【金閣寺の構造】
H『金閣寺』では、お父さんから聞いていた金閣寺のあとに、現実の金閣寺を見て幻滅する。「雛の宿」では、一回目が最高の一夜、二回目で幻滅する、おなじ構造。
S 幻滅した後、現実の金閣を焼けば、あの幻想の金閣が手に入るという思考で、金閣寺を焼くという行動に出る。
H「雛の宿」の方は、声をかければ幻滅するが、声をかけずに帰ってくる。それによって甘い幻想が残る。溝口は焼くところまでしてしまうが、この青年は声をかけないことで甘い夢をとっておいた。
K 逃げ道を作っておいた。
S 甘い考えは狂気と一緒だということになる。自分だけの現実に生きる者はみな母子のきちがいになるほかない。自分の幻想を守る普通の方法。甘い考えイコール狂気。近代の末路は、現在今こうなっている。安全、手軽な傷つかない方法。
S 母子の狂気も誰に迷惑かけているわけでもないからね。だけど何の解決にもならない。だから、第一案の「君はどう考える?」は、この甘い考えを肯定するダメな案。第二案の嘘つきのパラドックスにぶつかるしかない。嘘つきの語る大嘘を、信じるか信じないか。
嘘つきのパラドクスは、錚々たる論理学者や哲学者が語っている。嘘つきのクレタ人問題。たとえば、プラグマティストのクリプキは経験主義で答えている。やってみればよいのだという。嘘か真かは決められないという人もいる。
金閣寺を焼くという行動が、事態を打ち開く、この行動というのは三島の重要単語ではなかったけ?
H 行動に移すパターンが『金閣寺』で、行動に移さないパターンが「雛の宿」。行動に移さないから、パラドクスがぐるぐる回ってしまう話。それが三島の小説の息苦しさになる。
S 三島の行動は何だか散々な結果になったように見える。何か解決はないのか。嘘つきのパラドクスがぐるぐる回ってしまうという結論しか出ないのか?
【偶然を飼いならす】
S もし先があるとすると、二回目の女が現実感のない一行で済まされている、これが二回目としてまずいんじゃないかと思う。捨てられた女というたった一行はちゃんとした経験ではない。端折っている。もしかしたら三島の性癖のようなものが隠されている?
愛情の経験として不足だと思う。それが第二回目の経験を先へ展開できない理由。本当に一行だけの観念でしかなく、ただのアリバイでしかない。女じゃなくても男への愛情でもいいけれど、愛情の経験が十分ではない(隠している)から先へ進めない。
K 当時はホモセクシャルは書けなかった?
S カミングアウトするような時代ではない。チャタレイ裁判とか、sexの描写が罪になる時代だから。
H 一回目が本物であるという、その潔癖さによって、二回目は経験として成り立っていない。二回目は観念でしかない。同じように、戦後の生活は偽物だという観念で三島は止まってしまう。
S 戦前の妹との愛情が完全で、戦後の恋愛が偽物という図式にはまってしまっている。戦前だって三島が愛しているのは男だったのだから、戦前が本物というわけにはいかない。妹を愛しているというのはカモフラージュになってしまう。
母親や妹を愛するというのはホモセクシュアルではよくあることだが、そもそも女を愛さなければならないということ自体今から考えれば問題だけれど、100年かけてやっとそう言えるようになった。
そうであっても、三島は、切実な問題を解決せずに、国家が戦後が天皇が・・・というズレ方、拡大をしていく。
K 問題がすり替えられていく?
S これが三島の小説の不発感、出口なし感の理由かな。
S 『オール読物』なんかに書くと、構造がきれいに見透かされてしまう。率直にライトに描くと、骨組みが見えやすくなる。問題に目を瞑って、そっと立ち去るのが三島の近代小説ということか。これは参ったなあ。
H 以前の読書会でも、ライトな雑誌に書いた作品を扱った。スケートの『愛の疾走』、熊退治の『夏子の冒険』も、たしかダブルエンディングになっていなかったか。ダブルエンディングの可能性があるのに、そちらに行くことが出来なかったような。
K 女性誌に書いた一見軽い作品。
S ダブルエンディングで結末が決まらないというのは嘘つきのパラドクスそのもの。
H 嘘つきのパラドクスがぐるぐる回ってしまうところから、三島は行動によって抜け出そうとしたということか。
S やってみてというのは、偶然をどう手に入れるかという問題。『愛の疾走』には、偶然、はっと思ったところで抜け出るという片鱗があったと思う。偶然や占いのようなものによって、ふと抜け出す。ビー玉の話とか。
H 行動ではなく、偶然やはっとするところで抜け出すことができる、これは面白い。
S 三島は偶然性は嫌なんだと思う。予定外、計画外になるのを嫌う人だから。『愛の疾走』には、なぜかこの偶然の片鱗があるから面白い。
『夏子の冒険』は、熊イコール金閣寺で、そのあとどういう結末になったっけ?
K 修道院に入るとか、入り損ねるというような、結末ではなかったか。
S ちょっとした行き違いで逸れてしまって、思いもかけないところへ行ってしまう。そういう偶然性は、小説家は認めがたいんじゃないかな。プロットこそもっとも大事な小説の要件であるからには、小説は必然性である。
三島の三文小説には、大衆読者に向けたという口実で、偶然性に身を任せても、まあいいかというようなスキがある、気の抜け方がある。
K 三島の力作小説には偶然性は出てこない?
S 出てこない。だからかえって三島の三文小説には可能性がある。そもそも三島はライトノベルの可能性さえ持っていた。
K そうすれば、三島自身も自滅しなくてよかった。
S 三島は、三文小説をばんばん書けばよかったのさ。『オール読物』素晴らしいじゃないか。
【深沢七郎と三島由紀夫】
H 三島の最後は『豊饒の海』で、あの生まれ変わりに活路を見出したかったのだろう。深沢の『笛吹川』の生まれ変わりと三島の生まれ変わりはどう違うのか。
K 一行で済ますというのも深沢によく見られる。
S 深沢の一行の背後には、10年も20年もの経験がある。三島の一行の裏には何もない。深沢は100年生きようと200年生きようと人間は同じだと言えてしまう、一行の裏に100人も200人も人間がいる。三島の後ろには誰もいない、ユニークな唯一の近代人をした人だから。深沢には、ほんとにいい加減に生まれ変わりをやっているが、人間はみんなおんなじという見識がある。そのいい加減な生まれ変わりで、いくらでもチャンス偶然を導き入れる余地を持っている。