清風読書会

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「鳩嫌い」をめぐる

3月18日の読書会は、中原昌也の『軽率の曖昧な軽さ』から、「真弓 キミが見せてくれた夢」と「鳩嫌い」でした。試みに、「鳩嫌い」のテープを起こすことにしました。いくつか見出しをつけてあります。

【はじめに】

S「真弓」がこの短編集のすべてを引受けたあとで、更になお「鳩嫌い」がなぜ必要なのか?

H「恋愛の帝国」の最後に加えられた教訓のように、この短編集の読み方はこれだということを示す一篇。短い書き下ろしを最後に置くことが最近の中原の短編集には多い。

S「真弓」という長歌のあとに反歌として置かれた一篇。歌の形式や短編集の形式は強固に残るものらしい。枠物語の起源はジャータカあたりだから、ものすごく古い。似た話をセットにする二話一類の形式も強く残る。

【鳩嫌いのストーリー】

S真弓と同様に、井上晴子はすでに死んでいる。

H鳩嫌いなのは井上晴子。典子は晴子とそれほど親しくなかった。だから死因も知らない。

S晴子のセーターに鳩が描かれていた、鳩がそんなに嫌いなのという話をして、そのあとしばらくして晴子の訃報を耳にしたと。ここで一行あいて、鳩を毛嫌いする人の気持ち。ベランダに鳩がとまっていて五分後にいなくなった。

H鳩の置物の話になり、置物なら、剥製なら。

Sそしてまた一行あいて、

H鳩はどうでもよくなり、奥村さんが見える。隣のマンションの一階。奥村さんは写っていないテレビの前で放心している。奥村はタバコを吸っている、典子はそれを羨ましく思う。鳩がベランダに戻って来て、それは別の鳩かもしれないが、直感で同じ鳩が帰ってきたと考える。奥村さんに電話したが返事がなかった。

S携帯はつながっている。カーテンが閉まって、残り本文はあと少し、どうしよう。

H死んでいるのかもしれないと思う。

S「急に人が亡くなるのは稀だ。・・・最後は本物の死人になるのだ」と典子がつぶやく。「冷酷な口調を心がけて言えば、それが真実となることを知っているから・・・」、これが繰り返されていて気になる。

HNこの繰り返しは気になる。

Sさらに一行あけて、典子はコートを着て、「もう二度とこの部屋には、帰ってこないかもしれない」、そして、「唯一無二の真実になるのだ」の繰り返しがあり、だからこれが現実を抜け出す一つの手がかりだと言っている?でもこれだと妄想を強くするようにしか見えないのだけれど。

H終わってしまった。どうしようか。

H独り言を言うこと、誰も聞く人が居なくてもつぶやくというのは、「軽率」で「誰に頼まれたわけでもなく・・・という踏ん切りがついたのだ」とあり、聞く人が居ても居なくても語る、言葉によって語ることで切り開くという希望なのかなあ。

Sうーん?

H「誰一人聞く者もいな」くても語るなら帯の言葉に合うが、「冷酷な口調」ならば違いがある。

Sどうして「冷酷な口調」と言っているのだろう?

 典子という人間が、何かしらのことがあって、マンションの前で行き先も分からないタクシーに乗り、目的なしに、用事も忘れて、部屋を出て行く、どこかへ進んで行く話なんだと思う。その前に部屋で起きたこととは、冷酷な口調で唯一無二の妄想という事態と、鳩の件。

 私が気になるのは、二度目に来た鳩を帰って来たのだと言ってしまうところ。これは私たちが普通にやっていること。全然違う鳩が来たのかもしれないのに同じ鳩が帰ってきたのだというストーリーにしてしまう。偶然であるはずなのに因果のある出来事だというストーリーを作ってしまう。それは社会にとって必要なストーリーなんだろう。すべてが偶然だというのでは社会は成り立たないから。あれとあれは同じ人だという軽い因果性をストーリーとして語り、生きる。

H全部ただのラベルだから誰が誰だか分からないよでは社会はやっていけない。中身が違っても、鳩というラベルが同じだから、二度目に来た鳩も同じだとする。

S同じ鳩が帰ってきたと見なすストーリーを生きることが社会には必要、それが社会の習慣。

Hたぶん典子は帰って来ない。だとすると、別の典子が部屋に帰ってきて、他の人たちは典子が帰ってきたと判断する。

Sそれだ。それだね。素晴らしい。そうすると安部公房の『燃えつきた地図』になる。典子が一人いなくなると、誰か違う人が典子に成りかわり、出ていった典子はまたどこかで別な人に成りかわる。それだね。

S鳩が帰ってくるところは分かったが、前書きの井上晴子がよく分からない。井上晴子は、同じ鳩が帰ってきたのだと言わなかったから死んでしまったのではないか。同じだと言わないと、この社会では生きられない。

【鳩の視点】

H普通の鳥というのは、つかみ方が大きすぎる。

S茫漠とした普通名詞で生きていることはできないということじゃないか。鳥というサイズでは大きすぎる。鳩ぐらいのサイズが必要。

 晴子と典子には違いがある。「確実に自分とは違った感覚の中で生きてきた晴子」、「心中にあるものを正確に伝える技術が晴子に備わっていたのかどうかも、いまとなってはわからない」と言っている。晴子は、典子とは違ったサイズで生きている。これは何の話だろう?晴子の情報が少ない。はじめの2ページに晴子がどうして出て来なければならないのか?

 奥村さんはどうか。奥村さんも情報が少ない。

Hふだんは頭の回転がよいが、ついていないテレビの前にいる時はボーとしている。

N死人になる前の状態に近い、典子のセリフ、「・・・魂が煙のように抜けるに従って、感じることが少なくなって」とあるように、タバコの煙のように魂が出ていく途中のようだ。

A煙というのは中身?

S人間が息を吐くように、煙草の煙でその息が見えるようになって、それが抜けると、もぬけの空になる。

H鳩が契機になって死がおとずれている。晴子も奥村も鳩が契機になっている。

N携帯をかけるのも突然。携帯に電話して、カーテンが閉められて、「誰かがそこで死んでいるのかもしれない」は、「奥村さんがそこで死んでいるかもしれない」でもよいはずなのに、「誰かが死んでいるかもしれない」というのは変だ。部屋の中が入れ替わっている可能性がある。鳩に気を取られているうちに、そうなっている。

H部屋には奥村さんのラベルが貼ってあるけれど、中で死んでいるのは誰であるか分からない。

S晴子のセーターの鳩に気をとられているうちに中身が入れ替わる。「確実に自分とは違った感覚の中で生きてきた晴子・・・今となっては分からない」という、この説明が長く、よく分からない。こんなことなら、生きている時に、鳩のセーターの話などしないで、自分をどのように捕らえていたかを話したほうがよかった。

 これも中身と箱の話か。晴子に関しては鳩のセーターについてしか語っていない、中身については会話がなく、入れ物についてしか語っていない。

 鳩がそんなに嫌いなの?は典子の思い込みで、鳩に違いないと決めつけたわけだよね。鳩嫌いは典子のラベリング。

H典子が晴子につけたラベルが鳩嫌い。

S井上晴子は、中身とラベルがずれるという話。同じように奥村さんも、外から窓を通して眺めているだけで(電話は通じない)。

Hラベルと中身がずれる例がつづく話。

N隣のマンションの一階の部屋が見えるとは、そんなに見えやすいものではない。

Aここはどういう状況か分かりにくい。

Sじゃあ、鳩の視点か。

N窓の反射もどういう視点から見たら見えるか。

S隣のマンションの一階に住む奥村さんがぼんやりしているのが見えるのは、一階のベランダにとまっている鳩の視点、だめかな?

Nそうですよね。奥村さんの観察が終わったあとに鳩がベランダに帰ってきているし。

HNSA 鳩目線だ、それだね。

つづく、あと半分は明日以降。