清風読書会

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夏目漱石「一夜」(1905) 20181208読書会

【はじめに】

 「一夜」は1905年9月の「中央公論」に発表、翌年刊行の『漾虚集』に収録されました。漾は漂うという意味で、水が漂うようにゆらゆら、ぼやぼやしている境界領域を描いた作品集という意味だと思われます。

『我が輩は猫である』には、「一夜」のことが次のように言及されています。

「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。訓義は学究のやる事で私共の方ではと構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取りめがつかないので、当人に逢ってと主意のあるところをして見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた(青空文庫)。 

【形と性格】
S 「美しき多くの人の、美しき多くの夢を…」という詩を作ろうとしている髭の男と、丸顔の男、一人の女がいる。
 隣家に人が出入りしているらしい声が聞こえる。一回めの隣家の音と二回めの音がある。一回めの物音から、隣家も三人らしく、琴と尺八を合わせている。三人は人並みという評価をする。二回めは琴を弾いていた女が帰ったのち、また合奏が聞こえる。この評価の仕方がどこか奇妙。
K  二回目の評価もあまり良くない。蜜を含んで針を吹くとか。
S  「あれは画じゃない、活きている」というのは、どういうことか? 「あれを平面につづめれば矢張り画だ」とも言っている。隣家が生きているとしたら、こちらの三人は画だと考えてよいか? そうならないか?
 「女は緋と賤む如く答える」とあり、隣家の男に対してあまり評価がよくない。自分たちの方は高級で立派だが、あいつらはあんまり大したことがない。
H  何だか上から目線で、馬鹿にしているような口ぶり。
 このあたり、一人が、もう一人がとあって、どちらの男が下した評価であるかが分からないのが気になる。
S  髭があるか、丸顔かというように二人を形でしか区別をしていない。普通は、それぞれ性格があって、その性格に基づいた発言をするはず。それなのに、どちらが言っているかわからないというのは、いわゆる性格がこの登場人物には備わっていないのではないかという疑いが起こる。
 どちらの発言か分らないようだと、一人一人の性格をまとまったものとして見ることができない。
 あるいは、「美しき多くの人の…」という詩が幾度か繰り返されるが、全く先へ進まない、完成もしない。これも不審。
H 夢の話をしようとしているが、何度か言及するが、途中のままで、それも完成しない。
S 夢の話をしながらすぐにズレて行ってしまう。
K そのあげくに、ぱたりと寝てしまう。 

ホトトギス問題】
S  もう一つ重要な話題は、ホトトギスだろう。
H  最後に寝るところでも、ホトトギスも鳴かぬとある。
S  ホトトギスはククーと鳴くのだろうか?
H  鳴かないと思う。髭の男は詩を作ろうとしている、ホトトギスは和歌に出てくる名高い鳥。詩を作ろうとしているから、ククーという声が聴こえたら、髭の男は歌に出てくるホトトギスだと判断したように見える。音の正体を男は勝手に作ってしまう。何だか逆転している。いい声だから和歌に歌われていくのに、あ、ホトトギスだと思ったから、いい声だという評価になる。ククーという音そのものを聞いて判断しているのではなく、あれはホトトギスだと思ったあとでいい声だと判断している。やっぱり逆転している。
S  うん、その通りだと思う。はじめククーと鳴く鋭き鳥として出てきて、飛んで来た鳥がホトトギスであるかどうかは分からないという書き方をしている。そして、「この髭男は杜鵑を生まれて始めて聞いたと見える」とある。これはどういうことか?
    ホトトギスはククーとは鳴かない、ククーと鳴くのは鳩、ここに飛んできたのは鳩。男は鳩もホトトギスも知らないから、詩の知識に基づいて、あれはホトトギスだと断定した。これはどう見ても誤認だろう。
M  吉本隆明の『フランシスコへ』という本のなかに「ホトトギスの会」というエッセーがあって、ホトトギスの正体が分からない、ほんとうにいるんだろうかという話になる。みんなそこではじめてホトトギスの声を聞かせてもらったという。ホトトギスというのは何の比喩なんだろうか?
H  テッペンカケタカと聞こえるのも、テッペンカケタカと聞こえると言われたら、そう聞こえるようになる。詩の知識から、現実の鳥の鳴き声をそういうように聞く。
M  惚れてはいけないとかあって、この三人はどういう関係か?
S  三人で清談をしているらしい。「一声でホトトギスだと覚る。二声で好い声だと思ふた」とあって、何でもない土鳩の声がホトトギスだと思った途端いい声だと思う。女を見て一目ですぐ惚れるのもそんなことでしょうか、というようにホトトギスは女だろう。
    ククーというのはどう聞いても鳩、それもありふれた土鳩。
H  末摘花のような。評判を先に聞いて、実際に会ってみるとというような話。
S  土鳩の声を、かの高名なホトトギスだと認定している。なぜ現実の鳥を問題にしないで誤認するのだろう? 詩を作る、画を描く、縫取り刺繍をする。この三人は風流な人たちで、いろいろなものを馬鹿にしている。この三人にとって現実はどうでもいいことのようだ。隣家の合奏も、土鳩の鳴き声もどうでもよい現実。

 惚れるということの秘密もここにある。
    現実はどうでもよく、経験の積み重ねのない人たち。鳩とホトトギスの区別ができない人たち。私の考えでは、この三人は絵の中の人物で、絵の中に閉じ込められているから、経験が限られている。経験・知識を積み重ねることができない。
H  怪しすぎる人たち。
S  隣家の様子が聞こえてくる。その評価が上から目線、「あれは画じゃない生きている」というのもこの三人が画の中の人物である証拠。
H  外の世界について、藤紫や緋や黄色・茶色など色で評価していくのも画に特徴的な評価の仕方。 

【音の話】
M  何で音にこだわるのでしょう? 漱石は音にこだわりがある?
S   絵の人物だから、視界が限られていて情報は耳をとおしてしか入ってこないから、音の話になる。「変な音」も変わった話で、隣室が見えないから、隣室の音の原因を色々想像する。
K  大根おろしの音だった。
S 「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」というのも、この三人が絵の人物であることを示す証拠では。あるいは、こう湿気てはたまらんとあるのも、自分たちが紙に描かれているから、湿気が駄目だからでしょう。それから香りがある。香りも画の外と内を透過する。香炉の描写もいかにも画に描かれた香炉を文章で精密に描写している感じがする。

    蜘蛛の話はどうでしょう。
H 「蜘蛛の糸」の話を思い出す。違う世界を結ぶ。
S  この漢文二行は、自分たちが描かれている画の上部に書き込まれた賛ではないか。
H 「私も画になりましょう」と言って、寝る前にも画の話題になっている。「今度からは、こちが画になりましょ」ともある。
S  これも絵に戻るというのが、すなわち寝るということではない?
 寝ると、いろいろなことをみんな忘れてしまって、また明日は、同じような会話をはじめから言い出すのではないかな。歴史がない、時間がない。
H  翌日また「美しき人の…」とおなじように言い出す。これが「一夜」という小説。
S  上から目線は、自分たちが芸術品だから。現世の隣家の音楽など俗っぽい現世に過ぎないから。現実のホトトギスなど何の意味もない。

【小説と絵画】
M「人生を書いたのであって、小説を書いたのではない」とはどういう意味でしょう。
H  この小説に対する評価を述べて、入れ子の枠がついている。
S  三人の外からの視点で、評価を述べる。髭の男は杜鵑を知らないと言った視点と同じ。一夜=生涯だということは、一枚の画は、一瞬が永遠であるという切り取り方をする。寝て起きて全部忘れて歴史がない、時間がない、性格も形でしかない、涼しい眼というのも形。そして一貫した事件は展開しない。

    一方で、小説はその中で一貫した事件を語る、ある一定の時間経過をもつ芸術形式。画と小説の形式の違いを述べた。
H  小説ではなく一枚の画を描いたということを説明しているように読める。
M  一夜は何時頃まででしょう?
S   夜半が0時前後で、更待月(ふけまちづき)は夜半過ぎまで待って出る月のこと。
M  河原温という画家がいて、絵に日付を書き入れる。日付絵画、絵を描いた日付を入れる。当日0時までに終える、その土地の言語で書くなどの規則がある。自分が生きている時間と絵とが連動している。時間と文字と色を塗る行為が連動する。
S それ、写真と非常に近い。絵は基本的に時間がないメディアで、それに時間を導入したところが河原温のあたらしさになるんじゃないか。
    一方、小説は時間芸術。だから一回めと二回めがほとんど変わらないというのが小説としては非常に異例なことで変。進まない変化しないというのが、この話が絵の中の人物についての小説であると私が考えるもっとも大きな根拠。寝ている間と昼間の出来事を繋いで語ったら小説になるだろう、その間の因果関係を説明したら小説になるだろう。
    寝たら全部忘れてしまうとあるように、性格もない時間経過もない画のような小説を試みた。

【蟻と蜘蛛】
S  蟻のところもすごく変。蟻の夢が覚めるとどうなる? 「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしうござんしょ」という言い方をしている。同じように蟻も葛餅になると。 蝶が私の夢を見ているのか、私が蝶の夢を見ているのかという荘子のことか。その間を説明して繋げると小説になり、関係付けないのが画だろう。

    蟻の夢が葛餅というのは、蟻と葛餅を関係付けないで、二つを投げ出したままの表現では?
M  蟻が葛餅の夢を見るのですか? 人生はほんとうは関係付けられない。蝶と私を関係づけるというのは一種の幻想ですね。
S  小説は成長して変化するということを教えてくれる。画は時間ではなく空間を教えてくれる。空間は永遠。
H  自分たちも画になってしまうというのと、蟻が葛餅になるというのは同じことを言っている。
S  蟻がうろうろしているのを三人が見ている。「蟻も葛餅にさえなれば…」というのは、蟻の夢は葛餅?抜け出るか抜け出ぬか、画から抜け出るということ?

    え、もしかしたら、この蟻も画の外から画の上を這っているということ?  蟻も絵の上から出て行けば、この菓子鉢のぐらぐら揺れるのから逃れられるということ。やっぱり、絵の上を三匹の蟻が這っている感じがする。
    鳥の声がする、湿気が外から紙を湿らせる、蟻が這ってくる、蜘蛛も下がってくるという画とその周りの世界との接点を書いている?
    葛餅は画に描かれていて、生きている現実の蟻は画の中の葛餅を食べられない。現実の蟻と画の中の葛餅が二重写しになっている。その関係は、蟻が葛餅の夢を見ているだけで食べられないということか?

【おわりに】
S  画に描かれた三人の男女の一夜の清談というのが結論。
H  小説には時間があるが、画には時間がない。男は夢の話をしようとしているが、春の夢の話がどうしてもできないのは、画の季節が夏で、夏の話しかできないからでは。
S  春という言葉だけで、絵の中では時間を進めることができない。1907年のピカソの「アビニョンの娘たち」がキュビズムのはじまりで、絵画に時間を導入した。
H 絵画では音を描けない、音を描こうとすると色に変換して描く。色の描写が多いのはそのせいだ。
S  3次元を2次元に縮約するのが絵画。
H  縫取りというのもそうか。糸は3次元だけれども、画に縫取りすると2次元になる。