清風読書会

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深沢七郎 「サロメの十字架」その2

【空間と聴覚】

S:電話が掛かってきても、情報の切れ端しか伝わってこない感じがする。会話も切れ端だし。

N:何か色々なペアの会話が同時に進んでいるけれど、席が分かりにくかったりする。

S:何がどこにあるのかさっぱり分からない。

K:バーのカウンターって高い椅子のところがあるところでしょう?その奥側って言ったら、何か作ったりする所でしょう?そこにまたボックスを入れたっていうの?

S:つまり、この人、空間認識が非常に悪いんじゃないだろうか?

K:そのくらいごちゃごちゃなお店?

S: ごちゃごちゃでも配置くらい分かると思うんだけど。つまり、子供が片端から見えたものを描いていくように書いてるから、いつか歪んでしまう。

N:やっぱり発達障害なんじゃないか。

K:人間を区別しないのと同じように。

S:見えたものを順番に描いていく感じで描写するから、何がどこにあるかが本当に分からない。

N:確かに整合性がないっていうか。すごいがばがばな感じ。設定も。

K:それなのに…

S:面白い。

S:これだけの人数出てくると私たちだったら人間関係を紙に書かないと分からない。深沢七郎は純子だったら純子の声、ママさんだったらママさんの声とかで、頭の中で声だけで判別している感じ。だから位置関係がさっぱりわからない。

K:全部平面になってしまう?

S:声の区別は非常によくしている。

K:やっぱり音楽家なんですかね。

S:入り口で喋っている言葉と、こっち側でしゃべっている言葉で遠近感がある。

S:しかし、その遠近感をつなげても、どこで人がどうなっているのかはよく分からない。

N:書く人にしかわかってない感じですよね。

K:小さい子が何か報告するとこんな感じ。

S:一見プリミティブな感じに思えるけれど、ところが視覚障碍者が持っている位置感覚の鋭さ、精密さが同時にある。その精密さを私たちはよく分からない。よく考えるとどうしてアケミがハネられていくか、みたいなことが割とはっきりと描かれているような気がする。

S:アメリカシロヒトリの名前の件もそうだし、オソバ食べに行く(売春)とか、そういう人の動きが、音声感覚を持ってる人にはきちんとあって、ものすごくきちんと組み立てられている。だから両方の印象がある。ものすごくきちんと組み立てられているようでいて、一向に座席も分からなければ人数もよく分からない。社長さんと呼ばれている人や男の数も何だかよく分からない。(社長と所有者の区別もよく分からない。)

K:ボックスが3つ、それで12人しか入れないのに、6人連れと3人連れが入ってきて、その前に出て行った人はいないはずでしょ?

S:聴覚だけで書いた中では、ちゃんとホステスが間に滑り込めるんですよ。

K:これ工学部出は最後まで読めない。

S:いつもこう空間が縮んだり伸びたりするような感じがある。

K:だから結婚相手は幸田文さんでも吉屋信子さんでもいいんだって(「ないしょ話」)。

N:誰でもいいんですかね。

S:でも結局、誰も選ばなかったじゃない?誰でもいいんじゃなくて、誰でもなく誰でもあるってこと。

【私はあなたである】

S:ママさんが大阪から帰ってくるというのも面白い。お金をせびりに来るんだよね。で、純子の方も(出す)。

K:「これくらいはしょうがないよ」って。

S:前の住人の残りの電気代やお米代も、まぁしょうがないから払ってやるわ、っていう感じ。そういうめぐりあわせとか、巡りの思想みたいなものがすごくきちんとある。

K:こういう世界ではこれが常識なんでしょうか。法的にどうこうとか、何月何日まで日割りにする、なんて。

S:おりんが自分のストックを、息子の嫁に教えていく。そうやって持ち物を次ぎ次ぎに明け渡していく。「楢山節考」はそのループが非常によく描けている。

K:孫の嫁が、おばあさんがまだ死んでいないような時期、山に行ったばかりの時に、もう帯を締めていた。

S:ひ孫ができちゃって、「ひ孫の顔見ないうちに早く山へ行かなくちゃ」と言っている。

K:「そんなこと見たら恥だ」と。

S:順番のループを探すと、そういう姥捨ての例がある。ただ姥捨てが今実際にそんなにあることではないから、いわばフィクションとしての姥捨て。ホステスのループは実際にあること。ホステス一人一人も、自分がオリジナルな社長の愛人というよりも、そのループの一人であるということが自分のアイデンティティになっている。

S:戦後の、いわゆる民主主義教育を受けた人たちにとってすごく違和感があるはずだよね。

N:一人ひとり特別。

K:唯一無二の私。

S:むしろループに重なっていくことが「庶民烈伝」の庶民のアイデンティティになる。ママが純子を子供だ子供だって言い張っているのが、私たちにはよく分からない。

N:最後まで言ってましたよね。

S:「麻雀やりたかった、会いたかった」…「誰が会いたいもんですか」って。しかし、私はあなただから、やっぱり会いたいんだと思う。

S:私はあなたでもあるっていう、この感覚を私たちは到底持てない。どうして深沢七郎がそういう感覚が持てたんだろう?

K:村上春樹のジグソーパズルの一コマとは、あれは形が違うからやっぱり違うんですかね。

S:違うでしょう。ジグソーパズルじゃないよ。ジグソーパズルは全然動かない。これはどんどんぐるぐる回っていくのに、私はあなたでもある。

N:それってまた今必要になってきた考えでもありますよね。

S:私たちはオリジナル幻想に深く侵されているので、私はあなたであるってことが心底言えない。この人は、伊達にこういうところで歌うたったり、お金貰ったりしてギター弾いてるわけじゃないんだよね。おそろしい。すごい。

S:それがアメリカシロヒトリ=アメリカ進駐軍なんかまったく問題なしに跳ね飛ばしちゃう。そういう死生観であり人生観であり人間観である。ものすごくしっかり…日本人。

K:土着。

S:アメリカ民主主義なんて問題なく跳ね飛ばしちゃう。

S:だから右翼に狙われたって…まったく全然右翼は読めてないんだよね。ほんとに日本のオリジナリティそのものじゃないか、恐ろしいことに。

S:つまり、どんなにオリジナルであるよりも、植物のように反復していくことにえも言われぬ美しさを感じる。

【絶対贈与】

K:お金を渡すよりも、麻雀して負けてあげて渡せば格好がつく、ってことでしょう?

S:お互いに引け目にもならないし…そういうことって今でもやってると思う。

S:違う形で渡す。渡すやりかたをあげるほうが考える。向こうにまったく負担を感じさせないようにしてあげるっていうようにね。(絶対贈与がこのループの原理)

K:でも、お香典なんかもなくなりつつあるでしょう。お葬式をしないから。そうなるとだいぶ変わっていくようになるんじゃないかなあ…どうでしょうね。