清風読書会

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『軽率の曖昧な軽さ』から「軽率」(2015)

2月19日の読書会テープです。

【はじめに】

S作家は19世紀以来ずっと神の役割を引き受けてきた。しかし、太宰治中原昌也も、そういう役割を自分は決して引き受けまいとする。そのために、書くなんて最低のことだと言い続けなければならない。一方で、バモイドオキ神を作って神の振る舞いをなぞってしまった少年Aがいる。

【二次現実】

S狐や自然に化かされるというのがよく分からない。

N視界が定まらなかったり、壁にのめり込む感じや、耳がおかしくなるというのも、外から化かされている、どこかに迷い込んでいる感じがある。

Sホログラフィを使う芸術家の話があったが(『知的生き方教室』)、この作品でも何か半分ぐらいは投射された偽現実のような感じがする。そして現実と区別できない、つい騙されてしまう。

H水牛が出てくるあたりが一番ぼやぼやしている感じがある。

Sコンビニに盗撮カメラがあって仕事をしている人たちを写しているが、そのカメラが再生されると自然の風景の水牛になるんじゃないかと。カメラが通路になって他の現実と繋がっている感じ。この自然も少し嘘臭くて、映写されて画像転換して自然になおしているような。

Hだから魚眼レンズ。

S画像処理がされている感じ。石田が出てきても他のものになってしまっている。人物がループして次に出てくるときには、映写された二次現実のようになっている。能面のようなとか、修正、変換されている感じがする。

H彫刻のような、銅像のような。

Sちょっと前までホログラムで写し出されることに面白さがあったが、ここではさらに修正されて、画像処理されている?

H完璧な繰り返し再生の例は、ボーイスレコーダー、貧乏揺すり、CM、シューベルト2回、ストロボの点滅(p.11)、照明の点滅(p.14)は色が変化している。機械的反復の例。

 頭の内で再生する例は、文章の断片を念仏のようにリフレインする(p.20)、シーツがスクリーンとなって例の会場を思い出す(p.22)、テニスコートを思い浮かべて頭が鏡に映っている(p.35)。

BCDS禿頭の表紙絵は、鏡に映った頭? 

NHO伊藤は禿。

S鏡に写ったのは伊藤の頭?それとも自分の頭?

O私の頭部(p.35)とある。

S姿見の片隅に写っている私の頭部と本文にはあるのに、表紙絵では伊藤の禿頭がボールのようにコラージュされている。『夢十夜』の床屋の鏡の話と、現実ではないものが写ってしまう感じが似ている。

H鏡の例は、こちらを睨んでいる石田が写っている(p.39)。無精髭によって自分の顔ではないように見える顔(p.65)。

S鏡の中には、向こう側の、現実とは違うものが写ってしまう。

Hカメラの再生も鏡の反射も、どちらも再生したら違ったものになっているということ?

S鏡やカメラは違う世界への通路になっていて、この通路を越えると違うものになって写る。これは私たちの現実そのものでは?ニュースにいろいろなものが流れているが、実際は全然違っている。証言もテレビで再生されると全く違っている。

 本物か偽物の区別がもうできなくなっている。あちらが偽でこちらが本物という区別がつかなくなる。再生装置がいろいろあるが、再生の先に違う現実が作り出されていく。絵を描くというのは、違う現実を作り出すんですよね?

B見たとおりには描けないので、見えるように描く。

【箱とスクリーン】

B壁にめり込んだ意識(p.24)が戻ってくるということですか?

S意識が半眠状態(p.18)、浮いたり沈んだりしている(p.21)、意識が朦朧とし始めた(p.71)などの例がある。

 再生・模倣の例は、箱やスクリーンのような「もの」に即して考えた方がよいのでは。部屋と小屋、トイレ、コンビニも四角い箱。立体的な箱と平面的な箱があって、掌はそのなかに自分の一生が入っている平面の箱。シーツの平面にいろいろなものが写し出される、ポスター、鏡、窓、ガラスの汚れと外の景色がレイヤーとして重なっている。カーテン、油絵、人物ファイル、図鑑、それから菓子箱。外から見ると菓子か石鹸か分からない、中身が入れ替わってしまう。人物も外見が同じでも中身が入れ替わってしまう。

 主体も景色も変形している中で、私たちに認識できるのは今や箱だけ、スクリーンだけということにならないか。

Oリアルで自分が見たものより、シーツや窓などに写ったものしか認識していないということ?

S(リアルとフィクションの区別がなくなって)、窓やスクリーンを通して(通るとき)しか認識できない。

C壁は平面?  

S入れ物としては箱、テレビはいろいろなものを写し出す平面だけれど、テレビの箱の中に私たちの現実が入っている。ここではないものを写し出し、ここではないものに入れ替わる。違う世界とつながる乗り物としての箱。

【鐘を鳴らすこと】

O壁に飲み込まれたとあるように、自分も平面の世界に取り込まれた。自分自身が壁を見ていたはずなのに、自分も壁に取り込まれて、主体も背景もなくなった。

H壁とそれを見ている自分との関係も崩れて、自分もめり込んでしまっている。

S 超越者がいないということになりそうだね。自分も映し出される壁の中に入り込んでしまっている、神としての資格がなくなって壁にめり込んでしまっている。

 「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌をなぜ知っているの?

HOCD紅白で和田アキ子が歌っている。

Sトリアーの映画『奇跡の海』だと、鐘を鳴らすのは腐っても神という感じがある。教会にはもうすでに鐘がないが、最後に鐘が鳴り響くのは、腐っても(女を肥やしにしても)やっぱり神の存在があるんだろう(ほしいんだろう)。

 浮浪者のようになってしまった街の神様が、かろうじて鐘を鳴らす、凄く真面目に鐘を鳴らして、腕が疲れたというところがとてもよい。

Hみな素知らぬ顔をして、それもイベントのように思っている。

S神様は、ちょっと気の触れた路上生活者ぐらいにしか見えなくなっている。

B意外なほど体力を使った。生きている実感が沸いたという感じがある。

H「心臓が鼓動するのを感じることができた」とあり、「できた」というところに意識が戻ってきた感じがある。

Bかろうじて希望の鐘を鳴らすことで意識が戻ってきた。

S意識が戻ってくるのは深沢七郎の「東京のプリンス」だと思う、寝込まないでロックを聴く。

つづきは後ほど。