清風読書会

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太宰治「女生徒」 20170610読書会テープ(未完)

S 「女生徒」は1939年発表、前年石川美和子と結婚し、安定した精神を得て書かれた女性一人称小説の一つ。女性読者の手記にもとづいているが、紛れもなく太宰治の小説になっている。それは、1947年の『斜陽』とともに、太田静子・治子母子の姿が重ねられていると考えられ、母子関係、家族関係がよく類比できるからである。

 『斜陽』の冒頭、お母様のスープのいただき方という敬語をめぐって誤用が云々(うんぬん)されているが、娘のかず子は母との一体化をはじめ目標としており、母=かず子の自由間接話法として考えれば、「いただく」という敬語はその一体化の表現として読むことができる。かず子は、母のような未来のために育てられ、母とは違った革命を見つける。同様に、「女生徒」にも母との同化・異化のテーマがある。

S 思春期の不安定な主体の話。浮いたり沈んだりしている。

I 思春期の女性が、難しいことを考えずに、女の人はこういう考え方をよくするよなあと。

T 思春期を越えてもそういうことがありますか?

I 今日と昨日と人格が入れ替わるような、大人になったり子どもになったり、そういう感覚で思考することは、思春期でなくても女の人には多いかなと。

 

 

深沢七郎『庶民列伝』その二「お燈明の姉妹」について 

  2016年11月22日読書会の内容を、金岡昌子さんがまとめて書いてくれました。 

 「お燈明の姉妹」は深沢七郎による六編の短編からなる『庶民列伝』の中の第二編で1963年に発表された。内容(姉妹の年齢、戦争)から見て1880年頃から1950年代くらいまでの農村に生きた四人姉妹にまつわる物語である。描かれている年代は推定できるがこの作品からは描かれている時代に先行する、計ることのできないほどの長い時間、民俗学的とでも言えばよいのであろうか、そのような集合的な時間と人間とが感じられる。時代と場所を超え、述べられている事を超えた大きさのある物語であるといえるのではないだろうか。

 以下本文に沿ってみていきたい。

 姉妹の家は田んぼの中に建つ掘立小屋のような一軒家だが周囲のどの村にも属していない。田畑は全く持たず、百姓ではなく月給取りであるという主張は、農村に暮しているにもかかわらず卑下ではなく自慢であった。床の間いっぱいに高さ二メートルもある大提灯が吊り下がり、提灯の中は「神さんが来て宿る場所」と言われていた。この大提灯を「お燈明」と家の者は呼び、村の人達は姉妹の家のことを「おとーみョ-」とも呼んでいた。「お燈明の家」は神の宿屋と言えよう。

 お燈明家には四人姉妹と弟がいたのだが、母親の夫は婿入りで来た人であった。村の人達も家の者も神サンのことを信じていたわけではないが、年に一度お燈明を拝みに来る人があり、その時だけ長女のおセンさんは「お燈明の中にいる神」を信じた。拝みに来る人は「ずっと向うの山の方のひと」でおセンさんの母親のいた頃も母親と一緒にお燈明を拝んでいたし、今はその人の「子孫というひと」が年に一度は拝みに来る。母親は拝みに来る人をお弟子と云っていた。おセンさんが母親から内証で知らされたのは、「ずっと向うの山の方のひと」は「炭焼き」だが以前は「海賊だった」そうで、海賊は海の泥棒の意だけでなく「神様の賊」と言う意味があるそうである。

 内証で知らされたのがおセンさんであった理由は一番年長であったということが考えられるが、母親が家の跡取りとして息子ではなく長女を考えていた可能性があるのではないか。母がお燈明をその先代から引き継いで守ったように、長女が守る事を期待されたと考えられる。

 床の間の大提灯には「八大竜王」の名が誰にも読めないような大きな崩し字で書いてあった。

 八大竜王は水神であり水中の主なので、これも海賊とのつながりを示す証しであるのかもしれない。海での戦いに敗れた一味が遠い内陸へ逃れ来て離れ離れに住み着き、年に一度お弟子(手下)のほうから訪ねて来て水神の名の書いてあるお燈明を一緒に拝むという想像ができないであろうか。

 おセンさんの父親は大工だが出稼ぎで留守勝ちだった。婿入り時には母親は村廻りの旅役者の子を妊んでおり、生まれた子がおセンさんであった。その後「留守のおダンナ」もいたが、九人生まれた子の「顔つきは誰も婿さんには似ていない」そうである。母親は晩年旅役者からうつされた梅毒のためハレモノがでたが、育った五人の子のうちおセンさんだけに伝染した。病気のため頭頂部が大きな禿になり髪も少ない。後に脛、首と症状が出て外見からもわかるため、家の中での針仕事で身を立てた。他方妹達は三人三様の人目に立つ美人で、その豊かな髪は遠目には娘が五人も六人もいるかと思われた程であったという。

 遠い昔遠い祖先が海の近くから遠く離れた内陸へやって来て、代々の子孫が伝えられたお燈明を守り、お弟子との交流も絶えてはいないことを考えると、祖先はかなり地位、勢力の会った人であり、美人揃いの子孫が生まれるのも血筋と言う可能性もあるのではないか。海、美人の語からは、遠い祖先は平家や都の白拍子さえも想起される。

 娘達は小学校を終えると紡績工場へ働きに出たが、近所へ電気工事に来る工夫と四人姉妹の全員が関係を持つ等多くの異性関係があったようである。そのうち妹達は皆嫁に行き、おセンさんは一人お針をして暮した。東京へ嫁に行った末の妹が晩年にはお燈明の家の近くに戻り、村の氷水屋に住込みで女中として働いたことや、正式の祝言だけでも五回もした次女が、おセンさん亡き後お燈明の家に「権利がある」と言って越してきたことから見れば恵まれた生活とは思えない。それよりずっと前に三女も離縁して二人の女の子を連れてお燈明の家に戻り、後に子供を残して町へ嫁入った。その子らの世話はおセンさんが嫌な顔もしないでしたそうである。

 家につながるものの世話は跡取りとして当たり前のことであったのであろうか。その時代、農村では田畑を持たないお燈明家は特殊な存在であり普通の扱いは受けなかったと考えられる。女性の自立の困難な時代、妹達は生きるため異性関係を重ねるより他はなかったのであろうと思うが、各々の姉妹の、自分が一番「らくをした」「運がいい」等の言葉からは、何処か縛られることの少ない自由さが感じられる。しかし妹達から不幸だと思われていたおセンさんが、本人の言うように「いちばん安気」で一番自由だったのではないだろうか。出歩き好きの妹達と違って外へ出る事もなかったが、手に職を持って自立し、年に一度母のしたように、弟子を迎えて神を祀るという生活を、自力で全うできたからである。

 弟のトーキチローも小学校が終わると奉公に行き、お燈明の家にはたまにしか帰らなかった。その実父譲りなのか弟には盗癖があり、軽い罪ばかりだったが何度も刑務所暮らしをした。トーキチローが刑務所で知り合った男におセンさんを貰ってくれるように言い、男が刑務所を出た足でおセンさんの所へやって来た。おセンさんが四十歳をすぎてからのことであった。結婚を諦めていたおセンさんは仲人をしてくれた弟に手を合わせたい思いであった。婿入りの恰好の男は家にいれば働きもせず、出稼ぎにいけば二ヶ月、三ヶ月でも留守にして無一文で帰るので、生活費はおセンさんの針仕事でまかなった。仲人をしたことで姉弟の仲が親しくなり、トーキチローも刑務所から出ると以前とは違っておセンさんの所へ帰って来た。その頃から近くの村に泥棒が流行るようになったのだが、犯人は推測できる通りであろう。

 彼等には「盗む」は「持って来る」のと差がないことのようであった。遠い昔、盗みは武力であり賢さにも通じるものであったと考えられる。私有財産観念が絶対のものとなる前の長い時間の中で人々が持っていたであろう盗みに対して近代においてと同様のものではない感覚を受け継いだといえるのかもしれない。

 何時ものつもりで入った家で、強盗、強姦、殺人を犯す羽目に陥ってしまった男と弟が掴まった時も、おセンさんに共犯の疑いはかからなかった。刑事に知っていることを正直にしゃべったからで、村人達の悪態も気にせず、心中では男にも弟にも自分への気遣いに対して感謝していたようである。男も弟も刑死し、おセンさんは一層孤独に暮した。性病のせいか眼が悪くなり仕事がしにくくなって間もなく死んだ。妹達も皆死に絶え、お燈明の家はつぶされた。周りには家が建ち、6坪の敷地は隣がガソリンスタンドになったせいでドラム缶置き場になったとのことである。

 姉妹の人生の後半にはあのアジア・太平洋戦争もあったわけだが、本文では「戦争が始まって、終ったのは10年もかかってからだが、・・・・」と一行で片付けられている。底辺を生きる庶民には戦争という災禍も単なる外部の出来事の一つであって、大した影響は受けなかったということであろう。

 戦後の宅地開発により田畑がつぶされていった波にのまれ、お燈明もそこに宿る神も祀る人も、今は跡形もないそうである。

 

付記

 『お燈明の姉妹』を読んで思い出した事がある。今から半世紀以上も前の1950年代半ば頃から1960年代にかけてのことである。

 筆者は富山湾に面した小さな町(後、町村合併により市)で育った。生家の周りは当時すでに空き地はなく、道路に沿って一軒家が立ち並んでいたが、一本横に入った狭い道路沿いには一部分畑も残っていた。その畑に接して細長く暗い感じの小さな土地に小さな家があり、子供の目には小母さんと見えた女性とその母親が住んでいた。狭い地所だが奥行きがあり、家の周囲に背の高い木が何本かあったせいか暗く、湿っぽい感じもあった。「シンメハン」と呼ばれており、近所の他の家とは違う雰囲気があったように思う。今思えば三十歳代かと思われる小母さんは時に白い着物姿だったが、お宮やお寺のようには見えなかった。

 生家へ時々話しに来る近所のオバちゃんが「シンメハン」へ出入りしていて、筆者の母に話した事があったのを傍で聞いた記憶がある。出入りする理由は、お参りして、相談に乗ってもらうためであった。お供えを持って行き、子供達の就職、結婚等の選択の是非を神サンに伺いを立ててもらうのだった。そのオバちゃんは五十歳代くらいの未亡人で、商店街で門口の広い衣料品店の主だったのだから、しっかりしていたはずだが、悩みもあったと思われる。その後十年位経ってから戦争中の話をしてくれたことがあった。衣料品の統制で普通の商売が出来なくなり経済的にたいへんだったこと、また組合の会合に出なければならなかった、ということであった。空襲を受けなかった小さな町でも、商店は戦争による統制経済の影響を大きく受けたという証言である。物資不足から地域に割り当てられたモノを組合で分配方法を決めたのではないか、と推測するが、当時もっと聞いておけばよかったと悔やまれる。彼女は戦中戦後、一人で頑張って四人の子を育てたわけである。祈ることで気持ちが治まり、巫女を通じて神意をうかがうことが意思決定の後押しとなったのだろうと想像できる。

 「シンメハン」は近くに神明町という地名のあったことから見て、「神明さん」ではないかと思われる。「シンメはん」の土地には住んでいた巫女親子とは別に地主がいて、「譲って欲しい」と言う人が現れたとき、神サマの土地であると信じている自家の年寄りがいる間は売れない、と言う返事があったそうである。

 最近の様子を今、生家の跡地に住む弟に尋ねたところ、白い着物の小母さんは2000年位に結核で亡くなり、後継者はなく、土地と家は昔のままで、そしてあそこは「お稲荷さん」だとのことであった。とすれば、「シンメハン」の「神明」は天照大神ではなく、神仏習合した神サマとなる。オバちゃんにとって家の宗教である仏教との違和感も小さかったのか、とも思うが、どの神サマでも良かった可能性もかなりありそうである。

 おセンさんの神サンとは異なるのであろうが、全国には多くの多様な神サン、神サマが存在し、人間達の祈りの対象となってきたわけだが、人口増加、産業構造の変化、地方の衰退等により、今や忘れられた神々も多いのではないだろうか。