清風読書会

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「人生は驚きに充ちている」その2 

H 38ページの違和感が説明できるようになりました。「この店で私は次に来ることがあったとしても、チャーハンだけは二度と注文しないだろう」とある。

 今来ているのは2回目の来店ですよね、それなのに「次に来るときには、チャーハンだけは注文しない」というセリフは、1回目に言うはずのセリフ。2回目に来ているのだから、チャーハンを注文しないのは2回目でできるわけです。だから、1回目と2回目とがごちゃごちゃに書かれている。これが違和感の理由。

 さらに言うと、38ページの「前回と違い、あとからやってきた同じ男性が、また正面に腰掛ける」ってことは、1回目は同時に来た、今回はあとからやって来たとある。ところが、39ページに「ほぼ同じタイミングで入店した彼は」となっている。これは変。さらにもう一つ。38ページに「ジャージャー麺は毎度スムーズに食べられる」というのは変ですよね。

S この男は、この店に来るたびにジャージャー麺を食べていたということになる。そうすると、1回目に男がチャーハンを食べたことはどうなる?

H 男は1回目チャーハンを食べたんですよね。それなのに毎度ジャージャー麺を毎度スムーズに食べられると言っているのは誰のことなのか?

S 異次元のそれぞれ少しずつ違った現実を生きる男がいるんじゃない?

H だから、麺とソースの話をやたらするわけだ。ソースがまぶされた麺とソースが全然かかっていない麺を交互に味わえる。だから、前回と今回が交互に出てきているということ。しかもソースが器からこぼれる可能性とかもある。

S  そうそう、カレーの食べ方のヴァリエイションが無限にある多元世界。これはあの『ブレードランナー』のヌードルに載せられた海老天が2匹か4匹かという伝説的場面を思い出させる。デッカードはまことに人間的な食欲を持っている・・・

Y 過去と現在が混じっているというよりパラレルワールドで、多様な自分がいるということですね。

S これでこの場面はだいたい分かって、これが日記の書き方だとすると、地の文の書き方と差があるのかどうか。

Y 日記の方が、心理的なものを作り出そうとしている、態とらしい感じがする。作り話っぽい。作り話に取り込まれてしまって帰れなくなってしまった。逆に、地の文の方が日記っぽくて、神秘的で、心霊的なものに、出会っている感じがする。

S 日記の方が作為的。日記の方が、小松の要請に答えて、不可思議なことを、あえて作ってでも書いてしまおうとしている?

Y 61ページぐらいから、最終的に作者の姿が見えなくなっていく。「何物でもない放出された意志」とか、「ああ」という声しかなくなり、62ページになると僕がいるのに編集部の電気が消されてしまう。中原のことを誰も見ていない、中原の存在自体がなくなってしまう。

S ジャージャー麺屋でもう一人の自分に会って消滅してしまうのではないかな。多元世界が互いに出会うのはタブー。

H 60ページで小松が例の原稿どうなりましたかと問われて、私の方は無言で答えたとあり、私が消えて小松から見えないというバージョンと、私から見て小松が見えていないというバージョンの二つがあるようだ。

S 世界が分かれてしまって交錯できなくなった。交錯できなくなった結果、作品が出来上がるということではないかな。

 不思議と驚きに充ちた、いろいろなものが交錯して、あちこちで穴が開いている状態が分かれて、その断絶の結果としてしか作品は出現しない、そういう小説。作品が証拠品として残る。私たちは、この証拠品から、不可思議な出来事があったというのを推測することしかできない。そう考えないと、日記が見当たらないというのが分からない。

Y 考えたことのない思考回路についていけない状態です。

H まったく同じです。

S つまり、溶け出したり、何かが頭を出したり、というのは、通常の頭では出来ない。異常な人とか、気が狂っているとか、妄想ストーカーとか、イってしまっているとか、言われる。

 そこのコンビニでスパイスガールに会ったんですよと言われたらどうする?

Y 電波? 妄想?

S 自分とラーメン屋で出会って、交錯できなくなって、途切れて、断絶が決定的になって、その結果として作品が残る。

H そして作者自体は消滅する。

S ほかの人と出入りができたり、溶け合ったりするのは、生身をもった作家だから。そういう生身の作家は消滅してしまい、小松もひしゃげて変形してどこかへ行ってしまう。

H 断絶した間を行き来できるのは音と匂い。ラガーフェルドのドンドンドンだったり、スヌーピーが落ちて来たドンだったり、小松の声にならない「ああ」だったり。それくらいは聞き取れるけれど、文字にはならない。文字にすると途切れていることしか確認できないが、途切れている間を飛び超えられるのは音と匂い。

S この小説は、先週読んだ『月の客』とまったく正反対のことを書いていないか? 私たちの頭は、一週交替に正反対を往復しているから、よけいくたびれる。

Y  先週は、文字によってすべての感情を昇華させて、小説によって人々の魂を成仏させる、そういう話だったと思うのですが、今週は、断絶していて、文字と思考は同軸に存在できない。

S 何かを断念しなくてはならない。

H 『月の客』だったら、いぬを、犬やいぬに文字の使い分けをすれば棲み分けして、二つの世界を書き分けることができる。

S 『月の客』の場合は、マンホールを開けて、行き来ができる。「人生は驚きに充ちている」もまた二つの世界は互いに融合し接するんだけれど、断絶しない限り小説にはならないという違いがある。小説家はその融合を諦めるか、その断絶を引き受けなければ、小説にはならないと言っている。この点で、かなりはっきりと、山下澄人の小説を批判しているのではないか。

K 『月の客』の初出は2019年9月で、「人生は驚きに充ちている」の初出は2019年5月だから、順が逆になる。

H 『ルンタ』などでも同じやり方を山下澄人はしているから、山下澄人批判はありえる。

S 私は『月の客』を全面的に支持はしないところがあるのだけれど、どこをどう批判してよいかはちょっと言えない。中原を媒介にして読むと、どこに目を向けるべきかが少し分かった気がする。

H 村上春樹やサカキバラを当て込んで書くことが中原にはある。この作品では山下澄人を当て込んでいるかもしれない。

 融合するんだけれど断絶するというところがよく分からなかった。中華屋のところで融合したのですね?

S ショートしたんじゃない? 会うはずのない二人が会って、ショートして、スパークして、消滅する。

Y そしてだんだん薄れていってしまう。

S 作品だけが証拠として残せるものだということ。「点滅」以来の中原問題。

Y 切れ味抜群。

S 山下澄人には特有の甘さがある。

Y それは言ってはいけないものだと。

S 『ルンタ』も『月の客』も名作だと思うけれど、この甘さは気になる。ついでに宮崎駿星の王子さまの引用も気にくわない。もっと気にくわないのは現今大流行中のスピリチュアリズム

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生は驚きに充ちている」 中原昌也 2020年7月刊 20201121読書会テープ

【はじめに】

 初出は2019年5月『新潮』。2020年7月に刊行された単行本『人生は驚きに充ちている』の巻頭のNovel。

 物語は、作家らしき一人称の私が編集者小松へ原稿を渡すまで。テーマは心霊現象のような不思議な出来事で、日記にあらかた記しておいたのに、その日記がコンピュータの中に見当たらない、それで原稿が書けなくて困っている。本文の中程に日記が活字を変えて載せてあるので、見失われた日記は見つかって、原稿は成就したらしい。

 場所は出版社の事務室、イートインのある2階建てのコンビニ、日記の中に登場するジャージャー麺とチャーハンの中華屋。

 さてどこからはじめようか。

H 驚きの用例確認から行きましょう。

【驚きの用例】

H 5ページのところで、誰のタバコか分からないタバコを吸う場面、誰のか分からないけれどそのタバコに別に驚きもなかったという例。

S これ意味分からないんだけれど。

K ないはずのものでしょう?

S つまり、吸う習慣もないし、持ってるはずもないのに、タバコを咥えていたということ? そういう理解でいい? そうすると、この現実があって、どこかからタバコがふっと出てきてしまったということになるのかな。

 異世界からタバコがふっと出てくるというのは、いわゆるスピリチュアリズムの常套で、口の中から何かを取り出すとか、舞台の上でそれをやってみせる。もちろんインチキなんだけれど、これと非常によく似ていて面白い。

 20世紀の初めにロシアのブラヴァツキー夫人というのが心霊主義というのをはじめて世界的に大流行した。最大の見世物は、物質を異次元から取り出す舞台。

H 急に出現するものの例は、サンドイッチとかありますね。

S どこか後の方に心霊主義のような言葉も出ていた。

K 人が溶けていく例もあった。ラガーフェルド(p.28)。

S 顔が溶けると言うのも、単に溶けるのではなく、顔がこの世界から後退して、異世界へ溶け出していく感じがする。

H 二つ目の例は、9ページに原稿がまだ出来ていないと聞いてこんなに期待されているのかと驚く、あるいは、その小松の表情の変化、劇的な変容が驚きの対象になっている。

S これも顔が溶けて異世界へ行ってしまう話かな。

H 変化、変容、異変とある。

S 物質が変容するというのもブラヴァツキー夫人にあったような。

K 高速カメラで撮ったと言う話が後の方にあった。花が咲くところをカメラで撮って、それを生で見ようとすると退屈だったと(p.12)。

H あれも現実の変容ですね。

S  それはベンヤミンの『複製技術時代の芸術』に由来する非常に重要な指摘で、高速カメラによって見えるようになった現実の隙間の異世界だね。

H 10ページに驚くべきことに遭遇して、2、3日して忘却していたが、また驚くべきことに、同じようなことに遭遇した。驚愕してともある。

H 12ページ、小松の前世が森の木でも驚かない。

S これは何に驚いているか分からない。

 前世からの伝言とか、死んだ人がこの会場に来ているとか、この前世というのもブラヴァツキー夫人かなあ。降霊術とかこっくりさんをする。

Y オカルトとかもそれですか。あんまり神聖な感じがしない。

S この心霊主義にはコナン・ドイルとか、ルイス・キャロルとか、ウイリアム・ジェームズとか、いろいろな超有名人が関わっている。ユングも関係する。

H 三島由紀夫がある時期UFOに凝っている。

S そう今のオカルトやニューエイジオウム真理教などの源流になっていて、心理学や宗教学などがみんなここで混合していた。

 現今も大流行中だと思う、研究書もたくさん出てよく読まれている。この風潮をとりあげて、驚きに充ちているという小説のテーマにしているとすると、これはかなり面白いことになる。

H 26ページ、ラガーフェルドに似ている人が、私のあくびの音にびっくりした。

S あくびがどうしてそんなに大きな音になるのか。

H ここに書いてあるところでは、生まれてからこれまでで最大のあくびで、遠吠えのように大きな音とある。驚きの逆で退屈が出てくる?

K ラガーは犬だと思ったのじゃないの。

H 23ページにも、ラガーの連れている犬があのダルメシアンだったので驚いた。話は離れるのですが、犬と通じ合うみたいな話と最近よく読むような気がするんですが・・・町田康が『ホサナ』を書いて犬と交信できるという話だった、先回読んだ『月の客』も犬が出てくる。

S 犬に祟られている? ピピピのところの場面、よく分からないのだけれど。

Y ピピピという音が聞こえてきて、犬のことを呼んでいるのかと思い・・・

S ダルメシアンは結構大きくて、ピピという小犬の感じではないのだけれど・・・場面がちぐはぐで異様な気がする。電話している人は全く平常普通で、ピピの音を真似ている私の方が驚いているというのも変。勝手に音の真似して、勝手にダルメシアンだと言って驚いている。

Y バグった感じ?世界がバグってしまう感覚、ぐらっと歪んでしまう、その瞬間に、普通ではあり得ないことを、見てしまう。

S  世界がバグっている、そのとおりだね。

H 文章はものすごく技巧的に、そのずれが埋まるように書いている。

S 文章自体は正確にちゃんと壊れずに書いているのに、意味が壊れている、世界が壊れている。

H 読んだときには普通の文章であるのに、なんで違和感があるのかなと読んでいくと、こうも読めるし違うようにも読めるゆれを含んでいる。ものすごく上手。

S ここは特にバグが大きくて、異様な場面だった。

H 33ページ、雪の中で見覚えのあるオッサンに声をかけるところ。ここは複雑な場面で、3月4日の冒頭は「突然気がついたら荒野にいた」とあって、そういえば前に一度こういうことがあった。その出来事というのは、専門学校の講演の壇上で酒を飲んでいたら、気がついたら東北、新潟の街を歩いていて驚いた。

S これテレビのドキュメンタリーの場面の中にジャック・イン、没入してしまう話。ジャックインというのは『マトリックス』の用語。

K 東北の吹雪の光景は、NHKのドキュメンタリーで見覚えがあったとある。

S 新潟の街中という現実と、NHKのドキュメンタリーの中の風景と、その二つの間を飛び越えてつないでしまう話。その飛び越えが驚きであるというのはよく分かる。魔法のようなともある。

H 48ページ、中華屋のカレンダーが5日ではなく次の日になっていた。

S これも時間の飛び越えの驚き。

H 45ページから47までいくつか驚きがある。

S 45ページは時間、「逆回転」とか「時間が逆に進むと」とある。

H こんな急に雨になるはずがないのにとあり、時間が飛んでいる感じがある。

S 46ページは音、スヌーピーが向こうの世界から落っこちて来た音のように思えるんだけど。

Y だから誰も気づいていない。

K だから誰も片付けない。

S このクマのぬいぐるみも、ベトナム戦争の特集のページの写真の中から、こちらの世界に来る。写真とか映像というのは、ほかの世界からこの現実の中に、ものがジャックインしてくる、飛び込んでくる、そもそも、写真とはそういうものではないか? 私たちはそのことを忘れているから、安全だと思って写真を見ているけれど、実は非常に危険な驚きのあるものなのではないか?

Y わたしたちはもうすでに刺激慣れしている。

S テレビだけでなく画集や写真集は、未知の世界から得体の知れないいろいろなものが私たちの現実に落っこちてくる。それに気がついただけでもこの小説を読んだ甲斐がある。

H 異世界からジャックインしてくるというのは、鏡の向こうとか、窓の外を眺めているというのも同じですね。

S この驚きの感覚を取り戻そうとする小説。これは面白くなってきた。

Y だいぶ鈍くなってきた感性を取り戻す。

S 犬はそういう世界を出入りできるのではないかな。『吾輩は猫である』の猫も垣根の穴から出入りして情報をもたらす。

K もしかしたらサイズが問題になりますか。犬から見たり、猫から見ると、サイズが違う。

S 異世界へくぐって入るときにサイズが違うというのがある。サイズの問題はとても面白い。鼠浄土なんていう話があって、家の土間の隅に穴があって、そこにひょいと陥ると鼠の世界や蟻の世界があって、そこで一生を幸福に暮らして、帰ってくるとほんの数日しか経っていない。

H 最後の方に(p.60)、小松のサイズが違っている。トムとジェリーのように、ハンマーで叩かれて変なサイズ感になっている。

Y ひしゃげている。

S 小松は本当に踏んだり蹴ったりで、中原にぴったりくっついて原稿を待っているんだけれど、まかれてしまうんだね。私は小松をまいて逃げてジャージャー麺を食べに行ってしまう。

H 50ページ、おにぎりの種類が多い。51ページにはコンビニでスパイスガールを見たのに驚いたとある。5人組の有名な女性グループらしい。

S これ、ありえない出来事では? この人だけがそうだと思っていて、何かを見間違えているか、思い違いしている、そう思い込んでいるだけという印象がちょっとする。一種の電波系妄想。

H 一回目にコンビニに入ったとき、5人の女性のアイドルグループのポスターがあった、あれじゃないか。18ページのポスター。

S これだ、ポスターから現実に入り込んでくる話か。だいぶこれで分かってきたぞ。はっきりとした対応がある。日記をはさんで対応しているのかな。

Y あれ!スパイスガールズに会った瞬間からこの人の存在は消えているのではないかな。

S ここのアスタリスクはどうなっている?日記のあとで変質が大きくなっている?日記の後の方がバグが大きくなっている感じがする。

H アスタリスクについて言うと、アスタリスクのあるところのあとには時間の表示がある。はじめのところだと、「意を決してはじめたのに行き詰まった」という時間の変質がある。時間が断絶しているとか、途切れている。「いつの間にか終わって」とか。

S いつのまにか過ぎ去る時間というのは重要な指標。知らないうちに過ぎ去っているということは、その間に何が起こっても、何が入り込んできても不思議ではない。その隙間をアスタリスクが示している。アスタリスクのところで時間空間の落差がある。小説の冒頭がアスタリスクというのもかなり変。

H 最初から断絶がある。

H 52ページは建物が寂れて古びている。

S これも時間の経過が圧縮されている。

Y 浦島状態。

S 家もはっと気づくと30年分ぐらい古くなっているのに気づいたりする。いつのまにか経ってしまった時間。「リップヴァンウィンクル」のように、時間の落差がある。あるいは『インセプション』も同じ。

K 相手が古びているのは気づくけれど、自分も古びているのは気づかない。

Y 日記自体も誰かに植え付けられた?

S 塗り替えられた記憶の可能性もあるかも。

H 54ページには、スパイスガールに会ったというと小松の驚いた顔がある。

S その後には留守の間に急激な経年劣化のガスがまかれたとある。このあたり、心霊ムードとか心霊現象とか、金縛りとか、スピリチュアリズムのあやしい単語が並んでいる。

H 59ページ、小松が登場して、特に驚くことはない、しかし、小松が意地悪い人物に見えるので驚くという例がある。

Y 30ページのドンドンドンという音が怪しい。31ページから日記に入る。

S ええと、ポルターガイストとかラップ音?

Y 日記のところはトランス状態なんでしょうかね。

S よく分からないのだけれど、あの現象を書くためにわざわざ書いている日記。あの現象というのは多分ないのではないかな。あの現象はなくて、日記だけがあるという感じがある。日記があの現象があったというアリバイ工作になっている。嘘日記の可能性があるかな。

H 名刺を作っている女の人がいて、小松の名刺の数字が魅力的で、考古学をしていてエジプトに行って神秘体験があって、それを元にしたので数字が魅力的だとある。この場合も、神秘体験はなかったかもしれないが、名刺の数字はある。あの現象はなかったかもしれないが日記は残っているというのと似ている。

H 対話にしても、うまく繋がらない場面が多い。例えば、編集部に戻って小松と再会するところ、小松がいやな顔をしていたとあるが別にスパイスガールズが嫌いだからというわけではないのに嫌いなんですかと言う。ピピのところも場面が成り立っていない。他者がいるのに対話が成り立っていない。

 日記の中で交わるという言い方がある。45ページに「視線は決して交わることはないはずだった。」ということは、交わる瞬間があったということになる。可能性を秘めている場面ではないか、ここが気になる。

S これ、相席でチャーハンとジャージャー麺を食べているけれど、まったく食い違っている例、交わらない話のような。

H 特に大きなずれがあるのは、37ページから、一度だけ行ったことのある中華屋でジャージャー麺を食べようと思って行った。ところが、「この店で私は次に来ることがあったとしても、チャーハンだけは二度と注文しないだろう」というのがちょっと変で、ズレている。

S  一度この店に来て、大半の客と同じようにチャーハンを注文した。この男と自分は同一人物か? 自分が自分に会ってしまったということ?

H なんかオーバーラップしている。向かい合って食べているような。

S  時間だけずれている。前に座っているのは、前に来てチャーハンを注文した自分で、 今自分は2度目に来ていて、チャーハンは止めてジャージャー麺を食べている。それか。異次元の自分が出会うと消滅するというのがある。この店は、過去と現在が同時に現象する。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『月の客』その3

【犬について】

Y 犬がたくさん出てくるのですが、何でそんなに出てくる? 作品の中で個別に意識されていない犬が何匹も入れ替わって出てきて、何匹目かは忘れたけれど犬は主人公とずっと一緒にいて、守って、脇に寄り添っている。

S 何匹も入れ替わるということが重要かな。奥さんも4人いたり、個別性が、あるところで一般性に変わる。

 犬という生き物は、個別なんだけれど一般でもあるという特色を持っているのではないかな。同じ名前で何世代も違う犬を飼っていたりする。違うのに同じ名前で呼び続けると、同じ犬を飼い続けているようにも思える。

K 一般の犬は漢字の犬で、トシの犬はひらがなの書き分けがある(p.3)。

Y 170ページのところと、トシの最初の犬(p.30)の例がある。

H いろいろなものが混じり合っているけれど、音だと分からないが漢字とひらがなカタカナはかき分けられて区別が生じる。お母さんはカタカナしか書かないし、ラザロはどうだったか。

S ラザロは文字を学んでしまった。

H 句読点のないトシの語りから、文字によって明確になり、誰が語っているかが分かるのではないか。文字によって個別性が取り戻されるというのは、以前の山下澄人の作品でも話題になった。

S 基本それでいいと思うけれど、152ページの句読点がない文はトシの語りだと思うけれど、なぜ句読点がない? 回想? 157に入ると改行と読点が加わり目前のマッサンの描写になる。夢の中で夢を見ているような描写の時に句読点がなくなっている。

H 句読点の有無は、トシの語りの特色ではなく、回想とか夢の語りの特色だということですね。

S 句読点と書き分けについては、まだよく整理できていない。

【未来の回想】

S 例えば、大人になったらここへ来てマンホールを開けようというのは、これ半分回想だよね? 夢の中で、未来を回想している感じがする。時制が入れ子になって二重化している。子どもの頃を回想しているのだけれど、そこで大人になったらマンホールを開けに来ようという未来のことを言っている、過去なのに未来のことを言っている、これを未来の回想と呼びたい。

 これは、以前読んだ「率直に言って覚えていないのだ」の夢の中の夢の話法とよく似ている。回想なのに未来のことを述べている。

 たしかこのマンホールは作品の中で3回出てきて、最初と、最後と、もう一カ所、川縁でマンホールが出ていた。子どもの頃には手ですぐ開けられた。子どもには簡単に開けられるのに、大人は重くて開けられない。

 これは黄泉の国の入り口で、いざなみといざなぎが争って岩で塞いでしまった、それ以降、死者の国との行き来は途絶えてしまったという坂の話。この小説は、坂とマンホールが最初と最後に出てきて、トシとサナによって黄泉の国との行き来を可能にした小説ということになる。震災で死んだ人と出会うことができる小説になる。

K 黄泉の国と月の世界とはどういう関係になるのだろう?

S 天上他界と地下他界かな。月の世界は砂漠の話と関係があるようだ。

K 砂漠の話は、先回読んだ三島由紀夫が蛇になる森茉莉の話を思い出させる。

S 森茉莉の小説は『星の王子さま』に由来しているのかもしれない。蛇に噛まれて死んで自分の星に戻ることができる。あれを大人の絵本として読むというのがかなり昔から、1960年代にはすでにあった。

K 安冨歩星の王子さまについて何か書いていた。

Y 箱根にはミュージアムができている。1999年の開館。

 S 天上他界と地下他界、一方はキリスト教的、一方は日本神話で、その両方を二重に出したのは、どうしてかな。

Y より多い死者を救うため? 洞穴から子どものラザロが光り輝いて出てくる。ヨハネ福音書には、洞穴からハーイと言って出てくる。

S 日本神話だと洞穴から出てくるのは天照大神なんだけれどなあ。ラザロの絵は色々あって、洞穴から出てくるとか、棺桶から起き上がるというのが通用している。

Y 聖書の一節に洞穴というツールが出てくるらしいくらいの感じで納得する。でも、それこそ、じゃあ、この物語で、なんでこんなに洞穴というものが舞台に選ばれたんだろう?ちょっと不思議。

【トトロの森】

S それは黄泉の坂です。

K トシは黄泉の坂で暮らしていたということですか?

S そういうことです。確認すると、黄泉の坂はどこにあるかというと、大きな楠のある神社の辺にある。これが宮崎駿の世界、そう思わない?非常に大きくて、一本だけで森になるほど大きい楠。その木に登って眺めると洞穴が見つかる、特殊な場所。

Y それを聞くとトトロですね。

S 宮崎駿の世界。神社にはせむし男の番人がいて保護者としてトシとサナを守ってくれる。『千と千尋』も、入り口の番人は、主人公に厳しいけれど守ってくれるでしょ。

Y トトロにも神社があって楠がある。メイが迷い込んで、楠の根本に穴があって、そこに転がり込むとトトロがいる。

S まさしくこれはトトロの世界。

Y 気がつかなかった。川沿いも三途の川ですか。

S そもそも宮崎駿がそういう日本神話に由来した書き方をしている。このトトロの世界と月の砂漠の世界は、この小説にはめ込まれたユニットのように見える。

Y ちょっと浮いている? トシは黄泉の世界と生の世界の境界に住んでいて、大人になっても住めるということがすごい。

S 心ある大人は見える、子どもの心を失わない大人には見える、ということでしょう。大人子ども。

S トシとサナは筋向かいに住んでいた幼なじみだった。酒屋に養子へやられて、洞穴暮らし、施設に入ったり、サーカスで犬少年をしたり、マッサンのゴム工場で働いたりしていた。

K 酒屋に行ったのは、小学校に上がる前、ランドセルを用意されていたから。

S トシは白髪の老人の姿にもなっている。いつまでも子どものようでもあるし年寄りにも見えて、年齢がよく分からない。サナも16才なのに50過ぎに見えたりする。子どもで大人。

【おわりに】

S 出てくる人々がみな何かしらの欠損がある。これが震災後の世界の人間像だということになる。人間がぶっ壊れている。

Y 戦後というイメージがすごくきたのは、そういうところからだろう。見世物小屋でしか生きられない人だったり。

S それは2011年のあの震災が、あなたたちにとってそれほど強烈な印象を与えなかったということだろうか? 

Y ショックはショックだったと思うけれど・・・怖いという思いはある。

S 怖かったという思いはあっても、こういう風に、身体がねじれたり、折れたり、一種不具の感じは持てないわけですね?

 この欠損は、何かの比喩とか思想として読まざるを得ないのではないか。

Y 親が死んだとか、自分の家がなくなったとか? そういう象徴としてですか?

S あるいは自然が汚染されたとか、直接に怪我をしたり、手足を失ったりではなく、一種取り返しがつかない、失ってしまった、ぶっ壊れたんだね、ぶっ壊れたとしか言い様がない。

Y そういうダメージはなかった。東北の人たちのほうが桁違いに衝撃的なことだったろうと思います。

S 不思議なことに、地震のことは書かれているのに放射能については一切書いていない。これはどうしてだろう? この欠損はもしかして放射能の比喩になっているのでは。

K ああ、なるほど。

Y 放射能について書いてあってもよいはず。誰しもに平等に何かしらの影響があるという意味でいうと、すごくそうだと思います。戦後? 爆弾でも落ちた? そうでもないと納得がいかなかった、つじつまがあわなかった。

S  身体の欠損で一番印象がまだ残っているのは白衣の傷痍軍人だから戦後という印象が出てくる。しかし戦後ではない。

 放射能が降り注いで、あらゆる人たちが欠損している、そういう小説ではないか。

Y アイスピックの男たちの顔が崩れている(p.82)というのがある。ケロイドを思い出させる。

S 一切放射能を書かないことで、欠損の理由を読者に推測させる。『はだしのゲン』が思い出されたのも、皆同じようにお腹が膨れて血を流すというのも、つまり原爆症だから。

 キリスト教や日本神話が引っ張り出されるのはこれが世界的危機だからだろう。キリスト教でも日本神話でも救いようがないことを、山下澄人は小説で救おうとしている。

Y サナはどうしてあんなに大きくなってしまうのでしょう?

S どんどん食べて大きくなってしまう妖怪の一人では。たとえば『千と千尋』に出てくる人間が捨てた汚れやゴミで巨大に膨れ上がったオクサレ様のような妖怪=神様ではないか。オクサレ様は『ゲゲゲの鬼太郎』の土ころびから来ているみたいだけれど。

Y 山下澄人さんはそんなに宮崎駿がお好きなんですか。

S  一定年齢以上の大人は、みな宮崎駿の影響から逃れられないのでは。星の王子さまからもね。サナは、性器をあらわにして踊った天鈿女命天ではないかなあ。そうするとトシは大歳神とか。そういう日本神話も宮崎駿経由でしか入ってこなくなった。

S あとは蟻の巣を掘っていたトシのところに来て足で踏み潰した男の子がいたね。蟻にとってはトシがしたか男の子がしたか区別がつかないだろうと。トシは男の子の顔をナイフで切る。

 このエピソードからこの小説は東北大震災の比喩だなと思った。誰が加害者かを確かに指し示すことができない。東電とか政府とか誘致地方公共団体か東京都民かとか。あとになって男の子の兄がトシに向かって顔を切らせろと言ってくる。ほんとに具体的な最低限の倫理しか手元に残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『月の客』 その2

【ラザロ】

S それから、もちろん生と死が融合している。

K イエスが呼ぶとラザロが復活した。ラザロがいるところにはイエスがいるということらしい。

S ラザロ=イエスではないの? ラザロの居るところイエスがいる。そしてイエスは復活したからイエスなんでしょ、そうすると復活したラザロはイエスでしょ?ラザロはなぜ復活したの?

Y 聞いたところではラザロはラザロで、イエスの弟子であって、イエスとは別です。

K 本文でも、「てか主て誰/イエスさん?/あれは、主/ちゃうな・・・主イエスキリスト/ていうもんな」(p.144)というような問答がある。

Y なぜラザロの名をわざわざ出したのか。復活の象徴がラザロだから、ほかの日本宗教ではあまり見当たらないから。作品の中で神を出して、神の思想の中に復活というキーワードを入れたいから、キリスト教が選ばれたのかなと。

K 宇宙の作り手としてキリスト教の方が地方性が少ない? 復活は、「もうしばらくはこのまま続く」という終わりと繋がっている。災害によって死滅することなく、復活後も生命が続いていくということかと。

S ラザロはイエスの人間化した姿、より人間的なイエスということにならないかな。普遍と特殊でいうと、ラザロという特殊であるとともにイエスという普遍にも繋がっている。それでラザロを出してきている。

 もともとイエスは神と人間の間の存在。ところがイエスがどんどん偉くなって、神になっていくと、より人間に近い存在が必要になる、それがラザロではないか。

 イエスは、神という普遍と人間という特殊を結びつける存在、神と人間の半々の人、普遍と特殊が一致する神。『ルンタ』でも半分の人、半々に分け持つ人が出ていた。

S そのほか男と女の融合がある。喜一とラザロが男と男でどうして子どもが出来ないのかと言ったり、男と女の性器を両方もっているというのがある。

【月の客】

H 語り手が交代していって誰が語っているか分からなくなる。この語り手の交代が題名と関係しているのではないか。

去来抄』に、岩鼻やここにも一人月の客という俳句について、月の客が誰のことか芭蕉と議論になったという。岩鼻に先客が居て、ここにも一人月の客がいますよという句であるか。芭蕉は、いろいろなところで月を見ている客がいて、この岩鼻で月を見る私もその一人だという方が、理解が広がると言った。

 月の客がいろいろな人に読めるというのが、語り手が交代するというのと呼応しているのだと思う。たくさんの月の客という普遍と、この岩鼻の月の客である私とが、たがいに交代して読み換えることが出来る。

S 普遍と特殊の一致の原型が芭蕉にあるという発見だね。

 ただ、語り手が変わるというのがよく確認できない。たとえば、サナのところははっきりサナの番だと言って語り手が交代している(p.36)。このサナは見出しだと思って見ていたのだけれど・・・

K 3行空けているから見出し?

S 4行、5行あいているところもあって、つまり本文と見出しの区別がない書き方をしているのかも。「穴の底にいる」というのも一瞬見出しのような気がした。

Y 映画監督と登場人物が同軸で一貫化するような。

S サナのところだけは少し特殊で、「私の番やね」というのが、死者の語りではないかな。死体がたくさんある中で、今度は私の番だねと言って、自分がどう生まれて死んでいったかを語っているような。

 マッサンのところはマッサン自身が語っているというのではなく、これもトシの語りになっている。

 マッサンというのは震災のあとで復興して工場を再開してそして死んでしまう。切ない、涙なしにはこの小説は読めなかった。迫って来て逃れられない、自分もその一人だという思いがして、涙を禁じ得ない。

 一人一人は無念のまま死んでいくしかない、しかし、誰かが生き延びて生きていく、これは希望の書き方でもあると思う。

Y 167ページの男が来た女が来たが延々と続くところ。今まで一人一人がクローズアップされてきたのに、一気にここで無名の人々の量に圧倒されました。

S これ津波を逃れて逃げていく人、あるいは死んでしまった人々がざくざくと歩いている。車の音がするというのも、車を連ねて逃げる人々の後を津波が追いかけるというのを思い出させた。

 

 

 

 

 

『月の客』 山下澄人 2019年9月初出、2020年6月10日刊 20201114読書会テープ

【はじめに】

  1996年に初演された野田秀樹の『赤鬼』2020年版が公開されているので、最初の方だけ見ていたのだけれど、20年ぐらい前の『半神』と比較して案外だった。『半神』は萩尾望都の漫画が原作で、1886年に初演されているから、初演で言うと10年の差がある。

 台詞が短く、ことわざのようになってしまっていて、かつ、あまりよく聞こえない。抽象度の高い文章語を機関銃で頭の中に叩き込まれるような明晰な台詞はどこへいってしまったのだろう?という印象をもった。もしかしたら台詞が劣化している?

  山下澄人もまた富良野塾という演劇集団出身で演劇から小説へ移ってきた。演劇の言葉とは異なる使い方を小説で試みているようだ。同じように、台詞は短く、言葉は壊れている。しかし、これは劣化ではないだろう。では、どういう小説言語かという問いを提起しよう。

【普遍かつ特殊】

Y 私、山下澄人の他の作品をまだ触ってないので分からないんですけど、これが最新作なんですね。日本語の設定自体を、そもそも日本語が不自由な人たち、教育に恵まれなかったとか、人とコミニケーションを避けるように生きてきたような人たちが主役であるからこういう喋り方をするんだよっていうふうな感じに見えた。これが山下澄人が書ける日本語ってわけじゃないからねみたいな。

 演劇にしても小説にしても、できるだけ言葉を短く、簡単に、誰でもわかるようにっていうのは結構3 、4年くらい前から言われている流れで、それに合わせた作品。だから、フィーリングで読めばいいのかな、エモいとか。

S 出ましたフィーリング。

 もう一つの提言として、『月の客』は東北大震災の9周年、弔いの書だと思う。地震があるでしょう?

Y 東北大震災とは思わなかった、関東大震災かなと。それには理由があって、お腹が膨れて、血を吐いたり、お腹が痛いと言っていて、不衛生な状態で、その症状って何かというと、腸チフスだろうと教えてもらって、チフスは昭和の初期から戦後にかけて流行したとあるので。

S 震災は、関東大震災に特定してもよいし、震災一般として考えてもよい。

K 関西弁だから神戸大震災かと。

S そのお腹が膨れて血を吐くというのは、広島の『はだしのゲン』を思い出させないか?

Y 小学校の時に全部読んだのですが、それを読んでいたから戦後の印象があったのかも知れない。

S 食料がなくてお腹が膨れるというのは、日中戦争での兵士、あるいはもっと古典では小野小町の九相図がある。

Y 腸チフスについてですが、みんな同じようにお腹が痛いといって死んでいったので、感染症じゃないかと思ったのです。人から人へ感染した。

K 感染のわりには、ずいぶん時間が経っている。

S 感染したという風には思えなかった。それとは別に細菌という言葉が出ていて(p.139)、マッサンのゴム工場のあと。これが現今のコロナヴィールスの反映かなと。

 東北大震災9周年と私は特定したけれど、関東大震災でもあり、戦後でもあり、神戸大震災でもあり、コロナ禍でもある。普遍と一回一回の特殊が同じものとして扱われている。普遍と特殊が一致してしまうという書き方が特色だと思う。これがこの小説の書き方。

Y どの世界でも通用する、

S でも、その細部を見ると、私が経験したあの混乱。

H  震災にも戦後にも読めるというのは、この文体でないと書けない。この場面はここの話でというような棲み分けをちゃんとしない書き方、いろいろなものが同時に入ってくる。

S 普遍と特殊が一致する書き方、いろいろなものが融合している書き方。まずは時制の例。「た」と「る」は、簡単に言うと過去と現在、それが同時に使われる。

K 「た」と「る」が同時に使われているところが何度もあった。同じ事が何度も繰り返されるということでしょうか?

S それだと過去と現在が区別されて反復されていることになってしまう。そうではなくて、例えば、「ここからはじまる、はじまった」(p.4)というように、同時に「た」と「る」が使われる。

Y 並列されて、言い直されているところですね。

S 過去と現在の区別をなくする書き方。はじまると書けば、現在のことを言っていることに確定してしまう、はじまったと書けば過去のことを言っていることに確定してしまう。だから、はじまるもはじまったも区別がないから、並列して書かなければならない。過去のことは現在であり、現在のことは過去である。区別をなくす書き方。

 ほかにも、死ぬ死なないというように正反対のことを並列する書き方がある。

Y 雪の町だった、雪の町ではなかった(p.94)。思い出している過程を書いている?

S これどちらでもいい、私たちは区別して、分類してちゃんと覚えておこうとするけど、この文章は、それを区別させないように書いている。

Y どの街でもいけるように、誰の記憶にも寄り添えるように。

H だから普遍と特殊が混ざる。

S そういう書き方でしか、あのような大量の死者たちを弔うことができない。大量の名もない死者だね。誰か特定の人が死んだということを弔うなら特殊な例だけでいい。ところが非常に大量の人が死んだという場合には、それでは済まない。何か手法が要る。つまり、特殊と一般が一致しないと弔えない、書けない。

 ほかにも、ものと人が融合する書き方。例は?

Y 毛布と自分。熱が出たときには、毛布と一緒になって熱で溶けていく。

K 鏡に映ったソファー。

S 融合の例は、ほかにも、動物と人間の区別がない。

K 犬少年の犬の言葉がほかの犬にも通じている。

S 犬の骨を食べる。トシが犬の顔になる。蛇と女。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川端康成 「散りぬるを」 20200927読書会テープ

【はじめに】

「片腕」を三島由紀夫が絶賛しているので、新潮文庫の『眠れる美女』を購入したが、その中で「散りぬるを」(1933)がもっとも面白かったのでこれを取りあげることにした。代表作の「雪国」(1948)よりかなり早い戦前の同人誌時代の作品。ノーベル文学賞受賞は1968年。

 5年前に殺人事件があって滝子と蔦子という若い女性が殺される。二人は作家の内弟子になって二人で一軒家に住んでいた。滝子は艶麗な23才、蔦子は清麗な21才、ともに文学に志があった。山辺三郎という近所に住む25才の男が二人と顔見知りで、ある晩二人を訪ねて来て話し込み殺してしまう。理由はよく分からない、冗談で驚かそうとするうちに殺してしまった。その三郎も昨年獄死してしまった。当時34才だった作家は、二人のうちどちらをより愛していたとか妄想をたくましくしていたが関係はない。三郎も二人のどちらとも性的関係はなかった。その殺人事件を作家が調書や精神鑑定書などを引用しながら再構成した作品。

 1924年に雑誌「文芸時代」を川端康成(1899~1972)とともに発刊した中河与一(1897~1994)という作家がいる。代表作は「天の夕顔」(1938)、人妻への愛を生涯にわたって抱き続ける青年のきわめてロマンチックな恋物語。また、中河は、1935年に新聞に発表された「偶然の毛毬」からはじまる偶然文学論の論客であったが、川端の「散りぬるを」(1933)は、この偶然文学論のごく近いところで執筆されたものと推測される。ハイゼルベルグの量子物理学にもとづいた中河の偶然論の評価はあまり芳しくないようである。その後、中河は国粋文学へ傾倒してゆく。一方、晩年の川端は、1971年の東京都知事選で自民党推薦の秦野彰を応援して選挙カーに乗って演説までするが、ストップ・ザ・サトウを掲げる美濃部亮吉に大敗。翌1972年、ガスホースを咥えて自殺する。

【偶然の殺人】

 

 

 

フローベール 「ヘロディアス」 20200913読書会テープ

【はじめに】

 使用した本文は、『三つの物語』、谷口亜沙子翻訳・解説の光文社古典新訳文庫

サロメ

S さて、どこがなぜ分かりにくかった?

K キリスト教誕生の頃のユダヤ史やローマの支配について知識がないから、分かりにくい。こちらから見るとどの登場人物もユダヤで、それほど区別があるとは思えない。

S 解説によると、ユダヤキリスト教関係の知識を知らないことはこの小説を読むことにさほど問題にならないという。こういう解説ははじめてで、フローベールの読み方としてとても優れているんじゃないかな。注もつけてよいかつけない方がよいかを熟考している。

K 背景を知らないから分からないのではなく、小説そのものを読めていないから分からないというのがはっきりする。

S 私たちは先回「エミリーの薔薇」を読んでいるから、読みやすくなったのでは。エミリー自身はほとんど語らず、語ったとしても伝聞でしかなく、まわりの人々によって事実とも嘘ともつかない噂話として出来事が開示される。

Y サロメがなぜ出てきて、何のためにヨカナーンの首を望んだかも分からない。

K 指を鳴らしてヘロディアスがサロメに合図した。それで何を要求するかを決めた。この経緯によって、ヨカナーンの首が欲しいというのが母親の命令であると想像できる。「娘は上へとあがってゆき、再び広間に姿を現した」とあって、母ヘロディアスがそこにいると考えられるから。

S サロメの意志ではなく、黒幕はヘロディアスであることがこれで分かる。では、そもそもなぜヘロディアスはヨカナーンを殺したいのか?

Y ひどく呪われたということがある。

K 罵詈雑言を翻訳して2回聞かされたとある。

Y  ヘロディアスの望みは王となることで、そのために国を捨て、夫も娘も置いてアンティパスのもとに来て、アンティパスにトップをとってほしいのだが、アンティパスは幽閉している預言者カナーンを持て余しているので、預言者がじゃまで消したいと思っていた。

K ヨカナーンが民衆の心を集めているということがある。

 【マカエラス要塞】

S 基本対立を確認しておくと、場所は死海の東方にあるマカエラスの要塞で、イエメンの方からアラブの軍勢が迫っている。その要塞の領主ヘロデ・アンティパスは、ローマの支配を頂いており、シリアのウィテリウスの援軍を待ちかねている。それから、アンティパスはアラブの妻を離縁して、兄の妻だったユダヤの名門の娘ヘロディアスを妻とした。さらに、ユダヤのさまざまな宗派の人々がいて、そのなかの一人がヨカナーン

 王の称号をそれぞれ皆ほしがっていて、この四分領主というアンティパスの称号が意味深い背景になっている。アンティパスよりさらに欲しがっているのはヘロディアスで、さらにもう一人アグリッパという名前だけ出ている弟もいてこれも王の称号を獲得することを望んでいる。

 こういう地上の権力争いの座標軸に並んで、キリスト教の誕生という宗教的座標軸がある。

 これらの人々の区別の指標の一つとして偶像崇拝がある。アラブは偶像崇拝をしない。ユダヤキリスト教はどうだろう? アンティパスは偶像崇拝を受け入れたとあり、これがアンティパスの特色となっている。

K アンティパスの偶像崇拝はローマの習慣で、ローマとユダヤとの間をとりもつことになる。盾にローマの皇帝の像があった。

Y ユダヤ教偶像崇拝はしないし、キリスト教もいろいろあるが基本、偶像崇拝はしない、禁止されているらしい。何かを神としてあがめるのはキリスト教でもだめだということらしい。

S ユダヤ教からキリスト教が分かれるときに、例えば偶像崇拝が微妙な差になる。アラブとローマとは明らかに偶像崇拝がその目に見える差異になっている。ローマの多神教の神々が、キリスト教に塗り替えられていく。

 ユダヤ教はどうしてローマを支配できなかったのだろう? キリスト教がイエス一人でそれをできたのはなぜだろう?

K ユダヤ教はいろいろな宗派が分かれて牽制しあっている。キリスト教の方が多くの人に共通するものをつかまえられたのではないか。

Y ユダヤ人は偉大な預言者を待っていた。それを知らせるのがエリア。エリアは一番偉い預言者で、ヨカナーンがその預言者だと指名したので、それで一挙にキリスト教へ向かっていたといわれている。

「あの方が出るためにはこの身は衰えなければならない」とヨカナーンは言っている。自分が死ぬことによって、あの方の繁栄が可能になると言っている。

S とすれば、ユダヤ教に対してキリスト教が優位をもってローマまで支配していくのは、ヨカナーンが死ぬこと、殺されること、犠牲者の血によって成立しているのではないか。このことがキリスト教に特有の優位性であり特異性であり、ユダヤ教との違いになる。

 イエス・キリストもそういう犠牲者として神と人間の間に立つ人。だから、ヨカナーンによって行われた犠牲を、イエス・キリストがそれをもう一度繰り返すことによって教えが確実なものになったのではないか。ヨカナーンとキリスト、それは一つのことで、この犠牲は、たぶん三位一体のおおもとの形式。

 ヨカナーンが死ぬことによってはじめてキリスト教が成立するし、キリスト教ユダヤ教と異なる宗教として成立する。だから、ヨカナーンはどのようにして殺されたのか、どのように死ぬことになったかということが問題の焦点になる。

 アンティパスはヨカナーンを殺したくなかった、ところが、いろいろあってヨカナーンを殺すことになった。その逆説によってキリスト教を成立させてしまった。アンティパスがやろう、やろうと思っていたことがみな裏目に出て、裏目に出ることによってキリスト教が成立してしまった。することなすこと裏目に出るというのがアンティパス。アンティパスは優柔不断だし、ヨカナーンを殺すのは怖い。

K アンティパスはあとで夜中に一人で泣いている。預言があって重要な人が死ぬといわれていた。 

S アンティパスはなぜ泣くか?

K ユダヤ人の伝説にひかれていたのではないか。ユダヤの伝説が実現して、自分はそれには関わらなかったということ?

S 政治的なメシアとしての自分は何の役割も果たすことなく、精神のメシアとしての「あの方」が意味を持っていくというを自覚したということ?

Y ヘロディアスはどうするか、このあとたぶんアンティパスを捨てますよね、そうすると、トリガーを引いたのは自分だ、あとは自分は落ちていくだけだという涙では。

S 何か大きく歴史的な重大なことが動き出してしまったというのは分かるけれど、どこが、誰が、なぜと考えていくと、直接書いてくれないから予想するしかない。

K ヘロディアスはヨカナーンを殺すことで民衆の動きを自分の思うとおりにできると考えていた。アンティパスは地上の権力にそれほど信用していなかった。

S ヘロディアスは近代人なんだね。地上の権力を信じている。

S ところがキリスト教は奴隷の宗教、弱者の宗教と言われるけれど、王より力をもってローマを支配していく。この逆転がもっとも劇的なキリスト教の逆説のハイライトで、これは私たちには実はよく分からないのかも。西欧世界の根源に、この逆転があるということが分からない。だから日本だと弱者はそっと始末されてしまう。

Y 彼がヨカナーンを殺さなければキリスト教が確立し得なかった。

S そうしないと、そのうち懐柔されて、おだてられて、うまく権力とやっていくことになる。

K 権力側にとりこまれる。

Y 隠蔽もできず。

S サロメの踊りが妖艶で、全員よだれを流して見ていた。そういう人間的欲望に動かされたのがアンティパス。欲望に忠実に動いてしまったというところに小説の主人公の資格がある。王様たちはみなそうで、吐いては食べるとか、みな欲望に従順、これはローマのデュオニソス、快楽主義の系統ではないかな。禁欲的なヨカナーンキリスト教との対立点になる。

 フロベールは恐ろしい作家だね。小説の丈の高さ、スケールの大きさ、人間史とか人類史にとっての重要性というテーマ設定の深さ。このマカエラスの要塞というのは今のパレスチナのあたりでいいかな。

 【ワイルドのサロメ

Y サロメはヨカナーンに恋していて叶えられないから首を求めたというオペラの方が自分の知ってる話。

S それはオスカーワイルドの「サロメ」。ビアズレーの首にキスをしている挿絵で有名。今考えるとワイルドの書いているのはロマンスで、私たちはロマンスの方がずっと理解しやすい。フロベールは、ヘロデ王サロメに恋をしていたとかいうような心情とか情を一切書かずに、歴史そのもの、歴史の大状況を書くところが格が違う。

 サロメがヨカナーンの首を得たことで歴史が動かされてしまう。

 最初に確認したように、サロメは無邪気にそれをやっている。母の意志をうけて、意味もなしにそれをやっている。そういう意図しない偶然が歴史を動かし、それがキリストを成立させてしまうというのは、まさしく歴史の偶然性を描くということ。

Y アンティパスはたぶん何もしない、できなかったはず。それで、歴史上何も起こらなかったこともあり得た。

S そうすると西欧のほとんどのものが生まれなくなる。人権も福祉も。

 本文で、ローマの役人から何か宝を隠しているのではと疑われて、じつはヨカナーンが隠されていた。そうするとヨカナーンキリスト教は西欧の宝ということになる(あとから見てそうなる)。アンティパスは隠していた馬を取られることを心配している。みんな、少しずつズレた悩みで動いている。

Y 意図していない中身とずれた悩みで、歴史が動いてしまう。運命のように。偶然は必然といわれているしなあ。

S 歴史は偶然なのに、それを書く小説は必然でなければならない。この小説を必然として納得するためには、そうとう推測を重ねなければならない。本文から根拠を取り出しにくい。

Y いわゆるフラグが立っていない。

S これは小説としてはまずい書き方になる、どんなに読者が頑張っても根拠が決定しきれずに、何か分からないものがいつも残ってしまう。この一見まずい書き方が、歴史の偶然を必然の小説として書く方法なんだと思う。

Y 最後の3行で逆転するようなのは、作風なんでしょうか。「あの方が栄えるためには」という台詞が最後に書かれている、この言葉がないと、殺されたことがキリスト教繁栄の引き金になったというのが分からないだろう。

K この台詞は前にも出てきた。予定調和ではない書き方。

S 2度繰り返されているので、これがフラグだと分かる。だから最後にヒントを示したということではないかな。最後でひっくり返すというより、最後にヒントを示したのだから、読者はよろしく考えて読みなさいと。

S フロベールは心情ではない書き方をしている。20世紀になると心理学が出てきて、小説が登場人物の心の中をつらつら書いてしまう。フロベールは心情を一切書かないから、読者がそれを考えなければならない、小説の最盛期はやっぱり19世紀なんだと思う。