山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」(2016年1月 『新潮』)

2016年6月3日の読書会テープです。

【はじめに】

S 安富歩は、井戸に落ちた子供を見れば、ハッとして瞬時に身体が動くのが惻隠の心であると述べている。孟子は、人間の身体において自発的に作動するこの惻隠の心に社会秩序の源泉を見た。それに対して、アダム・スミスのシンパシー(同感)は、自分を離れて他人の目を通して自己を反省し、全体の利害のために自分を犠牲にするものであり、「魂の植民地化」であると安富は述べている(『生きるための論語』)。

 男は、俳優の試験のために東京へ来た。駅からホテルに入るまでに半日近くかかった。男は歌舞伎町へ行ってみたい。地図を書いてもらって外に出て、公園でアライグマを飼っている男と話し、自殺はしないでホテルに帰ると、もう1時間ほどしか眠る時間がない。このまま眠らずに試験へ行こうと考えるが・・・試験に合格したので仕事を辞めた。

【死にたいと思うこと(近傍)】

N 死にたいと思ったのは俳優になろうとしている男ですよね?

S アライグマを飼っている男は、目張りをしてブルーシートの家で自殺しようとしている。二人の男が公園で出会ったことで、それともアライグマのおかげで、自殺を止めた話?

 しかし、男はなぜ死のうとしたのか、少しおかしい。突然、何の前触れもなく劇的でもなく普通に、死にたいという考えが頭を過ぎった。自分でも理由がないと言っている。

N しかし、読んでいて思い当たる節があって、ほんとに大げさではなしに前触れなく、単に消えてしまいたいなあと思うことがあって、とくに違和感なく、突然死にたくなったんだと読んだ。

S 消えてしまいたいというのは誰にもあるけれど、これは、アライグマの男の死にたいが、男に映ったのではないかと思う。その場所に行ったので、アライグマの男の気持ちがこの男に映り込んだ。この男は、時間や空間の感覚があやうい人で、その場所に行って誰かに近づくと、その誰かが入って来てしまったり、入れ替わってしまうという話では?

  たとえば、ポストに間違った新聞が入っていて、その間違った新聞を見て俳優の試験を受けることになった(p.220)。偶然と言ってもよいし、予測しない違うものを受け取って、違うところへ行ってしまう。切り替えポイントのような人で、動かされやすい特色を持っている。

 もう一カ所、「できることなら建物の一つ一つ、電信柱、道の全部を記憶しておきたいと思うが無理だ。わたし、と呼ぶこれには無理だ」(p.224)とある。一つ一つ全部地図を書いてくれないと間違ってしまうこの男は、頭の記憶と身体の記憶が別であると言っている。頭の記憶はあやふやで全部覚えておくことができないが、身体は「これまでの全てを記憶している」(p.224)。

 だから俳優はこの男にとって天職。

 ここで使われている「わたし、と呼ぶこれには」という指示代名詞がこの短篇の典型。この、これ、ここ、それ、その、あの、そんな、こんな、という言い方は、自分の身体を基準にして、自分からの距離で言っている。このときに、それと言った途端、それが私の身体の中に入ってくる、私という身体=入れ物に入ってくるのでは。

 聖書の光あれと言うと光が生じるのと似ていて、「それ」と言うと自分の中に「それ」が入ってくる。(自分の身体を基準として言葉を発すると、指し示された「それ」や「これ」が私の近傍になり、「これ」や「それ」を含んだ近傍が自分になる。こういう一人一人別であるのに共有している近傍を、ハウスドルフ空間というのではないかな。)

 この短篇で試みられているのは、このような自分でもあり他人でもある(過去でもあり未来でもある)近傍を作り出す言葉。

つづく