8月8日 降誕祭のパアティ 森茉莉
8月23日 エミリーへの薔薇 フォークナー
9月27日 散りぬるを 川端康成
10月4日 掌の小説 川端康成 はじめの6編
10月18日 月の客 山下澄人
人生は驚きに充ちている 中原昌也
【はじめに】
両作品は、2001年に刊行された電子ブック『贅沢貧乏』(新潮社)に収録されている。『贅沢貧乏』は、1963年5月に新潮社から単行本として刊行され、1978年4月に増補されて新潮文庫に収められた。初出は、「降誕祭のパアティー」が1964年5月、「文壇紳士たちと魔利」が1962年9月。前者の録音テープは、保存に失敗したので概要だけを示すことにする。
1,マリアや魔利と自称することによって自己の二次元化がはかられている。登場する作家には、容易に実名(ペンネーム)を言い当てることができるような変名を用いている。実在する作家を、リアリズムで描くのではなく、キャラクターとして描こうとしたと思える。
2,第三の新人と呼ばれた、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作を背景にして、三島由紀夫を白蛇の精として際立たせている。第三の新人の特色が身の回りの平凡な出来事を描く私小説であるとすれば、三島由紀夫はエジプトへ行きアラビアの砂漠で女王を咬んで、地球にやってきて少年の時にその白蛇に食われてしまったと森茉莉は書く。私小説作家たちの日常平凡ではなく、もはや地球ですらない、どこにもない空想の西欧・中東世界。これは、少女漫画が繰り返し書いてきた、ここ日本ではなく、ヨーロッパですらない、どこでもない場所を思い出させる。
白いギリシア彫刻を据えたアメリカンな屋敷という混乱した三島邸を偽物として指弾するのではなく、どこにもない空想の外国として見出すのは、森茉莉の少女漫画センスである。
3,同じように、森鴎外の愛娘として観潮楼で催された歌会や竹柏会園遊会で主役として注目された華やかな記憶があり、何をどれほど書こうが、大作家の父を絶対の基準とした娘芸に見えてしまうのであるが、森茉莉はどこでもない空想の園遊会を自分の筆一本でささえている。下妻物語や飛んで埼玉に描かれていくような、少女漫画が作り出したどこでもない場所こそが森茉莉の小説にもっとも近いのではないか。森茉莉の小説は、その先駆あるいは共振と思われる(少女漫画が先だろう?)。
【意識の流れ】
Y 狐に化かされているような。日本語を読んでいるはずであるのに、頭が溶けてしまいそうな。
S これは日本語だろうかというような。
K ナメクジだと言っている。
S 三島由紀夫は1970年に自決して、川端康成も死んでしまうし、深沢七郎は1987年73才まで生きているけれど、「風流夢譚」(1960)事件があって、そのあと1965年まで身を隠して逃亡生活をしていた。事件のあと深沢はいわば社会的に死亡させられている。
つまり、70年代に入ると近代が終わってしまったポストモダンという感じになる。60年代にはまだ近代が現役で生きていた。何が近代かというと、文壇があって、小説家は偉くて、文化の担い手であるという自負をもっていた。1900年のはじめにトルストイが新聞に書くと世界中の人が読む。小説家とか文豪が文化を牽引していた。この森茉莉の「文壇紳士」は、現役の近代文学者、60年代の記録ということになる。
S やたらと読みにくいのは、無意識に自由間接話法になってしまっているから。
K 自分で無意識と言っている。
S 例えばラーメンの話がある。北杜夫が夜中のラーメンはかくも旨いというのを書いていて、森茉莉はラーメンなど大嫌いで、そもそも食べたことがないんじゃないか、それにもかかわらず北杜夫の言葉に共振してラーメンは旨いとなってしまう。他人の感覚への同化能力の高さ、それによって、森茉莉の文章は自然とそのまま自由間接話法になってしまう。
共感能力が高すぎて普通の生活ができないタイプの天才=今だと特異な能力のある発達障害というのかな。
池田満寿夫も岡本太郎も三島もそういう天才タイプ。それがこの小説では、第三の新人の凡庸さに対比されているようだ。
深沢七郎は、天皇タブーの話になりそうだがそういう話にはならない。それはなぜだろう? 60年代の天皇タブーは今よりもっと激烈なところがあったが、70年代になると変質してもっと軽くなっていく。深沢はどう書かれているか?
Y 深沢は、あなたに言われたくない、君も相当面妖だと言いそう。褒めてるのか貶しているのかはっきりしたらいいと思うが。
S 「・・・右翼の動き云々の話は全く気の毒」と言っている。政治的問題一色になっていたはずの深沢を、それとは違う書き方で書いている。
Y マリアが招待状を読んで間違えたとある。
K 熱心に見て間違えた。
S 招待状をよくよく見ていると、見過ぎて間違って30分早く到着してしまう。
S 自己中の文章を読んでいやになるのでしょう。昔、観潮楼で小さな女王様の役割をして、その習慣が今も続いている。それを私たちは、とても読んでいられないということでしょう。
K 当然自分が写真に写ろうとして、そう思われたらいやだとも思う。
Y 文壇にちやほやされた女王様の文章はもういいですっていう感じ。あなたの付き人ではないですと。偉い人の知り合いなのよと言っているわりに実はそうでもない、読んでいると腹が立つと。卑下しているのが鼻につく。
S ところが今回読んでみると、すべてのものが相殺されて、卑下慢とかいやな感じが一切ない。それはなぜだろうと。
K 違う世界の人だから。63才の永遠の少女。
Y 経験値が少ないのだろう。パー子さんみたいなのかな。天然のお姫様。
S 鴎外の娘だから特別扱いされているということだろうけれど、この60年代の文士を見るとかなりの部分が二世ではないか。北杜夫とか萩原葉子とか。とくに文豪の娘という呪いがある。太宰の娘二人も、井上荒野とか、朝吹登水子とか。
「父親の名が重荷で苦しいなら、書かぬがよかろう」という漱石の言葉をわざわざ引いている。つまりそういうプレッシャーを負ってなお小説家となって書いていることに私は脱帽する。60年代の文士は、命賭けて文学をしている、そのために一生を棒に振るという風にものを書いている。そういう文士に匹敵するエネルギーが文豪の娘の呪いにはある。
そういう相互理解が60年代の文士にはあったのでは。たとえば60年代文士は自殺する。川端も三島も、江藤淳も、最近の西部も。70年代になると作家の自殺は流行らない。職業になってしまった。
K 一行でも書けるかも知れないから家に帰ると言っている。
Y 私たちは上から目線で鴎外の娘のお嬢様芸と見てしまっている。それを逆手にとって書いている。
S 吉行淳之介がどんなにエロ小説といわれようと、一行でも文章が残ればそれでいいというところで文士をやっている。他人の苦しみを自分の苦しみと感じられるという共感能力を手がかりにして、七転八倒いろいろやってみる。そういう文学の時代が終わった。
Y 暗くなるとどんどん暗くなって、これ死ぬなというところまで追い詰められる。文士たちは、それを純度の高い文学と考えていた。そのあと、薄っぺらーい幻想物語を好むようになっていく。
S 70年代は過渡期で、何が可能性になるか分からない。
Y 70年代以降だと、映像やアニメが主導権をとる。
K テレビが普及した。
【サブカル化】
S 30分早く着いた森茉莉は、三島がお父さんの声をしているのを聴いている。子どもに注意する日常の言葉を、あの三島由紀夫が発していることを拾っている。三島はいやだったろうなあ。
Y アニメが薄っぺらいというわけではないのだけれど。
S アニメの表面的なところ、形だけの所に、そこにすべての表現はなければならない。深層とか心の奥底に表現の根拠があったが、アニメはそうではなく表面だけで表現を実現しなければならない。もともとアニメは表面しかないのだから、裏はない。60年代には裏に本物がある心があるというつもりででやっていた。
K 内面だの上から目線だの、神の視点から小説が成り立っていた。それで神もなくなった?
S 神はもともといなかったけれど、表面だけの時代に、神が復活してくるんじゃないか、そこに天皇が復活してくる。三島も深沢も、この60年代に天皇が出てくる。そのあと1980年代の麻原のような偽の神が出てくる、成功しなかったけれど。そういう神としての天皇の必要に対して、平成天皇は人間的すぎたのでは。
Y 三島と一緒に心中してしまった。
S その路線とは別に、三島は、先回に見たように腐女子の創作でアニメ時代を拓いている。
Y サブカル的。二次元化を果たす。
S 男流だと三島がサブカル化しているけれど、女流は、特に文豪の娘たちはサブカル化していない、文士の純血統を継いでいる。
Y 重くて暗い。
S にもかかわらず、森茉莉はサブカル化している。至って素直に地でサブカルであることがすごい。
三島の奥さんをベッティーちゃんと呼んでいるのが、サブカル化のよい例でしょう。アメリカアニメの主人公。
S 「フランス、ヴェルサイユ風にして且又イタリア風の邸宅を構え、ローマから引っ張ってきた、白に輝くアポロンの像の下の、北斗七星を型どるモザイクの上をそぞろ歩く」というゴタ交ぜぶりは、これはつまり少女漫画のどこでもない西欧の表現でしょう?
K 三島邸の悪口。
Y 谷崎潤一郎の幻想王国を作るときの描写とそっくり。
S その通り、そうです、谷崎の「金色の死」で遊園地を作る、西欧への憧れのところが全く重なる。三島は世界一周旅行へ行って実際にヨーロッパを体験している数少ない人だったが、実景のヨーロッパではなく、幻想のヨーロッパ、想像のヨーロッパが大切。その幻想のヨーロッパを受け継いだのは少女漫画。
Y 異世界ものとか、電撃文庫ラノベが描く、ヨーロッパ風だけれどヨーロッパではない世界の源泉がここにある。
S 「ようだ」という問題。
Y それそのものではないけれど、幻想だよという。アラン・ドゥロンのあたり。
S ヨーロッパの偽物ではない「ようだ」という世界を描く。
K 変な大人ぶり、知的なものが本物だと。
Y 何だかよく分からないヨーロッパを描く。それがラノベとして書きやすい。
S サブカル化したヨーロッパ、サブカル化した幻想のヨーロッパ。これが谷崎、三島、森茉莉とつづくサブカル路線。
下町で書くと、懐かしい夏休みの世界になってしまう、異世界や幻想世界にはならない。
【キャラクター】
S こちらは作家のペンネームがそのまま出ている。作家の名前自体がキャラクターだということだろう。森茉莉にはサブカルへの確信がある。
Y キャラクター化させない気がする。現代のなかで消化しきれないものを、サブカル化することで人々に許容させはじめたということかな。
S 作家の名前とはキャラクターであると。文学ストレイドッグスというような作家がキャラクターになっているマンガがあるが、森茉莉はここですでにしている。
室生犀星は、コチコチに固まっている。これ以降室生犀星というとコチコチしか思い浮かばない。三島というと写楽の目としか思わない。岡本太郎は百足としか。この人それでいて作品は全然読んでいない。北杜夫の幽霊なんか全然読んでないと書いてある。つまり60年代文士の小説って面白くも何ともないと言っている。
自分のサブカルの方が人物を余程よく捉えていると。キャラクター化がこの人の方法。
Y 小説に対して二次創作して、そのほうが面白いと言っている?
S ラーメンの例のように、60年代文士の言葉にはとても力がある、喚起力がある、それなのに書いているものはものすごくくだらないと言っている。
K 日本の近代文学は暗くて辛気くさい。そのころ、どくとるマンボウシリーズは読んでいた。
S うーん、そういえば、純文学の一方で、第二分身でエンターティメントを書いていた。純文学北杜夫、エンターティメントどくとるマンボウ。
Y キャラクターというと「吾輩は猫である」の猫もキャラクターですね。
S うん、今で言うと現場猫まで脈々と。元祖キャラクター化が「我が輩は猫」。すべての近代小説は漱石にはじまる。60年代文士のサブカル化で卒論のテーマになるんじゃないか。
K 三島も純文学とサブカル小説を書いている。
S ホモセクシャルも、このサブカル第二分身の一つだったのかな。
【鎖状の連鎖小説】
S 猫は他の漱石作品と比べて非常に読みにくいと感じる。むしろ耳で聴いたほうがよいのではないかと思う。ちょうど落語を聴いているようにすれば、話題がどんどん滑って行くのに乗れる。
落語だとどんなに難しい話題でも耳で聴いて分かるようになっている。そもそも円朝の牡丹灯籠や真景累が淵のような長編怪談の速記本を、言文一致の文章を作るときに参考にしたと言われている。
K それは論理的だということですか。
S ええと、話題がどんどん滑っていくのはどちらかというと非論理的な連想のやりかた。一方で、書き言葉としての特色を持っていて、それは論理的な鎖状の連鎖。6回で猫の皮の話があって、7回には銭湯の裸とカーライルの衣装哲学がある。7回の猫の運動は、8回の猫の垣巡りに連鎖している。
それで、6から8回の話題は、身体の境界領域と家の境界領域。
身体の境界領域は、皮膚や衣服や裸体問題。園遊会で着飾った女性が、買っていらっしゃいという辛辣な観察がある。そもそも律令制度は身分によって衣服の色が異なる。
K 猫が松脂をとるために銭湯へ見に行く。銭湯の脱衣所はもう娑婆になる。しかし、裸になっても、熱いの温いのと一段大きい人が現われて、裸でも平等はありえない。
S 刺青の人も出てきた。今頃また問題になってきた。
Y 排除的な話が出てきた。
S もともと排除的なんだけれど、西洋流のかっこいい運動選手や俳優のタトゥが出てきたから。
K 迷っている。それを全部断ると、観光客へ銭湯見学の案内もできなくなる。
Y オリンピックがなかったらあのままだったと思う。
S ちらほら銭湯にすでに入ってきている。ワンポイントのようなタトゥがちらりと見える。
Y 留学帰りの子が、おへその上とか、水着で見えるところにしている。何でそんなところ、痛くない?と。
S 刺青がどうして問題になるかというと、猫の皮を剥がすことが出来ないように身体から剥がせないこと。それから、長く今も解決がつかないでいて、良いとも悪いともいろいろ揺れて決められないということ。
つまり、良いとも悪いとも決められない曖昧な領域を、皮膚や衣装として備えていて、その時代その場所ごとに互いに交渉して合意を形成するしかない部分であることが重要。これが社会であり、公共空間であるということ。
【家の境界領域】
S それから、7回の猫の運動と8回の垣巡りは、家の境界領域問題。絵図で示したように、二重に垣が巡らされていることが重要。しかし私たちの常識ではこの二重の境界がちょっとよく分からない。
K 誰が固定資産税を払っているかで分かる。
S その境界は線であって領域ではない。境界線に鋲が打ってある。垣根はどちらの所有物かはっきりしている。
K 古い地域だと、登記所と実際の境界がかなりズレていたりする。斜めになっていたりする。
Y ばあちゃんのところもそうだ。
S それは境界線ではなく境界領域になっていませんか。
K 領域にはなっていない。ブロックで塀を作って線になっている。
S 登記上の境界と実際の境界とのずれがあって、そのずれの部分は所有がはっきりしない部分ということになる、つまり、それをここで境界領域と呼んでいる。法律上は自分の土地だけれど実際上は自分の土地ではないというような領域が生じてしまう。それが8回の家の境界領域。
K 大家さんが全部の持主だったらそういうことはいくらもあっただろう。
S それを区切って貸しているから境界問題が生じる。区切って貸すと、どちらの所有に属するか問題が生じる。
それから事務員がここの桐の枝を使って下駄を作る話がある。どうしてそんなことが可能なのか。つまりこの境界領域には入会地のような共有地のような性質がある。
Y 祖母の家は、私道を通らないと奥のBの土地に入れない。小屋を登記していなかったり、疎遠な姉妹であったりして、売ることもできず、水道を引くこともできずに紛糾している。
K 奥の飛び地の人は、私道であっても通過する権利があると聞いている。
Y もともとAもBもばあちゃんの土地で、疎遠な姉妹に貸していたが、その人は死亡したあとその土地をどうするかということになっている。
S つまり、大きな土地を分割して住みだして、時間が過ぎるに従って、所有権や貸借関係がはっきりしなくなり、近代的な登記上の記録とずれが生じて、境界領域が生じてしまうのではないかな。
S 入会地のような土地の所有権は、近代化とともに表沙汰になり問題になる。網野善彦の「無縁・苦界・楽」という本が面白い。バザールのような市場には自治権がある。つまり境界領域にも自治権があるとしたら、自分たちで交渉して決着しなければならない。だから漱石くしゃみ家と落雲館の学生とのボール問題は双方で交渉して解決しなければならない、これが8回の公共空間問題。
Y マンションのエントランスの掃除や鳩の糞なども自治組織で管理しなければならない。L字型の中庭がある。
S ヒッチコックの裏窓という映画だと、足を怪我した男が中庭から向かいの家の裏窓を眺めていて殺人事件らしきものを見てしまう。中庭があるのはヨーロッパ式ではないかな。ヨーロッパも中国もそうで、これが今回のコロナについても、かつてのペストについても管理がしやすい。ロックダウンが簡単にできる。
日本の場合は町内会もマンションも開放空間で、出入りを管理することが難しい。自治も難しいということにならないかな。公共空間の自治の問題。
【東アジアの国際関係】
S この学生とのダムダム弾の戦争も、1900年代の東アジア情勢の反映になるだろうか。
猫の頭をポカリと殴ってみるとみゃーと鳴くというのは、何だか空恐ろしい話だ。
Y 猫は日本だとすると、日本が叩かれたということ?
S ぶってみろと言って、相手が日本語でなければ、何かみゃーみゃー言っているということにならないか、国際関係上の対人関係で、間投詞か副詞の区別が言語によってそれぞれ違っている。
K 三国干渉で遼東半島を吐き出したのは、日本=猫の頭をなぐって反応を見たということか、図に乗るなよということか。
Y ニャーと鳴いてやったというわけだから。
S 注文通り鳴いてやったというのが臥薪嘗胆で、見ていろ、目にもの見せてやるということでしょう。その晩は豚肉三きれと塩焼の頭をもらったとあるから、一番おいしいところは主人に取られてしまったということか。豚肉は中国?三国というのはどこでしたっけ。
K ロシアとドイツとフランス。
S この猫は壺に落ちて自滅するという終わり方をする。このままいくと自滅すると言う予告になるか。
K 日本は滅びるねと「三四郎」で言っている。
Y ビールを飲んで自滅するというのもドイツに一杯食わされるということかも。
Y 8回の垣巡りだと、烏が3羽とまって猫の行く手をふさぐ。これが三国干渉かな。嘴が乙に尖がって何だか天狗の申し子のようだとある。このあたりには見かけぬ顔とか、吾輩には相手にしている余裕がないとか、ニヤニヤしているとか、
S それ西洋人の鉤鼻。烏との神経戦。そうすると垣巡りというのは満州鉄道ということ? いずれこの三羽の烏を排除して日本は満鉄を手に入れることになる。
Y 猫が運動をはじめたというのは戦争をはじめたということ?
S 海水浴や体操は近代軍隊の習慣として持ち込まれた。揃った行動ができるように調練する。右手と右足が一緒に前に出るなんばが伝統的な歩く構えだった。体操で戦争準備をはじめたということだろう。鵯越えの比喩があるから、これも戦争の比喩になっている。
Y カマキリと鼠と戦うのも寓意か。
S カマキリはロシア人?
Y カマキリと蝉はむしゃむしゃ食べたとある。それから魚とアザラシ。
K 植民地は、台湾が一番はじめ、次に韓国、次は中国。
Y 鼠がドイツ、台湾がカマキリ、豚が中国、烏がロシア、フランス、魚が日本の回りの島々のようなキャスティング?
S 夜郎自大な日本の自画像が虎の夢。想像以上に東アジアの国際情勢が反映された風刺小説だということがあらためて思われる。ガリバー旅行記の馬の国のような書き方。
【カーライル】
S 「衣装哲学」(1838年)という本を漱石はよく読んでいた。人間的制度や道徳はその時々身につける衣装に過ぎないというブリタニカの説明がある。日本に生まれたら日本の衣装をつけるしかないし、ロシアに生まれたらロシアの衣装をつけるしかないというのがロマン主義。
これは明朗な普遍主義だね。裸の普遍主義。こういう明朗さはロマン主義にはない。生まれながらの宿命、神国日本とか偉大なドイツ民族とかいう考えだから。猫が運動のあとに銭湯を見に行って裸の価値を見いだすというのは、この明朗な普遍主義への指向だろう。
【日露戦争】
S 主人は泥棒の時は寝込んでいたが、猫と鼠の戦争の夜はさすがに起き出して来た。主人は、一回目に懲りて、二回目は飛び起きた。それによって泥棒の話と猫の戦争の話二つの話が繋がって、対になっていると分かる。
Y 何でいきなり鼠が反撃してくるのかと思ったのですが、対になっていると考えると分かる。
S 普通は猫の方が強いのだけれど。奥さんは本当にずうずうしい猫と言い、たたら君は猫鍋にするとか、それを聞いた猫が一念発起して、ついに鼠を捕ることを決意する。日露戦争の風刺として書かれている。そうすると、猫が日本だとすると、日本が日露戦争をはじめたのは、いろいろな人に馬鹿にされて焚き付けられたからということになるか。
Y それならやってやるわということになった。いろいろな人に馬鹿にされて、これまで虚仮にされたら猫様だってやるんだと。
K しかし思ったより難しかった。
S これが日露戦争の風刺だとすると、他の国に馬鹿にされたという史実はどうなっているだろう。
K 日清戦争(1894-5)に勝ったのに、三国干渉によって遼東半島を取りあげられる。政府は臥薪嘗胆を合い言葉にして日露戦争(1904-5)の準備をはじめる。
S 日比谷焼き討ち事件が1905年9月で、国民が講和に反対しているというのが非常に奇妙。
K マスコミのせいで、今もそうだけれど、戦勝が実際よりもよく伝えられていたから。
S 「猫」は1905年1月から「ホトトギス」に発表され、5回は7月1日号に、6回は9月末に脱稿したという(漱石研究年表)
S 日清・日露戦争は、日本が国際社会にデビューして正当に扱われることを目的にして戦った、それに対して1931年からはじまるアジア太平洋戦争は侵略戦争で、風刺はより難しくなるのではないかな。侵略にはかわりないけれど。( 加藤陽子の[「満州事変から日中戦争へ」によると、中国が条約により日本に認められた権利を尊重しないので正当防衛として満州事変を起こしたと、当時の日本政府や商工業者は考えていたという。)
猫の日露戦争は、多々良君や奥さんにやいのやいの言われて一念発起して鼠をとることになったと書かれている。それなりの理由が立つから風刺の対象になるのでは。
K 煮て食われるよりはやるぞ。やられるならやるぞという。
Y 軍歌を作っている人が、俺たちがやらなかったら俺たちが中国になるのだなあということを言っていた。古関祐而さんという人です。それに比べると、満州事変の方は今のことばで言えば炎上必至。
【泥棒=西洋人】
S 猫の戦争は、バルチック艦隊と東郷大将、旅順などはっきり日露戦争を指名している。それでは、前半の泥棒事件はどうなるだろう。
Y 猫が日本だとすると、泥棒がはいってきて、怖くて声も出せずに何もできずに隠れている、何か非常に生々しい感じがする。
S 泥棒とは誰、何だろう? これも風刺だとすると何だろう? 寒月君に似ている、じゃあ、泥棒を西洋人としたらどうだろう。
Y 眉がしっかりしている。真一文字のいい男。
Y 土足で踏み込んできて、取るのが食べ物とか、着物。品物がそれであるのは意味があって何か理由がなくてはならないのだけれど。
S 絹でしょう、西洋人が欲しがったのは絹、それからアジアの茶碗。
K 山芋が入っているのは木箱。木箱の中身は見えない。
S 抹茶茶碗は木箱に入っている。
S 唐津の陶磁器。
Y ちりめん、紬。茶碗。泥棒は文化を根こそぎ持って行ったということ。
S その西洋人が寒月君に似ている。寒月君は西洋風の教育を受けている。
K 理系です。
S 寒月君は中身を西洋人に入れ換えた日本人。科学の分野は西洋絶対だから、寒月君にそっくりの泥棒ということになる。
K 家人はみんな眠りこけていた。眠れる獅子、実際に戦争をしてみたら猫だったというのは中国清朝。日本も同じで、猫が虎になった夢を見るのは第8回にある。
S そうすると「吾輩は猫である、名前はまだない。」というのは、吾輩は国際社会でまだ名前を知られていない日本(未満)であるということになる。風刺がきつい。
【はじめに】
5章は、前半は、泥棒が入ってその姿形が寒月にそっくりだったこと。後半は、猫の日露戦争、ネズミを取ろうとして、ついに取れなかったこと。
6章は、猫の皮を剥ぐとか、女の髪の話。
7章は、猫の運動と海水浴。銭湯と裸体の話。
6、7章は身体の境界領域の話。
8章は、猫の垣巡りと学生とのダムダム弾戦争で垣根を越える話。家の境界領域の話。
猫の家の見取り図があまり良いのがないので、名作文学に見る家や日本文学アルバムなどの図を参照して描いて見た。これらの図は明治村に残されている千駄木の夏目漱石住宅の間取りが参照されている。
グリーンの斜線部分が内でも外でもない家の境界領域。ボールが投げ込まれたり、桐の下駄の材料を落雲館の事務員が取って行ったりする入会地や無縁の領域。
【頓挫する物語】
S ところで、この部屋には何でトイレがないの?
Y 人が住んでいないんでしょう。
K トイレもなく湯沸かしもないし、それでいてクッキーを焼く。ピクルスは買ってきたのだろうけど。
S 「『女子大生仲良し三人組、ライフルで射殺さる』という見出しの新聞紙の包みを五郎に手渡した」(p.26)とあるように、この新聞の切れっ端からお話がはじまる、クッキーの話がはじまるのだけれど。
Y クッキーとは女子大生三人組?新聞記事は、かみ砕きやすく、消費しやすく可愛らしく加工されているということ?
H 女子大生事件を新聞で読んで忘れるというのは、記事を消費するということで、クッキーを食べるというのは、そういう新聞記事の消費を意味している?
K 新聞記事は出来事を分かりやすく切り取るということ? 起承転結があるように切り取る。
S 新聞記事を加工して小説にする典型例だろうな。可愛らしい犠牲者がいて、悪魔のような犯人がいるという新聞記事の書き方。
Y そういうの中原はいやなんですよね。
S 憎しみを込めて、
Y かみ砕いて、ぐしゃぐしゃにして、投げ捨てる。
Y 放火事件(p.14)のなまなましさに比べると、えらく可愛らしいな。
K 遠隔操作で爆破させて殺す。裸で飛び出してくるのを期待して待っていた。
Y それを五郎は見ている? 五郎は見ていないんですよね。「夜の住宅街」から、「近頃毎日続いていた。」というのは、第三者視点なんですよね。
S これこそテレビに写った事件のような気がする。寝ていたとあるから、夢だね。一行あけで、以下夢だね。
H 夢のようでもあるが、つぶやいていた独り言のようでもある。
S 前後一行あけで枠取りして、スクリーン上に映し出された夢のように、枠取りがあって、テレビの報道のように思える。
Y 流れる映像の印象がある。
S そうこうしているうちにとか、なってしまったとか、時間の経過があってテレビの画面ぽい。
H 再現VTR。
S 再現VTRだから、やらせっぽい。
H 新聞記事を肉付けするのに、このやり方ではまずい。
S だからまずい例。
Y じゃあ再現VTRのような小説も書く気はないということですね。
S みんなこういう扇情的な再現VTRが大好きでしょ。テレビは再現ビデオばかりやっている。ここでも物語が頓挫している。これもクビ。
みんなが小説だと思っているのは、ただの再現VTR、扇情AV。
Y これもあれも次々否定されていく、待望の短篇は忘却の彼方にという題名の意味がだんだん見えてきた。
H 中原は深沢七郎的なところがある。「笛吹川」で、主人公かなと思った人が次々死んでいくのと似ているかなと。
K 時の流れと一緒に人が死んでいく限りでは理解できるが、短篇が次々頓挫していくのは理解しにくい。
S KYの朝日新聞事件(p.19)では、でっち上げで偽の嘘の物語が放送された。
Y テレビ局の捏造事件ですね。
H KYの文字をサンゴに彫ったんですよね。文字を彫るというのは、文字を書く、作品を作るということだから、非常に印象的。
S やらせで彫った文字をテレビカメラで写して証拠にした。ちょうどこの頃からやらせが表面化した事件ではないか(1989年)。
Y 最近のバスターミナル・コロナ事件も二重のやらせがある。
S 最近の商店街自粛事件でも、記事の根拠が実にそれもフェイクだったという。新聞もテレビの記事も、私たちはもともと確かめるすべを持っていないから、フェイクの見分け、区別がいよいよできなくなった。(ポスト・トゥルースは2016年以降という)
H 新聞記事すら信用できないというのが明らかになったのがこの朝日新聞のKY事件だろう。
K テレビはもっと前からやらせだったが、新聞はまだ信用できた。しかし新聞はもう昨日の記事しか載らなくなった。
【部屋セット】
S ここで五郎が植木を出したり入れたりしているのは、偽の記事を作るための背景を作っているように見えてきた。洋服店だとかマリンスポーツだとか。
H 五郎が植木を売りに行くというのは、嘘を作り上げる手伝いをさせられている感じがする。
S この部屋自体がものすごく嘘くさい。「洋服の店をしてみたいという気持ちだけはあったみたいで、こうしてお店のまねごとみたいなデコレーションをしていた」という、このあたりの真相はまったく訳分からない。
Y テレビセットのような。
H 照明器具がある。
YH スタジオっぽい。だからそれを見て、なんとなくスクリーンに写し出されたという印象になる。
Y 大金を受け取りましたかとあるのは、嘘を書いたらお金がもらえるという感じ。
S そうだね、嘘記事を作るのは大金をもらうため。植木を運んだだけで大金にはならない、それを使って嘘記事を作ると大金になるということだろう。
H 倉庫に植木と鉢があってそれを合わせて植木鉢にして売ればいいというのはすごく安直な発想、馬鹿にしたやり方ですね。
S それ、材料あるからおまえ書け、やらせ小説を書けという辛辣な話に聞こえる。
Y 物書きとして許せないですね。
Y 女主人が出てきて、Tシャツ姿で、美人局とかハニートラップとかを思わせる。
H 女主人は何とか騙して五郎に鉢を売らせようとしている。大金とか自分の身体とかをちらつかせて、偽物作りを手伝わせようとしている。スタジオを本物っぽくするために手伝わせようとしているように見える。
S それで最後に女を蹴っ飛ばすということか。
【背景】
S それにしても、ここには何か背景があるような気がする。2003年頃の背景。
H 水の味が変わったとありますよね。これが何だか分からない。汚染があった?
S 水の味が変わるというのと、水をたらふく飲んで尿意があってトイレがない、それから異臭がするということが背景にありそうだ。トイレのないマンションというのは普通原発なんだけれど。
Y 2003年には東京電力原発トラブル隠しの記事が検索ですぐ出てくる。
S ふうん、そうすると2003年の東電をもっとちゃんと追及していたら、2011年の事故は避けられたかもしれないんだ。
H 中原は社会派だから原発事故を書き込むことは十分ありうる。
S チェルノブイリハートという映画が2003年に出ている。ピクルスを食べるというのは何だろう? やっぱりチェルノブイリの汚染かな。
K グッバイ・レーニン(2003年)という映画に、ピクルスを食べる老女が出ている。
第2篇の血牡蠣事件へつづく。