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『軽率の曖昧な軽さ』から「軽率」(2015)その2

【はじめに】【二次現実】【箱とスクリーン】【鐘を鳴らすこと】

【コンビニで働くこと】

Oコンビニで働いている人たちが監視されている、「すべてが箱庭の中に閉ざされて死んでいる時間」(p.54)。鐘を鳴らすのが意識が戻ってくるための作家のやり方だとすれば、これから自分たちが働いて行くのは、箱庭の中で働いて床にこびりついたガムをとる勤労をして牛になっていく、ここを読むと自分の将来の姿に見えて思いやられる。

H『マリ&フィフィ』にも牛の場面があった。私たちはどうしたらいいのだろう?

Sどこへ行ってもそういう状態があるなら、みんな箱の中に入れられているわけだから、それぞれが鐘を鳴らすことができる可能性もあるんじゃないかな。この主人公でさえ、トイレの箱の中で二台のメトロノームがやってくることを繰り返している。作家だけが見るものであったり特権的ではない。

O「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌のように、誰しも箱の中でめり込んだ状態で鐘を鳴らす。

H超越的に天から鐘を鳴らすんじゃなくて、それぞれの箱で鐘を鳴らして、他の箱に耳鳴りのように聴こえる、直接は聴えないけれど、そのへんがノイズっぽい。

S箱とスクリーンだけが認識できるとすると、(それを通過するときの)めり込んだ感じとか、身体に刻まれた感じが手掛かりになるのかな。

Hみんなそれぞれ半分壁にめり込んでいる。

S写し出されたものは偽物かもしれないが、殴られてめり込んだ皮膚の感じがあれば自分がある。太宰の「皮膚と心」を踏まえているのではないかな。お菓子をもってきたはずが石鹸になっているように作家もどんどん騙される。見て認識する作家の役割があったが、しなびた生殖器のようなものを見ても分かるわけではない。見るとか発見するとかが特権的な意味を持たず、見えた先へも進めない。

【菓子と菓子箱】

N菓子の名前が見つからない。

Sドイツのあちこちの家庭で作られ、無人販売される、日本のポン菓子のような印象を受けた。この日常性に意味がありそうな気がする。箱に入れて届けられる、現実の世界と、ホログラムの世界を通して届けられる。これが送られてきて、食べると現実の徴になっているのかな。ここが現実という徴になる?牛も食べた。

Hお菓子の説明のところは、雑誌の説明に終始している。旅行の話はいくらか現実的だがそのうち意識がぼんやりしてくる。食べるというところは現実的になる。

N牛は現実?動物は二つの世界を行ったり来たりしている?

S草原、街と分けても、狐のような動物は行ったり来たりする。トラックで移動すると、森のホログラムから街へゴリラがついてきてしまう。

H石田は狐のコートを着ているから突破できる。

O石田みたいな人が出てくるが、石田だろうと考える根拠は狐のコート。しかし中身は違っているかもしれない。

Sココ藤本、日系三世、人も一世二世と入れ替わっても一緒だということ。

H同じようでも違う話がある。石田が部屋に来て、私誤解していたのを繰り返す。何も歌うなと言って修行僧のまねをする繰り返し。繰り返して少しずつ違っていくのが鐘をたたくことに繋がるのか。コンビニもすぐ同じようなコンビニになりガムがつくのだから、そのままでもいいのに必死にガムをとる。そこで一生懸命ガムをとっているのが鐘を鳴らし続けるのと同じ意味になるのではないか、労働の空間でも希望がある。

S山田が石田になり、光子が石田になり、人物も交替可能なんだけれど、交替可能な中で(どうしたら希望がもてるか?)

Hコンビニの話の続きをすると、吉田とは一瞬目が合って、ガラス越しに越境の感じがある。目が合わなかった村田も、水牛になって出会えるとしたら、水牛になることが希望につながる。姿が変わったからこそ村田に会えた。

S実は動物が嫌いで発狂しそうだと、動物も嫌そうで楽しくないのかもと。密閉された同じ空間で、箱に閉じ込められたままだと失神寸前になる。部屋に閉じ込められてしまう状態がまずい。

Hじゃ、牛に出会えて不快感を伴うのは、殴られるのと同じということ?部屋の違う人が出会うと不快感がある。

Sそうだと思う。

【軽率とは偶然である】

O「同じことが起こったときの対策」(p.78)を決めておくということがある。これは、まわりの世界は何も変わらないところで、自分の意識だけを変えるということか?修行僧のときも、ココ藤本のときも、歌うなと相手の意識下に働きかけると言うが、相手は何も変わっていない。相手に伝わっているかどうかは結局分からない。牛のときも同じ。

S「残念ながら計り知ることができない」と言っている。

Hどこまで行っても耳鳴り状態までが伝わる限界。

O部屋を出ようとして殴られたら痛いし、部屋に密閉されているのもだめ。離れたところにいて、自分の意識を変えるしかないのか?

S(そんなことはない。)大っ嫌いで見るのもいやな動物に、勘違いで菓子をやったら水牛と親しく接してしまった。衝突、チャンス。私にメッセージを持ってきたと勘違いして菓子をやる。衝突、事故、事故で思わず殴られたりする。軽率が必要。つまり、軽率や誤解が、違う世界や人と接触する機会になる。これか、軽率とは偶然のことか。

 勘違いで、思わず親しげに動物に近付いてしまう、これいいよね。石田じゃないのに石田のつもりで話しかけてしまったり、これも軽率な偶然。

B自分で勝手に判断しているところを数えると非常に多い。「わあ、可愛いですね」(p.28)とか、「ひと目で分かった。・・・わたしは感慨深げに」(p.29)とか、これを繰り返すと神様になるのか。

Hかなり軽率な判断にあふれた小説。

S神様はさいころを振るという話。軽率な判断を繰り返して行く話。

N軽率だということに自分で自覚がある。

【おわりに】

O中原の小説では、自分のやっていることに物語のようにつけていて、「わたしは感慨深げに、息をのんだ」(p.29)とか、自分の行動に対して物語的につけていて、その中で思いがけず軽率に熊の顎をはずしてしまったりする。

 少年Aをどうやって否定しようかと考えていた。少年Aは、自分のやっていることは神様の思し召しだというストーリーの中でやっている。自分のやっていることは神からのテレパシーがあると思っている。

S修行僧にテレパシーを送るとき、通じていると思っているのが少年Aで、テレパシーが届いたかどうかは分からないと言っているのが中原では?テレパシーが通じていると言ってしまってはだめだろう。

H鐘を鳴らしても、読者には耳鳴りぐらいしか届かないと考えるのが中原。

Sオウムやスプーン曲げ少年や、カメラでスプーン曲げが撮れてしまう。事実よりもう少し先のことが問題なのではないか。

N 自分も清田になりうると森達也は言っていたが、信じていないと引き返している。

Oオウムを信じた学生と同様、自分もどうなるか分からない。カポーティ『冷血』も少年犯罪。

Sカポーティも少年と同じ入り口から入って、違う出口から出てきたと言っている。(カポーティのようなストーリーを使わない場合には、お神籤やルーレットのような物語機械を回したサンプリングでいくしかないのだけれど、ゴリラの頭のようなものがついてきてしまうことがあるね。)