【反復・螺旋・巻き込み】
M 家庭教師がフローラを手に入れるか、マイルズを手に入れるかというときに、それぞれジェスル先生やクリントが現れている前で、それが問題になっているのが気になりました。
S この女教師はジェスル先生のしたことを反復しているようだ。ジェスル先生がフローラをかわいがったように、女教師もフローラをかわいがる。そういう反復がヘテロでもホモでも同時に起こっていて、何重にも複雑な反復が起こっている。
クリントらしき男が窓の外から覗いている、女教師が庭へまわってそれを確かめに行くと、女教師が窓の外に立つことになる。その姿をグロースさんが窓越しに見るという反復がある。そうすると、グロースさんはジェスル先生を錯覚するんじゃないか。というような反復が螺旋のように交差して、謎が深まっていく。
神経症的に女教師はジェスル先生に操られて、ジェスル先生と同じ事をしたというのではなく、どちらがどちらを模倣したか、移ったり、反復が他の人を巻き込んでしまったり、螺旋状に深まっていく。あきらかに、グロースさんは巻き込まれている。
H 家庭教師はグロースさんの目の中にジェスル先生を見てしまう。
S クリントが主人の服を着ている。塔の上に見えた男は主人の服を着ている。
H マイルズが先生をからかうところでも、視線の誘導がありますね。フローラが窓から何を見ているか知りたくて、隣のマイルズの部屋を避けて階下に降り、庭のマイルズを見る。マイルズはフローラを見ているはずだけれど、先生は塔の上のクリントを見ていると思っている。
S あれは、フローラの窓を見上げる仰角と、塔の上を見上げる仰角の差が怪異の出現する隙間ということになる。水平バージョンと垂直バージョンがある。
フローラが、細長い湖を船でショートカットして渡り、その後を女家庭教師がグロースさんを引きずるようにして、大回りして対岸へ追いかけて行っている。水平バージョンがここにもある。この時もグロースさんを巻き込もうとして、この時は決定的に失敗している。
H クリントと階段で出会うときにも上か下かが問題になる。螺旋階段はねじの比喩になる。これはヒッチコックの『めまい』ですね。
T クリスマスに語られた怪奇譚というのでどれくらいの怖い話かと思いましたがそれほど怖くない。
S ジェイムズの怪奇というのは、たとえば本を読んでいてはっと気づくと何かがいるというような、本のページをめくる時、ページの向こうは見えない、その時にこの世ならぬ変なものが見えてしまう。それが怪奇の原理ではないかな。
H そうか、マイルズがピアノを弾いているといつの間にかフローラがいないとか。
S 意識の断絶、意識の隙間が生じる。その隙間に何かか現れてしまう。本文だと建物の曲がり角の向こう側にクリントが現れる。
H 女家庭教師が塔の上に男を見るところで、この文字のようにはっきりと見えたというところが、くらっとする。怖い。普通とは事態が逆で、文字と理性の力を否定される怖さがある。
S 登場人物すべてが皆とても美しいのはなぜだろう。
I クリスマスに語られる人々だから美しい。
K 田舎娘にとっては、洒落た服を着せられて、調度も立派だから子供たちが美しく見えた。
H これだけ枠がたくさんあって、語り手がいるから、絵になるようにその都度加筆修正されたのではないかな。意識の話と同じように、伝えられていくうちに、ずれてくる。
【主役争い】
S 最初に女家庭教師が泊まった部屋が最高級で、全身を映す鏡をはじめて見て感動している。それで一挙に物語のお姫様になった。子供達はお話の作り手であり語り手で、家庭教師はその世界に入れてもらっているとあるから、屋敷の主役はどこまでも兄妹。
H おなじところで、兄妹ごっこをしているとあるように、兄妹を外からの視線で見ているので、語りの主導権は先生の方へ移っている。主役がここで交代している。
M 最後にマイルズが死んでしまうのはなぜ?
S フローラがジェスル先生など決して見えないと言って出ていくのは、リアリストになった、お話の世界を卒業したということだろう。だから顔もこましゃくれた普通の女の子になった。マイルズはそれが出来なかったのじゃないか。お話の世界に殉じてしまった。
I マイルズは、退校になって屋敷で音楽や演劇で称賛を得られれば十分だったとありましたね。
S フローラとともに、音の世界に留まりたいというのと、一方で、クリントに従って男の子の世界を知りたい、もっと大きな世界を知りたい成長したいとい方向とに分かれている。
M クリント、あの悪魔とマイルズは言っている。
T 女家庭教師はマイルズを愛しているが、自分より出来の良い生徒として競争者にもなっている。
この女教師は誘導的で支配的で決定的に女性であることが補足であったのではないか。文字と知性によって叔父になりたかったのではないか。マイルズは叔父の小さな反復だから、マイルズを支配しようとし、結局殺してしまう。殺して、その位置に成り代わろうとする。
全身の姿見と、外のついたベッドを手に入れて女主人公になって、フローラとマイルズの主役の位置を奪い取った。ゴシックロマンの主人公になった。
H 心の先生とKの関係のようですね。
【マイルズ=ダグラス】
M 最後のマイルズの死がよくわからないんです。
H マイルズが死ぬと言う事は家庭教師の物語が勝ってしまうと言うことですよね。そうするとマイルズと同じ立ち位置のダグラスはよく生き残ったな。
I ダグラスは見事な朗読術だったとあり、それで女家庭教師に勝って主導権を取ったので死ななかった。
M ダグラスはなぜ手紙を送って送られたのか?
K 20年前の夏にその話をダグラスは女家庭教師から聞いていたから。
M なんで話そうとしたのだろう?
S つまりこれはお断りの話で、あなたの気持ちはありがたいが、私は今でもずっとマイルズを愛しているということになる。
M 忘れられない人がいるからダグラスを断った。
S ダグラスはその家庭教師を40年間思い続けている。この執着も相当恐ろしい。お話に祟られた、支配されたというようなことがありそうだ。そうすると、ダグラスはマイルズの反復、マイルズの次のバージョンと言うことにならないか?
これは漱石の「こゝろ」と全くおなじ。若い書生の「私」は、先生から手紙をもらって、先生の死を抱えてこの先を生きていく。これは先生がkに死なれて、その死を弔って10数年を過ごしたしたことの反復である。
H マイルズが、ネジの1回転目だとすると、2回転目はフローラではなくダグラスだということか。 子供が2人だから2回転ではなく、人を巻き込んで枠が増えると回転が増える。
【おわりに 読者のアブダクション】
M それでは3回転目は無いのでしょうか?
S 作者はダグラスの持っていた手紙を正確に写したとある。作者は多分ダグラスを愛している。クリスマスに語ってくれた手記を送ってくれたのは、愛されたことへの返礼だから、作家はダグラスを愛していたと思われる。女家庭教師も20年後に手記を送り届けている。これもダグラスの愛への返礼だろう。
H ダグラスが朗読し始めようとしたときに、それならばいい題名があると言ったのが作者で、ダグラスはそれを無視して語り始めた。
S なるほど。題名をつけることによって、その物語に意味を与え、所有者となり支配者となる。そしてその作者が出版したしたのが、今私たちの読んでいる「ねじの回転」という作品であるということになる。そうすると、次の4回転目は、わたしたち読者が巻き込まれて、「ねじの回転」を解釈することになるだろう。
ダグラスは「作者」を誘引し、「作者」はそれに引き寄せられたが、ダグラスは「作者」の愛に応えなかった。この辺の事情も、『こゝろ』の先生と若い書生の「私」との関係に類比される。「私」は先生に誘引されるが、先生からは拒絶される。その断りの理由として、若い頃の出来事を語って聞かせようとした。しかしそれは叶わず、「私」の手元には先生の手紙が残された。「私」は先生の手紙を語る新たな語り手となり、ねじが回転する。読者を巻き込み、語り手として取り込んでいく構造は両者で共通している。これを読者のアブダクションと呼ぶことにしよう。