清風読書会

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太宰治「作家の手帖」その3

【母さんの洗濯】

H 井戸端の母さんということばも同じですね。こどもがいる自分自身とも言えるし、もっと無名の存在のお母さんという意味ももってしまう。世代的にどちらに向かっても使える。自分でもあるし、無名でもあるし、両義的な使われ方。

K 奥さんのことを母さんと言ったり、女性一般を指したりする。

Y この母さんも少女の歌もカタカナが嫌らしい、何か隠されている。

H そういえば、3段落ともカタカナ表記の部分、歌の部分がある。

S この母さんのカタカナ。自分のお母さんでもあり、人のお母さんでもある、という自分と他人との区別を乗り越えるという用例になるかな。2段落目は階級を跳び越える用例、3段落目は自分の母さんと人の母さんという主語の範囲を超える用例。

 一人称と二人称が交代することがあるとともに、一般名詞と固有名詞の交代がある。

Y 自分のことを歌っているんだったらなんだかなあと思っていたが、自分の母さんの意味はもう消失していて、それを「意味がない」と言っているのかな。

K 単なるリズムなんじゃない?

S 自分のことを歌っているんだったら,、自慢しているとかになるけれどというのは、第一段落で七夕に自分の書道の上達しか望んでいないというのと同じではないか。第一段落では、自分の望みしか言っていない短冊、第三段落では、自分のことしか歌っていない歌という対比がある。

 第三段落はさらにその先があって、自分個人ではなく、お母さん一般のことを歌っているというのは、自分と人々一般との差異を超えることにならないか。自分だけのことを歌っているのに、歌っているうちにお母さん一般の歌になる。逆に言えば、言語はみんなのものだけど、私がそれを使えば私だけのお母さんを指し示せる。

 これをヴィトゲンシュタインは私的言語はないと言ったのではなかったかな。言語はすべて他人のもの。私と他人との区別・差異を超える力があるのがことばである。だから、ことばこそ希望の種である。

 みんな我利我利亡者で自分のことしか言わず、自分だけのための物語を語っていても、それを言語で書くと、それはあなたのことだけじゃなくて、他の人にも通用するみんなの物語になる。それを人が読むとあなただけの物語ではなくなる。物語は、自分と人の区別を跳び越えることができる。それが希望である。

Y 希望の定義が素晴らしい。

H 面白い.

S これさえ押さえれば大丈夫だというキーポイントを太宰は書いた。

Y まだ、なおなお、どこか煙に巻かれているところがある。