清風読書会

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『軽率の曖昧な軽さ』から「恋愛の帝国」(仁木ひろみ名義 2009)

【はじめに】

S「軽率」の豪華な菓子の箱が「恋愛の帝国」にも登場する。その菓子箱にはメモが入っている。手紙は封印された信頼のおけるメディアだが、菓子箱に入ったチラシ裏のメモは信頼性の低いメディア。ちょうど、化かすかもしれない狐のコートのように。

【映像と小説】

O仁木ひろみは噂になっていないかネットを見ると、『真夜中』という雑誌に、新人作家扱いでロラン・バルトも真っ青のという文句で紹介されている。『真夜中』は、中原とは結びつきそうもない渋谷系のおしゃれな音楽系の雑誌。

S『トリッパー』や『鳩よ』よりもっとおしゃれ寄りな、文芸とは別の雑誌?編集者は知っているのでは?知らなければ、中原昌也に憧れた偽物と言われるのでは(「人間の部屋」に編集者が別の名前で出すという記事がある)。  

 『ポーラX』という映画で、美しい婚約者のいる青年、売れている実験小説家が、ロシアから来たという姉とつきあい出すとだんだん変わっていく。事故で足を引きずるようになり、小説の書き方も変わる。手書きの小説を持ち込むと、これは模倣作だねと全然相手にされない。森の中で三人が走る映像が、森の下草を画像処理して血の海の中を走り回るような気味の悪い映像になっている。

 中原の小説は否応なく映像と関わっている。「恋愛の帝国」の終わりの方に、「俺が信じられるものは・・・・とびきり獣じみたセックスだけだ」と言っているのはAV。「実際にはそこにいない観客からの声援が、聴こえてくるようだ」というように、見ている自分がそこに入り込んで入れ替わり、映像と現実とが入り込むように作られている。そこにはいない観客の望みが映像に入ってくる。映像と現実とが越境する。それによって、自分の中の欲望を発見する。AVが一番典型的に、現実と虚構を行き来するフィクションの機能を示している。

 『KKKベストセラー』(2006)で、小説を書く自分がこんなに辛いのは、読者がみんなで寄ってたかってそれを望んでいるからだという発見と同じ。

OHN恋愛の相手が過去の相手と入れ替わる。目をつぶって誰かと交替するように。

Sそこから自分たちの内なる欲望を発見していく。しかし、今更、入れ替わることができるとなぜ言わなくてはいけないんだろう?私たちはそれを忘れている?テレビを見ていると現実を知ったつもりになって、入ったり出たりをしてみる必要はない。確かめることも疑ってみることもない。

O『こんにちはレモンちゃん』(2013)で、作品の中に入っていくとき、殺されるほど殴られる暴力があって、現実に戻って来いという話かと思っていたが、

H現実と虚構とどちらがよいというわけではなく、通過するときだけ点滅して気づくことができる。

Sぶん殴られることもある、暴力的侵入によって気づくこと。フィクションに当然のように入り込んで信じて、そして眠り込んでしまう(というのが、深沢七郎の「東京のプリンスたち」(1959)の批判)。

【手紙】

S「恋愛の帝国」では手紙が二通ある。どこからいつ届いたかは分からない。一通は引き籠もりの男からの手紙、もう一通は自分が書いたような手紙で、声に出して読んでいるうちに「すでに読んだ記憶がある」という。

H手紙と自分とがリンクする。一通目は閉じ籠もっている手紙で、そのとき自分は監獄のようなところにいた、とリンクしている。二通目の手紙は、自分の書いたチラシの裏に書いたメモと話の中身がリンクして共通している。

S噂話がいくつか集まって重なる、その重なり方が方法として使われているようだ。箱と中身とが、それぞれ似ていてそれぞれ重なる。箱と中身。この出し方がおもしろい。フィクションの本質的な問題だと思う。噂話を包んでいる入れ物(メディア)と中身がともに出ているのがすごい。

H自分自身も広告の裏に書いていた。手紙の文を読んだことがあったのではなく、噂話を聞いたことがあるから、読んでいないものを、読んだ記憶があるように思えてくる。

S噂話がそこでつながった、たぶん木村と青木の名前のところで重なった。

H自分が書いたものと届いた手紙が一致してしまうように、自分の書いたものと届いた手紙とが重なって同じものになってしまう。

S幸福の手紙のように、わーと広がっていく話がサークルをつくって自分のところに戻って来たりする。聞いたことがあるとか、読んだことがある、ふつう重なると真実ぽくなるのでは。

Hやっぱり本当だったということになる。現代メディアでの真実のつかみ方、色々なところに出ていて、ニュースや2CHに出ているから本当というつかみ方。昔なら新聞に書かれたから本当だった。

S特権的な真実をつくるメディアがなくなった。どれも箱に入って私的に届くようになった。新聞は公の出来事をつくる装置だったから、事実という保証がわりとあった。

Hいろいろな箱をあけて、あちこちに入っていれば真実となる。

O忘れていることを思い出すこと?思い起こされる?

Sネット上の死とは、アクセスされないこと、アクセスが多いところが事実、ホットなところが真実らしきものということになるらしい。忘れられるとは死ぬこと。

O「片割れ」と言っていたり、「どちらだったのか」とあったり、どっちか忘れたと書いてあるところ(が気になる)。

アスタリスク

Hここにはアスタリスクがない。ここまでが広告裏に書いてあったのか?

O手紙の内容を括弧で括ってくれればいいのに。「なんと木村裕子」から「怒鳴られるのがオチだろう」を括弧でくくるか、「オチだろう」のあとにアスタリスクを打つ必要があるのでは?

Hここに打たない理由がわからない。

S以下はメモの一部分だという徴としてアスタリスクを打っている。しかしアスタリスクは二カ所しかない。アスタリスクで本文を三つに分けろという指示。

 私たちは太宰治の「女の決闘」を読んだのだから、途中でつながっている部分は、つなげていると技巧的に読まなければならない。

H途中でダブっているんだ。別々の話同士がダブっている

S「女の決闘」の途中のつなぎの文章に(技巧が施されて)、半分違っていたりする、あれがモデルになっている。まして、この話は噂話、噂がどうつながって、どう重なるかを、

H小説の形式で書いている。

S一応「上記のような」までがチラシのメモではあるらしいが、

H「上記のような」以下も広告の裏のメモとして読むこともできなくはない。

S私はそこは続けて読んでいた。広告の裏に書かれたストーリーが続いていると。

H目が覚めた状態と似ている。ここまでがチラシの内容、ここからが小説という書き方ではなく・・・

Sアスタリスクからアスタリスクまでが小説の本文だと思える。広告の裏に書かれているのは、「これを罪と呼びたければ、勝手に呼べばいい」まで。豪華な菓子箱に入ったメモがいつのまにか部屋に届いていたように、手紙に記されていた友人の小説。「箱から取り出して眺めてみる、雑感を書き記していたのを思い出したのだ」とあって、(日々の雑感を記していた自分の小説でもある)。

【噂話の空間】

Oネットスラングで、チラウラでOK、チラシの裏でOKなくらい、どうでもいい情報というのがある。まとめでも何かの拍子に昔のものが蘇ってきたりする。すごく昔のことも、まとめられると今出てきたりする。

S蓋のある箱がいくつもあって、アクセスがあると蓋があけられ、読まれる。読まれるほど上にのぼってくる。

O繋がるはずのないものが、繋がって一つになったり、一つの情報になってしまったりする。

S違うものと違うものをくっつけて、お話が成長していく、お話を語ることの本質的現象、ギャザーしたり、重なるところに自分の意見を加えたり。

 箱をあけてみると、自分が書いたらしい、しかし他の人が書いたものも入っている。書き加えをはっきりさせるためにはアスタリスクを用いて区別するが、お話自体は接してくっついてしまって区別できなくなる。そういえば続編がある、あのあと見たんだよというようにつけ加えて続いていく。話が増えていくことと、意見を加えることをアスタリスクで区別している。

 次の「良子」でもアスタリスクを二つ使っている。おそらく噂話を使って書くときの(仁木ひろみの)形式。

 日本語の時制がゆるいから、こういうことができる。「いつものようにこうして」、「遭遇したのだ」というのはどちらも現在。痛みについての記述で、過去も未来もない(「傷口に」p.98)と言っている。すべてを現在に引き取って語る。現在が幽霊船の船長の吐き出す煙のようにレイヤーとなり、その中から髭が浮き出てくる。

H見えるはずのない骸骨も煙の中から見える。

S窓の曇りガラスに後ろの何かが映り込むように、現在のなかにすべての過去の出来事が流れ込む。

O推量と断定の文末が多いが、根拠は書かれていない。根拠のないただの推量がかなり多く、小説のなかでは根拠のある推量をするものではないのか。「傷口に」でも、亭主関白をやっている、じつは奥さんもそれを分かっているというが、それも推量でしかない。

H小説のあたりまえを壊している。

S根拠ある動機のある殺人を犯す、ドストエフスキーのような小説を壊しているのではないか。読めば殺人の動機が手に取るように分かるというのが小説だった。

O動機も神の視点から見るからあるのであって、神のないこの国では、だいたいのところでというような、推量の共通性に頼るしかない。

N噂話と同じぐらいには共通性があったが、共感が成り立ちにくくなって、今村夏子の「こちらあみ子」のような小説がある。

Hみんなが語り手になる。

Sみんなが語り手になって語るほどに真実になっていく。友達の友達という噂話の形式は、友達には確認が取れるが、友達の友達にはもう確認が取れず、半分は霧の中。そのぼんやりした霧の部分で、いろいろなものが繋がる。

S「軽率」や『花束』のように、軽率=偶然性で文章を爆発させてその都度こわすやりかたとは違っている。レイヤー部分を重ねていって、いくらかストーリーのまとまりが噂話ぐらいには見えるようになっている。仁木ひろみ名義の場合は、話の粒が少し大きくなって、何々が起こっているということが記憶に残るくらいには大きい。

O女語りは、土佐日記の例ぐらいしか知らないが。

H男が書くのは漢文と論理、心情に近いものを書こうとすると女文字ひらがなで書く。

S(今や婦人雑誌だけがTPPをあばく記事を書ける)

O恋愛語りや、将来の夢などは女語りのテーマ。

S仁木ひろみの特色、噂話でぺちゃくちゃしゃべる、知っていることも知らないことも嘘も本当も話していく。嘘か本当か根拠があるかないかを免れる小説の書き方。

Nそれは尾崎翠の「こほろぎ嬢」の書き方と同じ。

【おわりに】

H一通目の手紙も、自分の状態と互いにリンクしている。小説をひらくと、独り言のように話していて、豪華な箱をあけると小説がはじまる。

Sこれは枠小説の形式。

H男は宅急便を開けずにそのまま捨ててしまう。

S枠物語の中には、手紙はずっとしまわれていて、鍵をかけられている、今日こそ開いてその秘密を語るという手続きが書かれているものがある(ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」)。中原の小説を読むときと同じように、精神的、肉体的な力が必要。箱をあけない方が絶対疲れない。

H平穏でありたければ届いた荷物は開けないほうがよい。箱をあけるかあけないかという問題と、箱の中に書かれている話を読むか読まないかというときに、ちょっと力が必要。引き籠りでも、本を開いて読めば、誰かと繋がる。

Sアスタリスク以下に自分の感想を加えて、誰かに送ればよい。「読んで感想をきかせてほしい」と言って本を回覧する『ゴースト・ドッグ』のように。

H本を読んで、意見を言う、この出入は、部屋に入る出ると同じ、その出入りする時にだけ点滅があり、覚醒のチャンスがある。

S仁木ひとみの短編は、つけ加えるべき感想をはっきりアスタリスクで示している。それによって本が次へ回覧されるという希望が生じる。

 

「鳩嫌い」その2

【鳩と普通の鳥】

A鳩の視線を感じた途端に、鳩に意識が移る。そのあと近所の描写へ移ると、周囲が異様に静かになる。

S「真弓」が、「私」と真弓の入れ替わりの話だとすると、「鳩嫌い」は、典子と鳩が入れ替わる話?

A「高級な布地」、これは人間の感覚ではなく鳩に入れ替わった感覚。

ASNH「外気を肌で感じる」、これは鳩のコメント。

S鳩と人間との入れ替わり。「とくに考えるのを忘れた」、というのも変な言い方。

Hそれはタクシーに乗った瞬間と似ている。乗った途端、何のためかを忘れる。

S前のことを覚えていない。鳩の記憶。

ASああそういうことか。だからタクシーが無愛想なんだ。

Aこれはタクシーに鳩として乗ったということですか。

AHNS鳩がタクシーにとまっただけで、鳩だから運転手は何も言わない。

S典子と鳩の入れ替わりの話。これは何の話だろう?

Aここで晴子を読み直すとよい、鳩じゃない普通の鳥が分かるのでは。

N鳩じゃないと行き来できないのですか、普通の鳥ではできないのですか?

S普通の鳥というものはない。つまり雑草という草がないように、鳥一般というものはない。ああそうか、そういう問題か。これは普遍論争。

 普遍は存在するかしないかという中世以来の論争があった。晴子のいう「普通の鳥」は普遍概念であって個別性を持たない。鳥一般というものはないから、それに乗り換えることはできない。だから晴子は死ぬしかない。一方、鳩は、具体的なものとしてあるからそれに乗り換えることができる。典子は鳩に乗り換えて生き延びる。

 私たちは普通の鳥とか人間一般の概念には乗り換えられないが、個別性のある鳩にならば乗り換えられる。そうすると、交替可能な鳩というのは交替可能な人間とほとんど同じ。交替可能だけれども、一つ一つは別々の鳩の違いを言っているような気がする。交替可能だけれども一つ一つは違いがある、そういう個別性を私たちは生きるしかない。なんで中原はそんなことを言っているんだ?

 「自分をどのように捉えていたのか正直に語る保証もない」というのは、鳥一般には個別性がないから。鳩ならば個別性がある。あの鳩とあの鳩は同じ、もしかしたら違っているというくらいの個別性を持てる。人はよく似ていて交替可能だけれども、少し違っているくらいの主体性は持てる、これはすごいな。

Hすごい繊細な主体性。

S私たちは20世紀中痛めつけられて、鳩ぐらいの主体性しか持ちえない。あの鳩とこの鳩の違いぐらいの主体性を私たちはもつことができる。個別性のない集合的存在の晴子に対して、そういう個別性をもって私たちは部屋から出て行くことができる。 

 『燃えつきた地図』(1967)のように、夫が失踪し、その空席に、よく似た他の男が入ってくる。(似ているから)空席にはまり込むこともできるが、(違っているから)出ていくこともできる、そういう個別性をもてる。

Hここに存在する(定住する場所)と言わなくても生きていくことができる。知らないどこかへ進みはじめている。

Sこの個別性をもって私たちは部屋の外へ出て行くことができる。

H最後の頁に「鳩嫌い」が置いてあることで、本から外へ出ていくことができる。

S13世紀以来の人格*が、これだけすり減ってしまった。交替可能性については、私たちは漱石によって存分に分かってしまったが、それは20世紀の問題。21世紀の中原は、それでもそこに少し違いが生まれ得るという希望を出している。

NH希望が持てる。

S20世紀の前半は、作家は自分が自分であろうと証明しようとしすぎていた。ないものまで求めていた。交替可能だと分かれば20世紀前半の文学者の無頼はとくにいらなかったかもしれない。

H交替可能であることを認めれば、その半分、違いが持てる。山下澄人の『ルンタ』(2014)のように、半分は自分で半分は他人という半分の主体性を生きられる。

S普通の鳥というような集合体ではだめで、鳩のように交替可能でありながら、あの鳩とこの鳩ぐらいの差違がある主体。

【冷酷な暴力】

S冷酷なということがまだよく分からない。

 部屋の中にいるということは、一人一人がほとんど妄想に近い状態でいる。この部屋から外に出て、他人と交替しない限り、未来はない。冷酷な口調でそれが真実となるというのは、部屋に閉じ籠もって引き籠もりになっている状態で、否定的なもの。鳩に成りかわってでも外に出て、他の人と入れ替わる必要がある。

Hこれが真実と言って一つのところに留まるやり方、どこかに留まって確かなものをつかむというやり方ではだめなんだ。

S妄想は冷酷なんだよ。暴力性と冷酷な仕打ちが出てくるのは、部屋に居続けているから。それは魔法の世界で、自分が冷酷な口調で言えばそれが真実になる妄想の世界。

 そしてマンションの前でタクシーを拾う。ソファーのコートは、『紀子の食卓』(2006)で、姉が着ていたそのコートを、次の朝には妹が着て出ていく、あのコートと同じじゃない?あの家族も、一人一人入れ替わって行けばいいということだと思う。このコートは、以前に部屋に来た別の典子が残していったもの。

 『紀子の食卓』では、コートとメガネ。姉は、ダサいコートとメガネを外すと美人になって、違う人格になってしまう。それなら、『紀子の食卓』のお母さんの名前は晴子ではなかった?母親だけが自殺して落っこちてしまう**。典子=紀子のコートは、『自殺サークル』の円環から順番に外へ出ていくための乗り物としてある。狐のコートも同じだろう。

芥川龍之介太宰治中原昌也

Sさらに、芥川龍之介のレエン・コオトがある。紀子のコートは、外に出て他のものになって、これから生きていくためのコートだが、『歯車』(1927)のコートは、着ると死んでしまう。『歯車』は円環を描いて家に戻ってくる構造になっているが***、『紀子の食卓』では、出ていっては他のところ(かつての家そっくりに作られた他の家)へ着き、空いた母親の席には他の人(上野駅54)が到着する。

 井上晴子が死んでしまったのは、普通の鳥と言って、乗り換えることができなかったから。唯一無二の自分という真実を守ろうとすると、冷酷な暴力が人をはじき出してしまう。芥川龍之介三島由紀夫も、暴力が不可欠になる。少年Aのように。

H唯一無二の自分という考えだと他人をはじいてしまう。

S芥川龍之介も円環を描いて自分の家にたどり着こうとしたところが間違いで、他へ外れれば死なないで済んだのではないかな。(途中、いつか道を間違え、青山墓地へ出て、漱石の告別式を思い出したとある。)

 ああそうか、太宰治は、それで生き延びることができたのか。太宰は、こちらの女性と入水し、あちらの女性と入水して、あちこちで分身を作れた、分身を作っただけ生き延びることができた。生き延びるために分身を作る必要があった。太宰の無頼は必要があってしていることで、次々に分身を作って入れ替わるということを太宰はものすごく賢く分かっていたのではないか。私が私であるなんていうのは本当に恥ずかしいから。

 誰かの代わりでなければ生きられないし、誰かの代わりだけでも生きられない。

SNとてもいいね。

【おわりに】

H言葉は全部ラベルだと言ってしまったら、そう言えなくもないのだけれど、ラベルがあるから出たり入ったりできる、そういう考えがあるから、だから小説を書ける。

S雑木林から雑木林が移動する「真弓」の話のように、文字は差が見えにくいのではないか。音楽をやっていると差が見えやすいのではないか。なぜかというと今は多重録音して五重六重にもして、そこにたくさんのほかのものが入ってくる、重なることができる、隙間があり、レイヤーがある****。その幅の所に、他人の声や音が入り込むことができるから、文字よりも違いを出しやすいのだと思う。文字はすごく窮屈、もう行間も読めないし、隙間が空いていない。雑木林から雑木林へ何かが移動して、移動した後には痕跡も何も残らないから誰も読めなくなってしまった。できるかぎり正確にとか、分かりやすくとかいうことで、私たちはレイヤーの部分をなくしてしまった、レイヤーの部分がないと、言葉は窮屈なまま何もできなくなってしまう。

 町田康の『告白』(2005)の酢醤油の瓶が割れて、割れたかけらがどこかへ行って、ここに戻って来て、そしてもう一度進む、回り道の言葉を町田康は発見している。饒舌体というか、他のものへどんどん連想で、抱え込んで、回り道をして、はじめて進める、そういう言葉を考えないと、文学の言葉は今非常に痩せていると思う。

 *小林剛. 2014. 『アリストテレス知性論の系譜』, 梓出版社.

**園子温の原作である『自殺サークル』では、母親の名は妙子となっている。晴子の名は、『あの日』(2016)を出版した小保方晴子に由来するかもしれない。

*** 蓮實重彦. 1985. 「接続詞的世界の破綻――芥川龍之介「歯車」を読む――説話論の視点から」, 『国文学 解釈と教材の研究』. 30(5). 学燈社.

**** 今敏の『東京ゴッドファーザーズ』(2003)に使われたNo.9という曲で、鈴木慶一は80近いトラックを用いて声を重ねている。

 

 

 

「鳩嫌い」をめぐる

3月18日の読書会は、中原昌也の『軽率の曖昧な軽さ』から、「真弓 キミが見せてくれた夢」と「鳩嫌い」でした。試みに、「鳩嫌い」のテープを起こすことにしました。いくつか見出しをつけてあります。

【はじめに】

S「真弓」がこの短編集のすべてを引受けたあとで、更になお「鳩嫌い」がなぜ必要なのか?

H「恋愛の帝国」の最後に加えられた教訓のように、この短編集の読み方はこれだということを示す一篇。短い書き下ろしを最後に置くことが最近の中原の短編集には多い。

S「真弓」という長歌のあとに反歌として置かれた一篇。歌の形式や短編集の形式は強固に残るものらしい。枠物語の起源はジャータカあたりだから、ものすごく古い。似た話をセットにする二話一類の形式も強く残る。

【鳩嫌いのストーリー】

S真弓と同様に、井上晴子はすでに死んでいる。

H鳩嫌いなのは井上晴子。典子は晴子とそれほど親しくなかった。だから死因も知らない。

S晴子のセーターに鳩が描かれていた、鳩がそんなに嫌いなのという話をして、そのあとしばらくして晴子の訃報を耳にしたと。ここで一行あいて、鳩を毛嫌いする人の気持ち。ベランダに鳩がとまっていて五分後にいなくなった。

H鳩の置物の話になり、置物なら、剥製なら。

Sそしてまた一行あいて、

H鳩はどうでもよくなり、奥村さんが見える。隣のマンションの一階。奥村さんは写っていないテレビの前で放心している。奥村はタバコを吸っている、典子はそれを羨ましく思う。鳩がベランダに戻って来て、それは別の鳩かもしれないが、直感で同じ鳩が帰ってきたと考える。奥村さんに電話したが返事がなかった。

S携帯はつながっている。カーテンが閉まって、残り本文はあと少し、どうしよう。

H死んでいるのかもしれないと思う。

S「急に人が亡くなるのは稀だ。・・・最後は本物の死人になるのだ」と典子がつぶやく。「冷酷な口調を心がけて言えば、それが真実となることを知っているから・・・」、これが繰り返されていて気になる。

HNこの繰り返しは気になる。

Sさらに一行あけて、典子はコートを着て、「もう二度とこの部屋には、帰ってこないかもしれない」、そして、「唯一無二の真実になるのだ」の繰り返しがあり、だからこれが現実を抜け出す一つの手がかりだと言っている?でもこれだと妄想を強くするようにしか見えないのだけれど。

H終わってしまった。どうしようか。

H独り言を言うこと、誰も聞く人が居なくてもつぶやくというのは、「軽率」で「誰に頼まれたわけでもなく・・・という踏ん切りがついたのだ」とあり、聞く人が居ても居なくても語る、言葉によって語ることで切り開くという希望なのかなあ。

Sうーん?

H「誰一人聞く者もいな」くても語るなら帯の言葉に合うが、「冷酷な口調」ならば違いがある。

Sどうして「冷酷な口調」と言っているのだろう?

 典子という人間が、何かしらのことがあって、マンションの前で行き先も分からないタクシーに乗り、目的なしに、用事も忘れて、部屋を出て行く、どこかへ進んで行く話なんだと思う。その前に部屋で起きたこととは、冷酷な口調で唯一無二の妄想という事態と、鳩の件。

 私が気になるのは、二度目に来た鳩を帰って来たのだと言ってしまうところ。これは私たちが普通にやっていること。全然違う鳩が来たのかもしれないのに同じ鳩が帰ってきたのだというストーリーにしてしまう。偶然であるはずなのに因果のある出来事だというストーリーを作ってしまう。それは社会にとって必要なストーリーなんだろう。すべてが偶然だというのでは社会は成り立たないから。あれとあれは同じ人だという軽い因果性をストーリーとして語り、生きる。

H全部ただのラベルだから誰が誰だか分からないよでは社会はやっていけない。中身が違っても、鳩というラベルが同じだから、二度目に来た鳩も同じだとする。

S同じ鳩が帰ってきたと見なすストーリーを生きることが社会には必要、それが社会の習慣。

Hたぶん典子は帰って来ない。だとすると、別の典子が部屋に帰ってきて、他の人たちは典子が帰ってきたと判断する。

Sそれだ。それだね。素晴らしい。そうすると安部公房の『燃えつきた地図』になる。典子が一人いなくなると、誰か違う人が典子に成りかわり、出ていった典子はまたどこかで別な人に成りかわる。それだね。

S鳩が帰ってくるところは分かったが、前書きの井上晴子がよく分からない。井上晴子は、同じ鳩が帰ってきたのだと言わなかったから死んでしまったのではないか。同じだと言わないと、この社会では生きられない。

【鳩の視点】

H普通の鳥というのは、つかみ方が大きすぎる。

S茫漠とした普通名詞で生きていることはできないということじゃないか。鳥というサイズでは大きすぎる。鳩ぐらいのサイズが必要。

 晴子と典子には違いがある。「確実に自分とは違った感覚の中で生きてきた晴子」、「心中にあるものを正確に伝える技術が晴子に備わっていたのかどうかも、いまとなってはわからない」と言っている。晴子は、典子とは違ったサイズで生きている。これは何の話だろう?晴子の情報が少ない。はじめの2ページに晴子がどうして出て来なければならないのか?

 奥村さんはどうか。奥村さんも情報が少ない。

Hふだんは頭の回転がよいが、ついていないテレビの前にいる時はボーとしている。

N死人になる前の状態に近い、典子のセリフ、「・・・魂が煙のように抜けるに従って、感じることが少なくなって」とあるように、タバコの煙のように魂が出ていく途中のようだ。

A煙というのは中身?

S人間が息を吐くように、煙草の煙でその息が見えるようになって、それが抜けると、もぬけの空になる。

H鳩が契機になって死がおとずれている。晴子も奥村も鳩が契機になっている。

N携帯をかけるのも突然。携帯に電話して、カーテンが閉められて、「誰かがそこで死んでいるのかもしれない」は、「奥村さんがそこで死んでいるかもしれない」でもよいはずなのに、「誰かが死んでいるかもしれない」というのは変だ。部屋の中が入れ替わっている可能性がある。鳩に気を取られているうちに、そうなっている。

H部屋には奥村さんのラベルが貼ってあるけれど、中で死んでいるのは誰であるか分からない。

S晴子のセーターの鳩に気をとられているうちに中身が入れ替わる。「確実に自分とは違った感覚の中で生きてきた晴子・・・今となっては分からない」という、この説明が長く、よく分からない。こんなことなら、生きている時に、鳩のセーターの話などしないで、自分をどのように捕らえていたかを話したほうがよかった。

 これも中身と箱の話か。晴子に関しては鳩のセーターについてしか語っていない、中身については会話がなく、入れ物についてしか語っていない。

 鳩がそんなに嫌いなの?は典子の思い込みで、鳩に違いないと決めつけたわけだよね。鳩嫌いは典子のラベリング。

H典子が晴子につけたラベルが鳩嫌い。

S井上晴子は、中身とラベルがずれるという話。同じように奥村さんも、外から窓を通して眺めているだけで(電話は通じない)。

Hラベルと中身がずれる例がつづく話。

N隣のマンションの一階の部屋が見えるとは、そんなに見えやすいものではない。

Aここはどういう状況か分かりにくい。

Sじゃあ、鳩の視点か。

N窓の反射もどういう視点から見たら見えるか。

S隣のマンションの一階に住む奥村さんがぼんやりしているのが見えるのは、一階のベランダにとまっている鳩の視点、だめかな?

Nそうですよね。奥村さんの観察が終わったあとに鳩がベランダに帰ってきているし。

HNSA 鳩目線だ、それだね。

つづく、あと半分は明日以降。

2月26日 綿矢りさ 大地のゲーム

3月4日 村上春樹 嘔吐1979 「回転木馬のデッドヒート」所収

 

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