清風読書会

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山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」その2

【はじめに】【死にたいと思うこと(近傍)】

【身体と言葉】

S 身体という入れ物には、いろいろなものが入ってきて何でも混ざり合ってしまうから、私たちは頭で覚えておいて、自分と他人をきちんと区別している。

 ところがこの小説で使われている「合格したらそこで。そこは北海道にある」(p.219)や、「公園をすぎてすぐにこれが目に入った。だからここで立ち止まり」(p.220)という二重に使われる指示代名詞は、自分が「それ」、「これ」と言ったとたん、「それ」を自分の近傍に呼び寄せてしまう。

N 一端「それ」で括って送る感じがある。

S 「それ」と言うと「それ」が入ってくるが、まったく勝手に入ってくるわけではない。ちょっと難しいが、「それ」を二重に使うと、その間に吟味する隙間が生じるということかな。

F 情報を入れすぎてしまうから、道に迷うということ?

S 3本か4本かが分からないと、情報を取り入れられない。きっちり4本目といわないと判断できない、厳密なところがある。勝手に情報が入ってくるわけではない。勝手に入ってくるのは危険だから。

 自分に入ってくる情報を、この男はどうやってか選んでいるから危なげがない。口寄せや催眠術とか他の人が勝手に入ってくるのは危険。悪いものが入ってきたら悪いことをしてしまう。この人にはそういう危なげなところがない。

 公園の男の自殺したいという気持ちが男に流れ込んでくるのは例外的なんだろうか。慎重に言葉で情報を確認して、危なげがない。公園で知らない男にタバコをくれといわれても、一度は無視して、確認する間をとっている。

 「ここで、男と、練炭を焚いて、死ぬ、ということだ。何時の間に!」(p.221)というので、引きずり込まれた感じがないことはないけれど、なぜかこの男には危なげがない。共感はあるけれど危なげがない。

 可愛いアライグマがいるから死なないですむし、きれいに掃除したブルーシートの家があるから死なない。そういう(身体にもとづいた)判断がある。(この男の共感は、孟子のいう惻隠の心であり、自分の身体から離れていないので危なげがないのだろう。アライグマの男の「死にたい」という声にハッとして、瞬時に無条件にそれを受け取った。これはアダム・スミスのシンパシーではなく、孟子の惻隠の心である。)

 アライグマは「預けてきたよ」(p.221)というのであれば、預けたのだから死なずにあなたは帰ってくる、というように慎重に吟味した言葉への信頼がある。身体と言葉があれば生きていける。

 身体と繊細な言葉で成り立っている、これまでの山下澄人の小説とよく共通している。

【3枚の地図】

S 公園の男は丁寧な地図を書いてくれた。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とあるが、ホテルの親切なフロントマンは合計2枚の地図を書いてくれた、雑なはじめの1枚とあわせて、合計地図は4枚あるはずなのに、3枚しかない。

F 青いブルーシートの男の地図がない?

S どうしてないか? 夢、幻想だった?

F 公園の男とホテルのフロントの男が同じということ?

S 2枚の地図はそっくりだと書いてある。

N 朝でも深夜料金だったり、公園を出たあとに記憶がぐちゃぐちゃだったり、その辺がよくわからなかった。

S 公園は夢では?アライグマが夢では?歌舞伎町の帰りに、公園の家と男は見つからなかった、だから夢。

F ホテルマンが書いてくれた地図を、夢の中ではアライグマの男の地図だと思っていた?

N えー、難しい。

S そうだね。「手に男の書いてくれた地図があった」(p.222)とある男は、夢の中だとアライグマの男、覚めた理知だとホテルマンを指す。男には、二重の意味がある。

 「それ」とか「これ」とかの指示代名詞は、自分がどこに居るかによって指すものが異なる(相対パスだ)ということを、ちゃんと気づいてねという意味で、地図の枚数を出している。

N それは、やばい。

【二重の夢】

N 215ページは、文が途切れているから、聖書を読みながら寝込んだということ。

S では、どこまでが夢か?

 ホテルのフロントに電話をかけるあたり(p.223)で、夢から醒めている?それとも、「まずいことに眠くなってきた」のあたり? それとも一行空きではじまっているから・・・

 「間違いなく予知だ」(p.212,p.223)というのが繰り返されているのも気にかかる(身体の近傍には過去・現在・未来が混在する)。ホテルの火事にあった男をテレビで見たというのも少し変(眠り込みはじめている記憶だろう)。「小さな道をみつけたあたりの記憶と混濁しはじめる」(p.223)ともある。

 224ページに何十分が消えているとある。223ページには5時37分とあり、6時前に宿を出て、今は6時58分、その間に何十分かが消えている。

F 公園にいると時間が早く過ぎる?

S 夢の中では数分でも、現実で考えてみると何十分かが経ってしまっているということ?

N もしかして夜の6時?

S 深夜料金をとられたのは6時58分。早朝料金。昨日から丸一日抜けている?駅の前から駅の前へ時間が飛んだ?

N カフェを出発したのは夕方で、宿には夜に着いた。

S そして、聖書を読んで、テレビをつけて、眠り込んだ。

 明け方5時37分に、あと一時間でホテルを出発しなければならない。そのまま眠らずに、5時37分以降にホテルを出た。そして喫茶店で6時58分に早朝料金を取られた。ここで朝方5時37分から喫茶店の6時58分までの数十分がたしかに抜けている。この数十分間の朝方の夢ということ?

 この男は、倉庫で働いているから、土曜日曜を使って面接に来た。そうすると、夕方前に駅に立っていたのはたぶん土曜の夕方。翌日は日曜。日曜の夕方にはもう帰らなければならない、月曜からまた倉庫で働かなくてはならない。

F 昨日の駅前と今日の駅前は、ほとんど同じ、空も同じだと書いてある。

S 昨日と今日はほとんど変わらない、しかし、深夜料金だったり、少しずつ微妙にちがうところへ動いている。「昨日とは違う、違うはずだ。」(p.225)という。

 地図をもらい宿を出た。電話してみるかフロントに(p.223)と言っているあたりは半覚醒状態。半覚醒状態のなかで、さっきの現実(=夢)の内容を思い出している。つまり、夢が二重になっていることが、この小説の最も面白いところ。

 5時37分から6時58分、そのうちの一時間、眠ってしまったのではないか。そうすると時間がちょうどあう。

N 二度寝したということ?

S 二度寝して、ちょうど一時間分、意識が飛んでいる。そして夢の中の夢を、現実に起きたこととして思い出している。チェックアウトが何時とか、フロントに電話してみるとか、この二度寝は、なかば夢でなかば現実である半覚醒状態。(夢からもう一つの夢へ電話をかける二重の夢の例は、泉鏡花の「春昼」「春昼後刻」にある。)

 聖書を読んでいたところに一行が空いているのだから、夢が覚めるときにも一行空けてほしいな。

F「受かったから辞めた」の前が一行空いている。そうすると、全部夢だったということになる。

S 5時37分以降は、半覚醒状態のなかで、もう一度夢を反復している。そのときに、時間、枚数、数を確認しようとしてる。つまり、これは理知的な頭の夢。一方、前半は、これ、ここ、それなどの身体を基準とした指示語によって語られる身体の夢。夢が二重になっている。

N 頭の夢と身体の夢、二種類の夢を書いているところがとても面白い。

【おわりに】

S 山下澄人の小説はもっと感覚的だと思っていた。アライグマが出てきてもおかしくない童話のような、身体の夢に近いものを書いているように思い込んでいた。この短篇では、後半で理知の夢を書いても、前半の身体の夢が壊れるわけではない、頭と身体、二つが平行してあるということを、確認したのだろう。

 山下澄人はいずれ宮沢賢治のような評価を受けていくだろう。理知の夢と身体の夢とがセットになっているこういう小説を書くのは、感性一辺倒の時代の危険をよく知っているということだろう。