清風読書会

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太宰治「作家の手帖」その2

【階級を超える】

Y 煙草の火を貸すとかもらうとかいうのが、太宰の世界の大きさを表現している。コミュニティーとか、他者のとらえかた。

K いつも自分は多数派になれない。

Y ここで長々と書かれた関係性の話は何を意味しているのだろう?

S 全体を見ておくと、一行あけで示される3つのパートに分かれている。七夕の話、祭礼の曲馬団と火を貸すこと、井戸辺の女の話。

S この第二段落、これ階級の話でしょう?地主階級と無産階級。

H その階級の違いを、煙草の火の貸し借りでつながるということですよね。はばかりさまということば、どういう意味かよく分からない、ある種とんちんかんなことばに可能性を見いだしているわけですよね。

S 私たちはもうすでに、はばかりさまということばをうまく使えない。

K はばかりさまには、辞書的には、1)恐縮の至りという世話になるときの挨拶のことば、2)出し抜くときのお気の毒様という意味の二つがあり、どちらもこの場合には合わない。だから奥さんがとんちんかんと言うのは正しい。

 1)は、こちらが相手に世話になるときの挨拶のことば。

Y 恐れ入りますとか、ご苦労様という意味。

K 恐れ入ります、火を貸して下さいは、火を貸してあげる方が言うことばではない。

H 借りる方が言うことばですね。

S はばかりながら火を貸して下さい、というのでいいかな。

Y もらってくれてありがとう的な? 

S うんうん、それ。

K もらってくれてありがとうというのは、向こうが貸してくれと言っているのに、そう言うのはおかしくない?

Y そういう心境分かるけれどなあ。

K 心境はそうでも、一般的にはそう使うかな?

S 火を与える方か、与えられる方かというのが話題になっているけれど、それ、逆転しても大丈夫だということにならないか。そうしたら、もらうともらわれるが、地主階級と無産階級で交代できるということにならないか。はばかりさまを、与えると与えられる両方で使えるようにすれば、階級の差がこのことば一つで消える。

 いまの流行のことばでいうと、受動でもなければ能動でもない中動態。はばかりさまということばを中動態として使えれば、階級の差異はなくなる。

H 能動でもなく、受動でもなく、中動。

S 中動態は古代ギリシア語の文法に出てくる。國分功一郎という人が、この中動態をキーワードにして本を出しているので、話題になっている。自己意志で行動することと受動とは、実はそんなにはっきりきれいに分かれないという発見。

H はばかりさまには元々そういう要素があるのでしょうか?

S 受動と能動が交差するような例がいくつもあって、その一つがはばかるではないか。

 さっきYさんが言ったように、もらってくれてありがとうのような、相手のすることを先取りするようなかたちで、能動が受動に、受動が能動にかわってしまう。

Y ペンを差し出して、宅急便を受け取るときとか、中動態的様相は結構あると思う。

(S 古代ギリシャ語だと、能動態と中・受動態の活用が異なる。水浴するというのが中動態というのは、私は水で自分を洗うという能動と受動を対立して表現する現在の言い方とは異なり、 水と私が、互いが互いに触れ、触れられるという中動態の様相をそのまま書き表す。中動態は衰退して、能動と受動へ分かれると言われている。これが、例の絶対矛盾的自己同一や則天去私と自己本位の問題とよく重なる。自他を区別しないアジアの古代的なありかたと、古代ギリシアの中動態がもしかしたら重なる?)

S 太宰が、わざわざ、はばかりさまという、どっちがどっちにかかるか分からないような、受動と能動が分かれないことばを探し出してきたことが、解決の糸口になるということだと思う。階級の差異を跳び越えるための解決の糸口を太宰は見いだしている。

 太宰はかなり早く、漱石はさらに早い。漱石の自由間接話法が、これと同じことをしている。相手の立場に成り代わって話したりすると、受動であるはずなのに能動で語ったりすることができる。主語が入れ替わってもよい例はたくさんある。「われ」で自分も相手も指すことができる。

Y はばかりさまの用例で検索すると、「雪江さん、はばかりさま、これを出してきて下さい」の用例が出てくる。

K 「吾輩は猫である」の雪江さんですね。

(S 細君が、寒月君が来ているので、雪江に茶をもって行かせようとしているところ。ご苦労ですがという意味だけでなく、その裏にはいろいろ狂言があって、雪江さんはすました顔で断るが、細君は恥ずかしがることはないと言っている。まるでジェーン・オースティンの一場面のように裏の心理劇がことばの一つ一つに書き込まれている。あとの方でも問題になるが、太宰は漱石を研究していたと思う。)

S 階級差があって、どうにもその差を跳び越えられないで問題になっているときに、お互いに火を貸し合うということばを発見しているというところが重要で、はばかりさまは実際にこの時期に使われていたことばだと思う。他の人から見ると、とんちんかんな逆な使い方に聞こえるが、太宰はそれを中動態として使える、そして、このことばを使えば階級差が超えられるという、そういう発見をしている。

H すごい革命的な一言。

K そういうことですね。

Y 怖い。

H 井戸端の「ワタシノ母サン」ということばも同じ役割ですね。