清風読書会

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泉鏡花「さゝ蟹」20220306読書会テープ

S 「さゝ蟹」は、全集別巻の書誌によると、明治30年5月に「国民の友」に3回にわたって連載された。1897年だと漱石より少し前の作品。これまで読んだ中で一番この小説に近いのは、漱石の「一夜」という作品じゃないかと思う。

 絵に描いてある女の人とか、葛餅がぶるぶる震えて蟻が這っているとか、あの描写がもう全く訳が分からなかったのだけれど、絵に描いた図柄について述べた文章だと思うと少し分かってきた。「さゝ蟹」の読みにくさと似てるような気がする。

H 本当だ。

S 「一夜」が絵を元にした小説だとすると、この小説はどちらかというと映画的な気がする。映画のショットみたいなものが何枚か重なって、10何枚のショットを並べたって感じの小説じゃないか、そうすると少し読めた気がする。

K 10章のそれぞれがワンショット。

S 映画だったらそういうワンシーンワンシーンは基本的に画像が切れてるよね。一枚一枚で切れてて、その間をつなぐのは映画を見る人。それと同じように読まなきゃいけないんじゃないかな、この小説。つまり、書かれてない分からない部分を、足しながら読まないとストーリーが見えてこない。そういう風に書いた小説じゃないかと思う。

H でも納得できますよね。例えば、第2章と3章の間で、男の人達が話しかけてきて、「姉さん何時だね」って言ったセリフの後って、ちょっと時間が飛んでいる。だから読んでる方が付け足して読んでいかなければならないってことですよね。

S 映画のカットとかオーバーラップとかいろんな手法があるけれど、映画の手法のような感じがする。かなり早い。

K 映画は日本で何年にはじまっている?

S  1896年11月、神戸で上演、世界的には1891年。前年に日本初公開された映画を泉鏡花は見たのだろうか?

宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その2 20210508読書会テープ

S  私がこの小説から思い出したのは、ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』。

 日々マイケル・ジャクソンになろうとしている青年がマリリン・モンローのそっくりさんと出会って、島のパーティーへ誘われる。そこはチャップリンやジェームス・ディーンのそっくりさんがいるネバーランドなんだね。尼さんが空から墜落するというエピソードがあったりして不穏な兆候がある。マリリン・モンローの夫はドニ・ラヴァンが演じるチャップリンなんだけれど、現実のモンローが自殺したようにモンローのそっくりさんも自殺してしまい、取り残された青年は、どうやってこれから生きて行こうか思い惑うというお話。

 宇佐美さんの小説は推しの話になっているけれど、実は空っぽの自己を他人のデータで満たそうとする、他人に成り代わる話ではないか。

 マイケルの真似をすることで、生きる意味と自分のアイデンティティを得ている、そうやって生きるのは本当に切ない。この小説の女主人公が推しを推す仕方は、この映画そっくりで、自分はマイケルであり、モンローであるというように、推しを自分として生きようとしている。

 面白いのは、いろいろな推しの言動を収集して、異様に詳しいこと。推しの生態というのは実際こういうことをするのですか?

Y します。切り抜きをしたり、スクショを集めたり、イメージカラーを着たり、缶バッチとか、痛バックとか。

S おはよう、ピロロロロ、今日も頑張ってとか、そういう時計あったらほしいな。

Y 推しにもいろいろな種類があって、この人は、最後になって初めてキーホルダーを買っていて、そういう系統の推しではなかったようだ。

S  声を重ねて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたとあって、私は彼であるということがこの女主人公の推しの特色。自分であることが嫌なんじゃない? 自分じゃない誰かになろうとしている。

Y  だから模範解答という形で、インタビューしたときも、彼が答えることが分かると言っている。

S 予想ができるようになる。つまり、私というコンピュータに上野真幸のデータをすべてぶち込んだから、私は、彼以上に彼が何を言うか予想できてしまう。

Y 自分は自分ではなく、推しのデータで塗り替えられたら良いのにというふうに生きてきた。それがなくなったときに、どう生きていけるかという話をしているわけですね。

I  殴ったというのは、今までの過去のデータからなかったことなんですよね。それが……それがあるから一体化できなくなったんじゃないですか、どうだろう?

K  推しが人を殴ったのは、今まで無理して生きて来たので、我慢できなくなって、それで結局、地が出たのじゃないか。

 この人自身も、高校へ行きたくなかったのに無理して妥協して生きてきて、ここで決定的に自分自身がやりたくないことはしないというのが分かったのではないか。それで、結局、自立の第一歩だと思う、だから明るい。

I  最初は、この女主人公は、真幸君と一体化して、自分そのものとして見てきた。その対象が人を殴るという、今までのデータにはなかったことをやって、それで、自分じゃないということを理解した。真幸君は私じゃないという事を理解して、それで自分を取り戻したといってはあれなんですが……

S 壊そうというところまで追い詰められたけれども、自分を壊せなかった。そこで真幸君との違いが分かった。自分には人を壊せない、自分には人を殴れない、真幸君との違いがそこに出てくる。違いを理解したところまででよいのではないかな。

Y   最初に言ったように、自分ではないものを拠り所にして生きて行こうとして、ずっと彼の追いかけをして、彼をデータ化して、自分を理解しようとしてきた。ある時、彼が人を殴ったことがあって、もう一度彼を愛したい、理解したいと努力したが分からない。そして彼の洗われたシャツまで見て、私とは違うという、ちょっとこう剥がれてきた。自分も狂ってやると思って目についたのは綿棒で、なんだ私ってこんなものだったのかと思った時、部屋全体が眺められた。今までどうして部屋がこんなに汚れるのか自分でも分からなかった。これは自分の過去だということが分かって、そこで何だか笑いが込み上げてきて、綿棒を自分の骨のように拾って、推しの葬式をしたのですね。それで新生していこうとした。

S  膝をついて綿棒を拾うというのは、フォークナーの小説じゃないか。テーブルの下のパン屑を膝をついて拾うという姿勢が重要。この作品では、綿棒を推しの骨のように拾う姿、そういう姿勢ができたというのが希望では。人間が生きるのは這いつくばって生きるということだと、立って生きようというのは望みが高い。

 シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバークオハイオ』の「手」という短編、教員をしていた男がある時子供たちに性的に手を出したと疑われてリンチにあい、顔を殴られて命からがら逃げ出して、名前も変えて、問題になった手の特殊性を隠して生きている。この「手」にまつわる特殊性のテーマと、町の人々の暴力性、それから、牧師のような祈りの姿勢でテーブルの下に落ちたパン屑を拾っている点が、この作品の理解のために非常に参考になる。

 全体を眺められたというのも、今まで部分的にしか見られないできたのが、部屋全体を見回す視界を得たということが希望になる。視界が狭く閉ざされていることで、とても生きにくかったのだから。

Y マルチタスクですね。最後のここに至るために限定された深い視界で書いてきたとすると、ぞわぞわしますね。

S 非常に技巧的に書いている。そしてフォークナーやアンダースンをきっと読んでいるだろうな。

【おわりに】

S  データを集めて彼を理解しようとしてきたのは、いわば中身を真似ようとしてきたということ、そうやってデータを集めれば彼を理解できると考えてきた。ところが、それでは理解できないということが炎上事件が起きて分かってしまった。

 このときに、自我の位置を中身から皮膚へ移動させれば、解決の希望が出てくるのではないか。殴るということがなぜ問題になるかというと、相手と接触するから。接触したということが重要だというのは、中原昌也の小説でも、殴られて顔に拳がめり込んだというような描写がある。中身をデータで満たして理解するのではなく、接触によって他者と関わることができる、それが分かった。つまり、主体の位置が移動したというということを描いたから小説になったのではないか。

 推しの上野真幸もずっと母親に操られてきたが、人を殴ることによってはじめて現実に帰っていくことができた。

 参考になるのはアフォーダンスという概念で、佐々木正人の『アフォーダンス入門』というのが大変分かりやすい。アフォーダンスはコンピュータや発達障害にとって非常に有用な理論になっている。ミミズが土の中で穴を塞ぐのにいろいろな葉っぱを使うという例を引いているのだけれど、発達障害の生きにくさをアフォーダンスで解釈すると、環境と自己の接触面こそが問題解決の場所であり、自己と他者とが混じり合う場所でもあるということがわかる。

 私という主体が宿るのは中身ではなく、私という主体はデータの集積ではないと言うために、推しのデータを集めるあの詳しい描写が必要だった。私という主体は単なるデータの集積ではないというのは、カズオイシグロの新作「クララとお日様」と重なるテーマだけれど、小説としてはこちらの方が面白いと思う。宇佐美さんの推し描写の繊細に対して、イシグロのAI描写が、スペックが低いことを差し引いても、粗いから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇佐美りん「推し、燃ゆ」 その1 20210508読書会テープ

【はじめに】

「推し、燃ゆ」は、2020年秋季号の文藝に発表され、同年9月に河出書房新社から出版、芥川賞受賞。

 章立てはなく、アスタリスクと行開けによって小区切りがある。内容を要約しておく。

1、推しの炎上 2、アルバイト先にて 3、祖母の死 4、まざま座解散、上野真幸引退。

【推しというテーマ】

Y 推しについての印象ですが、推しを神にしたり崇める対象にするのではなく、自分の分身にしていて、自分を読み解きたいから推しを読解している。だから推しを性の対象にもしていない。

S  それは普通の推しとは違っている?

I  推しの種類はいろいろある。成美は繋がりがあり、会える種類、肉体的つながりもありそうに見える。

Y 5ページのあたりに種類があげてある。

k 有象無象のファンでありたいと言っている。

Y  成美さんは、男性として見ていて、互いを性の対象として消費したいと思っているが、この主人公は、自己分身で、だからこそ解散というと、自分自身がいなくなるような喪失感で、それは失恋とは全く違う喪失感。 

 分からない自分に対して、読み解けるものとして、データに上がってくる彼を今後見られなくなるわけだから、自分のことさえも読み解けなくなるから、相当怖かっただろうと思う。

S  それが推しのテーマということね。恋愛対象や性的対象としての推しはもうすでに小説のテーマにはなりえないけれど(陳腐すぎるから)、自己の分身としての推しならば、まだ小説のテーマになるという判断がある。

 だから、この小説は全く性的ではない、セックスがない。

Y そういうのを嫌悪しているような描写がありましたよね。プールの場面とか。

S  あれもセックスに対してよりも、どちらかというと接触とか深さとかであって、男だから女だからといったセクシャルな問題ではないように思う。

Y  他人に対する嫌悪感みたいなものがある。

S それを言いたいがために、全く非セクシャルな書き方をする。このくらいの年でこのくらいの時期の女性だったらセクシャルでないことの方が難しい。

Y 自分の高校の頃を思い出すと、同じように非セクシャルだったから共感できた。二次元を推していた。

S 文学少女は非セクシャルなんだよ。

S  高校に上がったばかりの5月に推しに再会したとある。体育祭の練習を休んで、体内時計の遅れとあるから、普通だったら生理で休んでいるという少女のセックスコンプレックス話だと予想するのだけれど、どうも違うような気がする。

 話題は推しのピーターパンだから、成長拒否問題なのは明らかなのだが、どうもそれとも違うような気がする。

Y  保健室で病名が2つついたとあり、後半にも病気のことが出てくる。

K 父親に、私は普通ではないというところですね。

S つまり、この女主人公は発達障害保健室登校が許されている。そう名乗ってはいないけれど、アルバイト先で手順が狂うとどうしていいか分からなくなるのが発達障害の症状。コンピュータのように手順を書いておいて、それをなぞることはできるのだけれど、手順が狂うと対応できなくなる。

 この女主人公の中心問題は、発達障害(と呼ばれている症状)による不適応で、成長拒否やセックス拒否ではない。

 高校までは頑張って入ったが中退する。この高校の時期に特有の発達障害・不適応の乗り越え方がテーマではないか。

I  性的なところとは別次元の話。思春期の話だと思って読んでいたが、それとは違っているということですね。

S いわば作者自身が私は普通ではないと言っている、並の思春期の話を書いているのではないと言っている。『コンビニ人間』の作家と共通する。

I  宇佐美さんの小説の方が共感できる。優しい気持ちになる。今村夏子の『あみ子』も同じ圏内にある小説。

【表紙について】

S 表紙の絵はどういう意味だろう? 糸はどういう意味?

K  ピーターパンが飛ぶ時の糸を自分に直したのでは。

Y  右と左、2020、イヤホン。

S  白い丸は何? 泡? 

K  ピーターパンになる銀色の粉?

S  色が変わっているから、水の中にいて、右足だけ水面に出ている。溺れかけているということか。

I そうですね。そんな感じに見える。

Y がんじがらめになっている。同時に、糸で辛うじて地上に持ち上げていてくれる。

S 糸を操っている主は誰?

Y 多分母親。無責任、一緒に病院にも行かないし、一人暮らしさせてしまうし。

S  無理解な母親。

K 母親は分かってやっているのだろうか、さぼっているといい、散々言ってるでしょうとも言っていて、彼女を理解していない。

S  病院に行って診断されても、母親は認めたくないのだろう。

Y 恐怖支配のお母さん。

S  お姉さんは優秀で、安冨歩みたいな存在。京大入って東大に行って、母親の期待に応えてしまう。妹の女主人公に対しては無理解で、娘を糸でがんじがらめにして支配している。

Y 一人暮らしさせるのって相当です。ニーズに答えていない。放棄です。

S  お母さんは逆に祖母から支配されていて、私を置いて外国へ行くのかと脅されている。母親は自分にしてほしかったことを娘にしている。

K  母親は自立したかったし、娘に対しては、一人にすればできるようになると思ったのでは。

S  三代にわたる女性の支配の物語。

【普遍性】

Y すれちがっているのは、すり合わせしかないのですが。

K すれ違っていないというのも幻想でしかないのでは。

Y すれ違っているのを見るのは悲しい。諦めるより前に擦り合わせれば、致命的なすれ違いにはならないのでは。

S  定型発達から見るとそう思うのだけど、非定型から見ると、それはまるで頓珍漢ということでは。

K  誰もが発達障害の一段階にあると言われている。程度の問題だと。

I あみ子も人との繋がりに問題を抱えていて、近いものがある。

S  何かと問題があるが、もしかしたら自分もやってしまうかもという共感で読める。私たちがこの女主人公に共感を持てる、つまりこの小説が普遍性を持っているというのは、どういう仕掛け、どういう秘密があるのか? 

 具体的な本文から見て考えると、どんな描写が気になった?

I  ブログとかファン同士の関わりを見ていると、わりと普通にまともに語っていて、学校でのうまく行っていないのに対して、受け入れられる共感できる普通の言い方ができている。

Y 文章力はかなり。

K  文章を書けない人なんてたくさんいるわけだから。

S  かなり文章力のあるブログを書いている。劣等生とはとても思えない。計算ができない、漢字が覚えられないとか言っている割には文章は非常に立派。

Y 文章によって人の心を集める能力は高い。ブログにもたくさん読者さんがいる。

Y 言い方がかなりポエムで、描写が丁寧で、主観的に感性に響いたものに対する言語感覚が詩人というか、ロマンチックと言えばいいのか...

K プールの水に肉が溶け込んでいるとか。

I  お姉さんが車の外を見ているところとか、この子の視線ですよね。
S 自分が注目したところにだけ描写が詳しい。自分の視線が向いたところにはものすごく詳しくて、人が気が付かないようなことまで気がついてしまう。

 だから、推しのブログで、みんなが見ていないものを見て報告するから人気がある。推しの右の口角が上がっているというような報告。これを武器にして渡って行こうというのがある。

Y 泣く時に肉体に負けたくないというのが新鮮でした。

S  そういうのを含めて肉体・身体に対する注目度が高いと思う。

K  海水が体の中で燃えているというような。

S  特に、身体の中でも、皮膚に関する描写が多い。

K  境界部分ですか?

S 主体はどこにあるかという問題で、主体は心臓にあるか、頭にあるかというのは漱石の問題だったけれど、主体は皮膚にあるという第三の説がある。ちょうどこの小説は皮膚に自我があるという書き方をしているのではないか。Kさんが引いてくれたプールの水や海水の描写が皮膚を意識させる。

K 自分にはない感覚だから気になりました。

S  普通、主体は心臓とか頭にあると思われてきた。ここにきて、主体は皮膚に宿るという小説が誕生した。

Y 親指の描写があって、親指から世界が広がるという描写が気になりました。

S 何で親指なんだ?

Y 携帯で、お気に入りやリツリートは、親指でつける。だから、打った人に対する思いを発信する方法なんです。だから炎上していくときに、言葉の海に埋もれていく、飲み込まれていく感覚というのがよく分かる。

S  そうか、携帯の時代に、感情を表現するのは親指の先端であるということ。目はものを言うんじゃなくて、親指はものを言う。

 つまり、ある年代の人たちは決して親指で文章を書くことはないし、親指でいいねをつけることはない。しかし、ある年代以降は、親指ですべての感情を表現することができる。感情の場所、自我の位置が移動してしまった、それを記録した小説。

Y  携帯の画面と親指の目によって世界と繋がっている。生身の身体がそこにあって初めてというより、親指の感覚さえあればと。

S  私は親指であると言っている。これが自分たちのやり方だと宣言している小説なんだと思う。

I 背骨の描写も多いので、言葉の脊柱というような意味だと思ったのですが、もっと身体そのものの意味になっている。

Y  立っていられなくなるということでしょうか。

K  二足歩行は向いていないと言っている。

I  テレワークをしているとパソコンを持って移動して丸まっている。

S 山田詠美は最近の上野駅の小説を全部親指で書いたという。

 ずーと携帯を握りしめているわけでしょ、つまり、お前は携帯の一部であると。

K ノートと鉛筆だと、決してノートの一部にはならない。

S  主人としてノートに君臨している。そういう、主体の位置の逆転がある。

S  親指で書いて、携帯の一部として存在する。一人一人の独立した個人の存在が重要なのではなく、接触している、その接触面としての皮膚こそが自分の在処である、親指の先端とか。そういう自我のあり方を書いたことがこの小説の最も重要な点なんじゃないか。だから、純文学の王道である芥川賞が取れる。

Y 触れるとか、接触するというのが文学の永遠のテーマなんですね。ずーと、何かしらの作品を読んでいても境界線とか、触れるとか、融合するというのが絶対出てくる。

S それはちょっと逆で、主体こそ近代文学の重大テーマで、その主体の位置が皮膚に移動したということを書いたから、この人は純文学の王道の芥川賞になる。それが明らかに皮膚へ移動したということを書いたから新しい。

 だから、これを読むと、今までの小説もそういえばみな皮膚について書いていたよなと、今までの在り方を塗り変えてしまう。今までは、私の心はたしかに頭あるいは心臓にあったはずなんだ。

【本題】

Y 町田康が言うには、今を生きるすべての人にとって、いびつで切実な自尊心の保ち方を描いた物語と書いている。

S 自尊心はどのように保たれるのか? まざま座が解散して女主人公は死にかける。そこからどうやって回復できたのか、どうして回復できたのか?
Y  私は、推しが洗濯物を出す普通の人だということが分かったからだと思う。シャツを見て、目が覚めた。

S 洗濯物というわけだから、皮膚に接触する一番近いものだね。問いは、どうやったらこの人が推しなしで生きていけるか?

Y 最後は絶望的だが、光が見えた感じがする。流れ的に、なんかいい方向に向かっているぽい感じはする。

S 三島由紀夫の『金閣寺』の最後で煙草を吸って、さあ生きようと思ったと書いてあるが、どうしてそう思うか全然分からない。

K  ここで自分にとって一区切りついたということではないですか。

S  一区切りついたら、次を生きていけるのか? 三島の場合は、ただ単に戦争が終わったから死なないで済んだだけで。さあ気分を変えて戦後を生きようってことか?

I  肉の話が怒涛のように出てくる。婆ちゃんの肉と、自分の肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思ったとある。

S  これも特殊なレンズを通しているので、書いてあることは読めるのだけれど、何を意味しているかは分からない。

Y 綿棒を投げるのを意識的に選んでいる。

K 意図的に片付けが楽な綿棒を選んでいる。

S 普通だと自傷する。死のうと思ったがなぜ死ねない、なぜ死ななかったか? どうしたら生き延びられるか?

Y なぜ推しが人を殴ったか、そのことと自分が繋がっていると書いてある。推しとの繋がりをまだ持っていて、キッパリ推しなしで生きて行こうとしているのではないようだ。

S そこをもう少しきちんと述べるとどうなる?

Y  他人の衝動が完全に自分に融合したということ? 今までなぜ彼を見ていたかというと、彼がする行動が私の何かを掻き立てるので、それで彼を知りたいと思っていたのですよね?

S それでは各自このテーマについて一分スピーチ。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富岡多恵子 「立切れ」 20210424読書会テープ

【はじめに】

 「立切れ」は、1977年の第4回川端康成文学賞を受賞した作品。同年刊行の自選短篇集『当世凡人伝』に収録された。

 落語の「立切れ」を下敷きにしているので、その内容を略述しておく。芸者の小糸と恋仲になって商売を顧みない商家の若旦那が、親戚一同から蔵に100日閉じ込められる。小糸はその間ずっと手紙を書いているが若旦那には届かない。100日目若旦那は小糸のもとへ急いだがすでに小糸は亡くなっていた。仏前で手を合わせていると、三味線が主もいないのに曲を響かせる。小糸の霊が鳴らしていると思い、若旦那は妻というものを持たないと誓う。そこで三味線の音がぷっつり途絶えると、「立切れ」を告げられる。線香によって時間を切って遊ぶのが郭のしきたりであった。

 立切れの主人公は72、3の菊蔵という落語家、芸人。菊蔵には糸、蝶子、琴という女性がいたが、籍も入れず、墓もない。糸とは10年近く一緒にいて別れ、蝶子とは3年ほど一緒にいて最近亡くなったという、琴とは今のアパートに移って20年余で死別。菊蔵は物好きな学生の勧めで風呂を借りた月一回の落語を1年ほど続けていたが、今回で最後という日、「立切れ」をすることにした。75、6になる糸が訪ねて来て、三味線をつけた。菊蔵は不機嫌なまま学生たちも帰し、糸の一緒に暮らさないかという誘いも断って、また子供が落ちないかなと思いながらドブ川の脇を歩いて行く。

【ロマネスクとリアリズム】

H 落語の立切れとの違いは、妻は小糸ただ一人という落語と、3人の妻を持つというところが違う。しかし、女性がたくさん居るということはどういう意味なんだろう、何で子供がドブ川に落ちるのを待っているのか、分からない。

S 「立切れ」のオチが分からないということですね? 公立の老人センターの人たちがよく笑うというところ、笑うために笑う、内容がよく分からなくても笑う、という読み方になってしまう。

 糸おまえだけが妻だというところ、糸の死後どうなるかというと、八方丸く収まって若旦那はいいところから妻を迎えて商家の大旦那になるのでしょう。

K と思います。

S そういうロマネスクな恋愛とリアリズムの対比という落語だと思う。

H たぶんバージョンがたくさんあるんですよね、僕が聞いている落語はけっこう本気なんです、若旦那が。

S 本気ね。

H  蔵に閉じ込められて、手紙が大量に届いて、わりと本気のきれいな話になっている。

S だから、みんなオチが分からないとこの短篇の本文でも言っている。

K だから、三味線が法要の途中で切れる。

S 線香のさげの分からないやつがいると言っている。ロマンチックな学生は、昔は優雅に遊ぶところがあっていいですよねと、結局よく分かっていない。リアリストの学生は、線香が燃え尽きるのは一本どのくらいでしょうかと言っている。今だって売春は時間いくら、延長はいくらということになっている。それと同じ。

H きれいな話だと思っていると線香が途切れて終わりですということが分からない。学生には分からないが、菊蔵はそれを理解してやっているということですか。

K だから学生は毛唐と同じだと言っている。学生には分からない。

S そういうのにちゃんと騙されるんだ。すべての江戸時代の遊郭ものは、ロマンチックの裏にリアリズムがちゃんとある。

H 線香が途切れる前に、三味線の音が途切れる。何で途切れるかというと・・・

S  時間切れ、金を出せということ。

H ということは、落語は純愛で、小説は二人も三人も妻を持って、全然違うと思ったけれど、よく考えると、菊蔵は一人目、二人目と、次々線香が立ち切れになっていくという話ですね。落語と違わないということか。

S 落語と同じようにロマネスク対リアリズムの軸がある。では、こういう対比は、本文にどんな例がある?

 たとえば年忌はどうか。糸は琴の三回忌と言っているが菊蔵にはその気がない。年忌は、ずーと思い出して忘れないロマンチック・ラブの習慣。

H そうすると、もう一回暮らそうという糸はロマネスクで、断る菊蔵はリアリスト。

S 菊蔵は何と言っているかというと「めんどくさい」と言っている。

H 立ち切れた相手ともう一度なんていうのはめんどくさい。

S お墓はどうでしょう?

K 永代供養の墓を作るというところ。

I 最後の方で、琴の妹が来て永代供養に出すので金を出せと。

S 菊蔵は今度は「金がない」と言って断っている。故人を思い出すためのよすがになるのが墓。墓があればみんなが思い出すというロマネスクな生き方。

 菊蔵は、骨はこのアパートの部屋に置いておけばいいと。菊蔵の死後、誰かの骨が見つかって、どうしようということになって、孤独死の現場になる。これがリアリストの死に方。

H なるほどなあ。だからそうか、恋愛も立ち消えなら、生きることも立ち消え。どうしても深沢七郎を思い出す。菊蔵が琴の妹と話しているところで、その妹も70過ぎで遠からず骨になるという書き方、全員の顔が白骨に見えた「無妙記」という作品がある。

S 骨に見えるというところまでは同じだけれど、その骨を墓として思い出して弔うというように物語化する。これがロマネスク。富岡さんという人は、こういうロマネスクを徹底的に否定して、リアリストとして死ぬとはどういうことかを書いている。「なんとなく」と書いていないか。

 たいした理由もなく、動機がないという生き方、なんとなくそうする。菊蔵の生き方はこの「なんとなく」に集約されている。

K 努力なんかしたことがない、精進しないというところ。

S 努力して、一流の芸を磨いて、精進して、達成する、芸人として完成するという生き方、これがロマネスクな生き方。

K 一流には絶対になれない芸だと自分で言っている。ニンにないと、はじめから居直っている。

S 一流の芸人を目指して精進努力するのがロマネスク、それに対して、なんとなくやってきただけよというのが菊蔵。

H ふつう小説になるなら、芸人として努力して最後に立切れをやって終わるみたいなストーリーになる。なんとなく噺家やって、なんとなく立切れていく命を書くというのは面白い。

S 小説のプロットにいわば反する小説の書き方をしている。 

 つまり、完成したり、成長したり、努力したりするロマネスクではない人生を書くのが富岡さん。

K それを凡人と言っている。この凡人伝の凡人。

S 一流の秀でた素晴らしい芸人になるというのじゃないという意味での凡人。こういうことが私たちにはもうすでに分からなくなっている。当然努力すべきと思っている。

H それはもうロマネスクな考えに侵されている。

K 近代。

S 努力して頑張らないと、ただ単に落ちこぼれてしまうからというだけのこと、動機が不純である。

H おもしろいなあ。

S 富岡さんというのは、ある時代に、そういうことをきちんと書いておいてくれた小説家だった。落語というのは、ほとんど例外的に、そういうシニカルなリアリズムがちゃんとあった。

【ドブ川】

S 次にドブ川問題をしましょうか。

 ドブ川に子供が落ちて死ぬ。子供が自動車で運ばれていったあと、人々がいろいろ話しているシーンがある。このドブ川は、人工的に作られた排水溝で、洗濯や洗い物の排水が流れるドブ川であって、自然河川ではない。

 3つか4つの子供が落ちて引き上げられるのを菊蔵が見ている。近所の人の会話がいくつか、ガスの元栓、生活保護、年取った男の人の一人暮らしはお気の毒ね。ところが、そこで菊蔵が見ているのは子供の若い母親で、下ぶくれで首が長く、昔知っていた女の面影がある、これはロマネスクね。つまり、死んだ子供はどうでもよくて、その母親の中に若くて色っぽい昔の女の似姿を眺めている。これもひどいよね。

I ここの会話も、何で急にこんな会話がはじまるんだろうと思います。子供が死んでいる横で、どうしてこういう会話がはじまるのかなと。

S リアルな生活、それはまあいいんだけれど、それが菊蔵さんにとってちょっと面白いことだと言っている。菊蔵が比較的機嫌がいいのは、一人で子供が引き上げられるのを見ているときとか、500円でおつりを余計にもらったときとかとある。そうして最後に、また子供が落ちて死んでないかなとあって、これアンモラルですね。

H 日常生活が淡々と続いているなかで、事件ちょっとしたお祭りのような捉え方。

I  まったく共感は出来ない。 

S  じゃあ、おつりが余計だったら?

I K あとから気になるから神様が見ている感覚があって返します。レジやったことあるから。

S 足早にその場を離れるとあるから、菊蔵もまた悪いという気持ちはもっている。

H リアルに子供が死んでいないかというのはないけれど、子供が悲惨なめに遇う話や物語は結構多くて、そういうのは人気があったりして、小説や物語だと悲惨な話を見たいと思っている人は多いんじゃないか。

S 最近の例だと、子供が行方不明というのはとても気になるし、はっとする。スーパーボランティアが一日で子供を発見したとか、子供が死んだり、発見されたりすることにはニュース・バリューがある。老人が死んでもニュースにならない?

K それは当たり前だから。

S つまり、そういうことを言っているんじゃない?

H 老人の死はリアルだが、子供の死はロマネスク。

S そうじゃなくて、老人の死はニュース・バリューがないけれど、子供の死はニュース・バリューがある、その比較の上に成り立っているのがロマネスクじゃない? つまり老人の死より子供の死の方がニュースバリューがある。

 一流の芸人の方が、三流の芸人より価値がある、それと同じでしょう? それ当然だと私たちは思ってしまう。それでいいの? コロナだったら、子供よりも老人が死んだ方がまだ救われる。どちらかが死ななければならないとしたら、トリアージというんだっけ、老人の方に死んでもらうと思っているでしょう?

K 年齢制限がやって来ます、数が足りなくなれば。

S 老人本人でさえそう思っている。それがロマネスク。価値があると思っていることがロマネスク。仏様の目から見たら、老人が死のうが子供が死のうが、死ぬのはみんな同じことという虚無性(暴力性)がある。

S いかがでしょう。また子供が落ちて死んでいないかなということは、子供ではなく自分が落ちて死ぬということを考えていると言っていいのではないか。

H どういうことでしょう?

S つまり、子供が落ちて死ぬと、みんな集まってきて声をかけてくれたりする。普段口も聞かない人々が、子供が死んだということだけで、みんなはしゃいでいる。はしゃいでるんだよ、これ。

 子供が死ぬと、ニュースだ、ニュースだと言って、大騒ぎする。じゃあ老人が死んだらどうなるだろう? そうすると、たぶん若い女の人が、一人暮らしであんなになっちゃおしまいよねとか、酒飲んで足滑らして死んだんだってさとか、どうせあることないこと、ろくなことは言わない。つまり、いつか自分もここで足を滑らしてドブネズミのように死ねばいいんだよなということにならない? 

H それを聞くと最後の一行が怖くないですか。ドブ川にはところどころコンクリートの小さな橋がかかっている。

K 子供は頭が重いから、ここから落ちた。

S ここを渡るときに老人の自分も転んで落ちる。

 同じように、子供が落ちて死んでないかな。それがリアリズム、めんどくさくて、金がなくて、なんとなく生きている凡人の死に方だと菊蔵は納得している。その納得ができるかできないか、さげが分かるか分からないかということ。

H めちゃこの話面白い。

S この感覚が私たちにはもう分からなくなっている。人権こそみんな分かって居るが、死ぬときは三歳で死のうが老人が死のうが同じということはもう誰も分からない。

【死体が燃える音】

H 川端康成は死の方から末期の目で書いたと言われているが、川端の方がロマネスクで、富岡多恵子はリアリスト。

S 何で菊蔵はこれほど不機嫌であるか。風呂屋の会が終わったあと、学生たちも菊蔵のあまりの不機嫌に帰っていった。噺をしているときにも菊蔵は内心できわめて不機嫌だったとある。

H 機嫌がいいのは、珍しいことがあったとき、子供が落ちたとか500円札でおつりが余計に戻ってきたとき。

K 噺をするとき自分だけが選ばれて注目されて、それでもやっぱり不機嫌。

S 逆に、そうやって一流の芸人のように注目されること、そのことが不機嫌。

I  そうですね、インタビューされているときにもひどく怒っていた。

S あのときも、一流の芸術家のような書き方をされて、非常に不愉快になったとある。菊蔵は一流の芸人として扱われることが不機嫌だった。

H ロマネスクに巻き込まれるのが嫌だった。

I 学生が勉強になりましたと言って、何の勉強になったのだろうと。自分にそんな価値はない、そんなつもりじゃないと。

S 誰かが価値判断をして、こっちよりこっちの方が価値があるという評価がいやなんだね。評価するということは、どちらが価値があるかという判断をする。それをまったく認めない。

 公立の老人センターの人たちがどういう芸人が出てもよく笑うとあり、その笑い声が子供のときに聞いた、死体が燃えるときの音に似ているとある。これは戦争の記憶? あるいは原爆の記憶? 次の「笑い男」も場所は広島ではないかと思う。菊蔵は戦争に行っているが、子供の頃だと戦争とは関わらない。何も書いていないから分からない。

K 昔だったら火葬場で死体が燃える音が聞こえる。

H この一行で、この小説がカバーしている範囲が一挙に広がる。いろいろな死がカバーされる。

S そうだね、一種抽象的・代表的な死体の記憶なのかもしれない。皆さんがそれぞれ思い出して下さいということか。

【おわりに】

H 「立切れ」で行こうというとき洒落と言っているのが気になる。深沢七郎に洒落がよく出てくる。若い者が洒落言葉で語るとか、おりんばあさんも歌の調子に合わせた台詞なら答える。ここで洒落て「立切れ」だというのは、風呂屋も立切れだから出し物も立切れだというのはロマネスクだと思うのですが、ただ洒落て決めるというのが菊蔵には合っている。

S 風呂屋の会がなくなるとき、菊蔵は不思議に明るい気持ちになったとある。「立切れ」にはいろいろ意味があって、風呂屋が立ち消えていき、噺の会が立ち消える、命が立ち消えると言う3通りの意味があるように思う。

 菊蔵はもう何の楽しみもなくて、自分の命が立ち消えになることだけを考えている。何の達成も完成もなしに、年をとったらドブ川に落ちて死ぬ、何の理由もなく立ち消えるというのが、リアリストの望ましい死であるということではないか。不思議に明るい気持ちになり、浮いた気持ちになるという、これは人生の終わり方の問題ではないか。

H 風呂屋がなくなるだけでなく、自分も立ち消えるという重なりがある。

S 洒落の反対は真面目だと思うのだけれど、真面目は、目的があって達成があって完成があって努力と精進をするというのだとすると、洒落で死ぬというのがその対極にある。洒落のように立ち消えるのがよいと言っている。

H 洒落にはその場限りというような、思いつきとか、という意味がある。

S 偶然性という問題だね。私たちは必然の人生に飼い慣らされているから、それ以外を思い浮かべられなくなっている。