「鳩嫌い」その2

【鳩と普通の鳥】

A鳩の視線を感じた途端に、鳩に意識が移る。そのあと近所の描写へ移ると、周囲が異様に静かになる。

S「真弓」が、「私」と真弓の入れ替わりの話だとすると、「鳩嫌い」は、典子と鳩が入れ替わる話?

A「高級な布地」、これは人間の感覚ではなく鳩に入れ替わった感覚。

ASNH「外気を肌で感じる」、これは鳩のコメント。

S鳩と人間との入れ替わり。「とくに考えるのを忘れた」、というのも変な言い方。

Hそれはタクシーに乗った瞬間と似ている。乗った途端、何のためかを忘れる。

S前のことを覚えていない。鳩の記憶。

ASああそういうことか。だからタクシーが無愛想なんだ。

Aこれはタクシーに鳩として乗ったということですか。

AHNS鳩がタクシーにとまっただけで、鳩だから運転手は何も言わない。

S典子と鳩の入れ替わりの話。これは何の話だろう?

Aここで晴子を読み直すとよい、鳩じゃない普通の鳥が分かるのでは。

N鳩じゃないと行き来できないのですか、普通の鳥ではできないのですか?

S普通の鳥というものはない。つまり雑草という草がないように、鳥一般というものはない。ああそうか、そういう問題か。これは普遍論争。

 普遍は存在するかしないかという中世以来の論争があった。晴子のいう「普通の鳥」は普遍概念であって個別性を持たない。鳥一般というものはないから、それに乗り換えることはできない。だから晴子は死ぬしかない。一方、鳩は、具体的なものとしてあるからそれに乗り換えることができる。典子は鳩に乗り換えて生き延びる。

 私たちは普通の鳥とか人間一般の概念には乗り換えられないが、個別性のある鳩にならば乗り換えられる。そうすると、交替可能な鳩というのは交替可能な人間とほとんど同じ。交替可能だけれども、一つ一つは別々の鳩の違いを言っているような気がする。交替可能だけれども一つ一つは違いがある、そういう個別性を私たちは生きるしかない。なんで中原はそんなことを言っているんだ?

 「自分をどのように捉えていたのか正直に語る保証もない」というのは、鳥一般には個別性がないから。鳩ならば個別性がある。あの鳩とあの鳩は同じ、もしかしたら違っているというくらいの個別性を持てる。人はよく似ていて交替可能だけれども、少し違っているくらいの主体性は持てる、これはすごいな。

Hすごい繊細な主体性。

S私たちは20世紀中痛めつけられて、鳩ぐらいの主体性しか持ちえない。あの鳩とこの鳩の違いぐらいの主体性を私たちはもつことができる。個別性のない集合的存在の晴子に対して、そういう個別性をもって私たちは部屋から出て行くことができる。 

 『燃えつきた地図』(1967)のように、夫が失踪し、その空席に、よく似た他の男が入ってくる。(似ているから)空席にはまり込むこともできるが、(違っているから)出ていくこともできる、そういう個別性をもてる。

Hここに存在する(定住する場所)と言わなくても生きていくことができる。知らないどこかへ進みはじめている。

Sこの個別性をもって私たちは部屋の外へ出て行くことができる。

H最後の頁に「鳩嫌い」が置いてあることで、本から外へ出ていくことができる。

S13世紀以来の人格*が、これだけすり減ってしまった。交替可能性については、私たちは漱石によって存分に分かってしまったが、それは20世紀の問題。21世紀の中原は、それでもそこに少し違いが生まれ得るという希望を出している。

NH希望が持てる。

S20世紀の前半は、作家は自分が自分であろうと証明しようとしすぎていた。ないものまで求めていた。交替可能だと分かれば20世紀前半の文学者の無頼はとくにいらなかったかもしれない。

H交替可能であることを認めれば、その半分、違いが持てる。山下澄人の『ルンタ』(2014)のように、半分は自分で半分は他人という半分の主体性を生きられる。

S普通の鳥というような集合体ではだめで、鳩のように交替可能でありながら、あの鳩とこの鳩ぐらいの差違がある主体。

【冷酷な暴力】

S冷酷なということがまだよく分からない。

 部屋の中にいるということは、一人一人がほとんど妄想に近い状態でいる。この部屋から外に出て、他人と交替しない限り、未来はない。冷酷な口調でそれが真実となるというのは、部屋に閉じ籠もって引き籠もりになっている状態で、否定的なもの。鳩に成りかわってでも外に出て、他の人と入れ替わる必要がある。

Hこれが真実と言って一つのところに留まるやり方、どこかに留まって確かなものをつかむというやり方ではだめなんだ。

S妄想は冷酷なんだよ。暴力性と冷酷な仕打ちが出てくるのは、部屋に居続けているから。それは魔法の世界で、自分が冷酷な口調で言えばそれが真実になる妄想の世界。

 そしてマンションの前でタクシーを拾う。ソファーのコートは、『紀子の食卓』(2006)で、姉が着ていたそのコートを、次の朝には妹が着て出ていく、あのコートと同じじゃない?あの家族も、一人一人入れ替わって行けばいいということだと思う。このコートは、以前に部屋に来た別の典子が残していったもの。

 『紀子の食卓』では、コートとメガネ。姉は、ダサいコートとメガネを外すと美人になって、違う人格になってしまう。それなら、『紀子の食卓』のお母さんの名前は晴子ではなかった?母親だけが自殺して落っこちてしまう**。典子=紀子のコートは、『自殺サークル』の円環から順番に外へ出ていくための乗り物としてある。狐のコートも同じだろう。

芥川龍之介太宰治中原昌也

Sさらに、芥川龍之介のレエン・コオトがある。紀子のコートは、外に出て他のものになって、これから生きていくためのコートだが、『歯車』(1927)のコートは、着ると死んでしまう。『歯車』は円環を描いて家に戻ってくる構造になっているが***、『紀子の食卓』では、出ていっては他のところ(かつての家そっくりに作られた他の家)へ着き、空いた母親の席には他の人(上野駅54)が到着する。

 井上晴子が死んでしまったのは、普通の鳥と言って、乗り換えることができなかったから。唯一無二の自分という真実を守ろうとすると、冷酷な暴力が人をはじき出してしまう。芥川龍之介三島由紀夫も、暴力が不可欠になる。少年Aのように。

H唯一無二の自分という考えだと他人をはじいてしまう。

S芥川龍之介も円環を描いて自分の家にたどり着こうとしたところが間違いで、他へ外れれば死なないで済んだのではないかな。(途中、いつか道を間違え、青山墓地へ出て、漱石の告別式を思い出したとある。)

 ああそうか、太宰治は、それで生き延びることができたのか。太宰は、こちらの女性と入水し、あちらの女性と入水して、あちこちで分身を作れた、分身を作っただけ生き延びることができた。生き延びるために分身を作る必要があった。太宰の無頼は必要があってしていることで、次々に分身を作って入れ替わるということを太宰はものすごく賢く分かっていたのではないか。私が私であるなんていうのは本当に恥ずかしいから。

 誰かの代わりでなければ生きられないし、誰かの代わりだけでも生きられない。

SNとてもいいね。

【おわりに】

H言葉は全部ラベルだと言ってしまったら、そう言えなくもないのだけれど、ラベルがあるから出たり入ったりできる、そういう考えがあるから、だから小説を書ける。

S雑木林から雑木林が移動する「真弓」の話のように、文字は差が見えにくいのではないか。音楽をやっていると差が見えやすいのではないか。なぜかというと今は多重録音して五重六重にもして、そこにたくさんのほかのものが入ってくる、重なることができる、隙間があり、レイヤーがある****。その幅の所に、他人の声や音が入り込むことができるから、文字よりも違いを出しやすいのだと思う。文字はすごく窮屈、もう行間も読めないし、隙間が空いていない。雑木林から雑木林へ何かが移動して、移動した後には痕跡も何も残らないから誰も読めなくなってしまった。できるかぎり正確にとか、分かりやすくとかいうことで、私たちはレイヤーの部分をなくしてしまった、レイヤーの部分がないと、言葉は窮屈なまま何もできなくなってしまう。

 町田康の『告白』(2005)の酢醤油の瓶が割れて、割れたかけらがどこかへ行って、ここに戻って来て、そしてもう一度進む、回り道の言葉を町田康は発見している。饒舌体というか、他のものへどんどん連想で、抱え込んで、回り道をして、はじめて進める、そういう言葉を考えないと、文学の言葉は今非常に痩せていると思う。

 *小林剛. 2014. 『アリストテレス知性論の系譜』, 梓出版社.

**園子温の原作である『自殺サークル』では、母親の名は妙子となっている。晴子の名は、『あの日』(2016)を出版した小保方晴子に由来するかもしれない。

*** 蓮實重彦. 1985. 「接続詞的世界の破綻――芥川龍之介「歯車」を読む――説話論の視点から」, 『国文学 解釈と教材の研究』. 30(5). 学燈社.

**** 今敏の『東京ゴッドファーザーズ』(2003)に使われたNo.9という曲で、鈴木慶一は80近いトラックを用いて声を重ねている。