清風読書会

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太宰治「作家の手帖」その5

【美しくのんきな女たち】

S さらに問題は残る。のんきで美しいを価値として私たちは認められるのかどうか?

K 責任がないからのんきで美しいんでしょう。

S 戦争のまっただ中なのに、無心に、つまり戦争のことなど一切考えないでいられることに、無責任さはないのか。

K それはありますよ。

S ほら、それはKさんが主体性をもった個人だから、そういわざるを得ないわけです。

Y 私たちはみんなあるとき主体性がある人間にすり替わってしまった。今一番中動態があるのは、無心に洗濯物を回してくれる洗濯機や冷蔵庫。

S その通り。1945年になっていきなり私たちは女性も主体になった。そうしたら、太宰のこの小説に対して、のんきで美しいのは無責任だと言わざるをえなくなった。これは無責任だと言わざるを得ないし、言ったほうがいいと思う。

 しかし、のんきで美しいには何の可能性もないのか?

Yさっきの第二段落の火の話に戻るわけですね。

S 太宰は中動態の女を再発見している。無心にお洗濯を楽しんでいる女を再発見している。

Y中動態でいられるのはしあわせで安定している。

Kそれは保護されているんだから当然。だって稼いでないんだから。

S それだと、保護されている、人に養われているという受動態になってしまう。主体で考えるとそうなってしまう。中動態はそうではない、宙に浮いている。

S 私たちは中動態をいまだにちゃんと持っている。夫婦関係はむしろ中動態、人間関係こそ中動態。犬の散歩も、散歩してやっていると思っているけれど、散歩させていただいているんだね。受動と能動が区別できない領域があることを私たちは知っている。

K あんなにたいへんだった育児も、終わってみればあんなに楽しませてもらった。

S お互いがお互いにとって「はばかりさま」なんだね。離婚になると受動と能動を無理して分ける。

S しかし、美しくのんきを発見しているというのは、それでもなおひっかかる。

K 良妻賢母にもつながっていそうだし。

H 戦争の中にあって、切り離されて自己完結しているというのは、僕自身が学校で感じることが多い。先生たちは受験に向かって走っているが僕は走れない、求められるのは教えることだけれども、僕は生徒に教えられて、教えるをやろうとしている、それは学校の中で、無責任でのんきな授業だと言われる。

S 受験戦争では勝った負けたで査定されるけれども、そうではない○×式でないところで教育をしようとすると、おまえはのんきで無責任だと言われてしまうということかな。

H これは昔から好きな短編なんですが、山下澄人の間接話法に近いところがある、はばかりさまとか、そういうところにいつも僕は惹かれている。

S  勝つか負けるかではないところがのんきで美しい、それこそが文化である。これこそが文化だというところが残りさえすれば、戦争に勝とうが負けようが大丈夫だと太宰は言っている。

Y 洗濯を文化に置き換えるとよく分かる。

S なるほど、素晴らしい。

Y文化は仕事のうちで一番楽しい、ただ意味がないまま、そのままで文化を楽しむ。

S この短編は、言っていることの表面よりずっと大きなことを言っている。

Y 勝敗の鍵を握るのは文化的な日本の女たちであると。

S 一種の文化防衛論でしょ。三島の文化防衛論は妙なところへ行ってしまったけど。太宰こそまさしく文化防衛論で、この美しくのんきな女のお洗濯さえ残れば日本は大丈夫だと言っている。

Y 少し話が変わるけれど、最近じーんときたことがあって、内の娘がずーと同じ事を繰り返している、積み木を積んでは崩して無心に続けているのを見て大丈夫だと思った。その感覚と似ているなあと。

 この娘の中でこれが時間として刻まれて成長していく過程なんだなと。外ではコロナが吹き荒れているけれどこの子の中では何かがちゃんと始まっているというのがうれしかった。

S あんたはすごい。実はね、この洗濯は漱石から来ていると思う。漱石の『明暗』に、隣家の屋上で洗濯物を干しながら洗濯屋が繰り返し繰り返し俗謡を歌う。それだと思う。

Y まんまですね。

S それを聴いているのが『明暗』の主人公である主体としての男、津田で、洗濯屋の俗謡が耳につくのだけれど何が気になるのか全然分かっていない。分かっていないから、しょうもないことをたくさんする。しょうもないことの一つは、元彼女が湯治している温泉場へ、のこのこ訪ねて行ったりする。馬鹿でしょう。

  太宰はこれを直接引用しているんじゃないかと思う。『明暗』の114回に次のようにある。

洗濯屋の男は、俗歌をうたいながら、区切くぎり区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
 彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へのぼって、その白いものを隙間すきまなく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作しょさは単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田にはわからなかった。

 

S 成長はそういう繰り返しの中からしか生じない。毎回同じ事を繰り返している洗濯屋にははっと気がつく契機がある。それなのに主体的に生きようとしている津田は、暗中に閉じ込められて迷走し、いつまでもそれに気がつかない。

【おわりに】

H はばかりさまと、やさしい母さんは分かってきたのですが、最初の七夕の少女の歌にはっとする理由がよく分からない。つつましいほどよいというところ。

S 一つ目の短冊は自分の上達ばかり望んでいるが、二つめの短冊は日本の国をお守り下さい、自分を国家に委ねてしまっているように見える。社会を飛び越えて急に大君と日本の国になってしまっている。

K 当時の学校教育にすりこまれたのだと思う。

Sでは、すりこまれたことばになぜ作家がはっとするのか?

S 最後の洗濯する女と同じように、自分の主体を消していくのを清浄なと言っている。

H  これ歌ですよね。両方歌ですよね。

Y 社会がなくて、大きなものに直結しているということを考えると、洗濯のお母さんも自分と大きなものだけになるところがよく似ている、社会がないところ。

S ただ、洗濯のお母さんの方は、大きなものも消えている。戦争しているとか戦争に負けそうだとか、世界や国家は消えている。

K 今目前やっていることの楽しさだけになる。

S そうか、最初の少女の短冊では、自分をなくして無心になる、最後になると、国家や世界も消えていって、目前の洗濯だけになる。これが則天去私。

H 幼女だからこれでいいのでしょうか。まずは自分をなくす。

S幼女だから、今仮に大君だったり日本国だったりにしておく。具体的な国家・世界の中に仮置きする。こどもは特定の文化の中に偶然に産み落とされる。

Y 仮置き。

S 大人になったら、大君はアメリカにとっては大統領、日本にとっては天皇、というようにそれぞれの土地でいろいろあって、相対化ができるようになると考えてはどうか?

S 「君が代」の元歌は、古今集の「わが君は、千代に八千代に・・・」という歌で、必ずしも天皇を指すわけではなかった。夫とか背の君のような二人称を指すということは、君が代研究で言われている。この大君にも、こういう読み換え可能な多重性があるのではないかな。

H 星に物語を読むというのも読み換えが可能で、 大君とお星様が並んでいるのが示唆的。

S 星がいろいろなお話を持つように、大君もそれぞれの土地でいろいろな大君がありうる。世界中に星の話があるのが明らかな証拠。

H めっちゃ元気になる、この話。

S 敗戦間際のしょうもないときに、こういう小説を書いたかと思うと、現代私たちは負けている。ことばの多様性、世界の多様性をちゃんと希望として出している。私たちの能力の低さに打ちのめされる。

Y 私たちは、もっとことばに希望を託さないとだめですね。