清風読書会

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予定

夏ゼミ課題募集中

8月5日 夏ゼミ第1回 魯迅阿Q正伝」(青空文庫

7月22日 三島由紀夫「山の魂」

7月15日 三島由紀夫「鍵のかかる部屋」

7月8日 三島由紀夫「江口初女覚書」

7月1日 吉田知子「そら」

6月24日 吉田知子「艮」

6月17日 今村夏子「あひる」

山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」その2

【はじめに】【死にたいと思うこと(近傍)】

【身体と言葉】

S 身体という入れ物には、いろいろなものが入ってきて何でも混ざり合ってしまうから、私たちは頭で覚えておいて、自分と他人をきちんと区別している。

 ところがこの小説で使われている「合格したらそこで。そこは北海道にある」(p.219)や、「公園をすぎてすぐにこれが目に入った。だからここで立ち止まり」(p.220)という二重に使われる指示代名詞は、自分が「それ」、「これ」と言ったとたん、「それ」を自分の近傍に呼び寄せてしまう。

N 一端「それ」で括って送る感じがある。

S 「それ」と言うと「それ」が入ってくるが、まったく勝手に入ってくるわけではない。ちょっと難しいが、「それ」を二重に使うと、その間に吟味する隙間が生じるということかな。

F 情報を入れすぎてしまうから、道に迷うということ?

S 3本か4本かが分からないと、情報を取り入れられない。きっちり4本目といわないと判断できない、厳密なところがある。勝手に情報が入ってくるわけではない。勝手に入ってくるのは危険だから。

 自分に入ってくる情報を、この男はどうやってか選んでいるから危なげがない。口寄せや催眠術とか他の人が勝手に入ってくるのは危険。悪いものが入ってきたら悪いことをしてしまう。この人にはそういう危なげなところがない。

 公園の男の自殺したいという気持ちが男に流れ込んでくるのは例外的なんだろうか。慎重に言葉で情報を確認して、危なげがない。公園で知らない男にタバコをくれといわれても、一度は無視して、確認する間をとっている。

 「ここで、男と、練炭を焚いて、死ぬ、ということだ。何時の間に!」(p.221)というので、引きずり込まれた感じがないことはないけれど、なぜかこの男には危なげがない。共感はあるけれど危なげがない。

 可愛いアライグマがいるから死なないですむし、きれいに掃除したブルーシートの家があるから死なない。そういう(身体にもとづいた)判断がある。(この男の共感は、孟子のいう惻隠の心であり、自分の身体から離れていないので危なげがないのだろう。アライグマの男の「死にたい」という声にハッとして、瞬時に無条件にそれを受け取った。これはアダム・スミスのシンパシーではなく、孟子の惻隠の心である。)

 アライグマは「預けてきたよ」(p.221)というのであれば、預けたのだから死なずにあなたは帰ってくる、というように慎重に吟味した言葉への信頼がある。身体と言葉があれば生きていける。

 身体と繊細な言葉で成り立っている、これまでの山下澄人の小説とよく共通している。

【3枚の地図】

S 公園の男は丁寧な地図を書いてくれた。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とあるが、ホテルの親切なフロントマンは合計2枚の地図を書いてくれた、雑なはじめの1枚とあわせて、合計地図は4枚あるはずなのに、3枚しかない。

F 青いブルーシートの男の地図がない?

S どうしてないか? 夢、幻想だった?

F 公園の男とホテルのフロントの男が同じということ?

S 2枚の地図はそっくりだと書いてある。

N 朝でも深夜料金だったり、公園を出たあとに記憶がぐちゃぐちゃだったり、その辺がよくわからなかった。

S 公園は夢では?アライグマが夢では?歌舞伎町の帰りに、公園の家と男は見つからなかった、だから夢。

F ホテルマンが書いてくれた地図を、夢の中ではアライグマの男の地図だと思っていた?

N えー、難しい。

S そうだね。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とある男は、夢の中だとアライグマの男、覚めた理知だとホテルマンを指す。男には、二重の意味がある。

 「それ」とか「これ」とかの指示代名詞は、自分がどこに居るかによって指すものが異なる(相対パスだ)ということを、ちゃんと気づいてねという意味で、地図の枚数を出している。

N それは、やばい。

【二重の夢】

N 215ページは、文が途切れているから、聖書を読みながら寝込んだということ。

S では、どこまでが夢か?

 ホテルのフロントに電話をかけるあたり(p.223)で、夢から醒めている?それとも、「まずいことに眠くなってきた」のあたり? それとも一行空きではじまっているから・・・

 「間違いなく予知だ」(p.212,p.223)というのが繰り返されているのも気にかかる(身体の近傍には過去・現在・未来が混在する)。ホテルの火事にあった男をテレビで見たというのも少し変(眠り込みはじめている記憶だろう)。「小さな道をみつけたあたりの記憶と混濁しはじめる」(p.223)ともある。

 224ページに何十分が消えているとある。223ページには5時37分とあり、6時前に宿を出て、今は6時58分、その間に何十分かが消えている。

F 公園にいると時間が早く過ぎる?

S 夢の中では数分でも、現実で考えてみると何十分かが経ってしまっているということ?

N もしかして夜の6時?

S 深夜料金をとられたのは6時58分。早朝料金。昨日から丸一日抜けている?駅の前から駅の前へ時間が飛んだ?

N カフェを出発したのは夕方で、宿には夜に着いた。

S そして、聖書を読んで、テレビをつけて、眠り込んだ。

 明け方5時37分に、あと一時間でホテルを出発しなければならない。そのまま眠らずに、5時37分以降にホテルを出た。そして喫茶店で6時58分に早朝料金を取られた。ここで朝方5時37分から喫茶店の6時58分までの数十分がたしかに抜けている。この数十分間の朝方の夢ということ?

 この男は、倉庫で働いているから、土曜日曜を使って面接に来た。そうすると、夕方前に駅に立っていたのはたぶん土曜の夕方。翌日は日曜。日曜の夕方にはもう帰らなければならない、月曜からまた倉庫で働かなくてはならない。

F 昨日の駅前と今日の駅前は、ほとんど同じ、空も同じだと書いてある。

S 昨日と今日はほとんど変わらない、しかし、深夜料金だったり、少しずつ微妙にちがうところへ動いている。「昨日とは違う、違うはずだ。」(p.225)という。

 地図をもらい宿を出た。電話してみるかフロントに(p.223)と言っているあたりは半覚醒状態。半覚醒状態のなかで、さっきの現実(=夢)の内容を思い出している。つまり、夢が二重になっていることが、この小説の最も面白いところ。

 5時37分から6時58分、そのうちの一時間、眠ってしまったのではないか。そうすると時間がちょうどあう。

N 二度寝したということ?

S 二度寝して、ちょうど一時間分、意識が飛んでいる。そして夢の中の夢を、現実に起きたこととして思い出している。チェックアウトが何時とか、フロントに電話してみるとか、この二度寝は、なかば夢でなかば現実である半覚醒状態。(夢からもう一つの夢へ電話をかける二重の夢の例は、泉鏡花の「春昼」「春昼後刻」にある。)

 聖書を読んでいたところに一行が空いているのだから、夢が覚めるときにも一行空けてほしいな。

F「受かったから辞めた」の前が一行空いている。そうすると、全部夢だったということになる。

S 5時37分以降は、半覚醒状態のなかで、もう一度夢を反復している。そのときに、時間、枚数、数を確認しようとしてる。つまり、これは理知的な頭の夢。一方、前半は、これ、ここ、それなどの身体を基準とした指示語によって語られる身体の夢。夢が二重になっている。

N 頭の夢と身体の夢、二種類の夢を書いているところがとても面白い。

【おわりに】

S 山下澄人の小説はもっと感覚的だと思っていた。アライグマが出てきてもおかしくない童話のような、身体の夢に近いものを書いているように思い込んでいた。この短篇では、後半で理知の夢を書いても、前半の身体の夢が壊れるわけではない、頭と身体、二つが平行してあるということを、確認したのだろう。

 山下澄人はいずれ宮沢賢治のような評価を受けていくだろう。理知の夢と身体の夢とがセットになっているこういう小説を書くのは、感性一辺倒の時代の危険をよく知っているということだろう。

 

山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」(2016年1月 『新潮』)

2016年6月3日の読書会テープです。

【はじめに】

S 安富歩は、井戸に落ちた子供を見れば、ハッとして瞬時に身体が動くのが惻隠の心であると述べている。孟子は、人間の身体において自発的に作動するこの惻隠の心に社会秩序の源泉を見た。それに対して、アダム・スミスのシンパシー(同感)は、自分を離れて他人の目を通して自己を反省し、全体の利害のために自分を犠牲にするものであり、「魂の植民地化」であると安富は述べている(『生きるための論語』)。

 男は、俳優の試験のために東京へ来た。駅からホテルに入るまでに半日近くかかった。男は歌舞伎町へ行ってみたい。地図を書いてもらって外に出て、公園でアライグマを飼っている男と話し、自殺はしないでホテルに帰ると、もう1時間ほどしか眠る時間がない。このまま眠らずに試験へ行こうと考えるが・・・試験に合格したので仕事を辞めた。

【死にたいと思うこと(近傍)】

N 死にたいと思ったのは俳優になろうとしている男ですよね?

S アライグマを飼っている男は、目張りをしてブルーシートの家で自殺しようとしている。二人の男が公園で出会ったことで、それともアライグマのおかげで、自殺を止めた話?

 しかし、男はなぜ死のうとしたのか、少しおかしい。突然、何の前触れもなく劇的でもなく普通に、死にたいという考えが頭を過ぎった。自分でも理由がないと言っている。

N しかし、読んでいて思い当たる節があって、ほんとに大げさではなしに前触れなく、単に消えてしまいたいなあと思うことがあって、とくに違和感なく、突然死にたくなったんだと読んだ。

S 消えてしまいたいというのは誰にもあるけれど、これは、アライグマの男の死にたいが、男に映ったのではないかと思う。その場所に行ったので、アライグマの男の気持ちがこの男に映り込んだ。この男は、時間や空間の感覚があやうい人で、その場所に行って誰かに近づくと、その誰かが入って来てしまったり、入れ替わってしまうという話では?

  たとえば、ポストに間違った新聞が入っていて、その間違った新聞を見て俳優の試験を受けることになった(p.220)。偶然と言ってもよいし、予測しない違うものを受け取って、違うところへ行ってしまう。切り替えポイントのような人で、動かされやすい特色を持っている。

 もう一カ所、「できることなら建物の一つ一つ、電信柱、道の全部を記憶しておきたいと思うが無理だ。わたし、と呼ぶこれには無理だ」(p.224)とある。一つ一つ全部地図を書いてくれないと間違ってしまうこの男は、頭の記憶と身体の記憶が別であると言っている。頭の記憶はあやふやで全部覚えておくことができないが、身体は「これまでの全てを記憶している」(p.224)。

 だから俳優はこの男にとって天職。

 ここで使われている「わたし、と呼ぶこれには」という指示代名詞がこの短篇の典型。この、これ、ここ、それ、その、あの、そんな、こんな、という言い方は、自分の身体を基準にして、自分からの距離で言っている。このときに、それと言った途端、それが私の身体の中に入ってくる、私という身体=入れ物に入ってくるのでは。

 聖書の光あれと言うと光が生じるのと似ていて、「それ」と言うと自分の中に「それ」が入ってくる。(自分の身体を基準として言葉を発すると、指し示された「それ」や「これ」が私の近傍になり、「これ」や「それ」を含んだ近傍が自分になる。こういう一人一人別であるのに共有している近傍を、ハウスドルフ空間というのではないかな。)

 この短篇で試みられているのは、このような自分でもあり他人でもある(過去でもあり未来でもある)近傍を作り出す言葉。

つづく

 

中原昌也 「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)その3

【いくつか確認】【枠を飛び越える】【名もなき孤児たちの墓】【指輪】

【真弓の死体はどこにある】

S真弓はどこへ行ってしまったのだろう?この話のどこかで入れ替わっている。真弓が子供を産まなかったというのが確認できてしまうあたりがあやしい、そこでもう入れ替わってしまっている?

H事件自体が真弓に近付いて来ている。腐乱死体のある屋敷は、のり子の死の場面ではないのでは。「それを聞いて現場に駆けつけた警察」(p.211)の前で切れている印象があるから、そのあとが真弓の死体の場所?

Sここには死体がいくつあるか分からないくらい埋められている、そのなかの一つが真弓。

Aここの書き方はこれで全部終わりという書き方。

N「幾つものかけがえのない命」が犠牲となってとあって、真弓が最初に殺された?

S「私」の正体というのは、真弓をマークしていて、真弓にストーカーをしていた男、真弓のファンにも嫉妬して殺してしまう感じ。

A「幾つものかけがえのない命」というのは、SやM子のことでよいか?取り巻きがどんどん死んで行くことで、真弓の死が予兆されていた。真弓の死の前に起きた取り巻きのたくさんの死を無駄にしたという意味。それらの死が告発だったと。

S警察が到着しても、何かを隠している。色々隠しているので、真弓の死骸も出てこれない。

H真弓の死を掴むには、記事でもニュースでもだめで、小説でないと真弓の死を掴めないということ?

S面白い。現実を告発する力を、ニュースも新聞もテレビも持てなくなってしまった。

Nもし「私」が取り巻きを殺していたとして、その「私」が、その人たちの死を正義として、警察が彼らの死を無駄にしたと通報していたら怖い。

S「私」は自分でSやMを殺しておいて、警察に通報して捜させている感じがある。警察と犯罪者が競うのが推理小説の形式。『タイトロープ』(1984)で犯人と刑事がだんだん似てくる。犯人が刑事のネクタイを犯行現場に置いてきたりする。笑っているんだね、追いかけて来いと。犯人と刑事が重なってしまうのは新しい推理小説の定番。

H加害者と被害者が一致してしまうこの小説と同じ。

Sそこで、警察は無能な傍観者か、自分たちを映えさせる背景でしかない。正義は、探偵が勝つか、犯人が勝つか、勝ちを占めた方が正義となる。そうやって殺されていく真弓の正義は、小説しか書けないということだと思う。

Hはじめに「私」は真弓を尊敬している。真弓をマニュアルにして「私」が真弓になっていく話。この小説自体がマニュアルになる?

S最後にも「素直」という単語が出てきたり、ブラシの跡の乱雑な髪は『サイコ』の母親のカツラ、男であり女でもある一人二役

N「素顔を隠して自分が真弓ではないことをアピール」(p.214)とある。

Sもう入れ替わっている。ああ、それでこう言っている。

H中原の小説は、分かるとそれでないとだめという言葉になっている。

S「過去の時間の中に納まった状態で」「黙ったままでいる」(p.214)とあるように、「私」が勝利を得ているから、「私」が作った過去が正しい過去になる。

Hもう一度。

Sつまり、新聞や警察という正義がなくなったとき、追う「私」と追われる真弓のどちらが勝つかによって、勝った者が現実の主導権を握ることになる。「私」が勝った以上、いろいろな過去は暴かれない。「私」が勝ちを占めている以上、「私」が真弓に入れ替わったことを誰も指摘できない。「私」が真弓に勝つことが、現実を保証する唯一の方法になる、権力闘争なんだと思う。

 私たちはそれぞれが権力闘争に勝ち抜かない限り、自分であることができない、あるいは真弓であることができない。誰かであるためには、誰かを殺してその人を床下に埋めなければならない(という苛酷な闘争に放り込まれている)。

【おわりに】

S「私」が真弓に入れ替わっていると読者が気づけないと、「私」が勝利し続けることになり、真弓の死体は隠されたまま。小説が正義を告発できるかどうかは、読者にかかっている。

 二度目の指輪の光の中に閉じ込められ、金縛りにあっているのは「私」ではなく真弓ではないか、光から醒めたという記述はないのであるから。

S「動物や身体障害者を好んで虐待した」(p.211)というところが気になる。

A GATOサイトというブラジルあたりの動物虐待動画があるらしい、2chの生物苦手版で話題になっている。

S動物だけではない、アンドリュー・ラウの『消えた天使』(2007)は、失踪者の捜査官の話。アメリカの映画だけれど日本にもあるだろう。失踪の感触が似ている。廃墟になった工場のようなところでいろいろなものが見つかる。噂話だと、「オルレアンの噂」や「だるま」を思い出すから、この小説はとても怖い(ベケットの三部作のように人間の身体が切り詰められていくことが黙示的に怖い)。

S  真弓が閉じ込められている緑の指輪について、ずっと気になっていた。ビュトールの『時間割』に、姉がつけている昆虫を閉じ込めた琥珀のような指輪に見入るシーンがあった。男は、妹も姉も見失って失意のうちにイギリスを離れる。神話のような過去に魅入られて、目の前の女性を見失う男の話だった。

201704追記