛んだ?

N カフェを出発したのは夕方で、宿には夜に着いた。

S そして、聖書を読んで、テレビをつけて、眠り込んだ。

 明け方5時37分に、あと一時間でホテルを出発しなければならない。そのまま眠らずに、5時37分以降にホテルを出た。そして喫茶店で6時58分に早朝料金を取られた。ここで朝方5時37分から喫茶店の6時58分までの数十分がたしかに抜けている。この数十分間の朝方の夢ということ?

 この男は、倉庫で働いているから、土曜日曜を使って面接に来た。そうすると、夕方前に駅に立っていたのはたぶん土曜の夕方。翌日は日曜。日曜の夕方にはもう帰らなければならない、月曜からまた倉庫で働かなくてはならない。

F 昨日の駅前と今日の駅前は、ほとんど同じ、空も同じだと書いてある。

S 昨日と今日はほとんど変わらない、しかし、深夜料金だったり、少しずつ微妙にちがうところへ動いている。「昨日とは違う、違うはずだ。」(p.225)という。

 地図をもらい宿を出た。電話してみるかフロントに(p.223)と言っているあたりは半覚醒状態。半覚醒状態のなかで、さっきの現実(=夢)の内容を思い出している。つまり、夢が二重になっていることが、この小説の最も面白いところ。

 5時37分から6時58分、そのうちの一時間、眠ってしまったのではないか。そうすると時間がちょうどあう。

N 二度寝したということ?

S 二度寝して、ちょうど一時間分、意識が飛んでいる。そして夢の中の夢を、現実に起きたこととして思い出している。チェックアウトが何時とか、フロントに電話してみるとか、この二度寝は、なかば夢でなかば現実である半覚醒状態。(夢からもう一つの夢へ電話をかける二重の夢の例は、泉鏡花の「春昼」「春昼後刻」にある。)

 聖書を読んでいたところに一行が空いているのだから、夢が覚めるときにも一行空けてほしいな。

F「受かったから辞めた」の前が一行空いている。そうすると、全部夢だったということになる。

S 5時37分以降は、半覚醒状態のなかで、もう一度夢を反復している。そのときに、時間、枚数、数を確認しようとしてる。つまり、これは理知的な頭の夢。一方、前半は、これ、ここ、それなどの身体を基準とした指示語によって語られる身体の夢。夢が二重になっている。

N 頭の夢と身体の夢、二種類の夢を書いているところがとても面白い。

【おわりに】

S 山下澄人の小説はもっと感覚的だと思っていた。アライグマが出てきてもおかしくない童話のような、身体の夢に近いものを書いているように思い込んでいた。この短篇では、後半で理知の夢を書いても、前半の身体の夢が壊れるわけではない、頭と身体、二つが平行してあるということを、確認したのだろう。

 山下澄人はいずれ宮沢賢治のような評価を受けていくだろう。理知の夢と身体の夢とがセットになっているこういう小説を書くのは、感性一辺倒の時代の危険をよく知っているということだろう。

 

山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」(2016年1月 『新潮』)

2016年6月3日の読書会テープです。

【はじめに】

S 安富歩は、井戸に落ちた子供を見れば、ハッとして瞬時に身体が動くのが惻隠の心であると述べている。孟子は、人間の身体において自発的に作動するこの惻隠の心に社会秩序の源泉を見た。それに対して、アダム・スミスのシンパシー(同感)は、自分を離れて他人の目を通して自己を反省し、全体の利害のために自分を犠牲にするものであり、「魂の植民地化」であると安富は述べている(『生きるための論語』)。

 男は、俳優の試験のために東京へ来た。駅からホテルに入るまでに半日近くかかった。男は歌舞伎町へ行ってみたい。地図を書いてもらって外に出て、公園でアライグマを飼っている男と話し、自殺はしないでホテルに帰ると、もう1時間ほどしか眠る時間がない。このまま眠らずに試験へ行こうと考えるが・・・試験に合格したので仕事を辞めた。

【死にたいと思うこと(近傍)】

N 死にたいと思ったのは俳優になろうとしている男ですよね?

S アライグマを飼っている男は、目張りをしてブルーシートの家で自殺しようとしている。二人の男が公園で出会ったことで、それともアライグマのおかげで、自殺を止めた話?

 しかし、男はなぜ死のうとしたのか、少しおかしい。突然、何の前触れもなく劇的でもなく普通に、死にたいという考えが頭を過ぎった。自分でも理由がないと言っている。

N しかし、読んでいて思い当たる節があって、ほんとに大げさではなしに前触れなく、単に消えてしまいたいなあと思うことがあって、とくに違和感なく、突然死にたくなったんだと読んだ。

S 消えてしまいたいというのは誰にもあるけれど、これは、アライグマの男の死にたいが、男に映ったのではないかと思う。その場所に行ったので、アライグマの男の気持ちがこの男に映り込んだ。この男は、時間や空間の感覚があやうい人で、その場所に行って誰かに近づくと、その誰かが入って来てしまったり、入れ替わってしまうという話では?

  たとえば、ポストに間違った新聞が入っていて、その間違った新聞を見て俳優の試験を受けることになった(p.220)。偶然と言ってもよいし、予測しない違うものを受け取って、違うところへ行ってしまう。切り替えポイントのような人で、動かされやすい特色を持っている。

 もう一カ所、「できることなら建物の一つ一つ、電信柱、道の全部を記憶しておきたいと思うが無理だ。わたし、と呼ぶこれには無理だ」(p.224)とある。一つ一つ全部地図を書いてくれないと間違ってしまうこの男は、頭の記憶と身体の記憶が別であると言っている。頭の記憶はあやふやで全部覚えておくことができないが、身体は「これまでの全てを記憶している」(p.224)。

 だから俳優はこの男にとって天職。

 ここで使われている「わたし、と呼ぶこれには」という指示代名詞がこの短篇の典型。この、これ、ここ、それ、その、あの、そんな、こんな、という言い方は、自分の身体を基準にして、自分からの距離で言っている。このときに、それと言った途端、それが私の身体の中に入ってくる、私という身体=入れ物に入ってくるのでは。

 聖書の光あれと言うと光が生じるのと似ていて、「それ」と言うと自分の中に「それ」が入ってくる。(自分の身体を基準として言葉を発すると、指し示された「それ」や「これ」が私の近傍になり、「これ」や「それ」を含んだ近傍が自分になる。こういう一人一人別であるのに共有している近傍を、ハウスドルフ空間というのではないかな。)

 この短篇で試みられているのは、このような自分でもあり他人でもある(過去でもあり未来でもある)近傍を作り出す言葉。

つづく

 

中原昌也 「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)その3

【いくつか確認】【枠を飛び越える】【名もなき孤児たちの墓】【指輪】

【真弓の死体はどこにある】

S真弓はどこへ行ってしまったのだろう?この話のどこかで入れ替わっている。真弓が子供を産まなかったというのが確認できてしまうあたりがあやしい、そこでもう入れ替わってしまっている?

H事件自体が真弓に近付いて来ている。腐乱死体のある屋敷は、のり子の死の場面ではないのでは。「それを聞いて現場に駆けつけた警察」(p.211)の前で切れている印象があるから、そのあとが真弓の死体の場所?

Sここには死体がいくつあるか分からないくらい埋められている、そのなかの一つが真弓。

Aここの書き方はこれで全部終わりという書き方。

N「幾つものかけがえのない命」が犠牲となってとあって、真弓が最初に殺された?

S「私」の正体というのは、真弓をマークしていて、真弓にストーカーをしていた男、真弓のファンにも嫉妬して殺してしまう感じ。

A「幾つものかけがえのない命」というのは、SやM子のことでよいか?取り巻きがどんどん死んで行くことで、真弓の死が予兆されていた。真弓の死の前に起きた取り巻きのたくさんの死を無駄にしたという意味。それらの死が告発だったと。

S警察が到着しても、何かを隠している。色々隠しているので、真弓の死骸も出てこれない。

H真弓の死を掴むには、記事でもニュースでもだめで、小説でないと真弓の死を掴めないということ?

S面白い。現実を告発する力を、ニュースも新聞もテレビも持てなくなってしまった。

Nもし「私」が取り巻きを殺していたとして、その「私」が、その人たちの死を正義として、警察が彼らの死を無駄にしたと通報していたら怖い。

S「私」は自分でSやMを殺しておいて、警察に通報して捜させている感じがある。警察と犯罪者が競うのが推理小説の形式。『タイトロープ』(1984)で犯人と刑事がだんだん似てくる。犯人が刑事のネクタイを犯行現場に置いてきたりする。笑っているんだね、追いかけて来いと。犯人と刑事が重なってしまうのは新しい推理小説の定番。

H加害者と被害者が一致してしまうこの小説と同じ。

Sそこで、警察は無能な傍観者か、自分たちを映えさせる背景でしかない。正義は、探偵が勝つか、犯人が勝つか、勝ちを占めた方が正義となる。そうやって殺されていく真弓の正義は、小説しか書けないということだと思う。

Hはじめに「私」は真弓を尊敬している。真弓をマニュアルにして「私」が真弓になっていく話。この小説自体がマニュアルになる?

S最後にも「素直」という単語が出てきたり、ブラシの跡の乱雑な髪は『サイコ』の母親のカツラ、男であり女でもある一人二役

N「素顔を隠して自分が真弓ではないことをアピール」(p.214)とある。

Sもう入れ替わっている。ああ、それでこう言っている。

H中原の小説は、分かるとそれでないとだめという言葉になっている。

S「過去の時間の中に納まった状態で」「黙ったままでいる」(p.214)とあるように、「私」が勝利を得ているから、「私」が作った過去が正しい過去になる。

Hもう一度。

Sつまり、新聞や警察という正義がなくなったとき、追う「私」と追われる真弓のどちらが勝つかによって、勝った者が現実の主導権を握ることになる。「私」が勝った以上、いろいろな過去は暴かれない。「私」が勝ちを占めている以上、「私」が真弓に入れ替わったことを誰も指摘できない。「私」が真弓に勝つことが、現実を保証する唯一の方法になる、権力闘争なんだと思う。

 私たちはそれぞれが権力闘争に勝ち抜かない限り、自分であることができない、あるいは真弓であることができない。誰かであるためには、誰かを殺してその人を床下に埋めなければならない(という苛酷な闘争に放り込まれている)。

【おわりに】

S「私」が真弓に入れ替わっていると読者が気づけないと、「私」が勝利し続けることになり、真弓の死体は隠されたまま。小説が正義を告発できるかどうかは、読者にかかっている。

 二度目の指輪の光の中に閉じ込められ、金縛りにあっているのは「私」ではなく真弓ではないか、光から醒めたという記述はないのであるから。

S「動物や身体障害者を好んで虐待した」(p.211)というところが気になる。

A GATOサイトというブラジルあたりの動物虐待動画があるらしい、2chの生物苦手版で話題になっている。

S動物だけではない、アンドリュー・ラウの『消えた天使』(2007)は、失踪者の捜査官の話。アメリカの映画だけれど日本にもあるだろう。失踪の感触が似ている。廃墟になった工場のようなところでいろいろなものが見つかる。噂話だと、「オルレアンの噂」や「だるま」を思い出すから、この小説はとても怖い(ベケットの三部作のように人間の身体が切り詰められていくことが黙示的に怖い)。

S  真弓が閉じ込められている緑の指輪について、ずっと気になっていた。ビュトールの『時間割』に、姉がつけている昆虫を閉じ込めた琥珀のような指輪に見入るシーンがあった。男は、妹も姉も見失って失意のうちにイギリスを離れる。神話のような過去に魅入られて、目の前の女性を見失う男の話だった。

201704追記

 

 

中原昌也 「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)その2

【いくつか確認】【枠を飛び越える】

【名もなき孤児たちの墓】

HN南海キャンディーズ(p.210)とかポパイとか、このへん実在する名が混じっている。

S微熱少女とか、

H事実っぽく、新聞記事っぽく書いてある。これも核心に近付いていく感じ。

S新聞記事は毎日繰り返し、しかし起きる出来事は異なると漱石は言った。しかし21世紀になると、起きる出来事もほとんど同じ。出来事とフィクションとの違いを示すのが新聞の役割だったが、21世紀になると、雑木林から雑木林のように区別がつかなくなった。

H事件は違うし、SとM子など当事者は違うのに、よく似た同じ事件にしか見えない。

Sどうして柴田のり子だけ名前があるのだろう?芸名=ラベルが次々乗り換えられていくということか。この新聞記事らしく書いてあるあたりは事実と虚構の区別がつかない。

H区別がつかないことを言うために何度も記事が書かれている。ここで事実と虚構が混ぜられている。柴田のり子という名前があってさえ区別がつかなくなる。名前もあてにならないということか。

S真弓のまわりで人が失踪している。住居の床下に死骸が隠されている。何人も都会の隅で消えている行方不明者が埋められている。

Hいつの間にか入れ替わられて、住宅の下に埋められている。芸能界から人が消えるのと同じように、失踪者となって埋められているのが名もなき孤児たち。この小説そのものが、名もなき孤児たちの墓となる。

S『名もなき孤児たち』の「ドキュメント授乳」は、真弓の子育て本と重なる。母親が子供に乳を飲ませるドキュメンタリーで、どこか繋がっている。

H子供も繰り返し、再生産。

S敷石の上に並べられてダンプが潰していく。次々子供を産んで、ロボットのように育てて、役が終われば踏みつぶされていく。社会の再生産なんだと思う。

Hどういう教育をするかマニュアルによって人格も揃えて育て、いらなくなると床下に捨てられたりダンプに踏みつぶされたりする。人間牧場、人間工場。

【指輪】

H指輪は「夢で罵られる」にも同じシーンがあった。完全に寝ている状態、陶酔、現実界の死に近い体験だった。

S醒めるのは、花瓶が割れる、催眠術から醒めるときのパン。

 死の体験(精神分析的体験)だとしても、醒めるときに、ここではない今ではないものを得て醒めるのではないか?真弓が将来書く本の片鱗を「チラリと垣間見たような気がした」(p.203)とある。ジェームズの辺縁は、新しいものや未知のもの未来が入ってくる場所。未来の可能性を拾ってきて醒めることが重要では。

H自分が形成されたトラウマとか傷の中に入っていって未来の自分を拾ってくる。太宰治の「清貧譚」のように、隣家との壁にあいた破れ穴から何かを得てくるやりかた。

N醒めるときに馬の嘶きも聴こえてくる。耳も聴こえてくる。

Hもう一回指輪が光りはじめて、二回繰り返されるのはなぜだろう?

Sこの辺になるとぼんやりしてくる。

N二回目はさっきの未来が見えるとも違うものが見えている感じ。今度は自分の身体が動かない、まわりの給仕達は動いている。

Sマジックミラーの向う側のような反転した世界に行ってしまうようだ。つまり、真弓が実際には生きなかった違う可能性の世界が見えている。ありえなかった違う未来が見えている。「まだ産まれてきていない、未来の真弓の子どもたちであったなら」(p.208)とあるから、真弓は子どもを産まなかったのでは? 

 二度目の光から醒める瞬間が書かれていない。

N二回目の光から醒めたあと、今度は過去の話になっている?

H一回目には予兆があって、実際に悪いことが起きた。二回目は過去のことになっている?

S「かつての真弓の取り巻き」(p.208)以下は過去、しかし、この過去は暴かれない過去ではないか。誰も知りえない隠されたままの過去。

H二回目は、知り得ない過去が見えた。

S死骸は誰も知らない床下に、これ先日実際にあったね。

 浮かんでこない暴かれない、忘れ去られた事件ではないか。ブライアン・デ・パルマの『ブラックダリヤ』(2006)という映画がある。都会にやって来た女優志望のビデオだけが残っていて、行方不明の失踪者となっている。

 

『軽率の曖昧な軽さ』から「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)

3月18日の読書会テープです。

【いくつか確認】

S冒頭で、「私」は暗い部屋の執筆机から日曜の午後の歩行者天国を見下ろしている。末尾で、「私」は真弓の部屋から日曜の歩行者天国を見ている。これ以外に歩行者天国が出てこないなら、これは枠。しかし、二つの「私」が同一人物とは限らない。

 色々な人が入れ替わっているらしい、何重に替わっているかも分からない、どうやって確かめたらいいだろう?最初「私」は真弓の女友達だと思って読んでいると、「俺」と出てくるので「私」は男?真弓が次に書こうとしていたのは異装者の服装倒錯の本(p.203)とあるので、この世界では、男と女、私と俺は交替可能らしい。

 不思議な現象がいくつかある。

 真弓の後の雑木林のなかの雑木林が右から左へ移動した(p.191)。背景と動いたものが同じで区別がつかない。たぶん、社会の中の人間が、区別のつかない状態で入れかわる移動するということなんだろう。画像が一瞬揺れてぴったり嵌まってしまうような。

 指輪の光に目が眩んでくる(p.201)。ダイヤの指輪の光に吸い込まれて、その中に記憶がよみがえる。

Hここにも「激しく行き来した」(p.203)とある。

N死ぬ前に、今までの出来事の重要じゃないシーンばかりが出てくるのと似ている。

Hそれはどこ?どこに何が出ているか本当に分からない。

S記憶だけでなく予兆という言葉も出ていて、過去・未来が光の中に現れる。これはウィリアム・ジェームズの意識の焦点説とよく似ている。

 それから動物の変死事件が二つ。雑居ビルの屋上から158匹の雑種犬が投げ殺されて、その下に母親康江さんと長谷川京介君の死骸が見つかった事件(p.204)。それと、犬や猫の死骸が細く切り刻まれたゴミ屋敷のような中に、たくさんの死骸がある。誰の死骸?伝説の柴田のり子が死亡している?警察が関与している。

 さらに、真弓の周辺の人物が、何人も失踪しているか死亡しているらしい(pp.205-209)。

 真弓はもう死んでいて、「私」という男性がだんだん真弓に入れ替わって行く話と読んでみた。「私」は、影のような存在で、真弓のストーカーの状態。真弓に近付く人間を排除していく、ファンの心理。そして、最後に、真弓おまえもいらないということになって、自分が真弓に入れかわる、という話に読めるかなと。

 映画でいうとヒチコックの『サイコ』(1960)。母親は息子を支配している。息子は母親をついに殺して一室に隠している(息子の趣味は剥製)。母親は死んでも息子を呪縛し続けるので、息子は自分をなくして母親に成りかわり、母親の意志を代行する。母親のカツラを被りドレスを着て(一人二役をする)。

【枠を飛び越える】

Sさあ、宜候と行こうか、それとも吶喊?

H「私」は、日の当たる真弓の反対側にいる。「私」の友人カップルが豪勢な食事に行って「イチャイチャ」する話。次の友人カップルも「イチャイチャ」している。これは真弓?それとも別のカップル?

S「この間はごめんなさい」(p.188)と言っているから、友人カップルは同じ一組。あれ?この友人カップルの女は真弓のように見えたが、真弓ではないということか。このあとに、真弓と「私」(男)が二人で会っている場面になる。

Hそうすると、やっぱりだんだん近付いている。最初はカップルに同席する第三者だったのが、次の場面では、男になって当事者になっている。

S第三者の位置から、作品の中に入っていく。ここで枠を飛び越えている。真弓の男友達の席に自分が座る、ついては、その男友達には消えてもらわなくてはいけないという感じ。

N「私」は女性目線でカップルをうらやましがっている。そのあと、女性の気持ちのまま真弓の恋人になっている?

Sこの話では男性と女性は入れ替え可能。男でもあり女でもあるのは、「私」でもあり真弓でもある一人二役をすることにならないか。二段階ぐらいで妄想が深くなっている。

 「素直」(p.189,p.193)という単語で、友人カップルと真弓カップルが重なってしまう。最初の「イチャイチャ」友人カップルにはたしかに名前がない。そのほうがいいんじゃないかな。おまえはたまたま真弓という名前を持っているが、最終的には名前を剥がして自分の妄想世界を作り、それにあらためて真弓と名前をつける。これは普通と逆。自分が男になったり女になったりするのに加えて、真弓というラベルを貼ったり剥がしたりということがあるようだ。

 名前はこれまでアイデンティティの核であったが、名前が剥がれるようになるという小説では。

Hたしかに、真弓は伝播していく。本を書いてベストセラーでどんどん増えていく。

Sやったこともないことを書いて、他の人のことも混じって増殖する、そういうベストセラーに真弓という名前を与える、ラベル作成の秘密を書いている。ベストセラーというのは、何であってもよい、誰が書いたのでもいい。

Hベストセラーは、その中から誰でも気に入る単語やフレーズが見つかるはずだとある。

Sその「誰でも」が雑木林の背景と同じ。私たちは雑木林の雑木で、動いたことは分かるが、区別はつかない。名前も主体も動いてしまうという話。それが雑木林から雑木林へ動くという話になる。

 私たちは、中身を持つかラベルを持つかでアイデンティティを確認したいと考えてきたが、その両方が入れ替え可能ということになる。

N育児本の感想を何回も反復するのも気持ち悪い。

Sそれがベストセラーの反復の状態。誰が読んでも、それぞれいいところを取り出して利用できる。

H芸風の話も、中腰のシャウト芸(p.206)は、男性Sでも女性M子でも同じ。しかもこれは真弓が考えた、ベストセラーの反復とまったく同じ。

Sお笑いタレントは映像映えする芸をする、ラッスンゴレライみたいな。

HNリズム芸、そこに次々入れ替わって繰り返す、そうすると雑木林感がある。

S人物もラベルも同じ、こういうのを雑木林芸と呼ぼう。

H中身は何でもよくて箱も区別がない。

S箱と中身の話は、先回(「恋愛の帝国」)は手紙の話で、手紙の中身は文章だから何かしらの内容を持ってしまうが、人物の中身と箱で考えると、中身もないしラベルも同じ雑木林になってしまう。

 どれも二回繰り返されている。

H地図の話も二度繰り返されている。

S「素直」や「地図」の反復があって少しずつ移動して繋がっていく。反復があって二つのカップルが連続して見えるが、その間に「私」は枠を飛び越して、男女も入れかわっている。箱を出たり入ったり、雑木林が移動するところだけは見えるが、それ以外は気づけない。誰かが私の替わりをしても誰も気がつかない。

N真弓の特色に、ランキングの上位に「素直な女」(p.212)というのがあって、ランキングもベストセラーと同じ。

つづきは後日