清風読書会

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三島由紀夫「山の魂」 読書会テープ(未完)

【あらすじ】

S:「山の魂」は昭和30(1955)年の作品。主人公の名前は隆吉。山で生まれて山のこと木のことをよく知っている自然児。「金時みたいな若者」とあるから山の子。金太郎は、山姥に育てられた、真っ赤な顔をして、のちに源頼光の家来となる。山の人、自然の人。そういう人が、時代と政治に巻き込まれていく話。

 大正10年ごろ45,6歳で日本三大急流といわれる庄川ダムの建設計画にかかわった。富山県東砺波郡東山見村小牧にダムを作ることになって、電力会社と土地を買収する人たちと、実際に山や木を奪われていく人たちと、その人たちがいろいろ遣り取りをする。そのなかで、この隆吉は筵旗をたてて、自分たちの土地を奪うな、と都会の電力会社に押し掛ける。この筵旗というのが非常に特徴的だと思うのだけど、扇動家(デマゴーグ)でもあるし、一種の社会運動家でもある。自前で弁当代まで出して、そういう人たちを連れて行って反対運動をする。どういう構造になるかというと、警察力とダイナマイトと土方とが、みんなダム側についてる、という…一種の戦争状態。その中で、隆吉だけが何かあまりよく事情が分からない感じがする。隆吉自身は、山と木が好きで、そこに住んでる山の民を引き連れて、そこで演説をするのが好きである、と。

 それを見て、儲け口があると思って近寄ってきたのが飛田という男で。飛田は金が好きで美食が好き、洋服が好き、いつも絹を纏っているような男。「飛田ははじめて隆吉に会ったとき、一生の好餌に出会ったような気がした」というようにして、飛田はこのあとずっと隆吉を使って、ダムの反対運動をさせて、そのおかげで土地を転売したりする。そういう、飛田と隆吉とダムというセットで、何億何十億というお金を飛田は儲けていくことになる。

 4に入ると、隆吉が社長になって桑原木材という会社を興して、それを間にかませて、同じようにお金をむしり取っていく。訴訟だの何だの色々な手段を使っては動くが、隆吉のしていることが、どうも空回りしている感じがする。金の面では全部飛田がうまくやって、隆吉が作った借金なんかを払ってやるんだけれども、ずっと借金の首輪をつけておいて働かせる。隆吉自身はそんなことに興味がないから、演説が出来て、山の民を率いて抗議に行くという人生に結構満足している。喧嘩沙汰が心から好きだった。農相官邸の応接間で大声で怒鳴るということに非常に爽快な満足がある。

 桑原木材会社では隆吉は飛田に騙されたが、飛田と隆吉とダム工事、この三者関係はずっと続いていく。「各所のダム建設計画を聞き込んでいる飛田は、そのひとつひとつが補償でもめるたびに、自分の懐に大金がころがり込む勘定だ」というように、全国各地でダムを造ろうとすると、そこに反対運動が起こって、隆吉が現れて、揉めて、補償金が吊り上がって、飛田は金が儲かる。「ダムと隆吉と飛田とは、三位一体のようなものであった」と。

 隆吉はますます情熱的に火の玉演説をして、人も感動して、心酔者も多くて、たぶんとても幸福なんだと思う。一方飛田の資産は十億を越え、北陸きっての富豪になった。

深沢七郎 「サロメの十字架」その2

【空間と聴覚】

S:電話が掛かってきても、情報の切れ端しか伝わってこない感じがする。会話も切れ端だし。

N:何か色々なペアの会話が同時に進んでいるけれど、席が分かりにくかったりする。

S:何がどこにあるのかさっぱり分からない。

K:バーのカウンターって高い椅子のところがあるところでしょう?その奥側って言ったら、何か作ったりする所でしょう?そこにまたボックスを入れたっていうの?

S:つまり、この人、空間認識が非常に悪いんじゃないだろうか?

K:そのくらいごちゃごちゃなお店?

S: ごちゃごちゃでも配置くらい分かると思うんだけど。つまり、子供が片端から見えたものを描いていくように書いてるから、いつか歪んでしまう。

N:やっぱり発達障害なんじゃないか。

K:人間を区別しないのと同じように。

S:見えたものを順番に描いていく感じで描写するから、何がどこにあるかが本当に分からない。

N:確かに整合性がないっていうか。すごいがばがばな感じ。設定も。

K:それなのに…

S:面白い。

S:これだけの人数出てくると私たちだったら人間関係を紙に書かないと分からない。深沢七郎は純子だったら純子の声、ママさんだったらママさんの声とかで、頭の中で声だけで判別している感じ。だから位置関係がさっぱりわからない。

K:全部平面になってしまう?

S:声の区別は非常によくしている。

K:やっぱり音楽家なんですかね。

S:入り口で喋っている言葉と、こっち側でしゃべっている言葉で遠近感がある。

S:しかし、その遠近感をつなげても、どこで人がどうなっているのかはよく分からない。

N:書く人にしかわかってない感じですよね。

K:小さい子が何か報告するとこんな感じ。

S:一見プリミティブな感じに思えるけれど、ところが視覚障碍者が持っている位置感覚の鋭さ、精密さが同時にある。その精密さを私たちはよく分からない。よく考えるとどうしてアケミがハネられていくか、みたいなことが割とはっきりと描かれているような気がする。

S:アメリカシロヒトリの名前の件もそうだし、オソバ食べに行く(売春)とか、そういう人の動きが、音声感覚を持ってる人にはきちんとあって、ものすごくきちんと組み立てられている。だから両方の印象がある。ものすごくきちんと組み立てられているようでいて、一向に座席も分からなければ人数もよく分からない。社長さんと呼ばれている人や男の数も何だかよく分からない。(社長と所有者の区別もよく分からない。)

K:ボックスが3つ、それで12人しか入れないのに、6人連れと3人連れが入ってきて、その前に出て行った人はいないはずでしょ?

S:聴覚だけで書いた中では、ちゃんとホステスが間に滑り込めるんですよ。

K:これ工学部出は最後まで読めない。

S:いつもこう空間が縮んだり伸びたりするような感じがある。

K:だから結婚相手は幸田文さんでも吉屋信子さんでもいいんだって(「ないしょ話」)。

N:誰でもいいんですかね。

S:でも結局、誰も選ばなかったじゃない?誰でもいいんじゃなくて、誰でもなく誰でもあるってこと。

【私はあなたである】

S:ママさんが大阪から帰ってくるというのも面白い。お金をせびりに来るんだよね。で、純子の方も(出す)。

K:「これくらいはしょうがないよ」って。

S:前の住人の残りの電気代やお米代も、まぁしょうがないから払ってやるわ、っていう感じ。そういうめぐりあわせとか、巡りの思想みたいなものがすごくきちんとある。

K:こういう世界ではこれが常識なんでしょうか。法的にどうこうとか、何月何日まで日割りにする、なんて。

S:おりんが自分のストックを、息子の嫁に教えていく。そうやって持ち物を次ぎ次ぎに明け渡していく。「楢山節考」はそのループが非常によく描けている。

K:孫の嫁が、おばあさんがまだ死んでいないような時期、山に行ったばかりの時に、もう帯を締めていた。

S:ひ孫ができちゃって、「ひ孫の顔見ないうちに早く山へ行かなくちゃ」と言っている。

K:「そんなこと見たら恥だ」と。

S:順番のループを探すと、そういう姥捨ての例がある。ただ姥捨てが今実際にそんなにあることではないから、いわばフィクションとしての姥捨て。ホステスのループは実際にあること。ホステス一人一人も、自分がオリジナルな社長の愛人というよりも、そのループの一人であるということが自分のアイデンティティになっている。

S:戦後の、いわゆる民主主義教育を受けた人たちにとってすごく違和感があるはずだよね。

N:一人ひとり特別。

K:唯一無二の私。

S:むしろループに重なっていくことが「庶民烈伝」の庶民のアイデンティティになる。ママが純子を子供だ子供だって言い張っているのが、私たちにはよく分からない。

N:最後まで言ってましたよね。

S:「麻雀やりたかった、会いたかった」…「誰が会いたいもんですか」って。しかし、私はあなただから、やっぱり会いたいんだと思う。

S:私はあなたでもあるっていう、この感覚を私たちは到底持てない。どうして深沢七郎がそういう感覚が持てたんだろう?

K:村上春樹のジグソーパズルの一コマとは、あれは形が違うからやっぱり違うんですかね。

S:違うでしょう。ジグソーパズルじゃないよ。ジグソーパズルは全然動かない。これはどんどんぐるぐる回っていくのに、私はあなたでもある。

N:それってまた今必要になってきた考えでもありますよね。

S:私たちはオリジナル幻想に深く侵されているので、私はあなたであるってことが心底言えない。この人は、伊達にこういうところで歌うたったり、お金貰ったりしてギター弾いてるわけじゃないんだよね。おそろしい。すごい。

S:それがアメリカシロヒトリ=アメリカ進駐軍なんかまったく問題なしに跳ね飛ばしちゃう。そういう死生観であり人生観であり人間観である。ものすごくしっかり…日本人。

K:土着。

S:アメリカ民主主義なんて問題なく跳ね飛ばしちゃう。

S:だから右翼に狙われたって…まったく全然右翼は読めてないんだよね。ほんとに日本のオリジナリティそのものじゃないか、恐ろしいことに。

S:つまり、どんなにオリジナルであるよりも、植物のように反復していくことにえも言われぬ美しさを感じる。

【絶対贈与】

K:お金を渡すよりも、麻雀して負けてあげて渡せば格好がつく、ってことでしょう?

S:お互いに引け目にもならないし…そういうことって今でもやってると思う。

S:違う形で渡す。渡すやりかたをあげるほうが考える。向こうにまったく負担を感じさせないようにしてあげるっていうようにね。(絶対贈与がこのループの原理)

K:でも、お香典なんかもなくなりつつあるでしょう。お葬式をしないから。そうなるとだいぶ変わっていくようになるんじゃないかなあ…どうでしょうね。

深沢七郎 「サロメの十字架」 20161115読書会テープ

【変な語り方】

S:年を取っていようが若かろうが結婚しようと思えば結婚相手なんだ、というようなアナーキーさが深沢七郎にはある。

S:ラブミー牧場や、「生まれることは屁と同じ」とか、知性とか理性とか区別をしない人なんだよね。『楢山節考』は、そういう区別のない人間が、年齢順に順番に死んでいくわけでしょう?

N:たしかに、日記とか読んでいたら、普通の人とはちょっと違う感覚があるのかなという気はしました。でも私が知ってる発達障害の特徴には、ちょっと当てはまらないのかなあと思うんですけど。変わっていること自体は間違いがないですよね。

S:変わっているのもその通りだし、そこに出てくる語り口の怖ろしく…何ていうんだろう、独創的な?語り方って何なんだろうっていうのは、深沢七郎を読んでいていつも思う。今日の語り方もそうだよね。何でこんなにオリジナルなんだろう?

N:ふしぎ。

S:それで発達障害みたいな言葉が出てくるんだけど、私たちが書くとこうならないのにこの人が書くとこうなる、この感じが何なんだろう?

【ママの交代】

S:人力車というバーで、ママがいて、純子がいる。そして社長が純子と出来ちゃったんで、ママを純子に交代させようとする。この交代が一回目、次がもう一人の女はるみ。

S:はるみは途中から来て、何か上等な客を持っている…。

K:あれはアケミ。

N:アケミはすぐ消えましたね。

S:アケミがママになる感じだったのに消えて、ママが純子に交代し、さらに純子ははるみに交代する。社長がまた一週間前からはるみと出来ていて。すると、やっぱり交代モノか。

N:そうですね。

S:ママのアパートに、同じように純子が入る。

K:同じところに次の人が住む。純子もまた追い出されて、今度ははるみがそこに入る。

N:枠がある感じですよね。

K:『楢山節考』と同じ頃の作品?

S:ループというか、順繰りの小説になってるよね。

S:H君の話では、女性版の「東京のプリンスたち」だって言うんだけれども、「東京のプリンスたち」よりも循環の話がくっきり出ている。

サロメ

S:ところで、なぜ「サロメの十字架」なんだろう?

K:どうしてサロメが出てくるのか…。十字架に関係するようなのも全くないでしょう?

S: サロメってあのサロメ? サロメという若い娘が、ヨカナーンの首をくれという話。義父のヘロデ王サロメに惚れていて、お母さんを飛び越して、裸のサロメの踊りを見たいと言う。母親とサロメの交代がある。

K:そういう意味でママとホステスの交代があるのか。

S:「自分の子と同じに」(p.144)と何回も言っている。「おまえが可愛いんだよ」(p.150)。社長は、ママの次に今度はその娘を欲する。

S:それとも、十字架にかかったイエスの弟子の聖女サロメ? (それとも、後の1980年ごろに話題になったイエスの方舟を思い出す。おっちゃんと呼ばれる千石イエスの元で若い女性がホステスをしながら共同生活をする。)

アメリカシロヒトリとアメリカ毒蛾】

N:この人の小説は、まだ日記くらいしか読んでないですけど、たぶん技巧的なんだろうけど全然そんな風に見えないっていうか・・・

S:ヘタウマ?

N:町田康とかだったら、もっと分かりやすく、ガチガチに構成を作り込まれた感じがするんですけど、こういう風にサラッと書いちゃうのがすごいなっていう感じがします。

S:では、アケミはどうして途中からいなくなっちゃったんだろう?技巧的だとすれば、アケミの行方を考えなくちゃいけないんだけど。

S:アケミというホステス、その新しいホステスが自分よりも上等の着物を着て、自分がついていきたい、ママ候補で、てっきりママになるって思ったのに、肩透かしを食わされて、純子がママになる。この肩透かしを食わすところが、話としては面白い。

S:つまり、いい客筋を持っていて、いい着物持っている凄腕のホステスが、社長に送り込まれてきた。みんなそこで、アケミを次のママっていうふうに認めつつあった。それなのに、急に純子だって話に変わってしまう。ここのところ、技巧があるとすればここだと思うんだけど。

N:ふつうならアケミがなってますよね。確かに。

S:何でここで肩透かしになるんだろう。

S:それとアメリカシロヒトリの話が出てくるでしょう?アメリカシロヒトリと、

N:毒蛾ですか

S:毒蛾、これだと比喩になる。アメリカというお大尽の親分がやってきて、それに従おうと思ったら、案外そうじゃない、というような比喩の話になっている気がする。

S:アメリカシロヒトリって、アメリカからの帰化動物外来種で、つまりアメリカから人がやってきて、それと一緒に入ってきちゃった。つまり占領主、占領軍になるんじゃなかったか。

K:「桜・桑・鈴懸の木など多くの木の葉を食害」

S:桜が猛烈にやられて、つまりアメリカシロヒトリがアメリカだとすると、桜が日本ということ。

K:1946年に日本に侵入。ちょうど終戦直後。

S:ああそうなんだ。じゃあやっぱり進駐軍と一緒に入ってきた。これは面白いね。

N:ふうん、桜は日本、なるほど。

S:つまり、アメリカからの進駐軍であるアケミがやって来て、支配して、ママになりそうになったところを、これまでずっとやってきた反復・循環・繰り返しのリズム、日本のリズムの方が強かった、そういう話になるのではないか。

N:でも、ここでは、ママが次にママになる純子に対して、言ってますよね。

S:そうか逆か、うーん逆か。

N:アケミに対しては何にも言ってないですね。

K:ママとアケミは出会ってないの?

N:いや、一応…でも気づいてなかったですね。ママが全く見てなかった。

K:「新しい子が来るよ」とは言ってたけど。

S:純子とママとがなんかがあったっていうのはみんなそろそろ知っていて、その話でアケミの話がどっか行っちゃったんだよね

N:そうですね。

K:それはアケミが別範疇のものだからじゃないですか。ママ=純子っていうのは想定されたことで、社長の気まぐれによって、いつでも変わるわけでしょう、たぶん。アケミはここの社長とは関係がなかったのかな?

N:ここの社長とは関係なさそうですね。アケミにはまた別のアケミの事情があるみたいだね。

K:アケミは別のものだから進駐軍なんでしょうやっぱり。で、よそから来た人は出ていった。それだったら成り立つんじゃないですか。アメリカはいずれ帰って行き、土着の者に引き継がれる。ただアメリカシロヒトリをわざわざ純子に当てて呼んでるっていう所が説明がつかない。

N:本当はそう呼ばれる対象はアケミだったはずのに。

N:ママが「アメリカシロヒトリ」という名前をずっと覚えられずに、「アメリカ毒蛾」と言ってますよね。だから浅知恵で、本当は誰がアメリカなのか分かっていなかった。

S:ああそうか、「アメリカシロヒトリ」だとアケミになるはずなのに、「アメリカ毒蛾」って呼ばれたときに純子に変わってしまったと。(そこにチェンジがある)

N:名前覚えられていないから、そんな感じがあるなあと。

S:小説の後にアメリカの影はありそうだ。戦争が終わった後ってね、戦後に書かなくちゃいけないことっていうのがあるんだよね。

K:「サロメの十字架」は「新潮」の1967年3月号になってます。

S:アケミはアケミでどこかの店から追い出されて、違う店にやって来ている。ホステスが色々なループを使って移動している。

K:「前の店の名前じゃなくて、その前の店の名前だ」。

S:アケミの方が高級なループに属してる。この小説は、何が面白くて書いたかっていうと、ホステスたちのループの問題。ネットワークというのか、ループの交代の問題が面白くて書いているのではないかと思う。

K:「30万を15万にまけさせた」っていうのは…あれは何でしたっけ。

S:桁としては20万くらいっていうのと100万っていうのと、1000円単位、100円単位。桁がそれぞれ違ってループができている。純子の前のママは100万ではなく20万くらいしか持って行けなかった。金額的には20倍だとしても20万だったらば400万円ぐらい。60年代、オイルショック前だったらそんなもんじゃないかな。

K:オイルショックは73年。

S:この話の後。だから割とまだのんびりしている。