清風読書会

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今村夏子「的になった七未」 2020年1月「文学界」 20210327読書会テープ

 【はじめに】

S いくつか気になる点を挙げておく。

 第一話と対になっている。違うバージョンの同じ話だとすると、違いはどこにあるか?

 名前が少し気になる。七未がななちゃんという愛称になるということ。七未の七を取って、七男という名を子供に付けるが、父親は絶対自分の名を取らせなかった。それから、たくやとともやのような紛らわしい似た名前がある。

 それから、七未が当たりたいと思って行動すると、犯罪者を生んでしまうことが気になる。校長先生は警察へ連れて行かれ、ぬの太郎は警備員に羽交い締めにされて警察のサイレンが鳴っている。女の先生は骨折して入院し、そのまま帰って来られない。

【運命の女】

S  七未が逃げると、犯罪者が生じてしまう、犯罪者を作ってしまう。病院の先生も七未に出会わなかったら、院長の娘と結婚していたのだから、そのまま院長先生になっていただろう。七未に会ったばかりに人生が狂った。呼び覚まされて幼児売春に走る。七未は、そのための触媒のような役割を果たしてしまう。本人は疵一つ受けない。

Y  運命の女のような? 

S 七未は何もしていない、ただ逃げただけ。

K 逃げても逃げなくても当たらない。

Y 加虐心をあおってしまう。そして、本人は、バリアーのような、宗教的な、はじいてしまう力をもつ。

K 道路に飛び出しても七未は傷つかず、車の方が事故る。

S 逃げても逃げなくても同じことになるというのは、七未の自分の意志ではないところで起こっている。これはどういうことだろう?

K 当たれば向う側の人たちに入れてもらえると考えている。

S  ドッチボールまでは当たりたい。それから消しゴムを自分にぶつけることで変わる。自傷になる。そして病院にはいり、先生と恋仲となる。

Y 人との関係で、自分の行動も人に届かない。攻撃を受けるかどうかと考えるといじめの話になるけれど、人との関わりから閉ざされていると考えると、

S 前半のここまでが第一話と共通している。このあとが第一話との違いになる。恋仲になれば七未の問題は解消するのだろうか? 恋仲になって結婚することによって、当たりたいという欲求の代わりになるだろうか?

 第一話だと割り箸になってから青年と恋仲になって、心中する話になっていた。だから恋仲になるまでは第一話と第二話は重なっている。

Y 子供が出来たことが二つの話の違いになる。

S  ここに面白い表現があり、世界のなかであなたのためだけの運動靴。これが当たりということになる。

K シンデレラの靴。

Y 七男を手離すのも、その人がぴったりの運動靴を持ってきたから。

S このあと七男との関係がよくわからない。七男を引き取ろうとしていたのか、米田さんも、七未の意志が分からず、子供には興味がないと思って、七男の養子の話を出したりする。

K そのときにはじめて子供の幸せを考えたとある。

S 七未は施設から出て就職訓練をへてアパートに入り、1日でお弁当屋の就職はだめになり、路上に出て、昼間は図書館に居る。つまり結婚は何の解決ももたらさなかった。自傷が再開する。

【図書館にて】

S ここに登場する図書館の青年がよく分からない。後の図書館の人の説明では、常連さんの一人たくや君が七未に声をかけてくれた人だろう。七未には青年に見えているけれど、図書館の人の説明では少年のようにも見えるのだけれど、この年齢の差異はどうなっているの?

K 願いは叶えられる、待っていればいいと予言する。たくやは20歳前後の青年だと思っていたけれど?

Y 年齢はよく分からないみたいです。

K 多分青年だと思う。

S 七未には青年に見えていたけれど、図書館の人たちが言っているのは、母親に付き添われた少年というふうに説明していると読んだけれど? 「あの子」と言っている。

K 図書館の職員は、20才ぐらいでも「あの子」と言うのでは。若いからではなく精神病だから母親が付き添っていると思いましたけれど?

S そのあと、一人で熱帯魚の図鑑を見ているのも少年のように見える。(p.104)

K この親子はたくや君とは別の人だと思っていました。

S  別の親子を見ても、七未はそれをたくや君だと認識している。だから、七未は、何かここ目前にあるものとは違うものを誤認して見ている。

Y たくやくん自体もいない。子供たち群像全員がたくや君に見えている。

S それを、七男と呼ばずに、たくや君と呼んでいくのも非常に面白い。図書館の人たちがそれはたくや君だと言った、そこから七未もたくや君だと認識していく。七男ではなくたくやへ移っているところ。

 それから、コーヒーをくれたコンビニの青年は七男でもなく、たくやでもなく、ともやと言っていた。

 七未は、七男という名前を表立って使えないのではないかな。七男に会いたいと言えなくて、ニアミスのたくやとかともやという名前を、七男というかわりに呼んでいる。

Y  切ない。

S つまり、七未が幻想の中で見ているのは成人しているだろう七男の青年の姿、図書館で現前に見えているのは子供たちで、これは七男と分かれた時の7才の姿をしている。

【公園にて】

S 図書館の次は公園の話になる。七未はもう以前とは姿が変わっていて、七男に分かるように動物ビスケットを印にしようと考える。祭りの射的の景品に動物ビスケットがあるので、それを盗もうとする。

S 七未が七男に触れようとするとコラとおじさんから声がかかる。これも分からない。

Y おじさんから見ると動物ビスケットを盗もうとしているようにしか見えない。魔法がかかっている。

S 七未が動物ビスケットに変身した?

K 七未は動物ビスケットではなく、七未という的に変身した。それは七男にだけしか分からない。おじさんには人ではなく景品の的に見える。

Y なるほど。ほんとうは人なんだけれど、的に変身した。箸に変身する第一話と共鳴させるとすれば、七未の変身をここで考えなくてはならない。

追記  S 表題の「的になった七未」を参考にすると、的になったと考えてよいと思うけれど、じゃあ的になったというのはどういうことなのか? 具体的に的が何に見えているのか、誰にとっての的か、的ということをもっと本文にそくして考えなければならない。

 七未には動物ビスケットが七男に見えたということか。つまり七男が動物ビスケットに変身した。七未が七男に手を触れようとして、おじさんに怒鳴られた。そのあと、動物ビスケットは、パパと少女の客によって取られてしまう。

S それから、お母さんという声が聞こえて七男青年があらわれる。ジーパンをはいて腕時計をしている青年の姿で。彼がが七未の肩を射的で打って七未が倒れる。

K 倒れると人に戻って、血を流した人だから他のお客が来なくなった。

Y おっちゃんにとって倒れたのはただの汚い賞品にしか見えていなかった。最低な言い方になるけれど、野良猫とか野良犬がその場で死んでいたら人が来ないから、商売にならないから捨てに行った。人ではない、ただの的、人権も個別性もない。

K 足をひっぱって動かすような人の大きさはある。

S 一等賞の純金製の招き猫が落ちて七未に当たったとあって、つまり七男は純金製の招き猫に射的のコルク玉を当てたということでは。

Y そうすると、七未はただの障害物で、的ではない?

S 射的屋のおじさんが車から乗れと七未に合図する、あれもよく分からない。

Y あのとき七未が猫にでも変身していたら分かる。第三話とかかわらせれば猫に変身していた。

S  猫に変身していたとすればよく分かる。当たったのは純金製の招き猫で、その猫に七未は変身していたことになる。その純金製の一等賞の的である猫に七未は変身したかった。

Y  誰にとって何だったかというのがとても重要だと思う。七未にとって、男の子はたくやか七男。おっちゃんにとって、見えているのは、景品か客。七男にとっては、当てなければならないものは、景品とお母さん。それが的ということになる。

S 七未は七男の射的に当たって、当たりたいという願いは成就したと考えてよいのだろうか?

【七未の幸福】

Y 七未はこれで幸せだったのかな?

S たくや君が心配して顔を覗き込んでにっこり笑ってくれたから、それが幸せ。

Y たくや君は向こう側で待っている人々の1人でしかないんじゃないか。人に当たられて選んでもらってなんぼの世界になっている。あまりに人に依存していて、そういう世界は気持ち悪い。

S  みんなの承認と、たった一人の承認という方法があるとして、その両方が否定されているというのがこの小説じゃないかな。たった一人の自分の子供である七男も役に立たなかった。七男に当ててもらっても、七未は七未になることはできず、ゴミにように猫の死骸のように死ぬ。この恐ろしさをどうしたらよいのか?

Y 希望がない。

S 七男とはすれ違っている、母と子というのが成り立たない。もう一度、天上に行って、みんなの承認に戻っていく、これ、向こう側の世界に行かないと承認されないのだから、全然承認は成就されていない。

K 安全で安心な場所は向こう側にしかない。第一話でも、亜沙ちゃんにとって心中が成り立っていたのであって、ハンガーになった誰々や、お布団になった誰々やにとっても心中が成り立ち、みんなと一緒に向こう側へ行ってしまった。集団で向こう側へ行っている。

S  曲がりなりにも亜沙は心中が成り立っているが、それに対して、七未はみんなとも七男ともすれ違ってしまう。たくや君だけはついてまわってくる。たくや君だけが小説が作りだす希望ということになるのではないか。

K 彼は気にかけてくれる人、何もしない、見ているだけ、声をかけるだけ。

Y 救いはない。助けろ、助けろ。

S ほんとにかすかに、たくや君の面影だけが七未に最後までつき従っている。図書館で唯一会えます待っていればいいと話しかけてくれたのはこのたくや君だけ。

K  この人の暗示にひっかかって、待っている。これが神。

Y  宗教的。お告げ的。何が大丈夫だよ、思いさえあればというのは最終兵器、根性論、全く宗教的。

S その予言に引き寄せられて七男に会えた、実現した。それ以上のことは何もしないでよい。

K 七男は、当ててすっと去っていく。何かすれば余計悪くなる。何もしないでよい。関わってはいけない。

Y 可哀想。

S 会えたということだけがこの世の幸せ。

K 会えて、子供は大きく育っていて、まともに育っていて、優しい子になっていて、順番を待っていてくれる、それで大成功。

Y  生みの親である自分が関わっては不幸になるという思い込みはかなり危険。人と自分が関わったら誰かを不幸にするという論調は、人のことを殺す。

K 七未としては正しい判断。ここまで来てしまえばそれしかない。

Y 人と自分が関わることによって、自分がいたせいで、この人はこういう運命になった、自分のせいでこうなった、と言い続けている、物語で。それって結局そいつが自分...

K 言い続けているのとは違う。それは自意識過剰もいいとこ。

Y  七未の人生で、色々な人が自分が関わったことによって、こうなったという例を、物語の中で羅列している。関わった人が自分のせいですべてこうなったので、私はひっそりと死んで向こう側で幸せになりますというのは洗脳めいている。人と人とが関わって誰かに影響を及ぼす...

K  でもそれは七未が意図したことではない。たまたまそうなっただけで、この人のせいではない。だから人の運命を狂わせたというのは成り立たない。ただ子供に関してははっきりしている、養子にやったほうがましという判断をした。

S  Yさんが言いたかったのは、自分に関わったら人は不幸になるというのは、ある種の宗教家が使うやり口。

Y   人のことを黙らせたり、自分は無力だから私に従いなさいみたいな、ペテン師の口上に過ぎない。

K すべての宗教はそう。

Y この物語の進め方が気に食わないのは、あなたが行動するとすべてが悪い方へ行く、どんどん希望がなくなって、あなたは死なないと成仏できません幸せになりません、よろしくみたいな、これを物語にして売ってしまうと、どんだけ悪影響が出るのか気持ち悪いなあというのが感想。

S  たとえばお祭りの的屋のおじさんはペテン師の口上を使っている。的屋のおじさんはそれで生きている。ペテン師の口上に乗っかるかたちで話を進めているところがある。だからここはていねいに慎重に読まないと、的屋の口上、洗脳のやり口に乗っかっただけなのかということになる。(そういえば、七未は的屋のトラックに乗らなかった。「星の子」は洗脳の物語だった。)

Y そうなんです、作者が演出として意図的にやったのなら、かなりの警鐘になると思う。

S  ペテン師の口上、洗脳のやり口というのを言えたところまでで、この小説の半分は読めたと思う。その先をもう少し読みたい。

【洗脳の先へ】

S 最初の方にあった、窓辺に色紙がパッと反転して、ななちゃんがんばれというのが出ると、私たちはもう逃れられない。あれも一種の集団的な洗脳で、ああいう幟みたいなのが出てしまうと、もうやるしかないという洗脳。私たちはそういう洗脳に大きく依存している。

 そういう洗脳から、どうやったら逃れられるのか? たとえばたくや君の幻想がその希望ではないのか。たくやの幻想が根強い洗脳から逃れる手がかりだということにならないか。

K たくや君は余計なことはしない神。

Y 天使的な役割? パトラッシュの最後になって迎えにくる神。鏡の中の自分の姿?

S これほどひどく、これほど痛めつけられていても、たくや君は純良な極上の存在。この極上の存在を考え出すこと自体が、洗脳のやり口から逃れる一つの方法になるんじゃないか。

Y 七未にとっての正しさの具現化。いてもいなくてもいいよ、という。

S  もはやいてもいなくても同じなんだけれども、洗脳の嵐の中で、極上のたくや君を思い浮かべることが、かろうじてできる最良のことだということにならないか?

Y  そうですね、最も効果的な抵抗であり、自分の中で正義をもう一度立て直す支えになる。

S ともや君だってものすごく優しい。コーヒー一本でさえ私たちはもうすでに差し出すことが出来ない。

K 図書館にはもう入れないです。

S ぬの太郎って広島太郎と似ていない? まだいるのだろうか。今村さんは中国地方出身だから知っているかも。

S 洗脳的な中で、ああやって囃し立てられたら洗脳される側にいるしかないというのが身に染みている。

Y 頑張れ、走れ、いい成績を取れと言い続けられている。私たちも同じことをされている。

K  いつでも多数派にいるから。

S それから外れた人間がたどる道をていねいに教えてくれているから怖い。

Y 誰からのコンタクトもなければ、承認もなく、自分の中の正しさを抱いて死んでいく。それが成仏。

K  正しいということではない。どうして正しくなければいけないのですか?

Y  自分がほんとうはこんなふうに扱って欲しかったという希望を正しいと言ったのですが。

K 普通に当たりたかったのでしょう。

S 当たらなかった人はどうやって生きて行けばいいのだろう。七未の人生は最低で何もいいことがなかったように見える。

Y たくや君って幻想でしょと言われる。

S  オタクが死ぬとビデオがたくさん出てきて幻想の中で死んでいったといわれるんだ。

Y そんなのは誰でも一緒で、

K ビデオを見て暮らそうが、ちゃんと料理して暮らそうが似たようなもので。それで、第三話の「忙しいほど充実を感じる」と、この作者がそんなことを言うのかと。

S  充実しているというのは、第一、第二話の清潔なベッドやおやつと同じで多数派の生活を言っている。だからいまだに子供連れて心中している。多数派でなければ死んだほうがましと。

Y 最近の子育ては基準が本当に細かくて、何歳で何をできて、それから外れるとポカポカ教室に通うことになったりする。だからこの話はすごく痛い。

K そんな事は気にすることもないし、困ったこともない。松田道雄さんの育児書が大流行りの頃で個性を大幅に認める育児でした。それでちっとも困らなかったです。たいていは保育園なんかで集団の中に入れてしまえば大抵はうまくいくと思うけど。

Y 幼稚園には入れなくなる。だから最後のあれは忘れられない経験、今は充実という現在に埋没していく感じは気持ち悪い。

S 猫になった時間を想像できるというのは、ちょうど主婦がBLをまとめ買いして机の奥に隠しておくというような、非常に個人的な自分だけの秘密を持っているということではないか。

Y 洗脳に対して、自分で防御を持っていないといけないというのと、自分の作り出す幻想は最も自分を支えてくれるということかなあと。

S 60年代とはレベルの違ったバージョンアップしている監視社会がある。周りが囃し立てるというのも程度がまるで違っていて、一生データがついてまわる中での個人の幻想の持ち方は、話が違ってきているのではないか。 

 この小説は、変わってしまった情報社会の中の息苦しさをきちんと書いているのではないか。60年代の人間には、ただの思い過ごしぐらいにしか思えないことを、

K  そうなんです、何と大袈裟なと。

S ところが事態が変わってしまっている。

Y 子育ても、そんなことはできなくても大丈夫だといくら思っても、周りがそうさせてくれない、それで放っておいてくれない。

S  微小な差が重要な問題になっていて、そういうデータを取られてしまっているし、思い過ごしで済ましてもらえない。だから親の世代のアドバイスが全く役に立たなくなっている。

 そんなに大したことを書いているようには見えないのに、じわじわと怖くなってくる。

Y 1回目読むと傷つくばかりで辛いばかりだったが、2回目、3回目読むと傷が修復されていく感じがする。理由がわかってきて、だから後味は悪くない。こういう社会で普通であろうとするのは虚しいことで、虚しいけどやるしかない。

S 逃げ場がない、逃れられない。この管理社会。

Y 囃し立てからは逃げられない、だから、たくや君が必要になる。

S  全くの監視社会の中でで、自由になるのは自分の頭の中だけ、というくらい追い詰められている。何一つ動かせない。

Y だから、第三話の「充実している」がイライラする。

K 集団発狂です。

Y Kさんみたいな怒れる日本人が多くなるといいなあと。

S 野良猫のように死骸がその辺にほっぽらかしになる、野垂れ死が今のもっとも望ましい死に方でしょう。

K 上野千鶴子さんもそう言っています。大ベストセラーになっています。

S  七未の最期は野良猫の死骸になっている、第三話でも猫が車に轢かれている。

S たくや君がいてくれてよかった。七男のことを思い出してどうしているかなというのが今はできなくなっているかも。思い出したらメールをすればいいし、ラインをしろと言われるから、そうではなく、思い出すことそのものが貴重な自由。

Y  思いを馳せるということが重要。シンデレラの靴とか、指輪とか、ロマンチックアイテムが出てきています。

S ハーレクインがアメリカの甘いお菓子だとすると、日本のそれはBLということだろうか。

Y やおい(山なし、意味なし、落ちなし)が甘いお菓子になっている。それが原点回帰。

S  やおいが原点で、現実の結婚は、それからの派生、まやかし、誤魔化し。病院の先生は真っ赤な嘘つきで、七未の結婚の夢はあえなくこわれている。それで、たくや君と一緒に野垂れ死という最期になっている。

Y  そうすると、推しと心中するという小説。たくや君は推しか。

S 賞品の招き猫は当たりですね。私たちはそういう本物の純金猫には当たらないけれど、金張りの猫に当たればいい。

了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「近未来の神話」 J.G.バラード 村上博基訳 1982年 20201213読書会テープ

【はじめに】

『人生は驚きに充ちている』のなかに収められている、2013年3月に発表された「廃墟が語りかけてくる」の中で言及されていたバラードを読んでみることにした。

 バラードは、映画化されている「太陽の帝国」とか、「ハローアメリカ」、「ハイライズ」などで知られている。バラードは1930年上海で生まれた、日中戦争時の上海を描いた自伝的作品が「太陽の帝国」。「ハローアメリカ」は気候が変わって廃墟になってしまったアメリカを探検隊が行くという話で、ラスベガスに文明の名残があって、そこでいろいろ事件が起こる。バラードにはそういう廃墟趣味があって、「近未来の神話」に通じる。

【宇宙病】

Y ものすごく怖かった。狂人がたくさん出てきて、恋模様があって、肉欲に忠実で、エレインに恋をしたマーチンスンがおかしくなっていくとか、それから、宇宙病というのがオゾン層が壊れて太陽が怖くなる、それぞれが身近で、未来にありえそうなところが非常に怖い。

 それぞれがとても元気なのが怖い。シェパードも目がランランとしている、人間の野生が目覚めていって、人間が人間でなくなっていく。人への執着が核にある。それから、宇宙病に身に覚えがあるのも怖い。

S ところで宇宙病にかかっているのは誰? まずエレインは宇宙病である。シェパードはどう?

K かかっている。太陽を避けて、疲れすぎて運転できない。

S 宇宙センターにひかれていくというのも、もう病気ですね。マーチンスンはどうでしょう?

Y 宇宙病というより鳥病。鳥に執着している。

S 鳥病は宇宙病とは違う?

Y 外に出て凧を揚げている。

K 人力飛行機で飛んでいる、筋肉を使っている。

S マーチンスンはエレインの主治医で、エレインの病気に感染しているのでは。エレインと一緒にエレインの望みである宇宙ステーションへ移動している。だから宇宙病に感染している。

Y 鳥病は、宇宙病の変異種か。

S アン・ゴットウィンは? これも宇宙センターの周辺にうろうろしている。

Y  シェパードに飼い慣らされていく最後になって、殺されかけて逃げ出している。

K 外に出るのを嫌っているから、ゴットウィンも感染している。

Y シェパードの言うことしか聞かなくなって、世界がだんだん狭まっていって、この人しかいないという風になって、そして最後に逃げ出す。感染しているのではないか。

S 宇宙病には人間に執着・愛着という症状があるのでは。アンもシェパードに執着する必要はないし、マーチンスンもわざわざ患者であるエレインに執着する必要はない。

K 染された人に執着するのでは。

S それは転移? 宇宙病というのは、何か関わりをもった、話をした人に強く執着するという症状があるのではないか。

Y 最初にアンゴッドウィンに話しかけたときに、エレインの面影を見たというのがあって、そこからシェパードはアンゴッドウィンに執着する。

S そうか、そうか、とっかかりがあった。(「ブレードランナー」でデッカードの妻の写真を見たアンドロイドが、その写真のとおりに髪を下ろして、同じようにピアノを弾く、そこからデッカードはアンドロイドとの恋愛に入っていく)

 この人間への執着は、人間だったら誰でも持つ妄想の一つなんじゃない?

Y そうです、逆に人間だからこその病。

S 宇宙病は誰でもかかる病。

Y だから覚えがあるわけだ。

S 宇宙病という人間の執着の病にずっとこだわっているところが、バラードはその辺の宗教よりもずっと上等。私たちは宇宙病に何とかしてつきあわなければならない。

 情報化した世界の人間の特有の執着・妄想を取り出したSF。重病化するエレインのようなのもいるし、跳ね飛ばされて外へ出る人もいるし、暗闇に踏み迷って、どこまでもついていってしまう人もいる。

【SFのジェンダー

S エレインが子供であり、母親であり娘でありというのは、男のジェンダー的望みでしょう。時間が永遠で過去も未来もここにあるというのは面白いけれど、母親というのにひっかかるかな。他の言い方はないのかな。

Y 全体に性的に女性を見ているのが嫌気がさします。

S これはアメリカ的な女性像があるのだろう。

アポロ計画

S 宇宙病がアポロ計画後とある。アポロ計画は1961年から75年、月面着陸は1969年。さて、中国は、2020年12月に嫦娥5号というロケットで国旗を月に立てた。

 

 

 

 

 

 

 

「人生は驚きに充ちている」その2 

H 38ページの違和感が説明できるようになりました。「この店で私は次に来ることがあったとしても、チャーハンだけは二度と注文しないだろう」とある。

 今来ているのは2回目の来店ですよね、それなのに「次に来るときには、チャーハンだけは注文しない」というセリフは、1回目に言うはずのセリフ。2回目に来ているのだから、チャーハンを注文しないのは2回目でできるわけです。だから、1回目と2回目とがごちゃごちゃに書かれている。これが違和感の理由。

 さらに言うと、38ページの「前回と違い、あとからやってきた同じ男性が、また正面に腰掛ける」ってことは、1回目は同時に来た、今回はあとからやって来たとある。ところが、39ページに「ほぼ同じタイミングで入店した彼は」となっている。これは変。さらにもう一つ。38ページに「ジャージャー麺は毎度スムーズに食べられる」というのは変ですよね。

S この男は、この店に来るたびにジャージャー麺を食べていたということになる。そうすると、1回目に男がチャーハンを食べたことはどうなる?

H 男は1回目チャーハンを食べたんですよね。それなのに毎度ジャージャー麺を毎度スムーズに食べられると言っているのは誰のことなのか?

S 異次元のそれぞれ少しずつ違った現実を生きる男がいるんじゃない?

H だから、麺とソースの話をやたらするわけだ。ソースがまぶされた麺とソースが全然かかっていない麺を交互に味わえる。だから、前回と今回が交互に出てきているということ。しかもソースが器からこぼれる可能性とかもある。

S  そうそう、カレーの食べ方のヴァリエイションが無限にある多元世界。これはあの『ブレードランナー』のヌードルに載せられた海老天が2匹か4匹かという伝説的場面を思い出させる。デッカードはまことに人間的な食欲を持っている・・・

Y 過去と現在が混じっているというよりパラレルワールドで、多様な自分がいるということですね。

S これでこの場面はだいたい分かって、これが日記の書き方だとすると、地の文の書き方と差があるのかどうか。

Y 日記の方が、心理的なものを作り出そうとしている、態とらしい感じがする。作り話っぽい。作り話に取り込まれてしまって帰れなくなってしまった。逆に、地の文の方が日記っぽくて、神秘的で、心霊的なものに、出会っている感じがする。

S 日記の方が作為的。日記の方が、小松の要請に答えて、不可思議なことを、あえて作ってでも書いてしまおうとしている?

Y 61ページぐらいから、最終的に作者の姿が見えなくなっていく。「何物でもない放出された意志」とか、「ああ」という声しかなくなり、62ページになると僕がいるのに編集部の電気が消されてしまう。中原のことを誰も見ていない、中原の存在自体がなくなってしまう。

S ジャージャー麺屋でもう一人の自分に会って消滅してしまうのではないかな。多元世界が互いに出会うのはタブー。

H 60ページで小松が例の原稿どうなりましたかと問われて、私の方は無言で答えたとあり、私が消えて小松から見えないというバージョンと、私から見て小松が見えていないというバージョンの二つがあるようだ。

S 世界が分かれてしまって交錯できなくなった。交錯できなくなった結果、作品が出来上がるということではないかな。

 不思議と驚きに充ちた、いろいろなものが交錯して、あちこちで穴が開いている状態が分かれて、その断絶の結果としてしか作品は出現しない、そういう小説。作品が証拠品として残る。私たちは、この証拠品から、不可思議な出来事があったというのを推測することしかできない。そう考えないと、日記が見当たらないというのが分からない。

Y 考えたことのない思考回路についていけない状態です。

H まったく同じです。

S つまり、溶け出したり、何かが頭を出したり、というのは、通常の頭では出来ない。異常な人とか、気が狂っているとか、妄想ストーカーとか、イってしまっているとか、言われる。

 そこのコンビニでスパイスガールに会ったんですよと言われたらどうする?

Y 電波? 妄想?

S 自分とラーメン屋で出会って、交錯できなくなって、途切れて、断絶が決定的になって、その結果として作品が残る。

H そして作者自体は消滅する。

S ほかの人と出入りができたり、溶け合ったりするのは、生身をもった作家だから。そういう生身の作家は消滅してしまい、小松もひしゃげて変形してどこかへ行ってしまう。

H 断絶した間を行き来できるのは音と匂い。ラガーフェルドのドンドンドンだったり、スヌーピーが落ちて来たドンだったり、小松の声にならない「ああ」だったり。それくらいは聞き取れるけれど、文字にはならない。文字にすると途切れていることしか確認できないが、途切れている間を飛び超えられるのは音と匂い。

S この小説は、先週読んだ『月の客』とまったく正反対のことを書いていないか? 私たちの頭は、一週交替に正反対を往復しているから、よけいくたびれる。

Y  先週は、文字によってすべての感情を昇華させて、小説によって人々の魂を成仏させる、そういう話だったと思うのですが、今週は、断絶していて、文字と思考は同軸に存在できない。

S 何かを断念しなくてはならない。

H 『月の客』だったら、いぬを、犬やいぬに文字の使い分けをすれば棲み分けして、二つの世界を書き分けることができる。

S 『月の客』の場合は、マンホールを開けて、行き来ができる。「人生は驚きに充ちている」もまた二つの世界は互いに融合し接するんだけれど、断絶しない限り小説にはならないという違いがある。小説家はその融合を諦めるか、その断絶を引き受けなければ、小説にはならないと言っている。この点で、かなりはっきりと、山下澄人の小説を批判しているのではないか。

K 『月の客』の初出は2019年9月で、「人生は驚きに充ちている」の初出は2019年5月だから、順が逆になる。

H 『ルンタ』などでも同じやり方を山下澄人はしているから、山下澄人批判はありえる。

S 私は『月の客』を全面的に支持はしないところがあるのだけれど、どこをどう批判してよいかはちょっと言えない。中原を媒介にして読むと、どこに目を向けるべきかが少し分かった気がする。

H 村上春樹やサカキバラを当て込んで書くことが中原にはある。この作品では山下澄人を当て込んでいるかもしれない。

 融合するんだけれど断絶するというところがよく分からなかった。中華屋のところで融合したのですね?

S ショートしたんじゃない? 会うはずのない二人が会って、ショートして、スパークして、消滅する。

Y そしてだんだん薄れていってしまう。

S 作品だけが証拠として残せるものだということ。「点滅」以来の中原問題。

Y 切れ味抜群。

S 山下澄人には特有の甘さがある。

Y それは言ってはいけないものだと。

S 『ルンタ』も『月の客』も名作だと思うけれど、この甘さは気になる。ついでに宮崎駿星の王子さまの引用も気にくわない。もっと気にくわないのは現今大流行中のスピリチュアリズム

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生は驚きに充ちている」 中原昌也 2020年7月刊 20201121読書会テープ

【はじめに】

 初出は2019年5月『新潮』。2020年7月に刊行された単行本『人生は驚きに充ちている』の巻頭のNovel。

 物語は、作家らしき一人称の私が編集者小松へ原稿を渡すまで。テーマは心霊現象のような不思議な出来事で、日記にあらかた記しておいたのに、その日記がコンピュータの中に見当たらない、それで原稿が書けなくて困っている。本文の中程に日記が活字を変えて載せてあるので、見失われた日記は見つかって、原稿は成就したらしい。

 場所は出版社の事務室、イートインのある2階建てのコンビニ、日記の中に登場するジャージャー麺とチャーハンの中華屋。

 さてどこからはじめようか。

H 驚きの用例確認から行きましょう。

【驚きの用例】

H 5ページのところで、誰のタバコか分からないタバコを吸う場面、誰のか分からないけれどそのタバコに別に驚きもなかったという例。

S これ意味分からないんだけれど。

K ないはずのものでしょう?

S つまり、吸う習慣もないし、持ってるはずもないのに、タバコを咥えていたということ? そういう理解でいい? そうすると、この現実があって、どこかからタバコがふっと出てきてしまったということになるのかな。

 異世界からタバコがふっと出てくるというのは、いわゆるスピリチュアリズムの常套で、口の中から何かを取り出すとか、舞台の上でそれをやってみせる。もちろんインチキなんだけれど、これと非常によく似ていて面白い。

 20世紀の初めにロシアのブラヴァツキー夫人というのが心霊主義というのをはじめて世界的に大流行した。最大の見世物は、物質を異次元から取り出す舞台。

H 急に出現するものの例は、サンドイッチとかありますね。

S どこか後の方に心霊主義のような言葉も出ていた。

K 人が溶けていく例もあった。ラガーフェルド(p.28)。

S 顔が溶けると言うのも、単に溶けるのではなく、顔がこの世界から後退して、異世界へ溶け出していく感じがする。

H 二つ目の例は、9ページに原稿がまだ出来ていないと聞いてこんなに期待されているのかと驚く、あるいは、その小松の表情の変化、劇的な変容が驚きの対象になっている。

S これも顔が溶けて異世界へ行ってしまう話かな。

H 変化、変容、異変とある。

S 物質が変容するというのもブラヴァツキー夫人にあったような。

K 高速カメラで撮ったと言う話が後の方にあった。花が咲くところをカメラで撮って、それを生で見ようとすると退屈だったと(p.12)。

H あれも現実の変容ですね。

S  それはベンヤミンの『複製技術時代の芸術』に由来する非常に重要な指摘で、高速カメラによって見えるようになった現実の隙間の異世界だね。

H 10ページに驚くべきことに遭遇して、2、3日して忘却していたが、また驚くべきことに、同じようなことに遭遇した。驚愕してともある。

H 12ページ、小松の前世が森の木でも驚かない。

S これは何に驚いているか分からない。

 前世からの伝言とか、死んだ人がこの会場に来ているとか、この前世というのもブラヴァツキー夫人かなあ。降霊術とかこっくりさんをする。

Y オカルトとかもそれですか。あんまり神聖な感じがしない。

S この心霊主義にはコナン・ドイルとか、ルイス・キャロルとか、ウイリアム・ジェームズとか、いろいろな超有名人が関わっている。ユングも関係する。

H 三島由紀夫がある時期UFOに凝っている。

S そう今のオカルトやニューエイジオウム真理教などの源流になっていて、心理学や宗教学などがみんなここで混合していた。

 現今も大流行中だと思う、研究書もたくさん出てよく読まれている。この風潮をとりあげて、驚きに充ちているという小説のテーマにしているとすると、これはかなり面白いことになる。

H 26ページ、ラガーフェルドに似ている人が、私のあくびの音にびっくりした。

S あくびがどうしてそんなに大きな音になるのか。

H ここに書いてあるところでは、生まれてからこれまでで最大のあくびで、遠吠えのように大きな音とある。驚きの逆で退屈が出てくる?

K ラガーは犬だと思ったのじゃないの。

H 23ページにも、ラガーの連れている犬があのダルメシアンだったので驚いた。話は離れるのですが、犬と通じ合うみたいな話と最近よく読むような気がするんですが・・・町田康が『ホサナ』を書いて犬と交信できるという話だった、先回読んだ『月の客』も犬が出てくる。

S 犬に祟られている? ピピピのところの場面、よく分からないのだけれど。

Y ピピピという音が聞こえてきて、犬のことを呼んでいるのかと思い・・・

S ダルメシアンは結構大きくて、ピピという小犬の感じではないのだけれど・・・場面がちぐはぐで異様な気がする。電話している人は全く平常普通で、ピピの音を真似ている私の方が驚いているというのも変。勝手に音の真似して、勝手にダルメシアンだと言って驚いている。

Y バグった感じ?世界がバグってしまう感覚、ぐらっと歪んでしまう、その瞬間に、普通ではあり得ないことを、見てしまう。

S  世界がバグっている、そのとおりだね。

H 文章はものすごく技巧的に、そのずれが埋まるように書いている。

S 文章自体は正確にちゃんと壊れずに書いているのに、意味が壊れている、世界が壊れている。

H 読んだときには普通の文章であるのに、なんで違和感があるのかなと読んでいくと、こうも読めるし違うようにも読めるゆれを含んでいる。ものすごく上手。

S ここは特にバグが大きくて、異様な場面だった。

H 33ページ、雪の中で見覚えのあるオッサンに声をかけるところ。ここは複雑な場面で、3月4日の冒頭は「突然気がついたら荒野にいた」とあって、そういえば前に一度こういうことがあった。その出来事というのは、専門学校の講演の壇上で酒を飲んでいたら、気がついたら東北、新潟の街を歩いていて驚いた。

S これテレビのドキュメンタリーの場面の中にジャック・イン、没入してしまう話。ジャックインというのは『マトリックス』の用語。

K 東北の吹雪の光景は、NHKのドキュメンタリーで見覚えがあったとある。

S 新潟の街中という現実と、NHKのドキュメンタリーの中の風景と、その二つの間を飛び越えてつないでしまう話。その飛び越えが驚きであるというのはよく分かる。魔法のようなともある。

H 48ページ、中華屋のカレンダーが5日ではなく次の日になっていた。

S これも時間の飛び越えの驚き。

H 45ページから47までいくつか驚きがある。

S 45ページは時間、「逆回転」とか「時間が逆に進むと」とある。

H こんな急に雨になるはずがないのにとあり、時間が飛んでいる感じがある。

S 46ページは音、スヌーピーが向こうの世界から落っこちて来た音のように思えるんだけど。

Y だから誰も気づいていない。

K だから誰も片付けない。

S このクマのぬいぐるみも、ベトナム戦争の特集のページの写真の中から、こちらの世界に来る。写真とか映像というのは、ほかの世界からこの現実の中に、ものがジャックインしてくる、飛び込んでくる、そもそも、写真とはそういうものではないか? 私たちはそのことを忘れているから、安全だと思って写真を見ているけれど、実は非常に危険な驚きのあるものなのではないか?

Y わたしたちはもうすでに刺激慣れしている。

S テレビだけでなく画集や写真集は、未知の世界から得体の知れないいろいろなものが私たちの現実に落っこちてくる。それに気がついただけでもこの小説を読んだ甲斐がある。

H 異世界からジャックインしてくるというのは、鏡の向こうとか、窓の外を眺めているというのも同じですね。

S この驚きの感覚を取り戻そうとする小説。これは面白くなってきた。

Y だいぶ鈍くなってきた感性を取り戻す。

S 犬はそういう世界を出入りできるのではないかな。『吾輩は猫である』の猫も垣根の穴から出入りして情報をもたらす。

K もしかしたらサイズが問題になりますか。犬から見たり、猫から見ると、サイズが違う。

S 異世界へくぐって入るときにサイズが違うというのがある。サイズの問題はとても面白い。鼠浄土なんていう話があって、家の土間の隅に穴があって、そこにひょいと陥ると鼠の世界や蟻の世界があって、そこで一生を幸福に暮らして、帰ってくるとほんの数日しか経っていない。

H 最後の方に(p.60)、小松のサイズが違っている。トムとジェリーのように、ハンマーで叩かれて変なサイズ感になっている。

Y ひしゃげている。

S 小松は本当に踏んだり蹴ったりで、中原にぴったりくっついて原稿を待っているんだけれど、まかれてしまうんだね。私は小松をまいて逃げてジャージャー麺を食べに行ってしまう。

H 50ページ、おにぎりの種類が多い。51ページにはコンビニでスパイスガールを見たのに驚いたとある。5人組の有名な女性グループらしい。

S これ、ありえない出来事では? この人だけがそうだと思っていて、何かを見間違えているか、思い違いしている、そう思い込んでいるだけという印象がちょっとする。一種の電波系妄想。

H 一回目にコンビニに入ったとき、5人の女性のアイドルグループのポスターがあった、あれじゃないか。18ページのポスター。

S これだ、ポスターから現実に入り込んでくる話か。だいぶこれで分かってきたぞ。はっきりとした対応がある。日記をはさんで対応しているのかな。

Y あれ!スパイスガールズに会った瞬間からこの人の存在は消えているのではないかな。

S ここのアスタリスクはどうなっている?日記のあとで変質が大きくなっている?日記の後の方がバグが大きくなっている感じがする。

H アスタリスクについて言うと、アスタリスクのあるところのあとには時間の表示がある。はじめのところだと、「意を決してはじめたのに行き詰まった」という時間の変質がある。時間が断絶しているとか、途切れている。「いつの間にか終わって」とか。

S いつのまにか過ぎ去る時間というのは重要な指標。知らないうちに過ぎ去っているということは、その間に何が起こっても、何が入り込んできても不思議ではない。その隙間をアスタリスクが示している。アスタリスクのところで時間空間の落差がある。小説の冒頭がアスタリスクというのもかなり変。

H 最初から断絶がある。

H 52ページは建物が寂れて古びている。

S これも時間の経過が圧縮されている。

Y 浦島状態。

S 家もはっと気づくと30年分ぐらい古くなっているのに気づいたりする。いつのまにか経ってしまった時間。「リップヴァンウィンクル」のように、時間の落差がある。あるいは『インセプション』も同じ。

K 相手が古びているのは気づくけれど、自分も古びているのは気づかない。

Y 日記自体も誰かに植え付けられた?

S 塗り替えられた記憶の可能性もあるかも。

H 54ページには、スパイスガールに会ったというと小松の驚いた顔がある。

S その後には留守の間に急激な経年劣化のガスがまかれたとある。このあたり、心霊ムードとか心霊現象とか、金縛りとか、スピリチュアリズムのあやしい単語が並んでいる。

H 59ページ、小松が登場して、特に驚くことはない、しかし、小松が意地悪い人物に見えるので驚くという例がある。

Y 30ページのドンドンドンという音が怪しい。31ページから日記に入る。

S ええと、ポルターガイストとかラップ音?

Y 日記のところはトランス状態なんでしょうかね。

S よく分からないのだけれど、あの現象を書くためにわざわざ書いている日記。あの現象というのは多分ないのではないかな。あの現象はなくて、日記だけがあるという感じがある。日記があの現象があったというアリバイ工作になっている。嘘日記の可能性があるかな。

H 名刺を作っている女の人がいて、小松の名刺の数字が魅力的で、考古学をしていてエジプトに行って神秘体験があって、それを元にしたので数字が魅力的だとある。この場合も、神秘体験はなかったかもしれないが、名刺の数字はある。あの現象はなかったかもしれないが日記は残っているというのと似ている。

H 対話にしても、うまく繋がらない場面が多い。例えば、編集部に戻って小松と再会するところ、小松がいやな顔をしていたとあるが別にスパイスガールズが嫌いだからというわけではないのに嫌いなんですかと言う。ピピのところも場面が成り立っていない。他者がいるのに対話が成り立っていない。

 日記の中で交わるという言い方がある。45ページに「視線は決して交わることはないはずだった。」ということは、交わる瞬間があったということになる。可能性を秘めている場面ではないか、ここが気になる。

S これ、相席でチャーハンとジャージャー麺を食べているけれど、まったく食い違っている例、交わらない話のような。

H 特に大きなずれがあるのは、37ページから、一度だけ行ったことのある中華屋でジャージャー麺を食べようと思って行った。ところが、「この店で私は次に来ることがあったとしても、チャーハンだけは二度と注文しないだろう」というのがちょっと変で、ズレている。

S  一度この店に来て、大半の客と同じようにチャーハンを注文した。この男と自分は同一人物か? 自分が自分に会ってしまったということ?

H なんかオーバーラップしている。向かい合って食べているような。

S  時間だけずれている。前に座っているのは、前に来てチャーハンを注文した自分で、 今自分は2度目に来ていて、チャーハンは止めてジャージャー麺を食べている。それか。異次元の自分が出会うと消滅するというのがある。この店は、過去と現在が同時に現象する。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『月の客』その3

【犬について】

Y 犬がたくさん出てくるのですが、何でそんなに出てくる? 作品の中で個別に意識されていない犬が何匹も入れ替わって出てきて、何匹目かは忘れたけれど犬は主人公とずっと一緒にいて、守って、脇に寄り添っている。

S 何匹も入れ替わるということが重要かな。奥さんも4人いたり、個別性が、あるところで一般性に変わる。

 犬という生き物は、個別なんだけれど一般でもあるという特色を持っているのではないかな。同じ名前で何世代も違う犬を飼っていたりする。違うのに同じ名前で呼び続けると、同じ犬を飼い続けているようにも思える。

K 一般の犬は漢字の犬で、トシの犬はひらがなの書き分けがある(p.3)。

Y 170ページのところと、トシの最初の犬(p.30)の例がある。

H いろいろなものが混じり合っているけれど、音だと分からないが漢字とひらがなカタカナはかき分けられて区別が生じる。お母さんはカタカナしか書かないし、ラザロはどうだったか。

S ラザロは文字を学んでしまった。

H 句読点のないトシの語りから、文字によって明確になり、誰が語っているかが分かるのではないか。文字によって個別性が取り戻されるというのは、以前の山下澄人の作品でも話題になった。

S 基本それでいいと思うけれど、152ページの句読点がない文はトシの語りだと思うけれど、なぜ句読点がない? 回想? 157に入ると改行と読点が加わり目前のマッサンの描写になる。夢の中で夢を見ているような描写の時に句読点がなくなっている。

H 句読点の有無は、トシの語りの特色ではなく、回想とか夢の語りの特色だということですね。

S 句読点と書き分けについては、まだよく整理できていない。

【未来の回想】

S 例えば、大人になったらここへ来てマンホールを開けようというのは、これ半分回想だよね? 夢の中で、未来を回想している感じがする。時制が入れ子になって二重化している。子どもの頃を回想しているのだけれど、そこで大人になったらマンホールを開けに来ようという未来のことを言っている、過去なのに未来のことを言っている、これを未来の回想と呼びたい。

 これは、以前読んだ「率直に言って覚えていないのだ」の夢の中の夢の話法とよく似ている。回想なのに未来のことを述べている。

 たしかこのマンホールは作品の中で3回出てきて、最初と、最後と、もう一カ所、川縁でマンホールが出ていた。子どもの頃には手ですぐ開けられた。子どもには簡単に開けられるのに、大人は重くて開けられない。

 これは黄泉の国の入り口で、いざなみといざなぎが争って岩で塞いでしまった、それ以降、死者の国との行き来は途絶えてしまったという坂の話。この小説は、坂とマンホールが最初と最後に出てきて、トシとサナによって黄泉の国との行き来を可能にした小説ということになる。震災で死んだ人と出会うことができる小説になる。

K 黄泉の国と月の世界とはどういう関係になるのだろう?

S 天上他界と地下他界かな。月の世界は砂漠の話と関係があるようだ。

K 砂漠の話は、先回読んだ三島由紀夫が蛇になる森茉莉の話を思い出させる。

S 森茉莉の小説は『星の王子さま』に由来しているのかもしれない。蛇に噛まれて死んで自分の星に戻ることができる。あれを大人の絵本として読むというのがかなり昔から、1960年代にはすでにあった。

K 安冨歩星の王子さまについて何か書いていた。

Y 箱根にはミュージアムができている。1999年の開館。

 S 天上他界と地下他界、一方はキリスト教的、一方は日本神話で、その両方を二重に出したのは、どうしてかな。

Y より多い死者を救うため? 洞穴から子どものラザロが光り輝いて出てくる。ヨハネ福音書には、洞穴からハーイと言って出てくる。

S 日本神話だと洞穴から出てくるのは天照大神なんだけれどなあ。ラザロの絵は色々あって、洞穴から出てくるとか、棺桶から起き上がるというのが通用している。

Y 聖書の一節に洞穴というツールが出てくるらしいくらいの感じで納得する。でも、それこそ、じゃあ、この物語で、なんでこんなに洞穴というものが舞台に選ばれたんだろう?ちょっと不思議。

【トトロの森】

S それは黄泉の坂です。

K トシは黄泉の坂で暮らしていたということですか?

S そういうことです。確認すると、黄泉の坂はどこにあるかというと、大きな楠のある神社の辺にある。これが宮崎駿の世界、そう思わない?非常に大きくて、一本だけで森になるほど大きい楠。その木に登って眺めると洞穴が見つかる、特殊な場所。

Y それを聞くとトトロですね。

S 宮崎駿の世界。神社にはせむし男の番人がいて保護者としてトシとサナを守ってくれる。『千と千尋』も、入り口の番人は、主人公に厳しいけれど守ってくれるでしょ。

Y トトロにも神社があって楠がある。メイが迷い込んで、楠の根本に穴があって、そこに転がり込むとトトロがいる。

S まさしくこれはトトロの世界。

Y 気がつかなかった。川沿いも三途の川ですか。

S そもそも宮崎駿がそういう日本神話に由来した書き方をしている。このトトロの世界と月の砂漠の世界は、この小説にはめ込まれたユニットのように見える。

Y ちょっと浮いている? トシは黄泉の世界と生の世界の境界に住んでいて、大人になっても住めるということがすごい。

S 心ある大人は見える、子どもの心を失わない大人には見える、ということでしょう。大人子ども。

S トシとサナは筋向かいに住んでいた幼なじみだった。酒屋に養子へやられて、洞穴暮らし、施設に入ったり、サーカスで犬少年をしたり、マッサンのゴム工場で働いたりしていた。

K 酒屋に行ったのは、小学校に上がる前、ランドセルを用意されていたから。

S トシは白髪の老人の姿にもなっている。いつまでも子どものようでもあるし年寄りにも見えて、年齢がよく分からない。サナも16才なのに50過ぎに見えたりする。子どもで大人。

【おわりに】

S 出てくる人々がみな何かしらの欠損がある。これが震災後の世界の人間像だということになる。人間がぶっ壊れている。

Y 戦後というイメージがすごくきたのは、そういうところからだろう。見世物小屋でしか生きられない人だったり。

S それは2011年のあの震災が、あなたたちにとってそれほど強烈な印象を与えなかったということだろうか? 

Y ショックはショックだったと思うけれど・・・怖いという思いはある。

S 怖かったという思いはあっても、こういう風に、身体がねじれたり、折れたり、一種不具の感じは持てないわけですね?

 この欠損は、何かの比喩とか思想として読まざるを得ないのではないか。

Y 親が死んだとか、自分の家がなくなったとか? そういう象徴としてですか?

S あるいは自然が汚染されたとか、直接に怪我をしたり、手足を失ったりではなく、一種取り返しがつかない、失ってしまった、ぶっ壊れたんだね、ぶっ壊れたとしか言い様がない。

Y そういうダメージはなかった。東北の人たちのほうが桁違いに衝撃的なことだったろうと思います。

S 不思議なことに、地震のことは書かれているのに放射能については一切書いていない。これはどうしてだろう? この欠損はもしかして放射能の比喩になっているのでは。

K ああ、なるほど。

Y 放射能について書いてあってもよいはず。誰しもに平等に何かしらの影響があるという意味でいうと、すごくそうだと思います。戦後? 爆弾でも落ちた? そうでもないと納得がいかなかった、つじつまがあわなかった。

S  身体の欠損で一番印象がまだ残っているのは白衣の傷痍軍人だから戦後という印象が出てくる。しかし戦後ではない。

 放射能が降り注いで、あらゆる人たちが欠損している、そういう小説ではないか。

Y アイスピックの男たちの顔が崩れている(p.82)というのがある。ケロイドを思い出させる。

S 一切放射能を書かないことで、欠損の理由を読者に推測させる。『はだしのゲン』が思い出されたのも、皆同じようにお腹が膨れて血を流すというのも、つまり原爆症だから。

 キリスト教や日本神話が引っ張り出されるのはこれが世界的危機だからだろう。キリスト教でも日本神話でも救いようがないことを、山下澄人は小説で救おうとしている。

Y サナはどうしてあんなに大きくなってしまうのでしょう?

S どんどん食べて大きくなってしまう妖怪の一人では。たとえば『千と千尋』に出てくる人間が捨てた汚れやゴミで巨大に膨れ上がったオクサレ様のような妖怪=神様ではないか。オクサレ様は『ゲゲゲの鬼太郎』の土ころびから来ているみたいだけれど。

Y 山下澄人さんはそんなに宮崎駿がお好きなんですか。

S  一定年齢以上の大人は、みな宮崎駿の影響から逃れられないのでは。星の王子さまからもね。サナは、性器をあらわにして踊った天鈿女命天ではないかなあ。そうするとトシは大歳神とか。そういう日本神話も宮崎駿経由でしか入ってこなくなった。

S あとは蟻の巣を掘っていたトシのところに来て足で踏み潰した男の子がいたね。蟻にとってはトシがしたか男の子がしたか区別がつかないだろうと。トシは男の子の顔をナイフで切る。

 このエピソードからこの小説は東北大震災の比喩だなと思った。誰が加害者かを確かに指し示すことができない。東電とか政府とか誘致地方公共団体か東京都民かとか。あとになって男の子の兄がトシに向かって顔を切らせろと言ってくる。ほんとに具体的な最低限の倫理しか手元に残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『月の客』 その2

【ラザロ】

S それから、もちろん生と死が融合している。

K イエスが呼ぶとラザロが復活した。ラザロがいるところにはイエスがいるということらしい。

S ラザロ=イエスではないの? ラザロの居るところイエスがいる。そしてイエスは復活したからイエスなんでしょ、そうすると復活したラザロはイエスでしょ?ラザロはなぜ復活したの?

Y 聞いたところではラザロはラザロで、イエスの弟子であって、イエスとは別です。

K 本文でも、「てか主て誰/イエスさん?/あれは、主/ちゃうな・・・主イエスキリスト/ていうもんな」(p.144)というような問答がある。

Y なぜラザロの名をわざわざ出したのか。復活の象徴がラザロだから、ほかの日本宗教ではあまり見当たらないから。作品の中で神を出して、神の思想の中に復活というキーワードを入れたいから、キリスト教が選ばれたのかなと。

K 宇宙の作り手としてキリスト教の方が地方性が少ない? 復活は、「もうしばらくはこのまま続く」という終わりと繋がっている。災害によって死滅することなく、復活後も生命が続いていくということかと。

S ラザロはイエスの人間化した姿、より人間的なイエスということにならないかな。普遍と特殊でいうと、ラザロという特殊であるとともにイエスという普遍にも繋がっている。それでラザロを出してきている。

 もともとイエスは神と人間の間の存在。ところがイエスがどんどん偉くなって、神になっていくと、より人間に近い存在が必要になる、それがラザロではないか。

 イエスは、神という普遍と人間という特殊を結びつける存在、神と人間の半々の人、普遍と特殊が一致する神。『ルンタ』でも半分の人、半々に分け持つ人が出ていた。

S そのほか男と女の融合がある。喜一とラザロが男と男でどうして子どもが出来ないのかと言ったり、男と女の性器を両方もっているというのがある。

【月の客】

H 語り手が交代していって誰が語っているか分からなくなる。この語り手の交代が題名と関係しているのではないか。

去来抄』に、岩鼻やここにも一人月の客という俳句について、月の客が誰のことか芭蕉と議論になったという。岩鼻に先客が居て、ここにも一人月の客がいますよという句であるか。芭蕉は、いろいろなところで月を見ている客がいて、この岩鼻で月を見る私もその一人だという方が、理解が広がると言った。

 月の客がいろいろな人に読めるというのが、語り手が交代するというのと呼応しているのだと思う。たくさんの月の客という普遍と、この岩鼻の月の客である私とが、たがいに交代して読み換えることが出来る。

S 普遍と特殊の一致の原型が芭蕉にあるという発見だね。

 ただ、語り手が変わるというのがよく確認できない。たとえば、サナのところははっきりサナの番だと言って語り手が交代している(p.36)。このサナは見出しだと思って見ていたのだけれど・・・

K 3行空けているから見出し?

S 4行、5行あいているところもあって、つまり本文と見出しの区別がない書き方をしているのかも。「穴の底にいる」というのも一瞬見出しのような気がした。

Y 映画監督と登場人物が同軸で一貫化するような。

S サナのところだけは少し特殊で、「私の番やね」というのが、死者の語りではないかな。死体がたくさんある中で、今度は私の番だねと言って、自分がどう生まれて死んでいったかを語っているような。

 マッサンのところはマッサン自身が語っているというのではなく、これもトシの語りになっている。

 マッサンというのは震災のあとで復興して工場を再開してそして死んでしまう。切ない、涙なしにはこの小説は読めなかった。迫って来て逃れられない、自分もその一人だという思いがして、涙を禁じ得ない。

 一人一人は無念のまま死んでいくしかない、しかし、誰かが生き延びて生きていく、これは希望の書き方でもあると思う。

Y 167ページの男が来た女が来たが延々と続くところ。今まで一人一人がクローズアップされてきたのに、一気にここで無名の人々の量に圧倒されました。

S これ津波を逃れて逃げていく人、あるいは死んでしまった人々がざくざくと歩いている。車の音がするというのも、車を連ねて逃げる人々の後を津波が追いかけるというのを思い出させた。