清風読書会

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三島由紀夫 「雛の宿」 1953年 「オール読物」掲載

【 はじめに 

1、嘘つきのパラドックスが枠になっている。友人と僕の間で、大嘘つきの僕の話を信じるかどうか。末尾にも、君は信じるかと言って、読者に謎をかけている。中の話は、アスタリスクで二つに分かれていて、一回目と二回目の雛の宿行きがある。

2、日付を確認しておくと、去年大学2年生の終わり頃、今年大学3年で卒業と就職が決まっていることと、去年の夏妹が死んだとある。ここから、戦後、大学が4年制になったのは1949年だから、戦後から1948年までのことと推測される。平岡美津子は1945年10月に亡くなっているので、この小説の事件は、1946年3月から10月頃までに起きたと推定してよいかもしれない。1947年の3月に、1年前の出来事を思い出して書いている。

3、1回目の出来事は、妹の代わりとしての少女、2回目の出来事は、現実の女の代わりとしての少女ということになる。

4、白酒の器がおもちゃのように小さいというあたりは、泉鏡花の「雛がたり」の焼き直しになっている。鏡花では、大人の自分が子供に戻ってお雛様が大きく見える。サイズのマジックになっている。

【少女との関係】

H 『金閣寺』の場合にも、小さい模型の方が最高に美しい。

S 小さい模型の方が美しいとしたら、現実の金閣を焼かなくてはならない、同じ構造だね。この話の間違いは、二度行ってしまったらからでしょう? 一度だけだったら、最高の一夜であったという幻想と、妹だったかもしれないという甘い幻想も保たれたのでは。二回めにはぶち壊しになるということでしょう。

K 二度目には種明かしもされてしまう。

S 「あの母子のきちがいの家」と近所の薬屋が言っている、これが種明かし。

S  一度だけだったらどうか? 二度目とどう違うか? 二度行ったという二段構えになっているのはなぜか?

K 迷子になって、道を聞いて、種明かしを聞かされた。

S 一回目と二回目とはどう違うか。一回目は死んだ妹の代わりとして、二回目は捨てられた女の代わりとして、後付けだけれど、そう考えられる。一回めは、「おや死んだ妹だ」と言って断定しているから、現実にはまったく妹と似ていないが、「死んだ妹だ」という幻想に引きずられて雛の宿へ行く。

H 二回目は、現実の女に捨てられて、それで雛の宿に行ってしまう。

S 二回目は、「初夏、僕は一人の現実的な女を知った。秋の半ばに、僕はその女に捨てられた」(39)とあって、なんせ一行で出来事を済ませているんだからすごいよね。そして、「そのとき、たえがたい衝動が僕を襲った」とある。

S この青年は、神田キヨ子という少女と交わったのか?

K それほど陶酔したことはなかったとあるから、交わった。

S 嘘つきのクレタ人の例だねえ。不快な結論とはどういう意味?

H 自分は童貞だけれど、交われたということは相手は処女ではなかったということだから不快な結論になる。

K 少女は見た目とは違って処女ではなかった。薬屋の言ったことが裏付けられた。

H 相手は処女ではないという不快な結論、「しかし奇蹟やありえないこと」が起きたと信じたので陶酔の一夜となった。

S そうすると、幻想の中で現実が修正されているわけだ。現実は多くの男を引き入れていた女と童貞の青年との交りだったからうまくいった、それを陶酔の一夜だと思い込んだ、ということ。

これはとても大事な点だと思う。